お前の肉は美味いですか 米出

*水槽出水

 水族館を歩いていた。誰もいない水族館である。この先は禁断の区域だと分かっていた。分かっていたけれど脚が勝手に進む。ちらり、と何かの尾が見えた。魚のようだった。水族館なのだ、当たり前だ。だだっ広いこの空間に自分以外の生命体がいるのだと知った。そして、それが。
 親友の顔をしていないことを、どうしてかとても強く願っていた。



生命体、水族館、禁断の
ライトレ


***

わたしの架空の姉を愛せよ ほかあら

*アニマ荒船

 姿なき姉、恐らくそれは自分の中にある別性の存在なのだろうが、彼女を想うと胸が震える。物心ついた頃から、ずっとそうだった。これは、恋なのだ。自分の中の別の姓に、恋をしている。ずっと、ずっと。
 それは、と考えを遮るように携帯が震えた。可愛い犬からだった。文面はなんてことない内容で、思わず笑ってしまう。ダイヤル。
「声聞きたくなったんだよ」
そう言ったら、きっと可愛い犬は笑ってくれるから。



携帯、姉、姿なき
ライトレ

***

きみを妨げるものになる 三輪+米

 米屋陽介は自身の所属する部隊の隊長について、生き辛そう、との感想を抱いていた。
 最愛の姉を殺された話は聞いている。正直、同情もしている。恨むのも仕方ないだろうし、それを捨てろなんて言うことは米屋には出来ない。
 けれども、彼の視界はあまりに狭すぎやしないかと、時折思うのだ。もっと、もっと、柔軟な発想だって出来なくはないはずなのに、それをすることも赦さないと、自分に課しているようで。そういうところが生き辛そうだと、そう思っていた。
 しかし、言ったことはなかった。言えないと思っていた。言ったところで失ったこともないくせに、と睨まれるのが目に見えているからだ。
 確かに、米屋は近界民に何かを奪われたことはない。家族も、友人も、仲間も、こうして健在だ。家だって無事である。訓練や防衛任務が辛くないと言えば嘘になるが、そこそこ楽しんでいるのだから不幸ではないだろう。
 本当のところを言えば、最初はそれでも良いのだろう、と思っていた。そういう生き方も、そういう生き方しか出来ない奴も、そういう生き方しか出来なくなってしまった奴も、いるだろうと。
(でもさ、もう、他人じゃないじゃん)
そうだ、きっと他人ならずっと、そう思っていられた。
(もうさ、お前はおれの、おれたちの、隊長なんだよ)
 奈良坂も古寺も近界民に家を壊されている。恨みは三輪には劣れどあるだろう。だから、引っ張られる。より強い恨みを持つ三輪の判断なら、間違いはないと、何処かに隙が生まれる。
(秀次、それじゃあ駄目だ)
それでは、
(いつか、しんでしまう)
 そう思うのに、言えないでいるのは。
 今、彼から憎悪を取り上げたら空っぽにさえなってしまうのではないかと、そういう危惧があるからだ。一番に大切な存在を失って、生きる意志さえ手放しかけて、それを繋いだのが憎悪だったのだろうと、米屋でも想像はつく。
(だから、さ)
陽介、とお固い呼び声がした。はぁい、と間延びして返す。
(いざという時は―――)
 たん、と地面を蹴った足音が、ひどく軽いように感じた。

***

嘘もきっとぜんぶお見通し 米出

 何おまえ、おれのことすきなの。
 何度目の模擬戦の時だっただろう、いちいち数を数えるような几帳面さなど持ち合わせていないので分からない。米屋からしてみれば別に特に意味はなく、目についたから、そこそこ仲が良いから、強いから。それくらいの散らばった理由の先にいるのが出水で、というだけの話だったけれど。
 す、き。
 出水からはそんなふうに自分が見えているのかと思ったら、ひどく面白くなった。面白くなって次は、それを肯定してみたらどうなるのかと、好奇心が湧いた。きもちわるいと言われるだろうか、いつもの軽さでまじかっ、とか返って来るんだろうか。アタマノイイ出水の反応なんて、馬鹿な米屋からしたら予測のつかないことも多い。それも、好奇心を押し上げる一因になっていた。
 「あー…っと、いや…」
一度否定しておいた方が真実味が増すかもしれない。そんな無駄な場所に思考を回して口ごもってみせる。だよなー、とでも言おうとしたのか、その口が開いた瞬間を見計らって、いや、あの、と視線をばらつかせる。
「えっと………はい、…すき、です」
 驚け、と思った。いつも冷静な顔が驚きに染まるのは、そういえば見たことがない。それを見たらちゃっちゃと否定して、またいつもの友達に戻ろう、そう思っていた。
 のに。
 「…まじかー」
返って来た言葉の雰囲気は、どの予測とも外れていて、その一瞬を逃した。
「そうかーおれのこと好きなのか、米屋は」
「え、あ、」
「そっかそっかーじゃあ付き合うか」
「ハイ?」
「嫌なん?」
「えーっと…」
「嫌じゃないだろ、じゃあ決まりな。今から俺らコイビト同士」
 急激な展開とこちらをまっすぐ見つめてくる瞳に、頭が追いつかない中で、出水の耳がほんのりと紅いのだけが、やけに印象的だった。



米屋:本当はそうじゃないのに「あ…っと、いえ、あの………ハイ、…すきです」(なんて言ったら、驚くかな)
診断

***

 時枝先輩、今までお世話になりました。私、玉狛支部に転属が決まりました。
 憧れの烏丸と一緒に組めるのだと、その木虎は嬉しそうに言った。

my dear girl 時虎

 そんなうたた寝からふっと目覚めた時、目の前に木虎がいたものだから思わずその腕を掴んでしまった。
「時枝先輩?」
びっくりしたようにこちらを見てくる木虎を眺めていると、少しずつぼんやりした頭が覚醒してくる。
「…あ、ごめん」
ゆるゆると腕を離してやる。そんなに強い力で掴んでいなくて良かった、と思った。非常に優秀だとは言っても、木虎は年下の女の子なのだ。トリオン体でもない今、肌に痕でも残ってしまったら申し訳ない。
 そんなふうに考えていると、木虎はこちらを覗き込んできた。
「どうかしたんですか? 時枝先輩」
その頬にはありありと心配している様が浮かんでいて、周りに対してもこうであれば誤解されることもないだろうになぁ、なんて場違いなことを思った。
「時枝先輩?」
またぼうっとしていたのがバレたのか、木虎がずい、と距離を詰めてくる。
「大丈夫、聞いてた。ほんと、ごめんね」
「そうじゃなくて。どうかしたのかって聞いてるんですってば」
謝罪が聞きたいんじゃありません、と眉根を下げてみせる木虎は歳相応のように見えた。その優秀さ、整った容姿、そしてその綺麗な唇から発せられる少なからず棘を含んだ言葉に、彼女を大人っぽい、と表す人間は多い。
「佐鳥先輩じゃあるまいし、時枝先輩が何の理由もなく腕を掴んだりしないと思っています」
屈んで、椅子に座ったままのこちらを見上げてくる動作だとか、
「話したくないなら別に、それでも良いですけど…」
少し緊張している時の、瞬きが多くなる癖だとか、
「年下で、女で、頼りないかもしれないですけど。
私だって、仲間なんですから。話くらい、聞きます」
少し恥ずかしそうに、目線を逸らすのだとか。
 そんな彼女を見ながら少しだけ笑う。すると、何ですか、私は真剣なのに、とむくれられたので、もう一度だけごめん、と謝っておいた。
 きっと、烏丸の元へ行ったらこうはいかないんだろうな。そう思ったら、さっき見た夢のことなんてどうでも良くなった。



きみとおわかれする夢をみた。
診断メーカー

***

クロネコヨコギリ曜日 菊時

 ああ、今日はついていない。防衛任務からの帰り道、菊地原は呪詛を吐いていた。
 今日は本当に散々だった。近界民は出現しなかったものの、僅かな段差に躓いて階段から転がり落ちたり、誰かの捨てたビニール袋が飛んできて顔面に直撃したり、万が一の時のために常備していたはずのヘアゴムを失くしたり。その前の学校生活まで遡れば、小テストでは解答欄がずれていたし、移動教室の変更のことを一人だけ知らなくて、誰も来ない教室で待つ羽目になったし、出掛けにひっつかんできた財布は空だったし(勿論、歌川に奢らせたので食いっぱぐれてはいない)。
 はぁ、とため息を吐いて立ち止まった菊地原の前を、だめ押しのように黒猫が過って行った。普段はジンクスなど信じないが、こうも重なるとすべての責任を押し付けたくもなる。黒猫は一度立ち止まって、振り返った。苛々している菊地原には、それが小馬鹿にしているように見えた。
 おまえのせいだ、と足元に都合よく転がっていた石を拾い上げる。それを、ふりかぶって、
「だめ」
石を掴んだ掌ごと、上から掴まれた。
「…ときえだ」
 振り返った先にいた友人は、大して強くも握られていなかった菊地原の拳を解き、その中の石を取り上げてしまう。
「なんで邪魔すんの」
「あたったら痛いでしょ」
「別に時枝は痛くないじゃん」
「オレ猫すきだから痛いよ」
その意味不明な言い分に盛大に舌打ちをしてみせても、何処か眠そうな表情が変わることはなかった。
 沈黙が下りる。また石を拾うのを防ぐためか、未だ掴まれたままの手を振り払うのも億劫だった。
 暫く菊地原を眺めていた時枝は、はぁ、とため息を吐く。ため息を吐きたいのはこちらだ、と口を開いた菊地原を遮るように、時枝は呟いた。
「オレが代わりになったげる」
そうして、繋いだ手を引いて歩き出す。
「代わり? はァ? おまえが僕のために殴られてくれるとでも言うの」
抵抗を微塵も示さないままついてくのはただの気まぐれだ。
「生身は無理だけど、トリオン体なら好きなだけどうぞ」
歩みを止めぬまま振り向いた、時枝の目にうっすらと浮かんだ色には見覚えがあった。
「ま、黙って殴られるつもりもないけど」
 最早それはただの模擬戦と変わらないのではないか、そう思ったけれども、妙に胸の辺りが浮き立っていたので言葉にはしなかった。



(まァ、相殺、ってことにしてやってもいいかな)

***

まだこれは恋じゃない 米出

 「あーあ、お前と共闘(や)んの、めっちゃ楽しいのにな」
 そんなことを言われたのはいつのことだったか。チーム入り乱れの模擬戦大会の時だったのかもしれない。それくらいしか、共闘する機会なんてないのだから。
「お前さ、今からでも太刀川隊来ない?」
「ジョーダン」
「って言うよな~」
本気じゃない、そう分かってるからこそ一刀両断出来る言葉。
「そういや、まだC級だった時にもさ、言われたよな」
「…あー、チーム組むのかって聞かれた時のこと?」
「そうそう。特に予定はないって言ったらそれならやめとけ、って言われたやつ」
それを言ったのは誰だっただろう。当時A級だった誰かなのは間違いないが、如何せん記憶が曖昧だ。
「何で駄目なんだろうな」
こんなに楽しいのに、と上を見上げた出水に、思わず言葉が零れていた。
「楽しいからじゃね」
 ぐり、と。色素の薄い目がこちらを向く。
「えーなんでそれがだめなん」
「あーっと…」
なんで、と聞かれても。思わず零れた言葉なのだから理由なんてすぐには用意できない。意味のない音節を繰り返しつつ、考える。
「んー…あー、結局さ、オレらのする闘いって、この世界を守るためとか、そういうのに繋がっちゃうじゃん」
 消えてしまったり、殺されてしまったり。そういうことがなくなるように、そういう願いで出来た組織。それくらい、米屋も理解している。
「だからさ、あー…なんてーの、誰かと一緒が楽しい、とか。そういう浮かれた感じ、だめなんじゃないの」
「それでいくとお前ソッコーでだめじゃね」
「オレはいーの」
うかれぽんちなのに? と問われたから、このやろう、と肩パンしておく。
「だってオレが楽しいのは〝闘うこと〟自体だもん」
半分の嘘。
「あーナルホドな」
お前馬鹿だもんなーと更に続けられたので、今度は脇腹を狙って一発入れておいた。
 楽しすぎるから、越えてはいけないラインを越えそうだ、なんて。言ったらきっと笑い飛ばされるんだろう。

***

 咆哮に、足が竦むのを感じた。何度もこういうことはあったはずなのに、まだ、慣れない。そう思いながら、出水は降って湧いた近界民を睨み付けた。

くもり。のち。はれ。 米出

*過去捏造

 放課後。
「あー今日も国語寝ちまった」
「お前寝てない時あんのかよ」
「んーないかも。イザとなれば出水のノートがあるし」
「人のノートを勝手にアテにすんな」
くだらない話をしながら、学校からボーダー本部への道を辿る、その途中。
 聞き慣れた警報と、バチバチという不穏な音。
 空に唐突に開いた暗い穴ぐらから、ずどん、と現れる近界民。でかい、と瞬時に思った。冷や汗がつう、と滑り降りる。
「…陽介、逃げんぞ」
隣で呑気にうはー、なんて呟く友人に囁く。馬鹿もここまで来ると逆に尊敬さえ出来そうだ。
 囁きが聞こえたらしい、こちらを見遣った顔はきょとん、としていた。何を言っているのか分からない、という顔。
「え、俺らが撃退すれば良くね?」
馬鹿、トリガー出すな。慌ててその手を抑える。
「何でそうなるんだよ!?」
「え、だって、近いし」
ってか目の前だし、と悠長に言う馬鹿の手を掴んで駆け出す。敵に背中を向けるなんて云々と思いはするが、今はまず逃げることが先決だ。
「俺はあっち行くからお前はあっち行け!」
意味が分からない、という顔をしていたノータリンは、それを聞いてやっとああ、と頷いてみせた。
「あーあれ出水狙いなん?」
そっかーお前トリオンの量すげーもんなー、なんて。確かに今日もいい天気だもんなー、くらいの脳天気さで言わないで欲しい。こちとら死活問題だ。
 確かにこの間昇級したばかりと言えど、出水も米屋もB級で、基地の外でトリガーを使うことに何ら問題はない。だがしかし、これはちょっとまずいだろう、と思う。主にデカさ的な意味で。あっちへ行けと言ったにも関わらず並走してくる阿呆に、苛々と舌打ちをした。これでは図星だと言っているようなものだと気付いたのは、してしまってからだった。
 はーん、とその顔がニヤける、この上なくニヤける。
「俺のこと心配してくれてんだ?」
言うやいなや、そのたわけはきゅっと方向転換をして走り出していた。
「陽介!」
「トリガー起動」
 戦闘体が構築されるのも待たずに、飛び上がる身体。軽やかだ、と思った。攻撃の合間を掻い潜って懐に潜り込んで打撃、そんな当たり前の動きを繰り返しているだけなのに、どうしてか初めて見たような気分になる。まだ新米の域を出ないその動きには無駄が多いし、きっとこれ以上に華麗に動く人間は、ボーダーにはたくさんいるだろうに。
 ぐらり、と巨大な影が傾いて、ずしん、と地に伏す。
「ほーい終わったぜー」
ひとっ走りしてきた、とでも言いたげな爽やかな顔で帰ってきたあんぽんたんに、思わず一発繰り出した。
 それを受け止めて、米屋はからからと笑う。
「だぁーいじょぶだよ。俺、強いし」
自分で言うか、と思う。強いって言えるほどしっかりした動きじゃなかったぞ、とも。
「出水が心配しなくたって、死にゃーしねーよ。攫われたりとかもねーよ」
けれども言葉が出て行かなかった。持ち得る限りの罵詈雑言をもってして、今すぐ罵り倒してしまいたいのに。
「だからさーそんな逃げようとすんなよ」
寂しいじゃねーか、と眉尻が下げられた。
 ぎりぎりと掌に向かって押し付けていた拳が緩む。
「…逃げようとなんか、してねーし」
「いやしてたっしょー」
「してねーし!」
「いやいやいや。言い逃れできねーくらい逃げようとしてたぜ!?」
「してねーっつってんだろ!!」
蹴り上げようとした脚は、うおっと! と言う声と共に避けられた。ちくしょう、陽介の癖に。腕を振り上げると、この暴力男ー! と言いながら米屋が逃げていく。それを追いかけながら、出水は唇を噛んだ。
 噛んででもいないと、今すぐゆるっゆるの表情を晒してしまいそうだった。

***

君が考える愛情を教えてよ 奈良米

 うつくしいというのはこの男のような人間に使うのだろう。襟首を掴まれて壁に押し付けられている状態で、米屋はぼんやりとそう思った。目の前の端正な顔は何処か遠くの世界のものみたいで、本当に其処にあるのかすら怪しくなる。
 そうっと動かした手が咎められることはなかった。ゆるりと伸びた指先がその頬に触れると同時に確かに存在することが分かって、表情がへにゃりと崩れる。
 それに毒気を抜かれるように、首元の手からは力が消えていくようだった。
「…とーる」
名前を呼ぶと、未だその瞳の奥底に燻る光がこちらを射抜いてくる。
「おれには、わかんねーよ」
殴られるかもしれない、そう思わない訳ではなかったが、こんなにうつくしいものが幸せを求めるのなら、その道筋を示してやるのが道理のような気がした。
「おまえが幾ら正しいことだって云っても、云い聴かせても、おれにはわかんねーよ」
奇妙な喉の震えは隠し通せたはずだ。
 うつくしさというものを愛でる心は、一応は米屋にだってある。勿論それに種類はあって、眼前の男のそれは加虐性を誘うものよりかは、熱烈な愛で満たして膨張させてやりたい、そういうものだった。けれども、米屋の中にそんなものへの理解はなく、ましてやそういうものが存在する訳でもなかった。
 故に、米屋は繰り返すしか出来ない。
「わかんねーんだってば」
しあわせを求める伽藍堂の胸を、誰かの愛で満ち満ちた状態にさせるために。
 「…馬鹿じゃないの か」
こつり、とその額が米屋のそれへとつけられる。広いと自覚している自分のものより、彼の額は半分程度に狭いように思えた。
「じゃあ、お前以外に誰が俺を満たせるというんだ」
そんな弱々しい声を出すなと、心の奥が震える。
「お前は、お前以外のものに満たされる俺で良いのか」
いつのまにか地に落ちていた視線が上がって、ふらり、至近距離の瞳に捕まった。
 うつくしい瞳だった。その瞳に像を結ぶのは今、米屋だけなのだと思ったら、あまりの贅沢さに息が苦しくなる。
「おれで良いの」
「お前が良い」
「でもおれわかんねーよ」
「馬鹿だな」
うつくしい瞳はまるでその中から、糖蜜の氷でも取り出せるかと思うくらいにどろりと濁って見せた。
「そういう時は乞えば良いんだ」
ああ、と零れた言葉は本当に声になっていただろうか。
 触れているところから熱が伝わってくるようだった。身を委ねるように目を閉じたけれど、脳髄を痺れさすようなその甘さは、暫く消えることはなかった。



イトシイヒトヘ
http://nanos.jp/zelp/

***

 菊時

 すきだよ。
 言葉を落とし込むように、菊地原は囁いた。唇が耳殻に触れるくらいの近さ。離れるのが勿体ないと感じない訳ではなかったけれども、すいっと身を引く。
 こちらを見つめる目は大きく見開かれていた。予想通りだ、と口角が上がる。これを見ないでいる方が余程損をする。
「ねぇ、ときえだ」
喉が灼けるほどのあまったるい声。
「そんなに、おどろくこと、だった?」
気付いてたくせに、と付け足せば動揺で肩が小さく揺れた。
 にぃ、と笑って距離を詰める。離れようとするのを腕を引いて引き止める。力なんて入れてない、本当に触れるのと同じくらいの動作。でもそれで充分だと分かっている。
「ねぇ、」
事実、時枝は凍ってしまったように動かない。
 そういう反応をもっと見たかった。
「どうして逃げるの?」
うろうろと定まらない視線に割り込むように首を傾げる。いつだって崩れないポーカーフェイスがこうして自分の手で崩されていることが、菊地原にとってはこの上なく快感だった。爽快というにはひどくうすぐらい、どんよりとした支配欲に近い感情だった。
「ねぇ、」
ときえだ、ともう一度名前を呼ぶ。
「へんじは?」
ああ、でも。
 こくり、と上下した喉に頷く。どれだけこの胸の奥がずっとくらいもので満たされていても、そこから否定の言葉が吐かれないことに湧き上がるのは、そんなものとは裏腹な、ひどくきらきらしたものなのだ。



「囁く」「快感」「大きく」
http://shindanmaker.com/a/253710


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20150806 編集