I love you 

 はっと意識が浮上した。
 窓から差し込む月明かりがいつもよりも明るくて、そういえば今日はスーパームーンだったな、と思い出す。名前も知らない同僚が騒いでいた。遠距離の彼氏と見るんだ、そんな、可愛らしいことを言っていた気がする。
 ごろり、と寝返りを打つとすぐにその顔が目に入った。豆球も消えた部屋で、今日は月が強いから眠っている横顔がよく見える。
 何か夢を見ていた気がした。
 こわい、ゆめを。
「端束くん」
静かな声で、呼んだ。
 戦闘中は鬼と見紛うほどに猛るその頬も、寝ている今となっては同一人物なのを疑うほどに静かだ。恐らく、そんな彼を知っているのは自分一人―――とまでは言わないけれど。そんなに多くはないだろう。
「端束くん、私のこと、忘れないで」
声が震えていることに自嘲が漏れる。
 今までこうして何度も何度も忘れてきただろうに、自分がそうなることは。
「うん」
掠れた寝言のような声と共に手が伸びてきて、ぽふり、と頭を抱え込んだ。
「はなつかくん」
「いいよ、忘れない。おれはずっと鈴暮さんのこと覚えてるよ」
「…うん」
「だから大丈夫だよ」
「うん」
「もうこわいゆめはみないよ」
とん、とん、と撫ぜる手が、何処かへ行っていた眠気を呼び戻す。
 思い出しかけていた夢も、その夢の感覚はその手が消してくれたようだった。目を閉じる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 今度は、いい夢が見れそうな気がした。



I love you = 鈴暮『私を忘れないで』
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***

曖昧ミー・マイン 

 夢を見た。
 気がする、と虎二は真っ暗な天井を見上げながら思考に付け足しをした。どんな夢を見ただとか、そんな感想めいた感覚は残っていなかった。多分、夢を見ていた、それでこんな真夜中にはっと目が覚めた。そんな曖昧なもので。
 はあ、と息を吐こうとした瞬間、横で何かがもぞりと動くのが分かった。咄嗟に身を硬くしたが、すぐにそれが昨晩泊めた妻鹿であること気付く。理由はいつもの深酒だ。オンラインゲームの友人と会って飲むのは別に妻鹿の自由だが、そろそろ節度というものを覚えて欲しいと思う。隊長だからと言うだけで彼の後始末に駆り出される自分の身にもなってほしい。
 なんて言いつつも、恐らく誰かに変わると言われても譲りはしないのだろうな、と思った。実際、本人からはまだ高校生の身分であるのだから迎えなどは来なくて良いと、こちらを慮った発言も貰っているのだ。それをすべて蹴散らして、隊長だからという大義名分を掲げてあれこれ世話を焼いているのは虎二の勝手である。体調面や主に遺失物だとか周りへの迷惑と言った観点から、深酒はやめて欲しいと思うのは変わらないのではあるが。
 橘家に運ばれてそのまま布団へと放り込まれた妻鹿からは、騒がしい匂いがした。酒の匂い、つまみであろう油物の匂い、煙草の匂い、そして、嗅ぎ慣れた妻鹿自身の匂い。隣に妻鹿が転がっているだけで、まるで虎二まで居酒屋に放り込まれたような、そんな気分になってくる。真っ暗で視界が閉ざされ、まだ半分寝ているような状態では尚更。
 すん、と鼻を鳴らす。妻鹿が起きない程度に、少し寄る。スナイパーだからか、妻鹿は人より気配察知に長けているように思えた。以前、今と同じように夜中に目覚めて独り言を言った時、それで起きられて慰められたのは記憶に新しい。
 そういうことを、して欲しくない訳ではなかった。妻鹿の慰めは慰めというほど同情の色を持っていなかったし、基本的に人を甘やかすのが得意なのだろう。その腕の中はひどく居心地が好い。あるべき場所へと戻った、そんな心地にさえなる。
 それでも、虎二は妻鹿の前では格好を付けていたかった。夜中に悪夢を見て飛び起きるなど、子供のようで妻鹿には知られたくなかった。妻鹿が虎二のヒーローだからか、恩人には格好悪いところを見せたくないのか。それらは理由としては少し弱いような気はしていたけれども。
 詰まった距離の分だけ騒がしさは近付いた。此処に一人ではない、それが分かって安心する。あと少し、一分もしたら元の位置に戻ると、そう思って息を吸い込んだ、その時。
「ぅ、わ…!?」
にゅっと伸びてきた妻鹿の腕が、虎二の頭を抱え込んだ。 これで起きるのか、と羞恥で恐らく赤くなった虎二とは裏腹に、妻鹿はその後のアクションを起こさなかった。恐る恐る至近距離の顔を見上げてみるが、暗くてよく見えない。けれどもどうやら、目は開いていなさそうだと思った。ならば、これは寝ぼけているのか。
 虎二の疑問に答えるように、むにゃ、と口元を緩ませた妻鹿が呟く。
「とらじの…においの、だきまくら…」
 その言葉になんだか妙に腹が立って、妻鹿の側頭部を虎二の拳が撃ち抜くまであと三秒。



絶対に安心出来る場所のはなし



「とらじ、きいて…とらじの匂いのする抱きまくらかかえてたら突然ヘッドショットされる夢を見た」
「へー。ふーん。へー」
「なにおこってるの…」

***

くちびる、塞いで 

 子供扱いを、感じる瞬間が良くある。
 確かに虎二自身はまだ高校生で、彼は大学生で。たったそれだけと言われればそうかもしれないけれど、年齢の差は埋めようがなく、それを虎二も良く分かっているけれども。問題は、その人が恐らく、無意識の内に虎二を子供扱いしていることだ。
 これが、まだ、意識的なものだったのなら。
 胸ぐらを掴む。
「えっちょ、虎二、何!? 俺今日は何もしてないよ!? ついでに昨日も!!」
慌ててべらべらと弁明を始めるその人を、煩いな、なんて思って。
「妻鹿さん」
乞うように、呼ぶ。
 虎二のことを子供だと思うのならば、さっさと大人にしてくれれば良いのに。

***

おかしくなりたい 

 死ぬかもしれないということを、忘れるな。
 それは誰に言われたでもない、虎二の胸の内に巣食っている感情だ。父を、母を。壊される日常というものを知っているからこそ、刻まれている感情。
 ランク戦だった。隊として、上へ行こうなんて、そんなふうに思っている隊員はいない気がしたけれども、こうしてボーダーに所属している以上、それなりの形に強さを示してやらないといけない訳で。遠く、後頭部を見ていた。金色に染められたその頭は、問題児アタッカーと共に前線に踊り出ている。いつもの、光景。そう思うのに、胸がざわめくのは。
「…アンタは、そういうこと言われるの、嫌いそうですね」
虎二がそういうことを口にするのは、泣きべそかいて止めるくせして。自分のことは二の次だと言わんばかりに、汚れ役は引き受けたと飛び出していく。ゲーム脳なだけじゃない、死にたがりという訳でもない。
 ただ。
―――死なないで。
知っているのだ、きっと。
 息を吐く。
 そんな甘えた言葉を吐き出せたら、良かったのに。

***

なにもいらない 

 そんなヒーロー思考だとか、正義感とか、そんなものがあった訳じゃない。確かに誘われる前からボーダーという組織に興味はあったけれども、やはり切っ掛けは友人から誘いがかかったことなのだから、その程度のものだったのだ。それを馬鹿にされたり呆れられたりするのは、まぁ少々気に食わないところもあるけれど、仕方ないとも思うので今更気にしない。
 それでも、その世界へと飛び込んでしまえば若干の意識改革というのはある訳で。
―――おにいちゃん!
幼い子供特有の高い声が、脳内で響いて止まらなくなることがある。
―――おにいちゃんをたすけて!
 罪悪感があるのかと問われれば、それも微妙だっただろう。そもそもあの場の責任者は妻鹿ではなく、当時C級でしかなかった妻鹿には少女を抱いて逃げるくらいしか許されなかった。自分に出来ることをしたし、もしその力の無力を恨むというのなら、妻鹿には自分より先に浮かぶ適任というのがいる。
 責任転嫁と、言われればそうなのかもしれなかった。それでも、要らない罪まで背負ってやれるほど、妻鹿はお人好しではない。
 あのあと、彼はボーダーを辞めたと聞いた。
「とらじ」
そんなことを思い出したら、無性に声が聞きたくなった。携帯を取り出す。
 あの時。
 あの時、崇高な意志で助けた訳じゃない。罪を償いたかった訳じゃない。何を思うでもなく、其処に敵がいたから。倒すべき敵がいたから、走っただけで。ああ、それでも。
「あ、もしもし、虎二? 俺。妻鹿さんだよ~」
 君が今其処にいることが、こんなにも嬉しい。



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***

ぜ ろ き ょ り 

 朝だ、と虎二は薄く目を開ける。背中が妙に熱かった。既にお馴染みの妻鹿である。そういえば昨日も泊めたんだった、と思い出した。妻鹿がこうして酒を飲んで潰れて橘家に収容されるのは虎二が高校生の頃から続けられていることで、本当に今更なのではあるが。それにしても、何か違和感があった。いつもよりも、もっと、熱いような。
「………とらじ?」
耳の裏で囁かれたとろけるような声に、ばっと昨夜の記憶が蘇った。
 熱いはずだ。だって二人を隔てるものなど何もないのだから―――言葉通り、何も。
 羞恥に悶えている虎二に気付いているのかいないのか、未だ寝ぼけているらしい妻鹿はその抱擁を強める。ずっとくっついていたはずの肌がもっとくっついて、その熱さが愛おしい、なんて。
 もう暫くは後ろを向けないと思った。だからそのまま二度寝することに決めた。



重ねあうからだの重ならない隙間まるごと抱きこむ まるごといとしむ / 林あまり



当然遅刻した。

「めずらしーね、妻鹿さんはともかく隊長が遅刻なんて」
「今日、すごい、なんか…おなじかおりする………?」
「鈴暮ちゃん! 新しいゲームの話なんだけど!!」
「鈴暮さん! 美味しいプリン作ろうと思うんだけど!!」

***

たまごの内側は薄い青 

 名前を呼ばれたような気がした。
 ふと顔を上げる。真っ暗で何も見えない。ごそごそと聞こえる音は、同じ部屋で眠る弟が寝返りを打った音だろう。
―――死なないで。
そんなふうに細い声で、さいごに乞われたのはいつのことだったろうか。この街で生きていくのに、死というのが普通に生きるよりも隣に感じられることに気付いたのは。
 昔は、この静まった夜にまぎれて良く弟は泣いていた。声をどれだけ押し殺しても、兄である自分は何故か分かってしまった。双子だからかもしれない、たった二人、残された家族。目を閉じる。最近、弟は泣かなくなった。それが何処かの隠れることを知らないスナイパーの所為だと思うと腹立たしい。
 虎二、と口の中でだけ呟く。ごろり、と寝返りをうつ。どれだけ腹立たしいものが理由であろうと、大切な弟が泣くことがないのなら、それで良いのだ。



声深くねむる湖ひたひたと細胞の顔あおくあふれて / 東直子



「おはよう」
「おはよ。…兄ちゃん昨日俺のこと呼んだ?」
「え、なんで」
「なんか、呼ばれた気がした」
「そう。呼んだかも」
「そっか。すぐ返事すればよかったね」

きみが呼ぶならどこまでもとんでいくよ。

***

獏は接吻けで夢を掬う 

 うう、と声が上がった。嫌な夢でも見ているのだろうか、端束は上体を起こして隣を覗き込む。鈴暮さん、と呼び掛けてもその人は起きなかった。うう、うう、とすすり泣くようなうめき声を上げるだけ。肩を揺すぶっても起きない。いつもなら、起きるのに。
 鈴暮さん、ともう一度呼ぼうとして。
「…えの、き、さん」
泣きそうに紡がれたその名前に、唇の動きが止められてしまった。
 別に、浮気だとか何だとか、言うつもりはない。そもそも榎木は女の子で、同じ隊の仲間なのだ。端束と鈴暮は結婚しているのだし、そんな心配をすることは馬鹿馬鹿しいと言っても良いくらいなのに。
 くやしい、なんて。
「…おれ、鈴暮さんのこと、すきすぎるでしょ」
きっと誰かが聞いたら何を今更、というようなそんな言葉は、夜に融けて消えていった。



真夜中の少女たちから取り除く赤く湿ってしまうだけの夢 / 黒木うめ

***

僕だけのシャングリラ 

 妊娠した。
 その唇が告げた言葉を暫くの間飲み込むことが出来なかった。
「…ッ、と。嘘、でしょう」
思わずその手首を掴む。簡単に掴めてしまう手首に、今どれくらい力が入っているのか分からなかった。鈴暮の表情はあまり変わらない。それが痛い時でも、あまり変わらない。余裕のない今、その機微を読み取るのは、端束には出来ない。
「なんでそんな嘘吐くの」
「そういうのがオペレーターの中で流行ってるみたいだった」
しれっと言う声も震えているようには聞こえなくて、胸のばくばく鳴る音の方が煩くて。
 人がまだたくさんいるロビーの真ん中。何やらただごとではない雰囲気で向き合う二人に、不穏な空気が周りへと広がっていく。心配そうな目、目、目。心配されることなんて、ないのに。
「だってできる訳ないじゃん」
「うん」
「何にもしてないのに」
「うん」
「おれさあ、」
 目が見れない。
「鈴暮さんだけがいれば良い」
やっと、手を離すことが出来た。そっとその袖を捲る。
「鈴暮さんだけじゃなきゃ嫌だ」
 出て来たあまり人目に晒されない手首には赤く痕がついていた。ごめんね、と呟いてその痕を撫ぜた。

***

逃がさないで 

 薬指に光る指輪には、何も名前は彫らなかった。きっとちゃんと彫ったりしたかったのだろう、そう分かっていたけれど、鈴暮はそれを口にはしなかった。
「ねえ、端束くん」
声を上げる。すこし眠そうな目をしたその人は、うん、と返事をした。
「指輪、大切にするね」
「うん」
「だから端束くんも、失くしたりしちゃ、だめだからね」
「うん、失くさないよ」
 名前など、彫らなくても。
 それは、さびしがりなその人が苦渋の思いで用意してくれた、最後の逃げ道だったのかもしれなかったけれど。
「約束だよ」
「うん、約束」
その逃げ道を使うことなんて、絶対にないのだから。

***

20190311