曖昧模糊のシンショウ・ワールド 太刀時

心を象る言葉なんてものが、この唇からこぼれ落ちないのなんてわざとに決まっているでしょう?


 昼食をとろうと食堂に続く本部の廊下で、ばったりその人に出会ったのは別段不思議なことでも何でもなかった。
 あ、という顔をしてみせたその人に時枝が会釈をすると、今から昼か、と問われる。頷くと、ふむ、とその人は少し考えるような表情をしてみせた。
「うどん好き?」
「別にきらいじゃないです」
けど、とその消え入るような語尾が完全に形になるより前。がしり。そんな唐突さで腕を掴まれる。
「太刀川さん?」
「なら俺が奢ってやるよ」
「え、いや、」
悪いですし、と言葉だけで抵抗を示して見ても、いいから、と流されてしまった。
 そのふわふわな後ろ頭を見上げながら、時枝ははぁ、とため息を吐いてみせた。奢ってもらえるというのならお言葉に甘えるのも良いだろう。A級隊員としてそれなりに稼いではいるが、時枝とてまだ高校生だ。その金銭を無駄に浪費したりしないように、と半ばお節介な有り難いボーダーの制度により、自由に使える額はそう多い訳ではない。それに、とやけに嬉しそうな背中を眺める。本当に嫌なのならこの手を振り払うことだって出来ると、誰かに言い訳するようにそう、胸の内だけで呟いた。

 ほら、たんと食え。ドン、と目の前に置かれたのはきつねうどんだった。太刀川の方は山菜うどんのようだ。
 いただきます、と手を合わせるその姿に、案外行儀が良いのだな、と思う。いつも某実力派エリートやら、某A級二十一歳児やら某本部の虎やらと戯れている姿からは、申し訳ないことに、正直想像がつかなかった。
 「時枝ってさあ」
咀嚼嚥下をすませたところで太刀川が独り言のように呟く。それに同じく口の中のものを飲み込んでから、はい、と答える。
「これと言ってすきなものとかあるの」
「みかんとか好きですよ」
みかん、と太刀川が口の中で繰り返すのを、時枝はうどんをすすりながら聞いていた。そういえばうちの出水もみかん好きって言ってたわ、その言葉には良く御福分け頂きます、と返す。
「何、仲良いの」
「それなり、だと思いますが」
太刀川の器に浮かぶにんじんが、どんどん隅に寄せられていくのは気のせいではないのだろう。
「にんじん、嫌いなんですか」
「ん? ああ、ちょっとな。時枝は?」
「好きでも嫌いでもないです」
じゃあ、と赤花色したれんげに集められる細切りのにんじんたち。ほら、と差し出されるその意図は一つしかないだろう。
「…太刀川さん」
「そんな目で見るなって」
残すのはなんか、悪いだろ、と眉根を下げてみせるその人に、何よりも先に浮かんできたのはしようがないな、という呆れよりもいつくしみに似たものだった。
 控えめに開けた口に、同じく控えめに差し込まれる花片に、またも意外だな、と思う。もっと粗雑に突っ込んできたりするのかと思っていた。伺うように視線だけを上げてみれば、太刀川はやたらと真面目な顔をしていて、なんだかそのちぐはぐさに笑ってしまった。

 それから他愛もない話を繰り返していたら、器が空になる頃には話題も尽きてしまっていた。どちらからともなく盆に手を掛けると、立ち上がって返却口へと返しに行く。そのままふらふらと食堂から出れば、そのうち違(たが)う行き先の岐路に着くことは当たり前で。
「俺、書類出さなきゃだから」
「そうなんですか。俺はこのまま控え室です」
ごちそうさまでした、と頭を下げてから、控え室の方へと歩き出した。
「なぁ、時枝」
「なんでしょう」
振り返る。
 色さえも境界を失うような、そんな曖昧な眸がまっすぐに時枝を撃ち抜く。
 「おまえさ、なんで今日、俺に奢られたの」
「ご不満なら代金はお返ししますが」
「そうじゃねえって」
ゆるりと首が振られた。
「なんで今日、俺と飯食ってくれたの」
 くれ、た。その言葉の不似合いさにゆっくりと目を瞬かせた。
「…おれ、は」
「うん」
両方から手を伸ばしても届かない、そんな距離なのに、周りに誰もいない所為で時枝の声が浮き彫りにされていく。
「おいしいものが食べたかった、それだけですよ」
 いち、に、さん。そんな空白のあと、太刀川は嬉しそうに笑った。その表情を見て失礼にも、この人にも微笑むなんて芸当が出来たのだな、なんて思う。
「うどん、うまかったか?」
「ええ、とても」
「じゃあまた食いに行こうな」
「機会があれば」
 もう一度頭を下げる。今度こそ、と回した視界の片隅で、答えるように上げられた手が見えた。
 それが次への道標のようで、時枝は小さく笑みをこぼした。



20140616

***

みえない細胞 三輪+米

それでも貴方の一部でも、何処かで生きていてくれたら、なんて。


*三輪くんと米屋くんが幼なじみ設定
*トリオン器官に夢を見過ぎた

 戦闘中、突然三輪の動きが鈍ったことに米屋が気付かない訳がなかった。揺れる銃口、狙いが定まっていないのが一目で分かる。
「………秀次?」
声を掛けてその襟首を掴み、そのまま下がる。
『どうしたの? 米屋くん』
「ちょっとなんか秀次の様子可笑しいんで…もし透とか章平が仕留められんなら、そっちで展開させてもらえますか」
『分かったわ』
こういう時、すんなり任務を優先してくれるのが、月見が優秀なオペレーターであることを示していると米屋は思った。
 さて、と三輪に視線を戻す。勿論、距離を取ったからと言ってトリオン兵に回す警戒くらいは残してある。どうしたものかな、と思った。戦闘中に三輪が可笑しくなるのは初めてのことではなかったが、これは今までのものとは毛色が違うようにも思えた。
 信じられないものを、三輪にとって喜ばしいものを、見るような。
 姉の死以降近界民を憎んで憚らない三輪が、トリオン兵を見て喜ぶなんてことがあるのだろうか。とんでもない新型が出てきて、信じられないという顔をするならまだしも。三輪の心に蔓延っている憎悪が暴走して、ボーダー隊員としての三輪秀次でいられなくなる瞬間、それなら今までにもあった。それが米屋の言う、可笑しくなった三輪、だ。
 けれどもそれも憎悪から来る故に喜楽の情からはかけ離れた表情であったし、少し言葉を掛けてやれば元の三輪秀次に戻っていた。それを諌めるのはいつも米屋の役目であったから、間違いはない。それが。
 それが、こんなにもぼんやりと驚愕し、悦喜に頬を染めながらも動揺するなんて。
「秀次、どうしたんだよ」
「陽介」
「なに」
震える指先がトリオン兵を指差す。奈良坂と古寺の攻撃から逃げ回るその小柄な姿は、今までに何度か見た量産型と何ら変わらないように見えた。
「あれは、姉さんだ」
息の仕方を忘れたような、そんな心地になった。

 三輪秀次の姉について、米屋陽介が語ることは少ない。それは意図的に少なくしているからだった。三輪のように復讐がどうこう言うつもりはなかったし、自分が言わなければどうにかなってしまう、なんていう人間ではないのは分かりきったことではあったが、それでも喪われたものに対する感傷が存在しない訳ではなかった。
 やさしい、ひとだった。
 陽介くん、と呼ぶ声は甘やかで、おなじくらいに甘やかな表情をしてみせる人だった。弟の友人であり何度も家に上がり込んでいた米屋にも優しくしてくれ、勉強も教えてくれ、弟をよろしくね、なんてこっそり頼まれたこともある。三時には手作りのお菓子を、何処かへ行けばお土産を、誕生日にはプレゼントを。そんなふうに優しさを与えてくれるその人に、米屋は憧れていた。
 だからこそ彼女が亡くなったあの日、慟哭する三輪の横で米屋は大きな喪失感に涙を流すことさえ出来なかった。ただ彼女とした内緒の約束、弟―――秀次を、よろしくね。その言葉だけがリフレインしていた。
 通夜はなく、葬儀も慌ただしいものだった。流れ作業のようなその儀式の中で、米屋は三輪の隣で、延々とステップを踏んでいた。たん、たん、決められた順番で地面を踏んでいくその動作は、三輪の姉から教わったものだった。どうしようもなくなったら、おまじないがあるからね。そう笑った、その人を忘れまいとするように。
 たん、たん。
 気の利いた別れの言葉も言えなかった、米屋にとってそれが彼女への弔辞だった。
 それから少し経って、生きている米屋は彼女の死を徐々に受け入れていった。受け入れる度、凍っていた涙腺が溶かされるように少しずつ涙が出た。こうして生きていくのだな、なんて他人事のように思っていた。

 息の仕方を確かめるように、ゆっくり、ゆっくり息を吐き出した。
「姉さんだ」
ぎょっとするほどに虚ろな瞳で三輪は呟く。ぶるぶると震える下唇があまりに似合わなくて、思わずその横面を叩(はた)いていた。
「…秀次」
「姉さんが、」
「秀次!」
尚も続ける唇を手で抑える。そんなこと、そんなこと。一瞬のうちに頭の中で展開した仮説を振り払う。そんなことが、あってたまるか。
 手が、震えていた。それは背筋を駆けずり回る悪寒からだった。
 三輪の口を押さえる手が、三輪の手によってゆっくりと外されていく。外されないように力を込める余裕など米屋にはなかった。
 手が、震えていた。それが米屋のそれとは違い、興奮から来るものだなんて、聞くまでもなく分かってしまう。
「姉さんは、トリオン器官を抜かれていた」
「…知ってる」
米屋もまた、その遺体を見たのだ。雨が視界を遮断する中、冷たくなっていく身体とそれに縋りつく三輪。胸にぽっかりあいた、赤黒い孔。そこには見えない器官があったのだと、知ったのはボーダーに入ってからだった。
「トリオン兵にはそういうトリオン器官が使われているらしい」
「それも知ってる」
「奪ったトリオン器官は保存され、こうして侵攻する時にトリオン兵の胸の中にあるトリオン供給機関に埋め込まれて使用される、と推測されている」
「秀次」
思わず呼んだ声はきついものになった。けれども謝ることはしない。これ以上、これ以上言わせてはいけない。警告がガンガンと頭の裏から殴ってくる。
「心臓の記憶の話を、聞いたことがあるか」
「秀次」
「人間の内臓には、内臓の細胞には、その持ち主であった人間の記憶が蓄積されるという話を、聞いたことがあるか」
「秀次、何が言いたい」
 やめてくれ、とは言えなかった。先ほどの悪寒に絡むように、米屋の中にも渇求が生まれてしまっていた。そうで、そうであれば、どんなに。その思いの薄暗さに気付いても、それから逃げられない。口の中がからから渇いていく。
 向こうで、トリオン兵が奇妙なステップを踏んでいた。たん、たん。その動きは米屋にも見覚えがある。
 どうしようもなくなったら、おまじないがあるからね。
 翻った黒髪が、見えた気がした。
 まだトリオン兵は踊っていた。奈良坂も古寺も月見も、苦戦しているようだった。早く戻らなければ、可笑しくなった三輪に引きずられて米屋まで可笑しくなってしまうなんてだめだ。チームに迷惑が掛かる。そう分かっているのに、軽快なステップから目が離せない。
「だから、あれは姉さんなんだ」
 嬉しそうな三輪の声だけが耳から紛れ込んで、心臓を、そしてその隣の見えない器官を、ぎゅっと握っていった。



20140626

***

裏表のない路 諏訪+モブ

 諏訪洸太郎少年は至って真面目な子供だった。授業をちゃんと聞き、ノートも綺麗に取り、宿題を忘れることもなく、成績も良く、悪さもせず、仕事の大変そうな母の家事を手伝い、夜遅くに帰って来る父の肩を揉み、年の離れた弟妹の世話を焼き、週に一回図書室に通うような、そんな模範的な子供だった。
 そんな自分が息苦しく感じたこともなかったし、だからと言って馬鹿真面目に生きているつもりもなく、時には友だちと羽目を外す程度のコミュニケーション能力も持っていた諏訪少年は、きっとこのまま生きていくのだろうと思っていた。それで良いと思っていたし、それなりにこうしている自分が幸せだった。
 ある秋の深まった日のこと、やたらとイチョウの黄色が鮮やかな目に焼き付いていた。
 帰路につく諏訪少年の前に立ちふさがったのは白くて大きな芋虫のような物体で、うなうなとのたくって近付いて来るそれが自分を捕まえようとしているのだと、賢い諏訪少年はすぐに理解した。したのだが、身体の方への命令は上手くいかなかった。ランドセルのくたびれた肩ベルトを握りしめ、ただ呆然とそれを見ていた。どうやら芋虫には手のような部分があるらしく、振りかぶられたそれは黄色のさんざめく背景に埋もれながらも光ってみせた。
 ぼんやりとそれを眺め綺麗だな、とさえ思っていた諏訪少年は突然後ろへと引っ張られた。さっきまでいた場所に鋭利な手が打ち込まれる。一瞬遅かったら死んでいた、既に麻痺している頭を上げると、男がいた。中年、と諏訪少年が思ったのはその腹が少々だらしなく出ていたからだった。
「走れるか」
男は問うた。諏訪少年は訳も分からずに頷いた。頷かないといけないような気がしていた。
「そうか」
男は頷くと、諏訪少年を背中に回した。
 走れ、と言われた言葉の意味が理解出来なくて、諏訪少年はそのまま突っ立っていた。芋虫が二撃目を繰り出す。よくもそんなお腹で避けられるものだ、と失礼なことを思いながら見つめていた。男が振り返る。何でまだいるんだ、と怒鳴られた。何でって言われても、と困ったように諏訪少年が眉根を下げると、男は諏訪少年の腕を掴んで走り出した。
 痛い、という悲鳴は聞き入れられなかった。ただひたすらに走って、イチョウの並木が終わるところまでやって来る。ぜえ、と苦しそうに息をした男の背中を、諏訪少年は心配そうに撫でてやった。
「君は、逃げなさい」
「でも、」
状況はいまいち理解出来はしないが、芋虫がこちらを狙っているのは間違いなさそうだ。徐々に脚が震えてくるのは、きっと逃げられなかったら死んでしまうことを頭が理解し始めたからだった。
「いいから」
ランドセル越しに背中を押してくる、その手に尚も渋ると、男はポケットに手を突っ込んだ。
 これ、と手渡されたのは煙草のケースだった。中には一本しか入っていない。
「おつかいしてきてくれ」
こんな時に何を言うんだと見上げる。見返してくる男の小さくてコガネムシみたいな瞳は、至って真剣なようだった。
「これと同じのを買ってきてくれ。俺はこの銘柄じゃないとだめなんだ」
「おじさん、」
「さあ、ほら、行った」
 煙草のケースを握りしめた諏訪少年の脚は、まるで魔除けの札でも持ったようにふるり、と動いた。たらた、と地を蹴る音がして、自分が走っていることを知る。
 後ろでずどん、と音がした。思わず振り返りそうになると、振り向くな、との怒号が飛んできた。人の怒られることなど殆どなかった諏訪少年の耳には、それがひどく恐ろしいものに聞こえて、振り返りかけた首が瞬時に前を向く。
「それで良い」
男が叫んだ。
「振り向くな、絶対に。絶対に後ろを振り向くな」
おつかい、たのんだぞ。
 諏訪少年は必死で走った。男の言葉に従って、何も考えずに。気付いたら家の近くまで来ていて、近所のおばさんに洸太郎くんおかえり、と笑った。それを見た瞬間、安堵が身体中を駆け巡り、その場で諏訪少年は気を失った。

 その日のことは誰に言わなかった。あの時の男がどうなったのか分からなかったし、通学するのに何度もその道を通ったけれども、小学校在学中にまたあの芋虫に会うこともなかった。男の預けた煙草は、今も諏訪少年の手元にあった。冷静になったら、小銭も持たせず何がおつかいだ、と思った。
 十年が経って、あの時のものの正体を知る機会があった。突如として目の前に切り開かれた路に、あの時少年だった諏訪が戸惑うことはなかった。あれは此処へ続くための伏線だったのだと、そうまで思った。
 十年が経つ間にその煙草は名前を変えてしまっていた。それでも街角の煙草屋のおばあちゃんにパッケージを見せると、同じものを出してくれる。
「…まっじい」
げほごほと何度かむせ込んだあとやっとのことで煙を吐き出せば、思わずと言ったように言葉が零れた。
「おっさんこんなのじゃなきゃだめって、したべろおかしいだろ」
 まずかった。この上なくまずかった。
 それでも我慢して吸い続けていたら、まずすぎて涙が出て来た。



20140630

***

恋は戦争 唐根

 すきです、と。
 頃合いだろうと思って言ったのは一緒に食事をしていた時だった。そこそこ良いレストランで一緒に、何度目かの食事をとっていた時のことである。個人的な付き合いを少しずつ増やしていって、スキンシップも最初の方は少しばかり驚かれたようだったが、嫌がられたりすることはなく。贈り物も受け取ってもらえたし、社交辞令的なものではあるかもしれないが、お返しを貰ったこともある。そろそろ、そろそろだろうと思っていた。下準備は済ませた、もうあとは言うだけだ、そう思っていた時。
「君とこうして過ごせることは楽しいと思いますよ」
話の流れは忘れてしまったが、その声の優しさだけは覚えている。
「こんなおじさんで良ければまた相手をしてくださいね」
それが妙に子供へと向けた言葉のようで可愛らしいなんて思ったのと、おじさんだなんて自分のことを言ってほしくない気持ちと、そもそも六歳しか違わないと言いたいのと、良ければなんて言わずとも勿論喜んでと返したいのと、楽しいと言われたのが嬉しいのと、その他諸々。
 すきです、と。
 気付いたら言葉が転がり落ちていた。あふれる思いに押しだされたような形になったその言葉に、思わず息を飲む。目の前で少し驚いたように僅かに開かれた唇が、何か意味のある言葉を紡ぐ前に、もう一度繰り返す。
「好きなんです」
「ええと…それは、ありがとうございます」
 何処か気の抜けた返答に、本当に分かっているのかという不安と、もしかしたら、という希望が綯い交ぜになった。
「あの。…上に部屋をとっている、という意味、なんですけれど」
「はぁ」
曖昧な返し。実際にそのレストランの上はホテルになっていて、その日は部屋を取ってあった。ただ単に誰かと食事をする時の癖のようなもので深い意味はなかったが、そう言ってしまえば最初からその気だったようにしか聞こえない。
「根付さん」
 こんなにも、自分の声に熱がこもることがあるのか、と驚いた。
 それから先は勿体ないことに、とても勿体ないことにあまり良く覚えていない。気付いたら取っておいた部屋のベッドの上で、シャワーを浴びた彼と自分が向き合って座っていて、バスローブを着たその人はいつもと同じような表情をしていて。
「本当に、良いんですか」
手を伸ばす。
「どうぞ」
 うっすらとした笑みが艶やかにさえ思えて、ああこれが惚れた弱みというものか、とさえ思った。

 そんなことがあってから今までただ食事をするだけだったものが、食事が終わってからは取ってある部屋で二人きり、夜を過ごすという図式に変わった。
 都合の悪い時は兎も角、約束を断られたりすることはなかった。行為中も苦しそうにすることはあっても拒否されたり、抵抗されたりすることもない。贈り物も今まで通り受け取ってもらえるし、それにお返しをくれることだってある。仕事中でも、人目につかないところでは手を繋ぐくらいはしてくれる。
 そう一つひとつ並べ立てて、これはもう付き合っていると言って良いのではないか、と一人思う。
 しかしながら、とバスルームの扉のあく音に顔を上げる。
「お待たせしました」
いつもと同じように、底の見えないやわらかな笑み。
 根付さん、と呼ぶと、何ですか、唐沢さん、と帰ってきた。
「私たち、恋人ということで良いんですよね?」
否定の言葉が返って来るなど思ってもいなかったし、返させる気もなかったし、ついでに言えばこの人が否定を返してくることなどないとも思っていたが―――それでも。声は震えていなかっただろうか、余裕めいた笑みを浮かべられていただろうか、けれども傲慢だと面倒だと感じさせはしなかっただろうか。その言葉が彼に浸透していく間に、ばくばくと心臓が鳴っているのがバレないように。
「そうですねえ」
返って来たのはやはり、そんな気の抜けたような言葉だった。
「世間の価値観に照らし合わせるとそうなんじゃないでしょうか」
 その手を掴んで、そのままベッドへと倒れ込む。びっくりするじゃないですか、と困ったように呟いたその人を、そのまま抱き締めた。
「根付さん」
「はい」
「栄蔵さん」
「二回も呼ばなくても聞こえてますよ。何でしょう」
克己さん、と悪戯を思いついた子供のように呼び返して来るこれが、確信犯であるとは考えにくくて、もう一度だけ抱き締めてから腕の力を緩める。
「今は、」
「はい」
「今は、それで充分ですけど、」
「はい?」
ぐっと顔を近付ける。唇の触れ合う、そんな距離。
「いつか、貴方の口から、私でなくてはいけない、くらいのこと。言わせてみせますから」
 また、気の抜けた返事をするつもりだったのだろう、僅かに開いた唇が音を発する前に。その返事も含めてまるごと、押し付けた唇で飲み込んだ。



20140802

***

恋は洗脳 唐根

*上の続き

 洗脳のようだな、とその言葉の雨を一身に受け止めながら根付は思っていた。勿論、六歳年下であるこの男―――唐沢にそんな意図はないのだろう。あったとしても、絆されてくれたら、その程度で。だって時折余裕のなさそうな、そう、迷子になった子供のような顔をしてみせる彼に、そんな目論見が思いつけるとは到底思えない。勿論、その仕草までが演技でなければ、の話ではあるが。
 しかしスポークスマンであるだけあって、根付とて自分の人を見る目は確かだと思っている。唐沢は誠実な人間だ。ただ少し胡散臭いだけで。
 そんなことを思いながらいつものように食事をして、その上にとってあるホテルの一室へと連れ立って、お互いシャワーを浴びてベッドの上で向き合って。嬉しそうに子供みたいな顔をする唐沢を眺めてから、ぽつり。
「どうして、私なんですか」
伸ばされた手が行き場を失ったように空中で止まった。
「あなた、他にもっと…というか引く手あまたでしょう」
 向き合った表情からは困惑が見て取れた。また何か余計なことを考えているのだろう、と思う。何かそう、気になるような行動を取ってしまったのか、とか。そんなことを。
 この組織に入ってからというもの、自分のリアクションだとかそういう感情に起因するものの方向が、すべて子供たち、ひいてはこの組織へと限定されている自覚はあった。元々起伏が激しい方ではなかったので、ただそれが極端になっただけの話だ。それはこうして向き合っている時も、恐らく触れ合っている時でさえ変わらないのだろう。
 だから、唐沢はこちらの行動一つひとつに深く考えることをする。時折、本当に時折可哀想だろうかと思うこともあるが、別段苦情が出ている訳でもないので放っておいていた。
「…どうして、そんなことを言うです」
いつもは歳の割に落ち着いている瞳が、縋るように揺れている。
「何か、してしまったのでしょうか」
「いいえ、特に何も。ただ不思議に思っただけですよ」
君のことを良いなと思っている方はたくさんいらっしゃるのではないですか、と続ければ宙を彷徨っていた手が根付の腕を掴んだ。
「私、は………」
 ぐい、と引き寄せられる。
 目と目が合う。そんなラインとうに越した、唇さえ触れ合いそうな、そんな距離。
「私は…私は、根付さんが、良いんです。根付さんでなくては、いけないんです」
まるで祈りみたいだな、とそう思った。それくらいにその声は切実で、ひどく意地の悪い質問をしたと反省する。どうして、なんて。それが恋愛である以上、真面な答えが返って来はしないことくらい、根付とて分かっているのに。
 だからそこでその話題を打ち切ることにした。
「貴方の趣味は良く分かりません」
首を振る。
「理解していただけなくても、良いということだけ分かってくだされば充分です」
「それは勿論、最悪を定義した場合に比べたら=Aですよね?」
「まさか。この上なく最上に=Aですよ」
 少しばかり力を込められた腕に抵抗することなく、そのままベッドへと沈む。
「栄蔵さん」
「なんですか、克己さん」
「すきです」
洗脳のようだな、と思った。生ぬるい言葉の雨が、ゆるく身体の表面をなぞっていく。
 けれどもきっと、一番にその洗脳の餌食になっているのは、この洪水のような好意が嬉しいなどと感じている根付自身なのだ。



20140802

***

こういうはじまりもアリかナシかで言ったらアリですから。 諏訪嵐 R18

 俺だって疲れはするんですよ、と偶然一緒になった仮眠室で泣かれたのはツイてなかったと言うしかない。簡易ベッドに腰掛けたまま、煙草に火を付ける暇もなくくわえているだけという間抜けな格好で、年下のその男の背中をぽんぽんと撫ぜてやっていた。正直面倒見が良すぎたとは思うが、それでもいつも集団の真ん中にいて市民の前に出て、きらきらと笑顔を振りまくこの男の泣き顔なんてひどく珍しくて、無下するのも勿体ないなんて思った訳で。
 でもそんなことを思ってもやはり、たとえ泣くことがそれなりにストレスの発散になるとは分かっていても、同じ内容が三周目に入った辺りではそろそろ、と思うのが普通だ。
 そういう訳なので。
「う、わ!?」
ぐじぐじとこちらのシャツに鼻水をこすりつける肩を掴んで、そのままぼすん、簡易ベッドへと押し付ける。
「おまえが疲れてんのも分かったけど、」
おまえ、此処に寝に来たんだろ、と先輩面して言うはずだった言葉は途中で止まった。
 うっかり割り入れる形になった膝。
その膝頭にゆるりとあたるのは。
「おまえ…」
呆れたように見遣った先では首ごと逸らされた。
「なんていうか、その。疲れてるからこその生理現象といいますか」
「ぬいてやろーか?」
 は? と言おうとしたのだろう。ぐりんと回って戻った首。口がまあるく開いた状態で、同じように目もまあるく開いてこちらを見遣る嵐山に少し笑う。
「まさかそういう経験がない訳じゃないだろ? ぬきっこくらい」
「はい…?」
「オイ、マジかよ」
もう一度呆れた顔をしてみせてから、火すらつけられていなかった煙草をゴミ箱へと放り込む。可哀想に、来世はちゃんと吸ってやるからな。そうしてさっき押し倒した身体を引き起こすと、ベッドの縁に座らせ壁へと寄りかからせる。狭い簡易ベッドもこういう時は楽そうだな、なんてどうでも良いことを思った。
「諏訪さん?」
涙は止まっていたが、それでもその目は赤かった。なんだかいけないことをしてるみたいだな、と思いながらそのベルトに手を掛ける。
 がちゃがちゃとそれが外されていくさまを嵐山はお子様のように不思議そうに見ていたが、それがファスナーを下ろす段階になるとやっと慌て始めた。
「ちょ、ちょっと諏訪さん!?」
「なんだよ、ぬいてやるってんだろ」
「だ、え、でもっ」
止(と)めるつもりだったのか添えられた手には力が入っていなかった。のでそのまま続行。シックな黒の下着が覗いて、イケメンはこんなところまでイケメンなのかと思った。
 その上からする、と辿ってやる。
「う、ぁ」
かあ、と赤く染まる頬。本当に慣れてないんだな、なんて思いながら邪魔な布を退けてしまう。
 あまりに初々しい反応に感化されたとか、もうそういうので良い。だってオレだって男だ、そういう部分については正直単純明快に出来ている…と思う。ので、まだやわいそれを、ぱくり、とくわえた。
「―――ッ!?!?」
声にならない悲鳴とはこのことを言うのだろう、なんて見上げる。狭苦しい中舌を動かしてやれば、きもちよかったのか、思わずと言ったように嵐山は自分の口を手で覆った。その衝動で背中が壁に当たったようだった。本当、狭くて良かったなんて思うのは初めてだ。此処で壁との距離が遠くて、なんてことになったら笑ってしまうし、笑ってしまったら恐らく怒られるか拗ねられるかの二択だ。正直それはめんどくさい。
「声抑えんのは別にいーけど、唇とか指とか噛んだりすんなよ」
おまえ広報なんだからよ、と続けたら、そこでしゃべらないでください! と悲鳴じみた懇願が飛んできた。
 それもそうだな、と思う反面ちょっとばかりの悪戯心も湧いてきて、もごもごと聞き取りにくい言葉を幾つか発する。頬の赤みは更に広がって、その眉根が困ったように下げられた。
「ほ、ほんとに、ともだち同士で…こんなこと、」
どうやら話題を逸らすことを思いついたらしい。けれどもそれは墓穴だと思うんだがなあ、とそのままの状態で応える。
「あーしねえけど」
「はぁ!?」
「あ、ぬきっこってのはわりとやる方だと思うけど。こう、くわえたりとかは正直しねえと思う」
「はああ!?」
 箱入りのお坊ちゃんもようやくこの異常さに気付いたらしい。だが気付いたところで気持ちよさには抗えないのが人間だ。そう思ってにいっと笑ってみせる。
「た、たのしそう、ですね…」
もう抵抗を諦める方が得策と判断したのか、それとも直前まで泣き喚いていた所為で正常な思考力が失われているのか。正直どっちでも良かった、どっちでも同じなので。
「ヒーローの人間的な部分見てるみたいでちょっとお得感ある」
「貴方だって、充分、ヒーロー…やって、るじゃないです、かっ」
双方くぐもった声でよくも会話が続いたもんだ。口元をおさえてはふはふと息をする嵐山を、こうして股ぐらの辺りから見上げるのもなかなか、なんて思う。
 思ってから、自分の身体の変化に気付くのにそうタイムラグはなかった。
「あらしやま」
口を離してベッドに膝をつく。手早くベルトを緩めると、未だ口を覆う役割をしていた右手をゆるり、と導いた。
「さわって」
「な、」
同じものがあるのだ、いくら嵐山の思考が通常よりもにぶっているとしても、こっちの意図はすぐに分かるだろう。
「なんで、諏訪さん」
「だってなんかおまえの顔見てたらなんか」
なんか二回言ったな、と思うけれどもそんな微妙であやふやなものなんだから仕方ない。
「う、わ。諏訪さん男でも良いんですか…」
「言い訳がましいかもしんねーけど多分おまえだからだからこれ。責任とれよイケメン」
「責任って。そもそも諏訪さんがですねぇ!」
「うるせーな黙んねーとキスすんぞ」
さっきまで、おまえのくわえてた口で。そう凄んでみせると動きが面白いようにぴたりと止まる。人にくわえさせといてその反応、とは思わなくもないけれども、そもそも勝手にやらかしたのはこちらなので黙っておく。
「ほら、自分でやったことくらいあんだろ」
「…うう」
「それと同じだよ、自分のいいとこオレにもしてくれればいーから」
 そこからはもう特筆すべきことはない。ただ、耐えられないとばかりに押し付けられた額が、鼻に掛かる呻きが、妙に煽られているように感じた。先にやり始めた意地のようなもので、嵐山が達するのを見届けるまで我慢した。二人分の白濁は勿論一人分の掌に収まるはずがなく、嵐山は嵐山で気が利く訳でもないので、結局ズボンは少し汚れた。

 部屋の換気扇を強にして、狭い簡易ベッドに寝そべる。二人揃って、なんてスペースは勿論ないので別々ではあるが、そもそも野郎同士で同衾なんていうのは笑えないので寧ろこんなスペースで良かったとまで思う。笑えない地点などとうに通りすぎてしまっている、というツッコミならお断りだ。
「嵐山、おまえさぁ」
「なん、ですか」
「女とか抱いたことあんの?」
ぐ、とその顔に苦味が差したのがその距離でも分かった。ああ、そういうこと、と思う。
「そんな暇、あると、」
「へーえ」
「なんですかもう、どうせ童貞ですよ…」
「そう卑屈になんなって」
どうせ今、オレはにやにや笑っているんだろうな、と思った。その通りのようで、嵐山は拗ねたように布団を引き上げる。それが子供のようで、そういえばこいつはまだ十九歳だったなあ、なんて思う。
 あの表情やら何やらを知っているのが自分だけ、なんていう気持ちはきっと優越だろう。
「なー嵐山」
「…なんですか…眠いんですけど…」
「次はさいごまでしねえ?」
勿論オレがおまえにいれる方な、と続けるとふざけないでください、と返ってきた。その声に疲れは含まれていても怒りは見当たらないようなので、笑いながら次の言葉を発す。
「あーじゃあ、付き合う?」
「はああ?」
がば、と布団から顔が出て来る。
「諏訪さんはセックス目的で付き合うんですか!?」
「えー…別に、そういう訳じゃねえけど」
どう言ったら良いのか、と頬を掻く。嵐山は次の言葉を待っているのか、掛け布団のふちを握りしめてこちらを凝視していた。
「だってオレ、おまえとヤりたいし。でもセフレになりてー訳でもねぇし。じゃあ付き合うのが妥当なんじゃねーの?」
「意味が分かりませんって! だってそもそも今日のだって、その、流れというか、成り行きというか…」
どうやら流された自覚はあるらしい。
「そ、それに、俺は別に諏訪さんのこと、すきな訳じゃ」
「えー俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃないですけどそういう問題じゃないでしょう!」
 これだから真面目ちゃんは、と首を振る。
「じゃあオレ、これからおまえ口説き落とせば良い訳?」
まだ何か言おうとしていたらしい唇が、行き場を失った息だけを吐いた。
「おまえがそれで落ちてくれるってんなら、年甲斐もなく頑張ってみるかもしんねーけど?」
にっと笑ってから最後にじゃあおやすみーと言って、今度はこっちが布団を被る。
 遮られた視界で嵐山がどんな顔をしていたかなんて想像に難くないので、とりあえず次回からおしてみるか、と思いながら眠りについた。



20140709

***

くらやみにとけるような君のほんとうをみせて。


その四文字の優しさを 奈良時

 ただいま、と告げる。空虚な空間にそんなことをいうのはあまりにも自分の首を絞める行為で、以前ならば絶対にしなかったと言うのに。
「おかえりなさい」
台所兼廊下の奥から、ひょこり、と覗く頭。
「ただいま、時枝」
「お疲れ様です」
その声に奈良坂は頬が緩むのを感じた。
 今日はお邪魔しています、と入っていたメールに気付いたのはついさっき、防衛任務が終わったあとのことだった。合鍵は恋人という関係になって暫くした時に渡してあった。こういうことは初めてではないし、広報部隊という特殊性故に嵐山隊の深夜の防衛任務は免除されやすい。そうなると、必然的に時枝が奈良坂の住居へとやって来ることの方が多くなる訳で。
 靴を脱いで軽く手を伸ばしてやれば、受け止めるように向こう側からも手が伸ばされる。
「奈良坂せんぱ、」
う、わ、と小さな悲鳴と共にどすん、とその身体が後ろに倒れた。
「先輩、ちょっと、大丈夫ですか」
「んー…」
「眠いんですか?」
「ああ…」
「じゃあとりあえず布団に行きましょうよ。玄関で寝たら風邪ひきますって」
「そう、だな…」
目を開いているのも限界だった。重い瞼には抗えず、その腕に沈み込む。
 もう、仕方ないですね。優しげな声を最後に、奈良坂は夢も見ない昏がりへとおちていった。



ハードワークが祟って帰宅後玄関で寝落ちする奈良坂
https://shindanmaker.com/450823

***

キスひとつでこんなにも 奈良時

 ちゅ、と可愛らしいリップ音に奈良坂は目を丸くした。
「…何、驚いてるんですか」
目の前には時枝。僅かに髪の合間から覗く耳が、真っ赤に染まっているのが見える。
「自分がやれって言ったくせに」
むう、と頬を少しばかり膨らませてみるその仕草に、ああ可愛いな、なんて感想を抱いた。
「悪い」
微笑んでその頬を撫ぜてやる。
「本当にしてくれるなんて思わなかったんだ」
「そうですか」
「でも嬉しかった、だから拗ねるな」
「拗ねてないです」
 まだ膨らんだままの頬にもう一度笑ってから、そのまま腕を引いてベッドに腰掛ける。
「う、わ」
膝の上に倒れこむ形になったその腰を捕まえれば、少しだけ潜まる眉。
「でも、俺はこっちでしてもらった方がもっと嬉しい」
「…奈良坂先輩ってきれいなのに、なんていうかちょっと時々、オヤジ臭くなりますよね」
「ときえだ、」
言い含めるように名を呼ぶと、ため息ひとつ。
 なんだかんだ言ってこの恋人は、奈良坂にとても甘いのだ。



診断メーカー(リンク切れ)

***

くらいところであいましょう 奈良時

 界境防衛機構の本部、薄暗い廊下。ひと気のないそこで、時枝は誰かに抱き締められていた。いや、誰か、なんていうのは他人行儀すぎる。人の首筋に背後から顔を埋めるその人のことを、時枝は知っていた。
 奈良坂透。狙撃手のNo.2であるその人の名を知らない人間なんて、C級はともかく正隊員にはいないだろう。
 どうしてこんなことになっているのか、時枝はもう考えることをやめていた。抱き締められたり、キスをされたり、その他諸々ぎりぎりのこと。それらすべてが人目につかない場所でのことなのは、一応の配慮があるのかないのか。
 そんなことを考えていた時枝の首筋でふいに唇が意思を持って動いた。
「ときえだ、」
呼ばれた名前が背筋を伝播していって、ぞくり、とする。
「な、ん…ですか」
震えた声は悟られたらしかった。くつくと喉の鳴る音と共に、うつくしい指が這い上がってくる。
 いつも驚くほどの精密な射撃を繰り出す、うつくしい指。
 それが時枝の唇をつうっと撫ぜていく。
「…その表情、」
「はい?」
「他の奴に見せたら許さないから」
 きゅん、と胸の辺りで音がした。
「…って、奈良坂先輩、オレの顔見えてないじゃないですか」
「予想くらいつく」
「予想って」
「じゃあ答え合わせしてみるか?」
「しなくて良いです…」
また首筋で笑い始めた振動にどきどきと煩い心臓。
 今自分がどんな顔をしているかなんて、見られたくなかった。



https://shindanmaker.com/121169

***

たとえどんな君でも 奈良時

 奈良坂はゆっくりと瞼を押し上げた。
「あ、奈良坂先輩起きました?」
声の方を見遣ると、時枝がこちらを見ていた。その手には文庫本。
「悪い、待たせたか」
「いえ、その前にオレも待たせたので、おあいこです」
 ボーダー本部の休憩室、そこで待ち合わせをしよう、と言ったのは奈良坂の方だった。自主訓練も終わって其処へ来た時、まだ時枝は広報の仕事から帰って来ておらず、それを待つ間にうたた寝でもしようと思っていたら思いの外がっつり寝ていたらしい。
 じっと自分の顔を見つめる恋人を不思議に思ったのか、何ですか、と時枝が尋ねた。やわらかいその口調に、覚醒を待つ奈良坂はゆるゆると零す。
「…お前と、家族になる夢を見た」
「家族?」
「ああ、兄弟だった」
 何処か似た雰囲気と髪型の二人を指して、兄弟みたいだと言う友人らがいない訳ではなかったけれど。そういうものではなく、その夢では本当に、生まれた時からの兄弟として、奈良坂と時枝は存在していた。
「兄弟では困りますね」
家族、だけならそれでも良いような気がしますけど、と涼しい顔で付け足す少年を見つめる。
「それ、は」
「はい」
「俺とずっと一緒にいるという意思表示か」
「…ええ、まあ」
少しばかり頬に赤みが差したのは、彼が別段深く考えずに先ほどの言葉を発したからだろう。
「でも、どうして兄弟ではだめなんだ」
「どうしてって、」
まだまろい視線を向けると、ぐ、と詰まったようにまた頬の赤みが増える。
「兄弟じゃあ、その…口に出せないようなこと、出来ないでしょう」
抑えられた声は、一応此処が休憩室だと慮ってのことだろう。
 それに意地悪く笑って、少しだけ目を細めて見せる。
「オレは兄弟でも構わないけどな」
「そうですか」
「例え兄弟だったとしても、きっとお前を好きになる」
驚いたように、その眠たげな瞼が瞬(しばたた)かれるのを見つめた。
「先輩、まだ寝惚けてるんですか」
「そうかもな」
「そういうロマンチックなこと、言うのやめてくださいよね」
「惚れ直すからか?」
 よいしょ、と身を起こすと赤くなった顔がもっと良く見える。
「…もう、そういうことで良いです」
 ぱたん、と文庫本が閉じられたのが合図だったように、引き寄せられるようにそのまま接吻けを落とした。



きみと家族になる夢をみた。
https://shindanmaker.com/350582

20140709

***

20200222