あなたには祈らない 

 菊地原士郎には双子の妹がいる。いや、正確にはいた、だ。
 七歳の夏、彼女は唐突に士郎の目の前から消えてしまったのだ。
 消えてしまった、だなんて言うと近界民にさらわれたのかと思われるが、そうではないことをもう士郎も知っている。なんてことはない、片田舎で起こった、ただの誘拐事件だった。別段うつくしかった訳でもない妹だったが(だって当時まだ子供だったこともあって、士郎と彼女の顔のつくりは殆ど一緒だったのだ)(残念ながら士郎は自分の顔を鏡で見ても、うつくしいと思ったことはない)、不幸にも犯人の目にとまってしまったらしい。犯人は当時三十六歳の男だった。脂の乗ったでっぷりとしたお腹に、禿げた頭頂部。これまた絵に書いたような様相に子供ながらうわあ、と引いたのを覚えている。
 ニュースは瞬く間にその小さな町を駆けずり回り、彼女が発見された日の夕方には、事件のことを知らない人間はいなくなっていた。小児性愛の中年男、最近小学校で見られる不審者の特徴と一致、かわいらしい少女に迫った魔の手、使われた薬品の入手経路、元小学校教員、日常を壊した悪夢、訳もわからずいたずらされた少女、少女を発見した双子の弟の心境は―――。
 そう、彼女を見つけたのは士郎だった。
 自らのサイドエフェクト(勿論その時はそれがそんなものだなんて知る由もなかったが)、それで妹の声を一人、探して彷徨っていた。警察はアテにならないと思ったのは、もう三日も彼女の姿を見ていないからだ。
 いつも、一緒だったのに。正直これと言って彼女のことを好きだとか嫌いだとか思ったことはなかったが、それでも生まれた時から片時も離れたことのない存在がいないこの三日間というのは、幼い士郎を動かすには充分すぎるほどの動機だった。
 そうして小さな町中を歩きまわって夕方、やっと、聞き覚えのある音を聞いた。嬉しくなってその家の扉をノックする。出てきたのはニュースになる前の男の顔で、それは今思うと画面の中のそれよりも一回り小さく見えた。
「×××を迎えに来ました」
 ひっと、男が息を飲んだ理由が分からなかった。妹が帰って来ないのは大人たちが言うこと曰く、悪いやつに捕まっているからだったのだけれども、士郎にとって妹はひどく負けん気が強く、ふらふらとしている士郎とは対照的に悪を倒していける子供だったのだ。そんな彼女が悪いやつに捕まっているなんて想像がつかなく、彼女はきっとかくれんぼをしているだけなのだと思っていた。帰りたくない、と駄々をこねて。そういう我が侭を、何回も聞いてきたのだから。
 それに、対面して顔を見たからかもしれないが、男がそんな悪いことを、しかもあの妹を捕まえておいておけるほどのことを、出来るような人間には見えなかった。しかし、現実は彼のあまったるい思考とはうらはらにひどいものであって、男は確かに悪いやつだったのだ。
 男はどうぞ、と士郎を家に招き入れた。靴を脱いで揃えて、お邪魔します、と一歩踏み入れたところで、後頭部に痛みを感じて意識は途切れた。
 目覚めた時にはすべてが終わっていて、白い天井の部屋で士郎は家族に囲まれていた。士郎が目を開けたことに気付くと、まず母親がわっと泣き出して、父親もまた何も言わずに士郎を抱き締めた。×××は、と最初に発した声はそれだったと思う。すると母親はもっとひどく泣き始め、父親の抱擁の力も強まって、幼い士郎はそれだけで理解してしまった。不幸にも。
 ああ、と思った。ああ、もう、彼女はいないのだ。

 それから噂の蔓延る町にはもういられなくなり、引っ越した先は三門市だった。新築のマンションの一角で、母親は毎日手を合わせる。特にどの宗教に属しているとかはないはずだったが、毎日替えられる花と日持ちのするお菓子に向かって、手を合わせる。写真を置かないのは生き残った士郎に対する気遣いなのかもしれなかった。
 父親も時々、そこに手を合わせているのを見る。二人の姿を見ていると、まるで祈りのようだな、と思った。小さい頃、彼女に対して女王様みたいだと言ったことがある。彼女はその時笑って、私はもっとえらいのよ、と言った。本当にその通りだったな、と思う。だってまるで。
 神様みたいだ。
 けれども士郎が彼らと同じように、そこに手を合わせることはしない。何故なら彼女が神ではないことを知っているからだ。
 彼女が士郎の目の前から消えてしまってからもう十年近くが経つのだけれど、それでも今もなお、彼女は士郎の双子の妹、それ以外にはなりえないのだ。

***

神は死んだ 

 菊地原士郎には妹がいた。死んでしまった彼女のことを、士郎は今もはっきり覚えている。その目鼻立ちから声の調子、ぴっと伸びた背筋、長めの髪だけが妙に野暮ったさを出していたなあ、というのは大きくなったが故の感想だったけれど。
 今もそうであるのだが、彼女は士郎の世界を支配していた。それを幼い士郎は女王様だと言ったが、今思えばそれは神の所業かと紛うほどの支配ぶりだった。勿論、ひどく暴力的であったとか、彼女が士郎を精神的に虐げていただとかはないのだが、それでも士郎の世界の頂点に君臨するのは彼の双子の妹だった。
「しろう」
幼子特有の高さで、けれども不快にはならない声で、何をするにも彼女は士郎を呼んだ。それが時折ひどく面倒に感じることはあったが、最終的にいつだってはいはい、と返事をしていた。
 続く言葉はくるくると廻(めぐ)る季節のようで、彼女は士郎にいろいろな表情を見せた。彼女が行き過ぎた時には士郎が小さく注意をして、それで気付いた彼女がごめん、と謝って済んでいた。だから士郎には喧嘩をしたという記憶がない。
 仲が良かった方だと思う。
 方だと思う、としか言えないのは、彼女がいた時分にそういうことを考えたことがなかったからだ。ただ生まれてからずっと、片時も離れずにいた存在について、そういうことを考えることは今更過ぎたのかもしれない。士郎にとって彼女は空気とかそういうものと同義だった。いるのが、あるのが、当たり前。
 だから、十年近く前のあの夏の日、士郎の前から颯爽といなくなってしまった彼女についてうっかり考えることをしてしまうと、今でも士郎は夢を見るのだ。

 みんみんと蝉の声が煩かった。
 妹の声を探して手当たり次第町をぶらぶら、士郎は歩き回っていた。朝はいつものように学校へ向かった。菊地原家は共働きで、こんな状況だと言うのに父も母も仕事に出ざるを得ないようだった。まさか幼い息子が学校をさぼって妹を探しに行っているとはつゆにも思わないだろう、ランドセルを背負ったまま、××、どこにいるの、と彷徨う。
 そうしてとある家の中から、しろう、という妹の声を聞き、扉をノックする。男が出てきて招き入れられて、後頭部に鈍痛を感じてブラックアウト。ここまでが現実の記憶と一緒。
 驚いたことに夢はいつもその先までをみせたがる。
 昏倒した士郎を引きずって男はリビングの入る。窓という窓がダンボールやガムテープで目張りされた、秘密基地のように暗い部屋。その中央に手と脚それぞれに手錠を掛けられた妹が転がっている。口は布で縛られているらしい。豆球のぼんやりとした光に投げ出されるその身体は疲れきっているようだった。
 男が何か言う。するとその頭がゆっくりと持ち上がった、男が玩具のように持っている士郎へと行き着く。その瞬間、彼女の目がかっと開いて、塞がれている口で何やら叫んだ。
 激昂、というのが正しいだろう。
 どうして士郎の姿を見て彼女が怒るのか、正直士郎には分からなかったが、あれでも兄妹の情というものは彼女にもあったのだろう、と思って片付ける。どんどん声を荒げる彼女に、口元の布がずれていく。ああなんだ、緩かったのか、そう思うと同時に、彼女の声が耳に飛び込んで来る。
 ころしてやる。
 その言葉を聞いた瞬間、男が士郎を取り落とした。やめろよ痛いだろ、そんなことを思いながら男が彼女に近付いていくのを見守る。まるい手がその細い首に伸びて、本能のままに抵抗をする身体を抑えこんで。それだけ。

 あの日、士郎が彼女の居場所を突き止めなければ、男は彼女を殺さなかったかもしれない。
 父も母もそのことで士郎を責めることも、何か言いたげに見ることもせず、ただ生き残ったことを喜んでくれたものだが、事件後引っ越しの準備が整うまでの間、噂の蔓延する町で聞こえた言葉の多くが士郎に突き刺さっていた。
 士郎の耳にはいろんな話が入って来て、もうどれが本当なのかは分からなかった。けれども正直、どれが本当で嘘でも良かった。
 ただ、士郎の世界の頂点に君臨していた彼女は、もう、いない。それだけは紛れも無く本当だったのだから。

***

不在証明 

 爽やかな朝だった。
 なんの夢も見ない、ひどく安定した眠りだった。人よりものが聞こえてしまう士郎にとって、そういった眠りはとても有り難い。だがしかし、起き抜けの士郎は妙にしっくり来ない気分を抱えていた。
 あの夢がみたかったのだろうか、士郎は自問する。答えなどなくてよかった。問うのが自分なら答えるのも自分だ、それならばそんな手間は省くべきだ。
 士郎、と呼ぶ声がする。階下にいる母親の声だ。そろそろ起きなさい、それは通常の声よりも少しだけ大きい程度の声。そう言えば士郎の耳が人より良く聞こえると気付いた時、彼女はあっけらかんと、あら、じゃあ朝起こす時大きな声を出さなくても大丈夫ね、なんて言ってみせたなあ、と思い出す。強い母親だ、と思う。強くならなくてはならなかったのかもしれない、と思う。
 妹を失ってから、その妹が神になり損なった日から、菊地原家は強くあろうとしていた。それが出来る家族だった。妹を失ったことは不幸だとは思うが、強くあろうとし、それが出来たことは不幸だったとは思わない。
 朝食で言葉少なに会話をし、いつもどおり備えられるものを見遣ってから家を出る。今日はボーダーに寄るの? 寄るよ。じゃあ遅くなるのかしら、ご飯はいる? 取っておいてくれると助かる。大変そうだな、士郎。大変だよ。無理はするなよ。うん。普通の家族、一人欠けても菊地原家は菊地原家だった。菊地原士郎は菊地原士郎でしかなかった。もういない、菊地原×××にはなれなかった。
 靴を履いて鞄を掴んで、いってきます、いってらっしゃい、変わらない挨拶を交わして。
 通学路を数歩踏み出し、今日の空を見る。
「×××」
名を呼ぶ。晴れ渡る空に、それは吸い込まれていく。かえってこない。
「×××」
 答えがないことが、何よりもの彼女がこの世界にいない証なのだ。



20140709
20160328

***

MERRY-GO-ROUND 太刀川・堤・諏訪・風間・林藤

シーンA:大学にて

 太刀川慶は頭を抱えていた。
 原因は目の前のレポートである。
「堤ィ。もうおれこれ諦めてもいい?」
勿論冗談だけれども。降ってきたのは案の定冷たい視線だった。こんなに優しそうな顔をしてこんなに冷たい視線を放つことができるのだから、本当に堤はすごいなあ、とよく分からないところで感心してしまう。
「留年すんよ」
「したら今以上に面倒みてくれる?」
「ンなわけないだろ。普通に見捨てる」
「進級したら?」
「今と同じくらいには面倒みてやる」
その言葉に太刀川は笑った。
 堤ならば絶対にそうするのだろうと、そう思ったから笑った。



シーンB:大学の図書館にて

 堤大地はため息を吐いた。
 原因は先程の友人の発言である。もしも、もしも本当に太刀川が留年してしまうようなことがあったら。見捨てるとさっきは言ったが、そもそも今こんなにも太刀川が留年の危機に晒されているのはボーダーが大変だからであって、いや勿論本人の頭のつくりもあるだろうが、それをよく知っている堤は友人として、彼を手助けするべきなのではないか。去年使った資料を探してやって、この教授はこういうレポートの出し方の方が良い、とかアドバイスをしてやって、それから―――とそこまで思ってはた、と止まる。
 それは、自分が諏訪にして欲しかったことの反芻だ。
「ああ、だめだ」
首を振る。
 このままもしも本当に太刀川が留年するのなら、それで一学年堤と離れてしまうのならば、もうこれ以上、本当にさっき言ったとおり普通に見捨てようと、心にかたく誓った。



シーンC:居酒屋にて

 風間蒼也は酒を飲んでいた。
 原因―――というのは特にこれと言ってなかったが、街をぶらついていたら偶然にも林藤と会い、今からフネに乗るみたいな顔しやがって、と言われたからだった。勿論フネというのは遠征艇のことであり外部には遠征のことは漏らしてはいけないためそんな言葉遊びのような言い方になったのだろうが、つまるところ今から近界民と戦うかもしれない場所に赴くような顔―――恐らくもっとはっきり言わせれば今にも人を殺しそうな顔、をしていたのだろう。奢ってやるよ、という林藤にじゃあお言葉に甘えて、と入った居酒屋はちゃんとした個室で、何処かから話が漏れる可能性もなさそうだった。
 「そいつに言う気がないんだったら結局見守るしかねえんじゃねえの」
風間によりところどころぼかした話を聞き終わった林藤の第一声はそれだった。
「そういうものでしょうか」
「そいつが行動起こす気があるなら別のもあるだろうけどさ、ないんだから見守るしか思いつかねえわ」
「ですよね」
「でもまー、見守るって、別に何にもしねえってことじゃあねえとも思うけどな」
「………とは?」
「ンなもんお前、」
にっと林藤は笑う。
「状況が動いて相手が傷付いて自分のところへおちてくるまでひっそり一番いいポジションとっといて、頃合い見てやさしくしてハマらせんだよ」
「………汚いですね」
「なんもしねえよりマシだろ」
「…そうかもしれません」
頷いて風間はグラスを干して、メニューに目をやった。
 林藤のそれが警告であることを、風間はちゃんと分かっていた。



20160803

***

仄暗い腕 三輪米

 米屋陽介の記憶の始まりは暗い押入れの中である。別に、そこに入りっぱなしだった訳ではないが、それでも幼少期の大半をそこで過ごした身としては記憶のつくりがそうなってしまうのも当たり前だなぁ、と感じていた。きっと記憶の始まりだってそんな押入れの中ではなかったはずなのだ。もっと、幸せな。何処にでもいるような家族の団欒だとか、楽しいところへ遊びに行ったものだとか、そういう。
 けれども可哀想な米屋の小さな脳みそは、辛かった方の記憶の傷の方を良く憶えていて、結果的に記憶の始まりを暗い押入れの中としているのだろう。
 と、まあ、難しいことをつらつら連ねていたが、実のところ殆ど医者の受け売りだった。まだ幼い頃から虐待を受けていた米屋に気付いたのは親の兄妹(もしかしたら姉弟なのかもしれなかったが、詳しいことを知らないのだからとりあえず)で、そのまま通報やら何やらをして米屋を救出した―――らしい。先ほども言ったように幼少期の大半を押入れの中で過ごしていた米屋にとって、その時のことはあまりに眩しい出来事であったので、あんまり良く覚えていないというのが正直なところだった。
 眩しいところに慣れるには少し掛かったが、優しいおじさん、おばさん、可愛らしい従姉妹たち。そんなあたたかな家族に囲まれて、米屋は少しずつ明るい場所に適応して行った。だからだろうか、異世界からの侵略者なんてものがこの三門をめちゃめちゃにしてしまったあと、それを救ったらしいボーダーという機関に従姉妹の姉の方が入ると言った時、じゃあおれも、なんて言う軽い言葉が出たのは。
 勿論家族会議になった。ボーダーに隊員として入るとなればそれは、あの侵略者たちと戦うということで。あれらがどれほどの破壊力を持っているのか、どれほど人間の持つ武器が無効なのか。従姉妹がだからトリガーっていうものがあって、と一生懸命説明しているのに任せようと思った。米屋なんかは頭がひどく悪いので、何かしらこちらに不利になる情報を黙っているという選択が出来ない。というかそもそも、何が自分にとって不利になるのかが分からない。だから、賢い従姉妹にすべて任せている方が良いと思った。
 最終的に、従姉妹はトリガーという技術を学びたい、米屋の方は強くなりたい、という理由で入隊試験を受ける許可を勝ち取った。喜ぶ従姉妹と良かったね、と言い合って、本当は栞ちゃんが入るって言ったからなんだけどな、という責任を押し付けるような言葉は飲み込んだ。
 そして、その加わった先の組織で。
 米屋は出会った。
 自分とおなじ、仄暗い瞳。違ったのは、そこに宿るのが絶望だけではないことだったか。
 灼け付くような憎悪に、ああ、そんなやり方もあるのかと感動に似た感情すら抱いた。米屋は最後までそのやり方に辿りつかなかったし、それを知った後も自分はそうする気など起きなかった。知るには遅すぎた、そうとも言う。
 後悔はなかったけれどもしかし、やはり興味というものは沸いた。
「おれ、米屋陽介」
手が出る。握手の形。
「お前のさっきの模擬戦、すごかったな」
「…ありがとう」
「おれともやんねえ?」
「…今日は、ちょっと」
用事があるから、と目を逸らした先に、何がいたのか馬鹿な米屋には理解が出来ない。その後彼がお姉さんを失ったばかりであり、早くに帰るのは彼をひどく心配する両親がいるからなのだと知ったのではあったが、その情報を知った後でもよく理解は出来なかった。
―――大切にされるって、なんなんだろ。
羨ましかった訳ではない。米屋自身、従姉妹の家に保護されてからはきっと幸せな部類にいたのだろうし、家族同然に接してくれる家族に、米屋という苗字を捨てないことを申し訳なく思う程度には好意を抱いていたのは嘘ではないのだ。
 けれども。
―――おれの居場所は此処じゃあないんだよなあ。
そんな薄暗い感情がずっと胸にあった。それを見越していたのだろう、新しい家族は米屋を定期的に病院に連れて行っていた。それに対しても米屋は感謝していたし、病院の先生も良い人ではあったが、それでも米屋は居場所を見つけられないまま、ぽっかりとした喪失感を抱き続けていた。
「今日は、ってことは、明日とかなら良い? それともおれとやるのがヤ?」
「そういう意味じゃない。明日…は委員会があるから。明後日なら」
「委員会って。何入ってるの」
「生徒会」
「うわ忙しそう。今って選挙期間? っていうか学校何処?」
「…二中」
「マジで? おれも二中。何年? おれ二年だけど」
「…オレも二年だ」
灼け付くような憎悪を宿らせる割に、話し掛けてみればただの少年だった。彼と、米屋。何が違ったのだろう。経験したものが、違うからだろうか。
 何にせよ、彼が米屋に持っていないものを持っていて、もしかしたらそれが米屋に欠けているものを埋める手がかりになるかもしれない。それに、何より―――
「じゃあ明後日、この時間で良い? おれ、待ってるからさ」
「あ、ああ…」
了承のように手が握られる。握手。慣れないような手つきに、少しだけ笑ってしまう。
「三輪だ。三輪秀次」
「じゃあしゅーじって呼ぶわ。おれのことは好きに呼んで」
「………じゃあ、陽介」
「うん」
「また、明後日」
手は離れたけれども薄っすらとした笑みを受け取って、その日は別れた。
 自分に欠けているものだとか、居場所だとか、そんなものよりも―――ただ、三輪といると楽しそうだと、そう思った。

 約束したその日から米屋は三輪と毎日のように会うようになって、彼が忙しい時は生徒会の手伝いだってするようになって(米屋にだって荷物運びくらいは出来る)、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になって。
「オレは、オレの隊を組もうと思う」
自販機の前で、三輪はひっそりとそんなことを言った。
「今の隊、どうすんの」
「解散…だろうな。そもそも次世代の隊長を育てるのが目的、と最初から言われていた。だから、解散の話が出たということは、オレが隊長としてやっていけると判断された…のだろう、と思う」
「自信ないの?」
「自信というより…」
視線を上げた三輪の目は、人間のようだった。否、ずっとそうだったのだけれども米屋がそれまでまったく気付かなかっただけの話なのだ。ああ、と思う。
「お前、オレの隊に入らないか」
「えっと、なんだっけそれ。ヘッドショット」
「多分お前が言いたいのはヘッドハンティングだ。意味は違うが、まあ、そうだな、大体そんなところで良いだろう、お前にとっては」
「へへ、なんか嬉しい」
米屋は三輪の申し出を受け入れた。その時の隊のメンバーには、三輪の誘いなら仕方ないな、と言われた。そんなに米屋と三輪はニコイチ扱いだったのだろうか。こんなにも性格は真逆なのに。それとも、目の奥の仄暗さに気付かれていたのだろうか。
 でも、と思う。
 三輪秀次は人間だった。灼け付く憎悪に生かされた、人間だった。
 ならば。
 米屋陽介は?

 同じ隊になってからは当たり前だが前よりずっと三輪と共に過ごすことが増えた。任務の後に同じ部屋で泊まるなんてことも何度もした。だから三輪は米屋が寝る時に豆球を付ける派だと知っている。奈良坂と古寺は暗くないと眠れないらしく、相部屋になる時はいつだって米屋の隣は三輪だった。
「しゅーじ」
「なんだ」
豆球のオレンジの光を見つめながら米屋は呟いた。
「おれさ、暗いところ嫌いなんだ」
「そうなのか」
「だから寝る時も豆球消せねーの」
「…ああ、なるほど」
「暗いとこ嫌いなのさ、昔、押入れの中にいることが多くて。今じゃあ栞ちゃんのとこで暮らしてるから、そういうのないんだけど」
喋りながらそう言えば三輪に昔の話をしたことはなかったな、と思う。三輪の昔の話は腐る程聞いたはずだったのに。
 お姉さんのことも知っている。
 迅との確執も知っている。
 学校でのことも、何が好きかも、家族構成も、なんなら家にお邪魔したことだってあるし、風呂では背中から洗う派だと言うことだって知っている。
「お前はオレに慰めて欲しいのか」
「う? んー…」
米屋が知っている分だけ三輪は米屋のことを知っているのだろうか、なんて考えていたら返事が曖昧なものになった。そのまま暫く考えてみたが、
「分かんない」
出た言葉はそれだけだった。
「分かんねーけど、秀次がどっか行っちゃうのは嫌かな…」
急いで探した言葉はなんだか接続が可笑しくて、米屋はただ豆球を見上げていることしか出来なかった。
「オレは、」
 静かに三輪が呟く。
「オレは、何処にも行かない」
三輪が起き上がって、米屋の寝ているベッドに入ってくる。それから幼子にするように抱き締められて頭を撫でられて、ああきっとこれは三輪がお姉さんにしてもらったことなのだと思った。思ったけれどもそれで良いと思った。それしかないのだと、そう思った。
「………そっか」
もう医者には通わなくて良い気がした。新しい家族の中で真面目に育てられた米屋はきっと行くのだろうけれど、きっとそのうちにも必要なくなることは分かっていた。
 米屋陽介は、正しい居場所を見つけた。
 暗い押入れの中ではない、仄暗い腕の中に。



20161116

***

 天気が良かった、恐らく理由なんてものはそれくらいで充分だったのだ。

春の闘争 三輪米

 陽介、と傍にいる友人を呼ぶ。
「ん?」
いつもの顔で振り返る顔。
「す、」
「す?」
「好きだ」
友人、ゆうじん。そんなのはきっと米屋の方からの一方通行で、三輪からは別の意味を込めた矢印が向いている。友人と思っていない訳じゃない。三輪にとって米屋は大切な友人だった。ただ、別の意味もあっただけで。
「ふえっ?」
 不意打ちのように言葉をぶつけられた米屋は素直に驚いていた。
「ええと、三輪サン。それはどういう、」
「どういうも何もそのままの意味だ」
「恋愛感情で?」
「そうなる」
「はあ、マジで?」
おどろ木ももの木さんしょの木。そう書いてあるような顔に、口に出さないだけの配慮はあったんだな、と思う。
「ええ、オレ、こういう時どうしたら良いんだろう。分かんねえや」
「告白されたことくらいあるだろう」
「いや、多分秀次が告白だと思ってるのは三輪くんって好きな人いるんですかー≠セから」
「お前なんだけどな」
「なんかさっきより開き直ってない?」
少しは調子が戻ってきたらしい。ええ、だの、ああ、だの、どうしようとは言うが米屋の表情に悪い感情は見られない。ただ突然のことに驚いている、それだけのように感じた。想定していた感触よりずっと良い。三輪は最悪のパターンまで考えていたのだ。言った瞬間『ないわー』とか言われたりすることなど。
「というか」
「うん?」
「お前は信じるんだな」
「何を」
「オレが、お前を好きだということを」
 米屋の顔がくしゃりと歪む。
「………あれ? え、じゃあ嘘? エイプリルフールだっけ? 四月馬鹿? 今七月だけどオレ四月の馬鹿?」
「落ち着け」
「ん? 今四月?」
「悪かった、嘘じゃない。そういうつもりで言ったんじゃない」
いろいろ言いたいことはあった。そんな顔をされたら期待するだとか、その気がないならそんな顔をするなだとか。
 けれども三輪はとても真面目なので、とても真面目なのでぐっとそれを飲み込んで、考えておいてくれ、と言った。それだけで終わらせるはずだった。
「え、考えるって」
「返事は今じゃなくて良い」
「いや、なんか、えー…オレが秀次の提案断るとか、フツーにないんだけど」
目を一回、二回、三回。きっちり開閉させて。そんな三輪に追い打ちをかけるように米屋は続ける。
「秀次はオレのこと好きなんだろ? ならそういうことでよくない? えっと、こういう時ってヨロシクオネガイシマスで良いの」
「…あ、ああ」
 それは本当に恋愛感情の好き≠ネのか。
 不安に思うことはあったけれども米屋が折角言葉にして向き合ってくれたのだ。それを無為にするのは勿体無い。
「よろしく」
「それじゃ、これからはコイビトも追加か」
「追加…」
「そうだろ? トモダチでなくなる訳じゃないんだからさ」
手が差し出される。けれどもなかなか三輪がその手を取らないので、しびれを切らした米屋が強引に掴んでひっぱって歩き始めた。
 天気が良かった、あとから思い出してもそれくらいの理由しか思いつかないが、やっぱり理由なんてそんなもので充分なのだ。



好きなら好き。大事なのはそれだけだ。その相手の「好き」を信じる気がないなら、つき合っていく意味なんかないじゃないか
村山由佳 / 緑の午後
20170306

***

あのこのぼひょうのないおはか 太刀川

 「ああ、そういえば太刀川さんの名前ってそう読むんだったね」
忘れてたや、と迅は言う。それを聞いて初めて、手元にあったテストは自分の名前の上にふりがなを振るタイプであったことを思い出した。
「俺もちょっと忘れてた」
「だよね。太刀川さんはけいくんだし」
「うっわなつかし! お前いつから太刀川さん≠チて呼ぶようになったんだっけ」
「ランキングが出来てから」
「ああ、負け越し続いてからか」
「あーそういう言い方する人は今日けちょんけちょんにしますー」
いつも通りの会話。横にいる風間も何も言わない。
 迅がA級に降りてきてからというもの、昔のようにこの三人で集まることが多くなった。迅は出会った時既に玉狛支部の所属で、小南や木崎などとの方が距離は近かったけれど、新参者の太刀川や風間と過ごす時間の方が長かったように感じていた。それを太刀川はただ単に気があったから、と思っていたが。迅のことをよく知らなくてもランク戦は出来たし、楽しかったし、それで良かった。迅も話そうとしなかったし、太刀川だって詳しいことは迅にも風間にも話したことがなかったのだし。
「キョウ」
自分しかいない部屋で、呟く。それが太刀川慶の下の名前の本当の読みだった。素敵な名前だと思う。太刀川はまるで他人事のように思った。実際他人事だったのかもしれない。慶びと書いてきょうと読む、日本人らしいというか、少しひねっているというか、いろいろ言いたいことはあったけれども素敵な名前には違いない。
 けれど、どれだけ素敵な名前であっても太刀川はその名前で呼ばれたくなかった。
 それを今の仲間は叶えてくれる。理由を聞かないでいてくれる。
 それだけで良かった。それだけが良かった。

 太刀川はこのボーダーという組織に入る前、お世辞にも恵まれた環境とは言えないものだった。ボーダーが出来たからこそそこから飛び出し、師匠である忍田に拾ってもらうことが出来たのだと言っても過言ではない。だから不謹慎ではあるが近界民が攻めて来てボーダーが出来たことに太刀川は感謝しているのだ。
本当に不謹慎なことだとは分かっているので、誰に言われずとも口に出して言ったことはないけれど。
「キョウ」
そう、太刀川を呼ぶ、母だった人が何を考えていたのか太刀川には、キョウには分からなかった。分からないけれどもどうやら自分の存在が彼女をひどく苦しめていることを知っていた。知っていたからいろいろ試行錯誤していたのだけれども、頑張って賢くなってもキョウには限界があって、その限界ももう少しでどかんと崩れてしまうのが分かっていた。
 だからそうなる前に近界民が攻めて来て、それでキョウは母だった人の元から離れることになった。事情を知った忍田が母だった人に頭を下げて、それはそれはとても丁寧なものだったので母だった人は何も反論が出来なく、仕方ないというように子供を忍田の元に差し出したのだ。
 いってらっしゃい、とその人は言わなかった。
「キョウ」
これからよろしく、と言った忍田に太刀川は首を振った。心がズタズタに引き裂かれるような気分だったから。
 暫くは何事もなかったけれども、少しずつ太刀川の中で今まで≠ェ崩れていった。限界は限界で、それは母だった人の傍を離れても変わらなかったのかもしれない。忍田がキョウと呼ぶ度に太刀川の中はぐしゃぐしゃにかき混ぜられるような心地になって、耐えられなくて、見かねた他の大人がキョウではない名前をつけてくれた。ちょっと怖い顔をした医者のところにも連れて行かれて、学校の先生にも話を通した。
「たちかわけい」
新しくなった名前に嬉しくなって、あちこちで自己紹介をした。同年代の既に名前を知っていた友人たちが何を思ったのか、他の大人に何と説明されたのかは知らなかったけれども、その日から太刀川はけいだった。
 思い出すことは、もうない。もう忍田に見せて用済みになったテスト用紙をゴミ箱に捨てる。キョウはちゃんと死ねたのだ、あの日、本当にちゃんと。
 だから残り滓のような慶は、ちゃんとけいとして生きていけば良いのだ。



20170306

***

あなたの癖はぼくがつくったもの 忍太刀

*過去捏造

 ごっこ遊びをしよう、とその昔、言ったのは忍田だった。
 ひょんなことから預かることになったその子供はひどく情緒不安定で、何を言われても泣くような、そんな扱いづらい人種だった。ある日はその髪の質をからかわれて、ある日はその眸の異様さを不気味がられて。ふわふわしていて良いと思う(流石に男の子に対して可愛らしいは駄目だと思った)、きらきらしていて素敵だと思う、そう想像力を総動員してはその涙を止めていた。ある日は忍田と暮らしていることを可笑しいと言われ、ある日は本当の父母がいないことが可哀想だと言われ。
 それでも毎日のように泣きながら帰って来て、しのださん、と舌足らずに縋ってくるのだから、当時まだ若かった忍田は辟易した。してしまった。
 だから、ごっこ遊びをしよう、と持ちかけた。相手は子供だ、すぐにその涙を拭いてどんな、と食いついて来る。
「試作品ごっこ」
「しさくひん?」
「そうだ、慶。お前は私の作ったロボットだ」
「ロボット!」
まだ涙の色の消えないそんな目で、やたらときらきらこちらを見つめてくるのだから、一瞬罪悪感が湧いた。
「でもまだ作っている途中で少し弱い」
「そうなの?」
「ああ。だから今からロボットの慶が完成に近付くように、薬を注入しよう」
「おくすり? いたい?」
「痛くないよ」
 ポケットから出てきた大きめの飴玉。いつのものかも怪しいそれを小さな口に押し込んでやる。
「ふぉれ、ふぉくすり?」
「そうだ」
「つよくなう?」
「なる」
頭をひと撫でしてやれば、その目元がほころんだ。
 それからは子供が泣く度に、強くなる薬と銘打っていろいろな飴玉を与えた。手ずから口に押し込むだけで笑うのだから、頭を使うこともなくなって楽だった。
 これで良かったのだと、そう思っていた。

 「しのださぁん」
あの頃より幾分ふてぶてしさの増した声に振り返る。
「何だ、慶」
「んー」
とてとてと近付いて来て、こちらを見下ろす表情に悪意は見て取れない。
「くすり、きれた」
 悪意がないから、困るのだ。ねだるように差し出された手に、他意はないのだろう。ただ昔のごっこ遊びそのままに、太刀川慶というロボットになったつもりで、こうして時折薬の補給に来ている。何も可笑しいことはない、だって自分はロボットで、まだ未完成なのだから。そう、本気で思っている。
 「そうか」
反射のように探るポケットの中に、飴玉がなかったことはない。なければそれを理由に、もう薬など必要ないと、そう言える気がしていたのに。
 ビニールを向いて指先で摘んだそれを、乾いた唇へと押し付ける。
「ん」
応えるように僅かに出来た隙間に押し入れると、太刀川はありがと、と言った。
 癖だとか、そういう話ではもうなくなっていることに、勿論忍田も気付いていた。



20140429

***

死がふたりを分かつまで 忍+太刀

*過去捏造

 つよいね、と。最初の会話はそれだけだったと思う。それがいつしか行く先々に現れるようになって、その度に闘ってくれ、と乞われるようになるとは思っていなかった。
 太刀川慶と名乗った彼はまだボーダーに入りたてで、しかしその潜在能力から直ぐに昇格するだろうと囁かれていた。忍田とて強い隊員が入ってくることに難色を示している訳ではない、純粋に嬉しいと思っている。けれどもその戦いぶりを見た時から、その喜色はもやもやとした憂惧へと変わっていった。
 危うさを孕んでいると、そう思った。
 模擬戦で相手を斬り伏せる動作には戸惑いがない。今はやや荒削りではあるが、そのうちにトリガーの使い方も様になるだろう。だが、何処か。忍田は顎に手を当て考え込む。
 何処か、狂気を帯びているような、そんな気がした。
 「太刀川」
ブースから出てきた彼を呼ぶ。
「あ、忍田さん。おれと闘ってくれる気になった?」
顔をほころばせた彼にいや、と否定の言葉を吐いてから、問うた。
「お前、斬れれば何でも良いのか?」
 問われた太刀川はと言えば一瞬だけ目を見開いて、それから、あーあ、と呟く。
「うまく隠してたつもりなんだけどなぁ」
斬った瞬間のあの感覚が、なんとも言えなくて。そう微笑んだのがあまりに歳相応の顔に見えて、忍田は言葉を失った。何処でそんな感覚を覚えたのか、問うことも出来ない。
 「…お前は、危ういな」
やっと絞り出した言葉は、そんなものだった。
 笑うのだと思った。そうだよねぇ、と笑うのだと。けれども予想に反して太刀川は目を丸くして忍田を見ていた。
「危うい?」
口から零れる言葉は思わず出たものか。
「怖い、じゃなくて?」
 そう、言われたことがあるのだろうか。忍田は目の前の子供を見やる。まだ幼さの残る顔、そう思うのは忍田の贔屓目か何かだろうか。
「お前のような子供が怖いことがあるか」
虚勢ではなかったと思う。
 言葉が太刀川まで届いて、彼がそれを咀嚼して、そして、彼は笑った。さっきのものとは違う、何処か気の抜けたような顔だった。
「じゃあさ、忍田さん、弟子にしてよ」
良いことを思いついた、とばかりに太刀川は目を輝かせる。
「それで教えてよ、なんのためにコレを振るったらいいのか、とかさ」
ついでにおれは忍田さんと闘えるし、ラッキーじゃない?
 結局はそこに行き着くのかと、ため息を吐きながら、忍田の頭の中は今後のスケジュール調整へと既にシフトしていた。



(それはわたしのやくめ)



20140429

***

タイニー・スーサイド 太刀米

*事後表現あり

 いてえ、とがらっがらの声で恨めしそうに言う米屋をあやすように撫ぜる。いつもはカチューシャでまとめられている長めの前髪。それが解かれてぐしゃぐしゃになっているのが、それなりに太刀川は好きだ。
「なん、だったんです、か、もうー」
ひどい目にあった、という文句はその通りだと思う。事実、 ひどくしてやれ、と思って抱いたのだから。しかし、太刀川はそれを言わない。ついでに謝ることもしない。
 元から、好きあってこんなことをしているのではなかった。太刀川も米屋も別の人間に横恋慕していて、それに目敏く気付いた太刀川から米屋を誘った。それだけ。それ以上もそれ以下もなく、ただ最低限のルールとして、相手以外の名前は呼ばないと、最初に交わしたくらい。
 胸の底で燻る阿呆みたいな恋情を、どうにか欲へと昇華させてしまおうと、そんな、馬鹿げた試み。
「米屋」
「なーに、たち、かわさん」
ひどい声だな、と笑えば誰の所為だと返された。機嫌を取るように触れるだけのキスを落とせば、素直に目が閉じられたのでそのまま擽るように舌を忍ばせる。丁寧に、丁寧に。ご機嫌取りなのだから粗雑では意味がない。
 ん、とうわずった声と共に漏れたのはやわらかな笑み。フラッシュバックのように蘇る映像。
 本部で見かけた米屋は、例の横恋慕の相手と喋っていた。その横顔に浮かんでいたのは今みたいな表情で、それは太刀川があれこれ手を尽くしてきもちよくしてやらないと引き出せないもので。
 ちくり。胸の辺りで何かが疼いた。
 そういうわけで。ふつふつと腹の底から沸き上がるもの。いつも通りの誘いにのってのこのこやって来た米屋に、なんだかとてもひどいことをしてやりたくなった。
 「おまえさー」
「んー?」
鼻がまだ触れ合うような距離で呟く。思い出してしまったら、まだまだ足りないような気がした。何が足りないのか、太刀川自身にも良くは分からないが。とりあえず、と誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「いや、ほんと、キスすきだよな」
「んー、そう?」
自覚ないのか、と呆れの表情をしてみせると、なんそれ、とへの字に曲がる口。これが可愛くないんだよな、と思って、それから、だからだ、と一つ言い訳を残して。
 「じゃあ、もっかいやるか」
「はァ!?」
ふざけんな、と暴れ出した身体をもう一度シーツに縫い付けて、今度は噛み付くようなキスをした。



自分勝手な言い訳
https://shindanmaker.com/160701



20140505

***

20200222