モノクロのくじらのおよぐ月曜日 風迅 それが形ばかりのものだったからだろうか。 黒と白の折り重なるその空間で、いつもの抜けたような服装が嘘のように制服をきっちりと着込んだ、まだ上背もない少年がその一番先頭に座っている光景を、風間は今でもすぐに瞼の裏へと浮かべることが出来る。何一つ残らないのだ、世間では所謂失踪という扱いになるのだろう。それを何よりも分かっていた組織の面々は、彼を弔うのに経を上げる僧すら呼ぶことが出来なかった。彼が、もう二度と戻って来ないことが、痛いほどに分かっているその状況で。 安っぽい鯨幕を倉庫から出してきて会議室に飾って、一番前の高い場所へと置いた黒トリガーに黙祷を捧げる。本来責任者と同等の位置であるその先頭は、まるで誰もが当然とでも言うようにまだ幼さの残る少年に託されていた。 すらすらと読み上げられる弔辞の内容など、頭に入って来なかった。ただ白と黒だけの世界に沈むやたらと凛々しい横顔が、妙に浮いて見えていた。 ふっと浮上した思考が眩しい、と喚き立てる。瞼に遮られていても感じる光、朝だ。けれどもまだ少し眠い、と寝返りを打とうとしたところで、横に何かいるのに気付いた。 ゆるり、目を開ける。 一番に目に入ってきたのは亜麻色だった。朝陽に照らされたそれはやわらかそうに見えたが、実際はそうでもないことを風間はもう知っている。そういえば昨晩は酔っ払いのようなテンションで絡まれて、そのまま家に泊めたのだったな、と思い出した。一応はある来客用布団を出すのも面倒で、潜り込んでくる体温は冬の夜には有難くて、蹴落とすことすら考えつかなかっただけのこと。 「迅」 名前を呼ぶとふるり、と短い睫が震えた。 「なぁに、風間さん」 くるりと回った眼球が、こちらの姿を捉える。 眩しそうに細められたそれが、何か見えたのだと語っていた。決して風間の背負った朝のためだけではない。それだけならば、こうはならない。何か見えたときとそうでないとき、それがどう違うのか風間にも上手く説明は出来なかったが、それでも分かってしまうのだから仕方ない。 微妙な差異、という訳ではなかった。明瞭なゆらぎがそこにはあった。誰が見ても分かるだろう、風間はそう思っている。それでも多くの人間がそれに気付かないでいるのは、この妙にそういうところだけが器用なこの男が完璧に隠しおおせているからに他ならない。しかし、風間の前でだけはそうではなかった。いつもはこんなへまなどしないはずなのに、どうしてか、この男は風間の前でだけはへまをしてみせるのだ。隙を作るように、油断しているのだと伝えるように。一見気が抜けたようにしか見えないそれは、透かしてみればひどく杜撰で傲慢な怠惰に塗れている。昔はそうではなかった、そうなったのは、あの。 瞬(またた)きの幕間、およいでいく風景。 「風間さん」 「お前は、」 なにがしたいんだ。 それを言葉にすることはしなかった。ただ瞼をなぞるように指をはしらせる。くすぐったいよ、と明るい声が上がった。 理由、など。今更問うたところで真面なものが返って来るなんて思ってはいない。それを明確に言葉にする術を持っているなら、恐らくこうはならなかった。 「風間さんて月曜は二限からだったよね」 「そうだが。それがどうした」 「いや、ちょっと、ね」 もうちょっと傍にいてほしいなあ。 そんな甘えた言葉に、風間は一つ、ため息を吐く。ねぇ、と腰に腕が回された。だめ、かなぁ。間延びした声に眉間に皺が寄るのを感じる。 此処でこの腕を振り払って起き上がって、そのままいつものようにランニングをしてから授業に遅れないように、時間に余裕を持って大学へ行く、それだって出来ないことではなかった。けれども、と思う。いつからこんなに自分は、と思うことがない訳ではなかった。でも、そんな自分を納得させられるだけの、この男を拒否すべき理由も見つからない。 起こしかけていた上半身から力を抜き、またぼすん、と布団へと戻る。やったぁ、と擦り寄ってくる頭を撫ぜてやる。ぎゅっと伝わってきた体温は相変わらず温かくて、抜け始めていた眠気がうつらうつらと戻ってくるのを感じていた。また瞼の裏が白黒になる。 恐らく二限には間に合わないのだろう。 * 喪主というオーラの中に立っていた君の堅さが忘れられない /永田紅 20140825 *** 首輪もつけないでいる怠惰 ラン東 *ゆるっとした裏社会パロ 狭い部屋だ、薄汚れた天井を見上げながらそう思う。少し視線をずらしてみれば今にも落ちていきそうなベランダ、外壁から少しはみ出してきた蔦。古いアパートだ。入居者の素性も大して聞いてこないような、そんな危うい安全地帯。 「アズマ」 ぼんやりとしたそんな思考を阻むように、ぬっと視界に顔が現れる。 「………ランバネイン」 くっきりとして若干浅黒い肌をした好青年とも言えるその顔は、どう贔屓目に見ても日本人とは言いがたい。けれども深いことを聞かないのは、東自身がそれを人間だと思ってこの家においている訳ではないからだ。 ちゅ、と軽いリップ音と共に唇が掠められる。 「それだけで良いのか」 言葉を喋れども、屈託のない笑みを浮かべようとも、東の言葉でそれが獣のようなものに変えられようとも。 合わさったところから溶けていくみたいだ、なんて思う。人より尖った犬歯が唇の端に押し付けられ、舌がずるりと絡まった。唾液の味がする。酸素をくれと、こんな時でなければ思えないなんてひどく平和ボケしたものだ、と自嘲が滲んだ。 互いに息を吸ってから、また接吻けられる傍ら、右の手が不穏な動きをし始めたのを察知して、ぺちり、とそれを叩く。 「待て」 呼吸のついでにそう告げてやれば、渋々と言ったように離れていく身体。 お前は犬だ、というのは拾って来たその日に告げてあった。犬か、ときょとんとした顔で繰り返すその男に、携帯で出した画像を見せる。 「お前は犬だ」 もう一度繰り返してお手、と言ってみれば一瞬の戸惑いのあと、その掌が乗せられた。 その日から、彼は少なくとも東が望んだ時は必ず、犬でいる。詳しく聞かずにこうして家に置いているからだろうか、それにしてはあまりに頭の使い方がなっていない。 「アズマは犬とキスをするのか」 不機嫌そうな顔。お預けを食らった時の犬そのものだ。 「したい時もある。可愛い犬なら尚更だ」 「カワイイ…それは褒め言葉だったよな」 「ああ」 日本語に不自由なところにつけ込んでいる自分のことは、褒められたものではないとは分かっていたけれども、それでも嘘は吐いていない。にやりと笑うとその嘘ではない部分を嗅ぎ取ったのか、犬は少しばかり顔を顰めていた。 「お前はかわいいよ」 頭を撫ぜて、そのまま耳の裏を掻いてやる。きもちよさそうに目を細める表情を見て、これでもまだ犬ではないと思う人間がいるのならば見てみたい。 「かわいい、俺の犬だ」 こつん、とそのまま額を一度合わせてやってから、昼飯食うか、と言う。そうすると名残惜しそうな表情をしながらも、ゆっくりと身を引いていく。 「昼、何が良い」 「ヒヤシチュウカとやらが気になる」 「おーあれは美味いぞ。コンビニで良いか」 「アズマに任せる」 「おう」 狭い部屋だ。足をついた床にはあれこれ新聞記事やら雑誌やらが転がっていて、火でもつけたら良く燃えそうだなんて思う。 「アズマ、はやく行こう。腹が減った」 「今行く」 けれども別に、狭いからではない。その首に何もつけないのは、何処へも行くなと命令しないのは。 犬が何処へも行くことはないのだと、東が一番良く分かっているからでしかないのだ。 * 20140907 *** DONUT HOLE 陽レイ 誰にも内緒のとくべつを食べよう。 ドーナツの穴というものを、食べたことのある人間はどれだけいるだろうか。 林藤陽太郎は店先に並ぶ丸くて真ん中の開いたそのお菓子を眺めながら、そんなことを思った。手を繋いでいる、所謂世間一般で言うと父親という関係の男が(と、こんな言い方をするとまるで仲が悪いようだが、別にそういう訳ではない)(ただもっと、それに相当するような人物を知っているだけだ)、どうしたーといつものお気楽な声で聞いてきた。 陽太郎はこの声も嫌いではない。寧ろ好きなのだと思う。けれどもううん、なんでもない、とだけ言った。ドーナツの穴のことは陽太郎と、先ほど言ったそれに相当し得る人物―――木崎レイジとの秘密だった。 切欠は、昼に見ていたテレビだった。再放送らしいそのドラマの内容は幼い陽太郎には少々難しく、テレビの中の彼らがどうして悲しそうな顔をしたりするのかは良く分からなかったが、出てくる食べ物たちがいつも美味しそうで、それで毎回見てしまっていた(ちなみにその話を任務から帰って来たレイジにすると、同じようなものが近い内に食卓に並ぶ、というその法則は、実のところ玉狛のオペレーターの入れ知恵である)。その中で、出て来たのだ。ドーナツの穴というものが。 ドーナツというものはこんなにも身近であるのに、その穴を食べたことがないことに気付いて、陽太郎は衝撃を受けた。そして、それを食べてみたいと思った。しかしながらそんなものが店で売っているのは見たことがない。ドラマの中でも、家でドーナツを作ると、と言っていた気がする。 陽太郎にとってレイジとは、何でも出来る大人であった。大人故に時折その選択は陽太郎には理解出来ないこともあったけれども。故に、そのドーナツの穴とやらもきっと、レイジにならば作れると思った。 「レイジ」 任務から帰って来たレイジを捕まえると、内緒の話を打ち明けるように、陽太郎はその耳に口を寄せる。 「ドーナツって、つくれるか?」 「ドーナツか?」 「ドーナツだ」 「作れるが…」 「ほんとか!?」 ぱあ、と陽太郎の顔が輝く。 そうして次の防衛任務が休みの日、レイジと陽太郎はドーナツを作ることになった。 レイジの量った粉類と水と卵とバター。それをレイジがボウルへと投入していくのを、エプロンとバンダナで完全武装している陽太郎が必死に混ぜる。 「どうしても手伝いたい!」 そう言った陽太郎に、油はあぶないから絶対に揚げるときは近寄らない、という約束で今回のお手伝いは決まったのであった。 レイジの手助けもあって無事に混ざった生地を、専用の型で抜いていく。ドーナツの穴がいっぱいだ、と思った。真ん中を開けた生地を丁寧に並べながら、穴の方もきれいに並べていく。 そんな作業に夢中になっていたから、レイジがその穴の生地をひょいひょい、と拾っていっているのに気付くのが遅れた。 ふっと顔を上げた陽太郎の目に映ったのは、まるめられる寸前の生地。 「ま、待て!」 思わず声を上げた。 「どうした、陽太郎」 「それ、」 「あまりの生地か?」 が、しかし間に合わずに、集められた丸い生地はレイジの大きな手の平で一つにまとめられていく。 ああー…と打ちひしがれる陽太郎にはてなを飛ばすレイジ。しかし、油の準備が出来たらしく、 「陽太郎、もう台所の外に出ていろ」 と台所から追い出されたのだった。 台所からいい香りが漂ってくる中、陽太郎はと言えば粉だらけになったエプロンのまま、リビングですんすんと鼻をすすっていた。陽太郎が食べたかったのはドーナツではない。いや、ドーナツも食べたかったには違いないのだが、それ以上のドーナツの穴を食べたかったのだ。 ドーナツの穴は特別だと、ドラマの中では言っていた。取り合いになるほど特別なものなのだと、陽太郎はそう感じたのだ。だから、食べたいと思った。自分だけではなく、自分が手伝うことによって店には売っていない特別をたくさん作り、レイジにもその特別を分けてあげたいと思った。 けれどもサプライズ的思考で黙っていた陽太郎のそんな考えは、レイジによる、ドーナツを出来るだけ多く食べたいだろうという優しさと気遣いに打ち砕かれた訳である。膝を抱えたくもなる。 「出来たぞ」 そんな声と共に目の前に置かれたドーナツの山にも、顔を上げられない。揚げ終わってすぐに砂糖をつけたそれは、きらきらしていていい香りも漂わせているのに、今はただなくなってしまったドーナツの穴のことしか考えられない。 はぁ、とレイジがため息を吐くのが分かった。 「陽太郎」 呼ばれる。 「ちょっと来い」 手を引かれるままに台所へと戻ると、砂糖を敷き詰めたアルミバットに何かが残っているのが見えた。と言っても陽太郎の背では未だキッチンの高さには足りないので、何かが残っている、ということくらいしか分からなかったのだが。 「これを、お前にやろう」 レイジの指がそれを拾い上げる。 目に映った瞬間、陽太郎はわあっと息を吸い込んだ。 「最後にたった一つだけ出来るドーナツの穴だ」 同じ台詞だ、陽太郎はそう思った。その小さな丸を受け取りながら、ドラマの一幕が浮かび上がってくる。 「一つだけしかないから、皆には内緒だぞ」 「おう! 内緒にする!」 大きく頷きながら、陽太郎はありがとう、と呟いた。それにレイジは微笑みながら、此処でこっそり食べてしまえ、と頭を撫ぜる。 陽太郎は少しの間それをじっと見つめていた。それから顔をばっと上げると、 「レイジ!」 呼ぶ。 「半分こだ!」 小さな指では、それはうまく半分には出来なかった。力を入れた所為でぼろっとしてしまったがそれでも、自分だけがその特別を食べるなんていうことは、陽太郎の中では許されないことだった。食べるなら、レイジと。そう思って、じっと見つめる。 見つめられていたレイジは暫く驚いた顔をしていたが、すぐに笑ってそれを受け取った。 「俺たちだけの秘密だな」 「おうっ!!」 二人笑い合って、その特別を口に放り込む。 いつものドーナツと変わらない、やさしい味がした。 * エピソード:「ランチの女王」第六話 20140907 *** かぞく ハイラン *
この世界でたったひとつ、唯一無二のもの。 ハイレイン殿、と白衣を着た男が呼び止めた。医務室の上級医師であるその男に、ハイレインはまたか、と呟いた。 はい、と男は頷く。 「最近は落ち着いていたんですがね」 「まぁ、なってしまったものは仕方がない。いつもの部屋ですか」 「はい。胎児の様子を見るためと、一番奥の治療室へと入って頂きました。一通りの検査は済ませました。今回も同じです」 「そうですか、申し訳ない。手間をかけます」 そう言って男と別れると、ハイレインは医務室の一番奥の治療室へと向かった。 別段、ハイレインが何処か悪くしている訳ではない。それでも医務室の、しかも上級医師と顔見知りになってしまうほどに、其処に世話になっているのはひとえに手のかかる弟のためだった。 ひっそりと、隠れるようにして佇む扉に手を掛ける。キィ、と軽い音で開いたその向こうには、よく見知った顔がじっと横たわっていた。 「ランバネイン」 名を呼ぶ。 ぐるり、とはつらつとした眼球がまわって、其処にハイレインの姿が映り込む。 「兄上」 重そうに起き上がる身体を支えるように、背中に手を当ててやった。検査服に身体のラインが浮き上がっている。なんてことはない、ただの鍛えた男の身体だ。しっかりとついた筋肉が、ランバネインの真面目さを物語っている。 「先ほどお医者様に会って、結果を聞いてきた」 そう告げると、面白いようにその表情は変わった。 「兄上、それで、子供は、」 ハイレインは静かに首を振る。 「だめ、だったそうだ」 ああ、と声にならない声があがった。そのまま顔を覆ったランバネインを、慟哭した弟を、ハイレインは黙って撫ぜてやる。 「残念、だったな」 「あに、うええ…ッ」 「大丈夫、次があるさ」 えぐ、えっぐと苦しそうに泣く弟に、こんな言葉を掛ける自分はきっと残酷なのだろうと思った。 * 唯一無二の弟であるランバネインがこうした状態になるのは初めてではなかった。 「兄上」 それが最初に起こったのはいつのことだっただろう。ハイレインがそろそろ部隊を任される、そんな時期だったような気がする。 困ったような顔をした弟は、内緒話をするように耳へとその唇を寄せてきた。 「兄上、どうしよう」 その声色は本当に困惑の色を呈していて、どうしたものかと身構えたのを覚えている。 「俺に、子供が出来たようなんだ」 そう聞いた時、何処ぞの女を孕ませたのだと思った。そういうことの注意は、兄としてしていたつもりだったが事故ということもある。早急に対処を、と冷静に考えるハイレインに、ランバネインは更に続ける。 「此処に、いるんだ」 こういう場合はお医者様にかかればいいんだよな、と足された言葉に、ハイレインは目を丸くした。 医務室に連れて行って診断してもらった結果は、想像妊娠だった。その時初めて、ハイレインはその症状が女性特有のものではないと知った。 ハイレインがそれを聞くことが許されたのはランバネインを連れて来た張本人であるからと、彼の兄であるからと、そしてきっと、兄であるハイレイン以外に彼にい家族がいなかったことも関係しているだろう。父も母も従軍していて、先の侵攻で生命を落としていた。 「そうですね。確かに稀ではあります」 担当の医師は書類をめくりながら言う。 「大体はパートナーの妊娠によって、部分的に妊娠の症状を経験する、という感じではあるのですが。今回のケースは別段そういう訳でもなく、彼自身が自分は妊娠していると信じ込むことによって諸症状が出ているようですね」 心当たりはありませんか、と問われて、そういえば、と思い出す。最近、ランバネインの偏食が目立つようになっていた。そして、炊飯の匂いがいやなのだと食堂へ行かない日もあった。 それを医師に伝えると、典型的なつわりの症状ですね、と返される。 「多くの場合、医師から想像妊娠であったことを伝えれば症状は収まりますが…」 「その役、」 言葉を遮った。 「俺がやっても大丈夫でしょうか」 「ええ、まあ…。ランバネイン殿が兄である貴方の言葉を信じるなら、大丈夫でしょう」 「その点については大丈夫だと思います」 「でしたらお任せいたします。もし駄目なようでしたら、我々をお呼びください」 「はい、ありがとうございます」 そうして一番奥の病室へとハイレインは向かった。其処で眠っていたランバネインが起きるのを待って、その言葉を告げる。 「ランバネイン、非常に、残念なことではあるのだが。お前の子供は、だめになってしまっていたんだ」 ひっと、その喉が締まる音が聞こえた。 「ランバネイン」 「あにうえ…」 「だからお前の腹には今、誰もいないんだよ」 「そん、な…っ」 ぼろぼろと、涙の落ちる音が聞こえるようだった。背丈も周りのものよりも一回り大きく、しっかりとした肩を可哀想なほどに丸めて、ランバネインは何が悲しいのかと思うほどに泣いていた。締まる喉では上手く息が吸えないらしく、苦しそうな嗚咽も混ざる。 名前も、決めていたのに。 そう泣きじゃくる弟の背中を撫ぜながらなんていう名にするつもりだったんだ、ハイレインは静かにそう問うた。 見上げて来たその瞳の、下瞼に溜まった涙を拭ってやる。わな、と震えた唇は苦しそうに、けれども誇らしげに、その名前を紡いだ。 「―――エネドラ」 * 新しく部下となる男を目の前に、ハイレインは考えていた。 黒トリガーと適合した青年を任せられるというのは、ハイレインの地位もなかなかに上がったということだろう。その生来の漆黒と混ざるような黒に染まったトリオン受容体は、細く、今にも折れそうだなんて感じた。 そして、ハイレインは最初の命令を彼に下す。 「お前の名前は今日からエネドラだ」 じっと、見つめてくる瞳は聡明そうな色をしていた。 「何故、というのは許された質問でしょうか」 「いや」 「ならば何も聞きません。拝命致します」 わたしは今日からエネドラです。頭を垂れてそう囁いた青年は、其処からハイレインを見上げてみせた。 「似合いますか」 「ああ、とても」 ハイレインは笑った。 父親になったような気分だった。 ランバネインとエネドラは歳が近いということもあり、それなりに仲良くやっているようだった。白兵戦によく付き合わされる、そう言ったエネドラは少しばかり面倒くさそうな声色はしていたものの、楽しそうに見えた。 ランバネインには母親であるという自覚はないようだった。 当たり前だ、産んでいないのだし、そもそも孕むことすら―――そのために必要な、性行為ですら、彼は経験していないのだから。これは最初の子供が腹に宿った夜、彼に確認したことだった。 ランバネインは、ハイレインには嘘を吐かない。 遠目に見る彼らはとても幸せそうだった。時折ランバネインはエネドラの名を聞いて不思議な表情をすることがあったが、それ以外は至って普通の部隊だった。 * 目の前で、女が息を吐く。 「…そうして、集められたのが私たちと言う訳なのですね」 ゆらゆらと揺れる瞳が、すべてを諦めたようにハイレインを見据えていた。 「可笑しいとは思っていたんです。入隊前に名を授けられるなんて。エネドラも、ヒュースも、そうだったんですね」 「ああ」 「ヴィザ翁もですか?」 「いいや。あの人だけは違う。誰か受容体を埋め込んでいない人間を部隊に入れるよう言われた時、その名簿の中であいつのいった子供の名前と合致する者を見つけた、それだけだ。勿論、ほかの名前の人間も見つけていた…ミラという人間もいたな。ヴィザ翁は黒トリガーであることだし要望が通らない場合もあるだろうと思って、彼の方もいつでも打診出来るようにしてあった」 けれどもすんなり通ってな、とハイレインは笑う。 「もしヴィザ翁がこの隊に所属されなかったら、お前はヴィザだったかもしれないな、ミラ」 「………それを私に話すのは、私で最後だからでしょうか」 隊は、もうその外枠しか残っていないと言っても良かった。ハイレインは頷きもせずに女を見つめる。 「エネドラもヒュースもああなってしまって、ヴィザ翁も………。正直、ヴィザ翁は私では殺せないと思っていたから、とても助かった」 それは頷きよりも重量を持って、その胸を引き裂くのだろう。そう思って続ける。 「異界の人間も偶には役に立つこともあるのだな」 それでも目は逸らされない。似ているな、とハイレインは思った。それを産んだ唯一無二に。 「私は、貴方のことをずっと正しいと思っていたけれど」 「正しかっただろう?」 「―――いいえ」 吐き出される否定の言葉。 「貴方は間違っています。確かに、確かに貴方は一見正しく見えます。それが、ランバネインのためと仮定するのなら」 その美しい唇が紡ぐのを、ハイレインは黙って見ていた。「すべては、ハイレイン、貴方のためでしょう」 それには答えなかった。答える代わりににっと口角をつり上げた。賢い女にはそれで充分だった。 どん、と。 ひとつ、重い音がした。 * 一番奥の部屋の扉をノックする。はあい、と可愛らしい返事に、その扉を開けた。 「兄上っ」 布団に横たわっていたランバネインはぱあっと顔を輝かせる。 「ランバネイン」 ハイレインはそれに近寄っていった。 そして、五回は繰り返したあの調子で、言葉を放つ。 「お前のこどもは全員死んでしまったよ」 決して大きいとは言えないが、はりのある榛色の瞳が見開かれた。 「ア、ァ―――…ッ、」 絞め殺される豚のような声を上げながら、その目からは涙が滴り落ちていく。 「ア、ああ…」 「可哀想に」 「あに、ア…ぁに、うえ…」 「親不孝な子供たちだな、お前を置いていってしまうなんて」 ひときわ大きな号哭がハイレインを貫いた。耳の底までを叩いていくその声に少しふらりとしたが、今はハイレイン以外にそれを聞く者はいない。 大丈夫だ、と静かな声で言う。子供たちは皆いってしまったが、と大きく上下する背中を撫ぜてやる。 「けれども俺は何処にもいかない。ずっとお前の傍にいてやる」 「兄上、」 「絶対だ、約束する」 「兄上…!」 ぜったいだ、と縋り付いてくる腕を抱きしめ返す。 「あにうえはっ、…どこへも、いかッないで、」 「ああ」 「ぜった、い…」 「ああ、絶対だ」 薄く、目を開く。 「俺たちは、兄弟なんだから」 * 20140920 *** 今日は晴天。でも明日はきっと雨。 冬当 なんのかんのと子供扱いしてくるその大人の対応が、気に食わなかった訳じゃない。身長もあってこんな見た目(は正直趣味でやっているようなものなので文句がある訳ではないが)をしていれば、子供扱いなんてしてくる人間はそう多くない。そういう人間は貴重だから確保しておくべきだと、もう子供扱いすんなよ、なんて言うべきではないと、そう思っていた。 そういう経緯があるので、まずこれだけは言える。これは当真勇という十八歳の願望でも何でもないということを。そして恐らく、勘違いという訳でもないことを。 隊長である冬島慎次には、どうやら当真を子供扱いしたくない―――もっと言えば大人になって欲しい瞬間が、あるらしい。 それに気付いた時は驚いたのを覚えている。年齢が年齢だからそろそろ大人になれと、そういうことを言われている同年代も見かけるし、当真自身も比較的少ない方ではあろうが言われたことはある。だから、そろそろ周りの大人たちがそういうことを期待し始める時期なのだというのは理解していたし、そう言われるのも嫌ではなかった。ただなんとなく、くすぐったい気持ちになるだけで。けれどもその中で冬島だけは当真の頭を撫でて、急いで大人にならなくったって、と言っていたのだから。 本音と建前というものは当真とて理解している。しかしながらどうにも冬島の行動は、そういうものではないような気がするのだ。 だって、他の時はずっと、子供扱いをするのだ。大人になってほしいなんて微塵も見せずに、心の底からそう思っているように。でも、一瞬。そう、一瞬だ、ほんの、一瞬。その瞳がゆらりと揺れて、はやく、と急かすのだ。共通項は見つからなかった、それでも見当をつけることは出来た。そうして初めて、隊長であるその人のことを何も知らないことに気付いた。 趣味、好きな食べ物、出身地、ボーダーに来る前にしていたこと、ボーダーに入った切欠、特殊工作員を選んだ理由、家族構成。分からないことだらけだ。好みのタイプとか、ぐっとくる仕草だとか、過去に付き合っていた人はどういう人だったのかとか、経験人数だとか、彼女とは週何回してたのかとか、それは別として抜く回数だとか、そもそもどんなものをおかずにしているのかとか。 踏み込んだことを尋ねるとうまくけむにまこうとして、そういう態度を見ていると少しばかり子供扱いに腹が立つ。 「なぁ、隊長」 服の裾を引くなんていう可愛い行為は好きだろうか。 「おれじゃあだめなわけ」 見開かれた目が、揺れる。いつもと同じように、あの、大人を求めている、揺れ。ああそういうことだったのか、と思った。 なんだ、簡単なことじゃないか。 「おれ、アンタのためなら大人になれるぜ」 真っ直ぐに見上げた先の顔は今まで見たことがないくらいにひどいものだった。 「…馬鹿じゃねえのか」 ぐしゃぐしゃと、髪が崩される。 「冬島サン」 「…馬鹿」 「もー馬鹿で良いからさあ」 こっちを向かない服の裾を、もう一度引いた。 顔を覆い隠した手の隙間から、ちらりと覗いた目をしっかりと見つめて。 「おれを、大人にしてよ」 * (貴方を悩ませることのない、大人に) image song「狼なんか怖くない」石野真子 20140920 *** 馬に蹴られて死んでしまえと言いますが、もういっそのこと馬になって蹴り殺したいです。 堤・諏訪・荒船・穂刈 腐向け *組み合わせは各自自由に想像してください *諸々発覚前 穂刈篤が言うことには荒船は大人しい気質らしい。 「おれの方が喧嘩っぱやいっていうか単純っていうか、あいつは冷静だし声荒げないし、ほんといいやつですよ。 おれら家が隣同士で、まぁ、所謂幼馴染ってやつなんですけど。そうなんです、小学校も中学校も一緒で、高校は違くなりましたけど。あいつ頭良いですからね。おれはばかじゃないから来いって言われたんですけど、どーしても自分が進学校行ってるのが思い描けなくて。ビビリなんですよね、あいつにも散々言われました。 え? 寂しかったんじゃないかって…あー…言われてみると、そうなのかもしれませんね? あいつ大人しいでしょう。だからかほっとくとすぐ教室の隅で一人本読んでるような奴で。あいつはそれで良いみたいですけどおれは見てらんなくて、良く手ェ引いてました。嫌がられてはなかったって、そうは思ってますけど、そっか、寂しいって思うくらいにはあいつも楽しかったんですね。正直に嬉しいです。 だって、あいつあんなんですし、よく無表情してるし、隊長としてはポーカーフェイスも出来た方が良いのかもしれないけど、なんつーか…心配? そう、心配なんですよね。とっつきにくいって、多分幼馴染じゃなかったら思ってたと思います。それもあるし、それで良いってどこか思ってそうで。人間関係下手な訳じゃあないと思うんですけど、こう、どっか無気力っていうか…その、すみません、まとまらなくて。 でもおれ、ほんとあいつには感謝してるんですよ。何回かおれの喧嘩止めてくれたし、一回喧嘩仲裁入ったあいつに一発当てちゃって、おれがすごい取り乱したのをずっと撫でてくれてたりして。やさしーやつですよ、あ、これ、秘密の話にしてくださいね。ほんと。あいつすぐ照れるし、照れるとむすってしちゃうし。そこもあいつらしいっちゃあいつらしいですけどねー! ………って、結局何の話だったんでしたっけ?」 諏訪洸太郎が言うことには荒船は手に負えない乱暴者らしい。 「前だってちょっとからかっただけで噛み付いてきてよー今の表現じゃねーぜ? 物理でだよ。こう、がぶっと。あいつ猛獣かなんかじゃねえの? ほんと。躾なってねーってか、野生動物かよ。手負いの。あんなんだから穂刈といつまで経っても進まねえんじゃねえの。 …あ? ンなの見てりゃー分かるだろ。あいつと穂刈、なんにも進展してねえよ。進展っていうか穂刈が馬鹿なのか? …っるせ。俺に言われたかねえだろうことは分かるけどな、それでもあれはあんまりだろ。危機管理がなってねえレベルだぞ。荒船の凶暴さをちょっと分けてやりたいくらいだ。 分かってるよ。人の恋路に頭突っ込むなんて馬に蹴られても知らねえって言いたいんだろ? 俺だってそう思うよ。でも見てらんねえだろ。あいつら。っていうかあいつ。穂刈。あのまま放っといたらなんかこう、ぺろっといただかれそうだろ。荒船に。だからうっせえよ。俺がお前をぺろっといただいたことなんてこの際水に流しちまえ。細かいことをうだうだうだうだいつまでもうっせえな。今はお前のが楽しんでんだから別にいーだろ。 は? 好きだろ? 俺のこと。ついでに俺のカラダも。お前あほかってくらいキモチヨサソーに腰振るじゃん。俺ああいうお前見てるとわりとたのしーんだよな。悪趣味とか。好きに言えよ。その悪趣味が好きなのは何処の誰だよ。 そういう話じゃないとか…じゃあお前、何が聞きたかったわけ?」 荒船哲次が言うことには悪いのはすべて諏訪らしい。 「だってあの人穂刈とは何処まで行っただとかセクハラしかしてこないんですよ。終いにはオレがやり方教えてやろうかとか言い出すし。ほんっとなんなんですか。躾しといてくださいよ。出来ないならリード離さないでください。 犬扱いもします。オレは別にあっ…穂刈とどうこうなろうなんて考えてないんですよ。別に。べつに。あいつは大事な幼馴染ですけど、それだけですし。え? は? 貴方までそんなこと言うんですか? 何なんですか諏訪さんに汚染でもされました? 貴方良心なんですからしっかりしてくださいよ。 …え? あの人が、オレらを心配? ………あの人、人並みに心配なんか出来たんですか………。 いや笑い事じゃないですって。これ今本音すごい出ましたよ。ほんと。純粋なオレの本音ですよ。レアですよ。だってあの人、からかってしか来ないんですから…へえ…そうなんだ…あの人が心配………って別に心配されるようなことないですけどね? いやだから本当にないんですって。お願いですからあの人と同じようなこと言わないでくださいって。オレとあっ…穂刈はただの幼馴染ですって。まぁ誰よりも近いところにはいますし、お互い彼女とかも出来たことないですけど。…童貞って。ンなこと今聞かないでください! そうですよ! 悪いですか!! …すみません、取り乱しました。 でもまぁ、そういうことです。 噛み付いたのはまぁ、虫の居所が悪かったとは言えあんまりだったと思うので、謝っておいてくれませんか? オレは顔合わせたらまた噛み付きそうですし…。凶暴って。否定はしませんけど。え、あっちゃ…あ、ちが、穂刈。…う、すみません。幼馴染なんであっちゃんて呼んでます…。秘密にしてくださいね! あっちゃんの前では猫かぶってるんですよ。あいつにそういうの見せたくないっていうか、その、オレのこと信じてるあいつが可愛いとかそういうのじゃないですけど、こう、穢してはいけない感が…っていやいや、あいつ阿呆ですから。あほかりですから。オレがちゃんとしてないとだめなんですよ、隊長としても、幼馴染としても。 っていうか、何だったんですか、今日は?」 そういう訳で堤大地の下した結論は。 「………とりあえず、穂刈誘って飯でも行こう」 後日それを追い回す諏訪と荒船を見たとかなんとか、ボーダー内で少し話題になったらしいが詳しいことは本人たちのみぞ知る。 * 20141024 *** 秘密の抜け道、塞いだのは貴方。 最迅 幼い頃のことを思い出す。 まだ小学校にあがったばかりの頃。もうその頃既にボーダーの前身である組織に所属していたおれは、こなみと行動を共にすることが多かった。周りは大人たちばかりであまり相手にしてはもらえなくて、そんな環境ならば年下でも女の子でも、年の近い子供と一緒にいる方がいくらか楽しかった。 幸運なことにこなみは行動的な方で、男の子の探検にもよくついてきてくれた。我ながら振り回した方だとは思うが、それでも記憶の中のこなみはいつも楽しそうだったのよしとする。 その探検の中で、基地にしていた古い建物に、抜け道を見つけたことがあった。大発見だ、と思ったおれとこなみはそれを二人の秘密にした。暫くはその抜け道を使って、大人たちを驚かせたりしていた。 けれどもある日、基地内に野良犬が忍び込んだ。 犬はすぐに最上さんや忍田さんの手によって捕まえられけれど。ちなみに林藤さんは声援を送っていただけだった。城戸さんに関してはどうやら動物が苦手らしい。大人たちは難しい顔で話し合いをしていた。当時、ニュースで狂犬病が騒がれていたこともあって、少ないとは言え子供を預かっている身となればピリピリするのも仕方ないだろう。トリオン器官は若い方が成長しやすいという結果はもうその時には出ていて、そういう意味でも子供は守るべき対象だったんだろうと思う。 おれとこなみはすぐにあの抜け道のことを思い出した。大人たちの会議を横目に其処へ行ってみれば、どちらも使っていないのにその抜け道は開いていた。顔を見合わせて、どうしようと抜け道の前で悩んでいた。 此処は、二人の秘密だった。秘密で、守らなければならないものだった。 「…黙ってちゃ、だめ、よね」 ぎゅっと握られた拳が印象に残っている。うん、とおれは頷いた。おれだけが知っていたことにするから、こなみは黙ってていいよ。そう言ってかっこつけて、大人たちに抜け道の存在を伝えた。 最上さんには怒られた。どうして黙っていたんだと。今回はなんにも病気を持っていない犬だったからよかったものを、もしも病気を持っていたら。持っていなくても、もっと大きな犬だったら。それがこなみに噛み付いたら。それに、犬じゃなくて人間が、わるいひとが入ってくる場合だってあるんだぞ。ちゃんとは覚えていないが、そんなようなことを言っていたんだと思う。その時はどうしてそんなに怒るのか、分からなかった。トリガーという素晴らしい武器のことをもう知ってしまっていたから、それを使えばなんだって倒せるのに、そう思っていた。 ねえ最上さん。その声に応えるひとはもういない。与えるだけ与えて、さっさと姿を消してしまったひどいひと。そのひどさの、幼かったおれは本質を捉えることが出来ていなかった。だからこそただいなくなってしまったその人の喪失を嘆いて、それだけだったはずなのに。 おれの目の前で秘密の抜け道は塞がれた。とんてんかん、と最上さんが手ずから塞いでしまった。こなみは影からそれを見ていて、あとで少し泣いていた。それをお兄さんらしく慰めた。 なんだかとても、大事なものを塞がれたような気分がしていた。その時も同様におれは幼くて、それが何なのか分かっていなかった。 「あれは、最後の逃げ道だったのよね」 おれより一足先に大人になっていたこなみはそう呟いた。ばかなおれは、幼いおれは、その時だって曖昧に頷いただけだった。 けれども、今なら分かる。 風刃を手放すために、今まで持っていた執着をむりやりに切り離して。そうして広がった視野でやっと、今まで見落として来たものたちが見えるようになった。 最後の、逃げ道。うまいことを言ったのだと思う。誰も知らないところから出ていける、それがどれだけ尊いことだったのか、今なら、分かる。分かってしまう。それを潰さねばならなかった理由も、腹の中は見えずとも推測くらいは出来るようになってしまった。 結局、あれは愛じゃなかった。 心をすり減らしてまで、意味を知りたくて執着したものが、ばらばらと崩れ落ちていくような気がした。 ―――悠一。 やさしい声で、嘘っぱちの声で呼ぶ人はもういない。 ―――愛しているよ。 でも、もうおれの土台は出来てしまっている。 乾いた笑いが漏れた。もう逃げられないことが、そう分かっても逃げようとなど、逃げたいなど、思わないことが、可笑しくておかしくて。とんてんかん、音を思い出していた。 穏やかな死への選択肢をも塞ぐ、音を思い出していた。 * 一人遊び。 http://wordgame.ame-zaiku.com/ 20141024 *** どうにもゲンキンなもので、 太刀月 *太刀川による月見の呼び方捏造 頭を使いなさい、それがいつからその人の口癖になったのかは知らない。色付きのリップをつけるようになった、その頃だったのかもしれない。その頃はその頃で新しく与えられたオモチャに夢中になっていて、それに対して何を思うこともなかったのだが、今ではそんなものしなくたって、と思う気持ちと、化粧をしなくたってそれくらいで充分、なんて思う気持ちが混在している。 要は身内贔屓だ、太刀川慶はそう思っていた。何に対して、というと実際のところ何と言うよりかは誰、の方が正しいのだけれど―――幼馴染の月見蓮についての見解である。大学生になったというのにその職業柄あれこれ色気付くようなこともなく、ストイックに仕事をこなす姿はもう見慣れてしまっていて、変わらないなぁとそれくらいを思わせるだけに留めていた。 しかしながら、一歩先に大人の仲間入りをしてしまった太刀川には飲み会という名の洗礼があった。そういう場において酔った年上の人間の言うことは大体決まっている。最近どうだ、鍛錬は怠ってはいないか、勉強はちゃんとしているか―――良い子はいないのか。特別眉目秀麗という訳でもない太刀川を標的に、そういう話がどう流れていくかと言えば、幼馴染で今も同じ組織に所属しているその人へと行き着くのだ。 正直、と思って目の前の敵を見据える。正直、美人な方だとは思う。襲いかかってきた敵をたたっ斬る。華があるというよりは清涼感とか、そういう感じで。振り回された腕を掻い潜って懐を斬りつける。可愛いよりは美人、後ろに立たせておくよりは、カフェとかレストランの小さな二人用の机で、真正面に座っていて欲しいタイプ。そして――― がつん。 馬鹿みたいな大きな音で頭を横から吹っ飛ばされて、耳元でため息が聞こえた。 『太刀川くん』 「…それ、やめたらいーのに」 二人しか居ないんだから、と呟けども、恐らくその眉が少し寄せられただけでそれに返る言葉はない。 ちょっと今晩付き合って、そんな言葉を吐いたって、訓練室ね、の一言で頷かれてしまう。もっと、もっと、他のことを考えてくれたっても良いのに。そう思いながらもだからと言って変に意識されてこの鍛錬が意味を成さなくなっては困る。 はぁ、と息を吐いて通信機に話し掛けた。 「ツキミサン、別に誰が聞いてる訳でもないのに真面目だな」 『そういう堅苦しい感じにしてほしい訳ではないのよ』 あと今のところ、考えなしに突っ込んだでしょう。そこからはもう延々とお説教だった。あの場面でこうしたのは良かったがその次がいけないだの、どうせこういうつもりでやったのだろうがそれでは本末転倒だだの。よくそんなに分析が出来るなと思うほどの的確さで、まるで頭の中でも覗かれているみたいだ。 『たーちーかーわーくーん』 「…ゴメンナサイ」 『反省しているならいいわ』 話を聞いていない時もすぐにバレる。 『…そんなに、さっきの話は難しかったかしら』 「おれには、難しい話だ。習慣ってモンもあるだろ。その点ツキミサンはどうしてんだよ」 『どうもこうも、新しい習慣で上塗りしただけよ』 習慣の上塗り、ね。そう心の中で呟いていたら、またため息を吐かれた。 『けじめをつけろって言っているだけでしょ、そんなに難しくはないわ』 「ツキミサンにとってはな」 『…年下にさん付けするのが貴方の中では普通なの?』 普通にするだけなのが、どうして出来ないのかしらね。それは嫌味というよりも純粋に不思議がっているような声に聞こえた。どうして、だなんて。そんなの。 「…じゃーさー」 息を吸い込む。 「おれが頭ちゃんと使えたら一回ごと、蓮って呼んでいーい?」 『なにそれ』 「おれはツキミサンの言う普通って分かんねーし、そうすることのメリットとか、正直考えらんない。だから、その分、こうして付き合ってもらってることだし。強くなって返したいし。だからさ、おれの頭が良くなった分だけ蓮って呼ばせてほしーって訳」 むかしみたいに。 そうだ、ただそれだけを望んでいる。ずっと、ずっと変わらないものだったと思っていたものが離れていって、ひどく、胸の辺りを抉られたようで。 『…貴方に頭を使うことが出来たらね』 「それ、了承って取って良いんだな?」 『勿論よ。評価の手は抜かないからね』 「望むところ」 頭を使いなさい、それがいつから口癖のようになってきていたのか本当は憶えていた。少しだけ年上のひとのところへと弟子入りして、それからのことだ。其処で何を見たのかは知らない、もしかしなくても太刀川はきっと既に同じものを見ている。 だからだ、だから。生真面目な正確の彼女のことだ、どうせ言葉を掛けるのは残酷だとかそういうことを考えたのだろう。すべて勝手な推測だけれども、それに自信を持てないほど一緒にいた時間は短くない。 ならば。 「覚悟しとけよ」 向かい来るプログラミングされた人型の動き。それの一つひとつを冷静に見つめながら、弧月を握り締めた。 * 20141024 *** むかしむかしあるところに、頭のねじがひとつふたつみっつ…もっとでした、もっとぬけてしまった男がいました。男は頭のねじがぬけてしまっているので、ときどきまわりのひととはなしがかみあわないときがありましたが、それでもまわりのひとがやさしいので、ふべんなくくらしていました。あるときねじぬけ男の前に、詩人があらわれました。詩人はとてもロマンティックな男でした。詩人はねじぬけ男にやさしいだけではなく、ひつようなときはちゃんとしかってくれました。ねじぬけ男はそんな詩人をすきになりました。ねじぬけ男は頭のねじがぬけてはいましたが、ひとをすきになることはちゃんとできました。けれどもねじがぬけているので、そのあいのつたえかたはすこうしひっかかるものでした。ここでくりかえしますが、詩人はロマンティックなのです。ねじぬけ男のあいのつたえかたはロマンティックではありませんでした。それどころかじぶんをぎせいにしてもいいというようなかんがえて、詩人はとってもかなしくなりました。なので、詩人はあるときこういいました。わたしがおまえのたりないぶんの、ねじにかわるたくさんのものをみつけてこよう。みつけてきておまえにあげるから、そうしたらおまえはそれをねじのかわりにしてほしい。おまえがわたしのみつけてきたものをねじのかわりにしてくれるたら、それをおまえがわたしのあいを、わたしがおまえのあいを、うけいれたあかしにしよう。そうして、詩人はたくさんのものをさがしにいきました。みつかったものはすべて、ねじぬけ男におくられました。しかし、ここでもういちどおもいだしてほしいのですが、ねじぬけ男は頭のねじがぬけているのです。ときどきまわりのひととはなしがかみあわないのです。そうです、ねじぬけ男は詩人からおくられてくるねじのかわりがなんなのか、わかっていなかったのです。詩人がていねいにつたえたにもかかわらず。詩人のほうはまさかねじぬけ男がりかいしていないなんてつゆにもおもいません。たくさんのものをおくっても、なにひとつねじのかわりにされないのは、あいをうけいれられなかったからだとおもいました。詩人はかなしくなりました。とてもかなしくなりました。むねがはりさけそうで、でもきぼうをすてられなくて、あちらこちらへあしをはこんでまだねじのかわりをさがしました。ねじぬけ男のほうはといいますと、あちらこちらへひとりでいく詩人にさみしくなってしまって、彼をおいかけました。詩人はどうしておいかけてくるのだろう、あいをうけいれてはくれないのに、とこんわくして、こんらんして、もっとかなしくなって、もっともっととおくへとあしをはこびました。ねじぬけ男はさみしくて、それをおいかけます。そういうわけで、ふたりのおにごっこはまだおわっていないのです。 しろはた 陽レイ 誕生日プレゼントは何が欲しい。そういう話になったのは、とある夕飯後の玉狛のリビングでのことだった。その時の陽太郎はいろんな質問に素直に答えて欲しいものを並べていた。 「………ほんとうは、いちばんほしいものは言ってないんだ」 そんなことを零したのは、彼が眠る前だった。風呂から出てテレビを見ていた陽太郎を、彼の部屋まで連れて行って布団にいれた時のことだ。 「言いにくいものだったのか」 「ううん、ちょっとゆうきが必要なこと…」 「俺には言えるか?」 「…たんじょうびのひ、でもいいか?」 「良いけど、間に合うのか」 「まにあう」 「そうか、なら当日聞いてやる。それまでに勇気が出れば」 そう言って頭を撫ぜてやれば、陽太郎は歳相応の笑みを見せた。眠る前のほわほわとしている表情は、とても可愛らしかった。 そういうことがあったので、多少の覚悟は出来ていたはずだった。あの時断ったとしてもどうせ、子供の表情で押し切られていただろう。木崎レイジは自覚している。自分がこの子供にとても甘いことを。 「レイジ。おれは、レイジからのキスがほしい」 だから、そう言われた時、用意していたはずの言葉がするっと出て行かなかった。 「そ…れ、は」 だめだと。そう優しい声で一刀両断するつもりだったのに。 「だめか?」 こてり、首を傾げられたらそれ以上続けることが出来なかった。というかそもそも誕生日にキスをねだるってなんだ、と思う。昼の間ずっと一人で暇な時間をテレビにあてているからか、それとも耳年増なオペレーターがいらないことまで吹き込むからか。最近の子供はませていると聞くがここまでとは。少し、現実逃避もしたくなる。 「レイジはまだおれのきもちが嘘だって思ってるのか?」 「そういう、わけじゃ」 「キノマヨイってやつはよくわからないけど本当じゃないなら嘘と同じだ」 子供は時々、こちらが驚くほどの素早さ、的確さで胸を抉ってくる。こちらが子供だ子供だと侮っていると、すぐに成長してしまうくせに。それなのに子供特有の純粋さで、真っ直ぐに、こちらの深淵までを切り開いてくる。 「レイジ」 そんな思考は小さな頼りない声に阻められた。 「…ごめんなさい、レイジをこまらせたかったわけじゃない…」 困った顔を、していたのだろうか。レイジだってそんな声を出させたかった訳じゃない。この子供のことをそれこそ目に入れても痛くないくらいに可愛がっているし、今日は誕生日なのに。 しゃがみ込む。 視線の高さが合ったところで、その小さな手を取った。そして、其処へと唇を落とす。 ぽかん、とした頬に少しずつ赤みがさしていくのを眺めていたら、こちらの方が恥ずかしくなってきてしまった。 「…今は、これで我慢しろ」 「…今は、ってことは」 ふるり、と声が揺れる。 「毎年レイジからのキスがぐれーどあっぷするって思って良いんだな!」 来年もキスをねだるつもりか。ツッコミが浮かんで来たが、嬉しそうな様子を見ていたら些細なことのような気がした。 一歩一歩、進んでいけば良い。もし、この想いが気の迷いだったとしても、それを受け入れられるように。 「レイジさん、陽太郎、最後の飾り付け終わったからおいでよ」 リビングからオペレーターの賑やかな呼び声がした。 * images song「グレーマンのせいにする」クリープハイプ 陽太郎お誕生日おめでとう! 20140925 *** キスで呪いを解いてやれよ 林迅 *上の続き レイジさんも罪作りだよねえ、と迅が言ったのは陽太郎の誕生日パーティも終わって、その片付けをしている時だった。 「何だ突然」 「ん、パーティの前のアレ、聞いちゃったから」 かちゃかちゃ、と皿を洗う音だけになった。 「…そうか」 「別に、言いふらしたりしないよ」 ま、みんな知ってるようなものだけどね、と迅は呟いた。 迅の言うとおり、陽太郎が子供で隠すことを知らないというのもあって、今では彼の恋慕は玉狛には知れ渡っている。ありがたいのは誰一人として木崎を責めたりはしないことだ。親である林藤でさえ、そういうのはお前の決めることだから、と言っている。 しかしながらそれを改めて突きつけられると恥ずかしいものがある。会話を逸らしたい。 「…お前はまだ、林藤支部長が好きなのか」 「レイジさん野暮だね。人に向かってまだ好きなのか、とか。そういうの言うもんじゃないよ」 「悪い」 「ううん、別に良いよ」 迅は木崎の意図に気付いたようだが、敢えてそれに乗っかってくれるらしかった。 「あの人ずるいよね。おれが好きって言っても、返ってくる言葉がそうか≠ネんだよ。好きも嫌いも返してくんないの」 「…やはり、それは狡いか」 「少なくとも言ってる方からしたらね。なんなの、って思うよねー」 そういうものか、という言葉は出なかった。流石に今この言葉を言うのは配慮が足らないだろう。 「親子で立場が正反対っていうのもちょっとおもしろいよね」 茶化すように迅は続ける。きゅいきゅい、とスポンジの滑る音。 「おれがいくら追いかけてもなついても誘惑しても、逃げられるだけでさ。なびいてくんないし。………他より、可愛がられてるって自覚はあるけどね」 「俺、別にお前から逃げてるつもりはねーよ?」 瞬間、肩がびくうっと跳ね上がったのは何も迅だけの話ではなかっただろう。突然後ろからした声はたった今話題に上がっていたその人のもので、声を掛けられるまで気配に気付かなかったのは木崎とて同じだった。 固まっている二人には目もくれず、林藤は棚からコップを出す。そして冷蔵庫を開けると、パーティの残りのジュースを注いだ。 「片付けありがとなー」 「あ、いえ…」 「テレビ、迅の好きそうなのもうすぐで始まるからはやく片付けちまえよ」 手伝いたいけど台所狭いしな、と笑う林藤に、木崎はええ、だの、ああ、だのの返ししか出来ない。 そうしてリビングへと戻っていく林藤に、遅れて迅が我に返った。 「なっ…なにそれ!? ちょっとボス! おれ期待するよ!?」 慌ててその背を追いかけようとする迅に、手くらい洗え、と呟きはしたが耳には届いてなさそうだ。泡まみれで水もきれてない手が、ぼたぼたと床を汚していく。 仕事が増えたな、と思ったが、なんとなく今日はそれが許せる気がしていた。 * image song「かえるの唄」クリープハイプ 20140925 *** 20200222 |