甘いケーキをひとくちで 菊時 *嘔吐表現有り 午前中いっぱい耳を覆って過ごしていたからだろう。同じ教室で、ぼくより後ろにいる歌川にはきっと、その様子がぜんぶ見えてたんだ。 「菊地原」 だからこそ、午前の授業が終わってお昼休みが来たところで。 「今日の昼は、屋上で食べないか」 そんな提案を投げかけられたのだ。 屋上。 その言葉を口の中でだけ繰り返す。 それが引き金になって思い出されることなど、ひとつしかなかった。 中学生の頃。今と同じように午前中いっぱい不機嫌な顔をして過ごしていたぼくの手を引いて、あまり使われない方の階段に連れて行くのは時枝の役目だった。 「古寺ととりまるには連絡したから」 二人とも、こっち来てくれるって。そう言われてようやく、ずっと俯いていた顔を上げた。 まだ訓練生をやっていた頃だ。残念なことに、非常に残念なことにぼくはただの生意気なC級でしかなく、そのサイドエフェクトのことも相まってあれこれ言われるのは今よりも多かった。相手は陰口のつもりだろうけれど、ぼくには日常会話と変わらないレベルですべて聞こえている。 しかしながらそれに対して緩和策を用いるのは癪だった。故にその孤立はどんどんひどくなっていって、見かねて手を差し伸べたのが時枝だった。 「ほっとけないでしょ」 そう言った時枝に対して、偽善者、とぼそり、返したのは記憶に新しい。 「否定はしないけどね」 やれやれと言った顔をしただけでそれ以上何も言わずに時枝は、ぼくの手を離さずにい引っ張っていって、その先には古寺と烏丸がいた。二人とも菊地原のこと気にしてたんだよ、なんて言われてしまえばそれ以上何を言うこともばからしくなってしまって、そうして学校でも訓練でも、気付けばその四人で固まることが多くなっていた。 しばらくすると古寺と烏丸がやってきた。 「大丈夫? 菊地原」 「最近運動会の練習やってるからそれでか」 増えた声がざわり、と耳の神経をさわっていくけれども、さっきまでの音よりはまだマシだった。 「ちがう。隣の敷地で工事してるでしょ。それ」 頭に響いて。そう呟けば、なるほど、と二人は頷いた。 「どうしよっか」 時枝が呟く。 「どうせここ人来ないし、階段に座って食べるのもありだと思うけど」 「んーそれでも良いけど、先生に見つかったら怒られるかもだよね」 「章平が怒られるってことはないだろ…。でも、ま、今日はこんなに天気良いんだし」 烏丸の指が上を指差した。 「屋上、行かないか」 「え、でも屋上って鍵かかってなかったっけ」 「じゃーん」 「鍵!?」 平和だな、と古寺と烏丸のやりとりを眺める。 「いいんじゃない」 隣で時枝が言った。 「菊地原は?」 「…ぼくも良いと思うよ」 「そっか」 じゃ、いこっか。そう言ってまた手を引かれる。もう静かなところへ来て大分落ち着いてきたけれど、一人で歩くことは簡単だったけれど。 手を離して、というのはなんだか惜しいような気がして、そのまま引っ張られて階段をのぼって行った。 * 烏丸はこの鍵を先輩からもらったらしい。 「ちょっとギャルっぽい先輩だった」 「モテるねーとりまる」 「モテすぎててちょっと今、心配になってきたよ…」 古寺が胃を抑えるふりをする。それがツボにはまったのか烏丸がけらけら笑っていた。いつもと同じような会話。 この気の抜ける空気が、わりとぼくはすきだ。言わないけれど。 鍵を回して開け放った屋上は、誰もいなかった。当たり前だが、この学校内にそんな場所があったことに、少なからず驚く。 「あそこにしよう」 「あ、いい感じに日陰になってるねー」 そんなことを言いながら、給水塔の裏側に座る。 そこまでは、までは良かった。 風がびゅうびゅう吹くくらいで、その他は耳障りな音はあんまりなくて。隣の工事も昼休みだから音が止まっていて、これで安心してご飯が食べられると、そう本当に思っていた。 ざわり、と背筋をなぞられるような感覚。原因は分からないけれど、音が、集まっている。雨樋を伝って響いているのか、それとも何処かで反射しているのか、どちらかと言えば理系が苦手なぼくには分からなかったけれど。 気にならない、そう自分に言い訳してぼくはたまご焼きを口に運ぶ。父さんの好みでうちのたまご焼きは甘い、甘いはずなのに、その味が分からない。無心で他のものも口に運んでいく。冷たいご飯、解凍しただけのハンバーグ、昨日のおかずのあまりのきんぴらごぼう。 どれも、味が、分からない。 「菊地原?」 古寺が心配そうにぼくを覗き込んだ。 「顔色悪いよ? 大丈夫? もしかして、ここもうるさい?」 答えようとした。大丈夫だって、何もないって。だからそんな顔をしなくていい、ぼくなんかのために。 答えようとしたのに、喉は引き攣れるばかりで、言葉にならない。頭ががんがんと痛くなって、胸の辺りがあつくなって。 「いいよ、ここにだして」 は、と顔を上げた。目に入ったのは手、時枝の手。まだ筋っぽくなっていない、しろくてやわらかそうな手。 「菊地原」 時枝が、ぼくに手をおわんの形にして差し出している。その意味が分かって、ばかじゃないのと叫びたくなった。正気の沙汰じゃない、そうは思うけれど、言葉も出ないくらい苦しい中で、そんな行動をされたら身体の方は正直で。 食道がひりつくような熱さに、生理的な涙が浮かんできた。 * 古寺が背中をさすって、烏丸が耳を塞いで。そんな妙ちくりんな統制力でぼくの吐き気が収まるまで、そう時間は掛からなかった。 「大丈夫?」 時枝の言葉に辛うじて頷く。 「じゃ、オレ、下のトイレ行ってくるから」 落ち着いたら口ゆすぎに連れて来て、と二人に言い残すと、時枝は立ち上がった。おわんの形にした手はそのままに、その中にぼくのおなかの中身を注いで。 「なん、で…」 その背が入り口の向こうに消えたところで、やっと声が出た。喉がひりひりする。口の中がすっぱくてたまらない。 立てるか、と烏丸が多分そう言って、よいしょ、とぼくの腕を肩に回す。そうしたらその反対側を古寺が支えた。屋上から出て、最後の踊り場に座り込むと、烏丸だけが荷物取ってくる、と一旦扉の向こうへ戻っていった。 「時枝だからだよ」 それがさっきの問いに対する答えなのだと、理解するまでに少し時間がかかった。 「前も菊地原吐いたことあったじゃん」 そう言われてああ、と思い出す。あの時は風邪だった。そういえばあの時も、処理をしてくれたのは時枝だったと聞いた。 「あの時、長いこと菊地原気にしてたでしょ。時枝に掃除させちゃった、って」 「べつ、に。そんな」 やんわりと細められた目が、素直じゃないなあ、と言っているみたいだった。 「どっちでも良いけど。そういうのあったから、今度は掃除しなくて済む方法をとったんだと思うよ」 その説にはなるほど、と思うべきかそれとも本末転倒だと罵るべきか迷った。迷ったけれども、力を使ってぼんやりしている頭では答えは出なかった。烏丸が帰って来る。 「動けるか」 そう問われて頷いた。手をついて立ち上がると、少しふらふらはするけれどもちゃんと立てた。不安なのか階段を数段先に降りていく烏丸と、いつでも手を貸せるようにだろう、隣で妙な構えをしている古寺に少しだけ笑った。笑えていたかどうか分からないが。 一階下の男子トイレに足を踏み入入れれば時枝が手を洗っていた。 「トイレ詰まっちゃってさ」 片付けてた、と続ける顔はいつもと同じで、ぼくのこともトイレのことも何でもないことだといわれているようだ。 「口、ゆすぎなよ」 はい、と開けられた水道に近寄って、言われるままに口の中を洗い流していく。ついでにうがいもする。少し違和感は残っているけれど、問題はない。 そのまま、時枝に寄り掛かる。 「菊地原?」 戸惑ったような声があがったけれども無視だ。 「どうしたの、まだ気分悪い?」 それにだけはゆるく首を振って、またぐりぐりとその胸に頭を擦りつけた。 おまえが。 おまえがそんななんでもないようにこなしてみせた行為たちが。ぼくにとってどれだけ意味があったか、おまえは知らないでしょう。 それを言葉にするのはまだ、はやいような気がしていた。 ゆるく、口元が歪んだ。思い出し笑いというやつだ。思い出し笑いをするやつはえろいだなんて、そんなばかなことを言ったのは誰だったろうか。佐鳥だったかもしれない。あいつは結構ばかだから。 「歌川知らないでしょ、屋上って想像よりうるさいんだよ」 「え、そうなのか。悪い」 「嫌いじゃないけどね」 「………? じゃあ行くか?」 「行かないよ。だって歌川ぼくのげろ受け止められないでしょ」 「はぁ? 今、なんて、」 「べつに」 立ち上がる。放課後には防衛任務が入っている、食べなければ体力は保たない。それに今日は早起き出来た関係で、マイブームになっている菓子パンが買えたのだ。折角お昼まで取っておいたんだから、味わって食べたい。 ふと、眠そうな顔がよみがえる。そういえば、これをぼくにすすめてくれたのもそうだったな、と思った。甘ったるいチョコレートでコーティングされた、一口サイズのスポンジ。菊地原、好きそうだと思って。その時の表情もまた、あの時と同じ何でもないようなものだった。 「時枝に会いたいって、そう思っただけだよ」 * 20140716 *** ぼんやりとした不安で明日を殺せそうな夜です 奈良米 なぁ、と間延びした声に瞼を上げる。じとじととした熱気が、肌をぬるりと滑って行った。開け放った窓から風は入ってこない。多少うるさいのを我慢しても換気扇をつけるべきか、それともいっそのこと、クーラーにしてしまうべきか。 「なぁ、とーる」 てしてしと、子供が手慰みをするようなぞんざいさで腕が叩かれる。 「…なんだ、陽介」 「やっぱ起きてた」 「殆ど寝ていた。なんだ」 「んー…」 なんか、と場を繋ぐような唇。太陽はもうどっぷり落ち切って、時計の針もてっぺんを回って、それなのに放棄地帯に近いこの場所でも、しっかりと街灯が仕事をしているのだから笑えない。強烈な青の光は今日も変わらず、窓の外から部屋を照らしている。 そんな青の中、うっすらと浮かび上がる表情は戦っている時のそれでもない、恐らく学校へ行っている時のものでもない、ただただ奈良坂の前でだけ晒される無防備なものだった。 「なんか…透が」 「オレが?」 「しんで、る。みてー…で、」 すっと、息が詰まったような気がしたのは、きっと一人の人間を思い浮かべたからだろう。 黒髪の、人間。そしてきっと、そいつとそっくりだったろう、人間。 「陽介」 「なに、」 「こっちへ来い」 もぞもぞと身体を動かすと、何も言わずに頭を預けられる。カチューシャ一つで印象がこんなにも変わると、そう思うと少しだけ笑えた。 「…なにわらってんの」 「陽介はかわいいと思ってな」 「それ、男に言う台詞じゃねーって毎回思うのに、なんか透だって思うと許せちゃうんだけど。なんで?」 「さぁ」 合わさったところから、互いの肌に汗がじみていくようだった。ぬらり、とした温度が煩わしくて、やはやクーラーをつけるべきだったな、と思う。 「陽介」 「なに」 「オレは、何処にもいかない」 じっと、瞼の痙攣まで伝わりそうな距離で。その瞳は奈良坂を貫く、迷子で、置き去りにされてしまったような色を湛えて。 「オレは何処にも行かないし、何処かへ行くならちゃんとお前を連れて行く」 「…なーに、それ。心中宣言?」 くつ、と震えた喉は嘘ではないようだった。 「お前の中でオレはどんなイメージなんだ」 「ん、なんか殺されそうにも死にそうにもないイメージ。死ぬなら自分で、って感じかな」 「とんだメンヘラだな」 「しかも頑丈な」 「人間なんて大体頑丈だ」 絡んでいた視線が解ける。こつん、と額が何も着付けていない胸に押し当てられる。 「心臓の音でも聞いてるのか?」 「デコじゃわかんねーよ」 「それもそうだな」 笑った振動は届いたようだったが、もう馬鹿な話をするつもりはないようだった。 「とーる」 「なんだ」 「おやすみ」 「ああ、おやすみ」 嗚呼、明日なんか来なければ良いのに。 * ぽつぽつ @potsuri200 20140721 *** こじつけのようなりゆうさえはきだせないまま 太刀米 R18 ごろりと、こんなぐっしゃぐしゃの白い波に溺れる夜のことが嫌いだった。いつでも余裕そうにこちらを見下ろしてくるその人が一緒なのだから、尚更。アマツサエその人とセックスなんてものをしてしまっているのだから、もう笑い話にも出来ないレベルだ。 嫌なら嫌って言えば良いのにな、と見上げる。前髪下りてる方がすき、なんてしおらしいことを言うその人にカチューシャは奪われて、長い前髪が視界を邪魔していた。いつもの、半分くらい。視界が半減している所為かやたらと他の感覚が研ぎ澄まされているように感じて、もしかしたらそういうのを求めていたのかもな、なんて先ほどのしおらしい宣言を撤回しようと思った。 「なぁ、米屋」 は、と短く吐き出される息はまだ濃厚な色をしている。それに眉を顰めると、わざとらしく口を尖らせてみせた。 「やーですよ」 「むり」 「おれだってむりです」 あっちこっち痛いですもん、と言えばすまなそうに眉が下がった辺り、自覚はあるらしい。あるなら優しくするとか、手加減するとか、そういうことをして欲しい。 なん、て。 「とにかく、おれは今日はもうこのまま、寝ますから」 「シャワーしねえの?」 「だる、くて。今日はゴムしてたし。別に、起きてからでも」 付き合っている訳でもないのに、そんな我が侭。 ぼすん、と枕に顔を埋めた背中に、のそのそと登ってくる熱を感じる。 「太刀川さん」 あのですねえ、と身体を捻っても逆光でその表情ははっきりとは見えない。けれどもさっきの熱を孕んだ声を出していたときより厄介そうだと、そういうことはちゃんと分かった、分かってしまった。 「よねや」 甘えるような、そんな音は見せかけだ。敗けてたまるか、とぐっと腹に力を込める。 「すきだって言えば」 「誰が」 言ってからしまった、と思った。今の場合は何を、と返すのが正解だったのに。これでは間接的に認めてしまったようなものだ。 それに相手も気付いたようで、そのまなこがゆらり、と歪んだ。楽しそうな顔しやがって、と思うも、失言をかましたのはこちらなので何も言えない。 「よねや」 どろり、甘ったるい音が耳を擽って、降参だ、と言わんばかりに目を閉じた。 * バルキュリアの囁き * 20140725 *** 恋が終わったら愛しましょう 風迅 かざまさんはさぁ、といついつになく偉そうに、けれどもその間延びした口調の所為で子供の戯れみたいに、その男は口を開く。 「俺のこと、そんなに好きじゃないでしょ」 「それはまるで、今までは好かれていると思っていたような口ぶりだな」 ふにゃりと歪んだ口角を注意深く観察しつつ、次の言葉を探す。 「オレがいつそんなことを言った?」 「いや、言ってないけどね」 その前に、風間さん飛躍しすぎ、と軽い笑い声をあげる顔が、どれだけ醜いのか、きっと本人だけが知らない。 サイドエフェクトだか何だか知らないが、それに振り回されているだけの時のがまだマシだ。余裕のない頬をつねってやるだけの楽しみが生まれる。けれども、これはだめだ。そう思う。振り回されているのが分かっていて、そんな自分を自覚していて、それでも尚、自分が選んだように振り回され続ける、そんな自己犠牲みたいな意味不明の段階を踏んだ時の顔。 どうしょもないのに助けを求めない、だってこれはオレが選んだ道だから。そうでも言いたいかのように。 「俺は、お前が、すき、じゃない」 「そのじゃないがなかったらすてきなのになぁ」 「お前は俺に好かれたいのか」 「そりゃあ嫌われるよりはね」 笑った…つもりなのだろう。 また口角がやわく歪んで、それから。降ってきた唇を手で覆って止めてやる。 「…お前のそれが、」 ぬるり、と掌を滑って行った舌の感覚に不快感を隠そうともせず、その顔を睨みあげる。 「とりあえず恋にまでなったら」 驚いたように目が見開かれた。それを見逃さずに止めていた手で押してやると、簡単に距離が開く。 「俺が終わらせてやる」 「…それさあ、」 ひどくない、と笑うつもりだったのだろう。またあの妙な歪みで口角を釣り上げて。 けれどもそれは失敗した。にやりと笑ってやる。その反応に笑うことに失敗したのだと、向こうも気付いたようだった。 「そうしたら、俺が愛してやる」 ぽかん、と。口を半開きにして目を見開いて。そういう無防備な表情を晒した、その男がこれ以上なく愛おしかった。 * 一行詩(リンク切れ) 20140725 *** 死へのリレー 最迅 ぎゅっとその塊を握り締めた。暖かくも冷たくもない、ただ其処にあるだけのような存在。それがかつて人間だったなんて、誰が信じるだろうか。自分だって、こんな組織にいなければ信じなかっただろう。 だって、あんなに温かかったのだ。 あの日だってあんな未来が見えて、でもそれは回避可能で、だからこそ回避方法を告げてその背中を見送ったのに。こんな。 こんな、よく分からない物体になってかえって来る、なんて。 「でもさぁ」 誰も居ない部屋、自分の声がひどく響いて聞こえた。 「最上さんの考え、今ならちょこっと分かる気がするんだよねえ」 この先のことを考えて、何が一番最善なのか。そうして、尽くして。目を閉じる。浮かんできたのはきっと、もう少し先の未来。見えるようで見えない、きっと今の自分は他の人間と大差ない。 いつか来る未来を待っている時だけが、自分がちっぽけであると確認出来るようで、少し、嬉しい。 目を閉じる。瞼の裏では師匠が最後に見た時と同じ顔で笑っていた。 「もがみさん」 名前を呼んでも、答える人はいない。手の中のそれを、もう一度握り締める。 きっと自分も、いつかこうして。 * 蝋梅 http://sameha.biz/?roubai 20140802 *** 話半分で聞いてよ。 米出 夢を見た。悪趣味な夢だった。夏の暑さの所為だ。 前髪がべたり、頬に張り付くのもそのままに、米屋は息を吐く。胸の辺りがどくどくとしていた。いつもトリオン体で戦っている所為か、本物の身体の此処は伽藍堂なのではないかと思う時がある。けれども今はそんな不安が馬鹿馬鹿しくなる程度には、心臓がその存在を主張していた。 夢の中で、米屋は薄暗い空間に立っていた。人がわらわらといる其処は涼しくて、暗い中色とりどりのネオンで装飾されていた。夏に良くある展示物なのかな、と思った。金魚とか、水母とか。最近そういうものが流行っているらしいから。そんなぼんやりした思考で、米屋は一歩足を踏み出す。目の前の人混みがいい具合に開いて、その亀裂に身を滑り込ませるだけで良かった。簡単だ、昼時の購買なんかよりお上品で乱暴さもない。 そうして、人混みの一番前に出た時、やっと、その展示物が見えた。 それは、人の形をしていた。更に言うならとてもとても、見覚えのあるものだった。 「いず、み」 からからと口の中が乾いていく音がする。 それは同じ名前をしているとでも言うのか、こちらを向いて笑ってみせた。周りの客から羨ましいと言葉が贈られる。珍しいんですよ、けらけらと笑った隣の客も見覚えがあるように思えた。柔らかな茶髪をした、前髪を上げた特徴的な髪型。何処か軽薄そうな笑みを浮かべた彼が誰であるのか、夢の中の米屋は思い出せなかったけれど。培養出水はあんまり、人の微笑みかけることはないんです。 その説明の内容よりも、培養出水という言葉がやけに可笑しくて開いた口が塞がらない。 魚という訳でもないのに、その人型は水の中で舞っていた。鰭も鱗もないのに、まるで其処から生まれたとでも言いたげに、水に馴染んで。ひらり、黒いコートが重くないのか、人工的な波に揺れてみせた。ああなるほど、こういうところが魚っぽいのかね、なんて思う。 隣の人間はいつの間にか変わっていた。そのどれも見覚えがあるはずなのに思い出せないで、米屋はただ一番前に突っ立って人型を眺めているだけだった。誰も米屋を退けようとしない。水槽の中のきらきらひかるそれが、甘苦しい笑みを向ける米屋を、そのままにしている。 きれいだな、入れ替わる隣の人はそう零した。きれいだな―――寿命はあと、どれくらいなんだろうな。それに緩慢に振り返ると、説明を求められていると思ったのか、胡散臭い髭面の男は言葉を続けた。綺麗な出水はな、無理な掛け合わせの末の品種改良だから、寿命はそう長くないんだよ。こんなふうに見世物になってるなら尚更。狭い水槽の中にプロジェクターの光、熱い照明、それに、鑑賞目的にろくに泳げない身体に改良されてるときた。これで長く生きられる方が不思議だろう? 言葉を受けてから見るそれは、また違うもののように見えた。それは相変わらず微笑んでいた。そんなのは違う、と思った。その顔でそんな表情をしてみせるな、とも。悪趣味だ、と呟いたその声は人混みのがやがやとした音に紛れて消えた。 けれども。 何よりも悪趣味だと思うのは―――米屋がそれをうつくしいと思ってしまったことだろう。ああ、うつくしい、きれいだ―――自分のものにしてしまいたい。 手が伸びていた。其処には何もないのに、まるで何かあるみたいに空を優しく掴む腕が気持ち悪くて、でも当たり前な気がして。 夢の中の米屋は、無事にあれを盗めただろうか。 * (っていう割にはひどい真剣な顔だな) image song「ピアノ泥棒」amazarashi 20140802 *** メガラニカの未来 木風 カレーの皿の真ん中辺りに沈んでいたにんじんを掘り出して、風間のスプーンがそれを半分に割って。そんな動作の途中で、その言葉は放り投げられた。 「お前はオレが死んだら悲しむか」 その対面でこちらはじゃがいもを割っていた木崎が、ゆっくりと視線を上げる。 「何だ突然」 「なんとなく、」 聞いてみたくなった。そう続ける横顔はどうにもなんとなく、という様相ではなくて、けれども本人がそう言っている以上信じてやるべきなのだろう、そう思ってまたじゃがいもに視線を戻した。 風間はじゃがいもが大きい方が良い、木崎はじゃがいもは小さい方が良い。木崎はにんじんが大きい方が良い、風間はにんじんは小さい方が良い。そんな好みの対立をなくすべく、双方歩み寄りを示した結果がこのカレーである。 「どうだろうな」 最初の四分の一の大きさになったじゃがいもを口に運んで咀嚼して、飲み込んでそれから木崎はやっと口を開いた。 「悲しみは…するかもしれないな」 「じゃあ泣くか」 「それこそどうだろう」 かんかん、とふちのルーを真ん中へと集めていく。溶けかかったたまねぎがくてん、と泳いでいった。 「お前はどうして欲しいんだ」 「オレ、か」 「そうだ、お前だ」 「オレは、」 かつん、とスプーンの先が少しばかり強く皿の底を叩いたようだった。今更それを行儀悪いと指摘することもしない。 「オレはお前に、オレがいなくなっても泣いて欲しくはないんだ」 ほう、と息が漏れた。かつん、かつん。風間の皿がまた音を立てる。 震えているのか、とも思ったがただの手遊びのようだった。そういえばそんなに可愛らしい生き物ではなかったな、と思い直す。 「お前が泣いてしまったら、それを認めてしまったら、本当にオレは去る者になってしまう気がするんだ」 「去る、者」 「ああ」 かつん、かつん、かつん。いい加減うざったらしくなってきて、その手を上から掴んだ。かつん! ひときわ大きな音がしてその生ぬるい振動は止まる。 「オレはな、木崎」 じっと、その下から世界の終わりのような瞳がこちらを見ていた。 「お前の中で過去にはなりたくないんだ」 過去、と繰り返す。 「未来になりたいと言うことか?」 「それは少し違う」 風間はゆるりと首を振った。その際にまるい球面を潤す水分に、電球の光が反射しているのが見えた。きらきらきらきら、その奥には何もないだろうに、他の人間とおなじくらいぐっちゃりどろどろとしたものが入っているだろうに。 「オレはお前の中で、いつだって現在でありたいんだ」 それでもうつくしく見えるのは。 かつん、とまた音がした。自分の手から力が抜けていたことにその音が気付いた。そうか、と呟く。そうだ、と返される。 「まぁ、お前より先にオレが死ぬかもしれないが」 「馬鹿言え。お前のようなやつがどうやって死ぬんだ」 「普通に強い敵と当たったりするかもしれないだろう」 「お前なら三トントラックに轢かれても生き残る。だから馬鹿なことを言うな」 「それ人間か?」 押さえることをやめた手の下で、またかつんかつん、と音がし始めた。もう諦めて手を引っ込めることにした。カレーの表面が少しばかり乾いているように見えた。見えただけだろうが一度ぐるり、かき混ぜる。 過去も未来も現在も、すべてこうしてしまえれば良いのにな、と。そんな少しばかり気弱なことを思った。 * image song「遺書」amazarashi 20140809 *** ユフスリック・アヴァストゥス 三輪米 嘘みたいに晴れた日のことだった。夏の音がじんじんと鼓膜を震わせて、それが遠くの出来事のような気がして。全部全部嘘みたいだ、そう、三輪は思っていた。 「お前はどう足掻いたって姉さんになれない」 その中で震える鼓膜を正すように聞こえた声は、聞き慣れた自分のものだった。 ひどい、言葉だと思う。別に、この男がそうなりたい訳ではないことは百も承知だ。けれどもそれをずっと探していた三輪にとって、このフレーズを言わずにはおれなかった。 対する米屋はうん、と頷いただけだった。そのくろぐろとした平坦な眸でこちらを見据えて、それから、と続きを促してくる。無言の待機は有難かった、まだ言いたいことはすべてじゃない。 「だけど、お前がいいと思うんだ」 「うん」 「お前では姉さんの代わりになれないのに、正反対なのに」 「うん」 「おれにとってお前の価値が、とてつもないことに気付いてしまったんだ」 ほんとうは。 本当はこんなふうに言い訳がましく言いたかった訳じゃあない。けれども三輪はこれ以上のものを知らなかった。知れなかった。このどうしようもなく憎悪と絶望に塗りたくられる伽藍堂な身体で、唯一輝いていた姉という存在。それだけで生きてきたのに、どうして。そう一度でも思ってしまったら、軽率に愛を叫ぶなど出来るはずがなかった。 ねぇ、と目の前の存在が声を発したことに気付くまでに時間がかかった。秀次、と呼ばれてやっと顔を上げる。 絡まった視線、その先のくろぐろとした眸は今も尚平坦で、だけれどもいつもとは少しばかり違うように思えた。その差異を説明する語彙を三輪は持っていない。ただ、そのまるい球体がいつもより、滑りよくなっているような、そんな印象を受けた。 「オレはこれからもおねーさんにはなれねぇよ」 「分かってる」 「オレはオレにしかなれないし、秀次が感じる価値ってのも分かんねぇ」 「ああ」 「でも、それでもいんなら」 ぱち、り。目の、上と下の肉がぶつかり合う、そんな些細な音まで聞こえるようだった。 「これまでも、これからも、 変わりゆく米屋陽介という存在でいんなら、オレはお前と一緒にいたいと思うよ」 触れた指先は冷たくなっていた。自分も同じように冷たくなっていた。同じくらいに緊張していたことが分かって、ひどく安心した。 「陽介」 「なに」 「すきだ」 泣きたいくらいにいっぱいいっぱいな胸で、こんな言葉を口にする日が来るなんて、思っていなかった。じわり、指先に温度が戻ってくる。 「…おれも、」 「陽介」 「おれも、秀次がすきだよ」 嘘みたいな夏の日だった。すべて嘘でも良いからこの瞬間だけは本物でいてほしいと、そんなことを願っていた。 * 20140809 *** メメント・モリ ハイラン それがどんなことであれ教えたのは少しばかり年上の、兄という存在だったとランバネインは記憶している。父も母もランバネインの記憶には残っているし、確かに彼を世話し此処まで成長させたのは彼らであったのだが、それでもその中における兄―――ハイレインの占める比率というのは、もっとずっと多いものだった。良いこと、悪いこと、楽しいこと、悲しいこと、そして。 その部屋に呼ばれて酒を振る舞われるのも珍しいことではなかった。兄弟の交流は必要だ、そう言う兄の言葉に異論はなかったし、ランバネインもハイレインと過ごすプライベートな時間が持てるというのは嬉しく思っていた。 「いつか俺は死ぬだろう」 ふるり、と言葉が転がり出た。 それはぽんぽん、と机の上を跳ねていってハイレインの耳へとぽーん、入り込む。 「それが明日か明後日か、一週間後なのかはたまたもっとずっと先なのかは分からないが。それでも俺はいつか死ぬだろう」 明日かもしれないんだ。そう繰り返したのは翌日遠征を控えていたからだった。資料では小さな世界だと言う。偵察も丁寧に行った。けれども予想外の出来事が起こらないとは限らない。だから毎回、遠征の前にはそういう話をする。 この喉から甘々しい声が出る訳もなく、軍人としてもそこそこの地位と出自、将来性、そしてその眉目(みめ)のこともあって兄に群がるああいったものには敵わない。 かわいらしい、やわらかい、うつくしい。そういうものを羨む気持ちはなかった、同じものになりたいと思ったこともない。ただ、ずるいとは思っていた。それらがそうである故に、ランバネインはそういったものには敵わない。しかし、そう分かっていてするのだ。兄の誘いに乗って、酒の力を借りて、どうしようもないこの胸のうちを吐露するように。 これを教えたのも貴方だろう、そんな責任転嫁も含んだ唇で。 「だから兄上、俺をあいしていると言ってくれ」 それがどういった内容の愛でも構わないから、そう言って笑う頬は酒の所為で上気していることだろう。子供らしく小首を傾げてみる。こんなに育ってしまった自分には不似合いな動作だとは思ったが、きっと彼は喜ぶだろう。 兄の中で自分がいつまで経っても小さな子供であることを知っていた。それが残酷なこととは思わない。反論の余地は残されていた、別にランバネインはその呪縛から抜け出すことが出来るのだ。いとも簡単に、そんなことはなかったように。 けれどもしない。 「あにうえ」 それでも、彼の唇がランバネインの望む言葉を綴ってくれないことなど、百も承知なのだ。 * image song「caribou」米津玄師 洵さんリクエスト 20140809 *** flower step 風迅 *第一次風迅争奪戦時期等捏造 はあ、と吐いた息はそばから白く染まっていった。 冬も最盛にかかろうとしている、そんな日。三門市には雪が降った。道理で昨日から冷え込む訳だ、と風間は鼻を押さえる。トリオン体になってしまえば暑さも寒さもさほど気にならないので、天気予報を見る習慣は消えてしまった。雨が降りそうな時は空を見れば分かるから困ったことはない。不規則なシフトの所為もあって、洗濯物はいつだって部屋干しだ。一昨年くらいに購入した除湿機は休む暇がない。 はあ、ともう一度吐いた息は今度は囲った手の中で消えていった。掌に水蒸気のつく感覚がする。 くしゅん、と。 冷たい空気に耐え切れなかったらしく、粘膜が震えてしゃみが出た。 いつも通りの防衛任務を終えて一息。報告書を作成して事務室に提出しに行くと、何やら渡りに船と言わんばかりの顔たちが風間を見ていた。 「風間くん!」 顔見知りの事務員にがしっと手を取られる。 「一生のお願い!」 「…一体、何事です」 「何も聞かずにこれを玉狛へ届けて欲しい!」 ばっと差し出された茶封筒は結構な厚みをしていた。面倒だという表情を隠しもしないのは、対面している事務員とは付き合いが長いことから来る甘えだろう。まだ何も言っていないのにそこを何とか! と続けられる。ため息。 「…分かりました」 どうせ、暇ですし。 風間の返答を聞いて事務室はわっと喜色に染まった。 「ごめんね! ほんとにごめんね!」 今度何か奢るからー! そんな声を背中に受けながら片手を上げる。握り締めた茶封筒は思いの外重たかった。 本部直通の通路から出ると、いつもとは違う景色にやはり目が細まった。朝も見たはずだが、こんなに積もっていなかったように思う。歩を進めるとずりずりと靴底が音を立てた。靴底の厚いブーツで良かったと思う。スニーカーでは浸水されそうだ。中途半端に黒い路面が露出しているのもおかしかった。其処だけ人が歩いたのだろう、道の真ん中が多数の足あとで解かされている。もしかしたら蹴って雪を退かしていったのかもしれない。少し横にこんもりと山が出来ているところもあった。 そんなふうにいつもとは違う部分に目を向けていれば、玉狛支部まで辿り着くのはあっという間だった。本部の前には青い人影。 見慣れた、青。 迅、と声を掛けると男は顔を上げた。どうやら雪だるまを作っていたらしい。いびつな球体が重ねられている。 「あれ、風間さんじゃん。どしたの、こんなところまで」 「書類だ。多分、本部で見つかった玉狛の未決済書類とかそんなところだろう」 「え、なにそれ大丈夫なやつ?」 「事務室を見る限り大丈夫そうじゃなかった」 「うわあ。まじかあ」 絶対に、これは渡さない。 そんな冷たい瞳と対峙してから、まだそんなに時間は経っていない。それでもこんな気の抜けた会話は出来るのだな、と思った。意図的に気を抜かせているのかもしれない、その可能性は捨てきれなかったが。 「お前は何をしているんだ」 「何って、雪だるまつくってるんだけど」 「それは見れば分かる。陽太郎か?」 「んー…まぁ、それもあるけどさ」 一瞬。その瞳が何処を見ているのかも怪しいものへと変わる。ここ二年で増えたその仕草に舌打ちをしないだけ風間は大人だと言っていいだろう。 「同じ春は来ないんだよ」 雪だるまの妙に角ばった頭を撫ぜながら迅は呟いた。 「そんな当たり前のことがさあ、おれは今、悲しくてしょうがないんだ」 だからその憂さ晴らしも兼ねて。 そう笑った顔の胡散臭さに少し腹が立って、何も言わずに茶封筒で殴った。そしてそのまま茶封筒を押し付けると踵を返して、振り返ることはしなかった。 「林藤さんに渡しとくね」 またね。 その声だけが妙に縋るような色を見せていて、耳の底から離れなかった。 迅と次に出会ったのは仮眠室の前だった。 「あれ、風間さん。これから仮眠?」 「そうだが」 「じゃあ相部屋しない? 一人部屋の方埋まっちゃってるんだよ」 ほら、と指された使用状況パネルは、確かに個室のランプが真っ赤に染まっている。 「知らない人と一緒になるのはちょっとさあ。一人で使うのもバレた時怒られそうだし」 「…それもそうだな」 「じゃあ決まりね、此処で良い?」 「ああ」 パネルの中から緑のランプの点灯している部屋を選んで、ピッとその番号を押した。がしゃん、と解錠の音がする。 「いこーよ、風間さん」 先に入った迅がこちらを振り向いていた。頷いて、風間も後を追う。手を離れた扉が、背後ですうっと閉まった。 簡易ベッドの上の薄い布団を整えながら風間は問う。 「というかお前はなんでこっちにいるんだ」 「んーお助け業務…? 今日はこっちから出動なんだ」 「ふうん」 面倒だな、とは思ったが口にしなかった。風間に言われるまでもなく、それは本人が一番良く分かっているだろうから。分かっていて、それを手にしたのだろうから。 ピピ、と淀みなく備え付けのアラームが設定されていく。薄暗い部屋の中でも迷いのないそれを風間だって出来るのに、慣れてしまっているのだな、という感傷めいたものを拭うことが出来ない。 「風間さん何時?」 「自分でやるから良い」 空調をいじってから、迅の方へと向かった。 「別におれ、時間設定遅らせたりしないけど」 「そんな心配はしていない。ただ自分でやらないと落ち着かないだけだ」 ピッピッと無機質な音が幾つか続く。その指先をじぃっと見つめられていた。いいたいことがあるなら言え、そう零すと、んー…と曖昧な声が返って来た。設定が終わって身体を起こす。 「風間さん」 自分の選んだ方のベッドに戻ろうと思ったら、その腕を掴まれた。 「迅?」 「ね、あのさ。こっちで一緒に寝ない?」 ぱん、と。 頭の隅で何かが弾けた気がした。簡易ベッドが軋む。 「さみしいなら、」 いとも簡単に押し倒された身体に少しだけ笑った。 「慰めてやろうか」 これは卑怯なのだろうな、そう思う。けれども別にかまやしない、とすぐに打ち消した。 驚愕だろう。見開かれた目が空気の澄んだ冬の空のようで、まろい面に一粒の雨も降っていないのが悲しかった。 「かざまさん」 舌足らずに名が紡がれる。 「かざまさん、それは賢いとは言えないよ」 「そうだな」 「じゃあ、どうして」 戸惑いを露わにすることは別に弱さではない。そう思うのだが風間の下の男は違うようだった。逃げもせずにまっすぐに見返してくる瞳。くもひとつない、空。 「こんな。道をふみはずしてる」 「そうかもな」 自嘲になると思ったのに、それは思いの外なるい音で言葉になる。 「オレとこうしているのは嫌か」 「そうやって聞かれると、答えはノーだけど、さ」 そういう問題じゃあないでしょ。尚も言い募る唇を塞いだら良かったのかもしれない。けれども風間はそうしなかった。その代わりに距離を詰める。 ぐっと近付いたその先で、唇よりも先に睫毛が触れ合いそうだ、と思った。かざまさん、と呼ばれた気がした。もう余分な言葉はなくなっていた。この程度でなくなるのなら、ただ間を持たせるためだけの、特に意味のない台詞だったのかもしれない。 かざまさん、と。その声は奇妙に揺れていた。 「なんだ」 「おれは、」 球面を滑る瞼は、必要最低限の水分しか寄越さない。 「おれは、さびしい、のかな」 「お前がそう思うなら」 「おれがさびしいって言ったら風間さんは何処にも行かない?」 「努力はしてやる」 そっか、と迅は呟いた。そっかあ、ともう一度零されるのと弱々しい腕が背中に回ってくるのは同時だった。 それ以上何を言うこともばからしく思えた。その日はただ抱き合って眠った。生ぬるい体温を分け合うみたいに、存在を確認し合うみたいに。そんな傷の舐め合いじみた睡眠は皮肉にも、ひどく安寧という言葉の具現化に近いものを感じさせた。 ふわり、空気がゆるやかな温度になったのを感じていた。そんな中、風間が用もないのに玉狛支部へと足を運んだのは、自宅前の小さな雪だるまが跡形もなくなったのを確認したからだった。 「ああ、風間さん、久しぶり」 思った通りだ、と目を細める。 支部の前、あの日雪だるまのあった場所に、迅はしゃがみ込んでいた。 「雪だるま、解けちゃった」 「あたたかくなったからな」 「そうだね」 ぐるぐると、その指先は踏みしめられて泥の混じったそれを混ぜあわせていた。白くはなかったものが、どんどんと灰色へとなっていく。 迅、と呼んだのはその行為をやめさせたかったからではない。 「春はな、また来るんだ」 だからその背中が変わらず丸まったままでいても、その先を続けた。 「同じ春は確かに来ないかもしれないけれど、また季節は巡って雪が解けて。そうして同じように春は来るんだ」 「知ってる」 くぐもった声が返って来る。 額を膝に埋(うず)めるようにして、やわらかな色の髪がさっきよりも表情を覆い隠していた。 「知ってるよ、風間さん」 もう一度、繰り返す。ぐしゃぐしゃになった雪の残骸を掬って、それで掌を濡らして。 「知ってるからこそ、春が来るのが怖いんだ」 其処に補足されるべき言葉はもうずっと前から知っていた。度々遠くへ行く視線が、何を見たがっているのか。分からないほど風間は子供ではない。 けれども、それを飲み込んでやれるほど大人でもない。 「ねえ風間さん」 掌の温度で固体でいられなくなったものが、ばしゃりとアスファルトを叩く。 「風間さんから見てさ、おれはさびしそうに見えた?」 顔は、見えない。ああ、と頷く。 「そんなふうに見えるおれは弱いかな」 「そうは思わない。オレは、さみしさが弱者特有のものだとは思わない」 「そっか。じゃあ、怖がりは?」 「それだって同じだ」 息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たしていって、きん、と氷を飲み込んだような心地になった。 「オレが、」 最初の一言が転がり出てしまえば、あとは坂道を転がる石だ。 「オレが何年お前を見ていると思っている。お前がぐずぐずのだめなやつだなんてとうにしっていることだ。そんなお前がさみしがったり怖がったり、所謂お前が弱いと思う状態であっても、正直そんなの今更だ」 息継ぎ。 「お前の知るオレは、そんなことを気にする奴なのか」 はぁっと吐いた息は白く染まっていった。 「…風間さんってさ、かっこいいよね」 だからなのかなあ、と言葉が続く。その頭がゆっくりともたげられる。 「風間さんとなら、次の春もそう悪いものじゃないように思えるんだ」 どうしてだろうね、と弛む瞳は冬の色をしていなかった。足音がする、そう思う。 おまえは、と唇が震えた。 「お前はそんな簡単なことも分からないのか」 「うん、そうみたい」 「ばかだな」 「風間さんの前でだけだよ」 たぶんね、と伸ばされた手を握る。 ざり、と靴底とアスファルトが音を立てた。解けた雪が光を浴びてきらきら輝いていた。外に長い時間いたのだろう、触れたところは冷たくて、だけれどもそれこそが生きている証明のようで。 花は咲く。 蝶は舞う。 まったくの同じものにはなれないけれど、その差異をきっと、愛せる。 「…かざまさん」 「なんだ」 「こういう時、なんて言えばいいのかな」 「…よろしくお願いします=H」 「そうだよね、よろしくお願いします」 「こちらこそ」 春は、すぐそこだ。 * image song「蝶の舞う」cocco 20140809 *** 20200221 |