エネミー 

 これで全部だと涼暮は最後に唾を吐き出して、それから便器のやわらかい部分を押さえつけて立ち上がる。
 喉が渇いていた、何か飲まなければ。今出してしまった分を、足して。あとは、カロリー補給。と、そんなことを思って開いたドアの向こうには従弟がいて。
「はは、涙目のよーくんとかちょーレア」
「うるせえ」
「やめちゃえばいいのに」
 その言葉に大きく目を見開く。
「髪染めてもカラコンなんてしても、あの人にとってよーくんはあの男の代わりなんだよ」
「うるせえ、」
分かってる、と口にしなかったのはせめてもの抵抗だった。
「どけよ、洗面台使えねえだろ」
「うっわ、ほんとよーくんって可愛くないよね」
じゅんちゃんせんぱいとは大違い、と続けられた言葉に、可哀想な人間もいたもんだな、と思った。



押さえつける、涙、大きく
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***

(とけてしまいそう) 

 散らばった鞄の中身にため息が出た。どうしてこうも嫌なことは重なるのだろう。朝のパンにはバターがついていなかった、いつもの道は工事中、仕方なく別の道を通ったらそこはとても混んでいて階段では足を踏み外すし、授業には遅刻、レポートの出来も散々だったし、今は鞄をひっくり返した。こういう日もある―――そう片付けてしまえれば良かったのかもしれないが、生憎私はそういうことに我慢のならない質だった。どうして私が。うつむいて鞄の中身を拾っていく。
 誰も、手伝ってはくれない。それはもう、当たり前だった。悪名高い女、とそれは私が言ったのではないし、私は生きたいように生きているだけなのだけれど。そんな女を手助けするものなんているわけない。どうして、と思いながら只管に手を動かして―――きっと顔に出ていただろう。それからひときわ遠くに飛んでいってしまった学生証を拾おうとして、それが先に誰かに拾い上げられるのをしゃがんだまま驚いて見ていた。
 手だけしか見えなかった。でもきっと、男性だろう。一体。
 そんな、物好きが。
「すてきな―――名前だね」
思わず顔を上げた。
「君の、名前だろう?」
海って入ってる、と言った男に慌てて頷く。海未。決して満ちることのない海。そんな名前を付けたのは間違いだった―――そうお母様が言ったのを忘れてはいない。だからお前の強欲は尽きることがないのです、その名を恥じて生きなさい。
 実の、母に。そんなことを言われてしまえば、箱庭で育った私にはもう、為す術もなくて。この名前が嫌いだった。どうせ末の娘なのだ。そのうちこの家とは違うところへ出て、苗字も変わって、歯車の一部に埋もれるならもう名前なんてどうだって良いだろうと、そのうち変えてしまおう。そんなことすら。
「決して満ちることのない海」
お母様と同じことを男は言う。
 毒気のない顔で、言う。
「素晴らしい名前だね―――世界の海、そのものだ」
「その、もの?」
「だって、そうだろう? 海は広がり続けるからその身にたくさんの生命を内包しているんだ」
それって素晴らしいし、すてきなこと、だろう。
 ぱちん、と世界の弾ける心地がした。
 素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい! この呪われた名がそんなふうに言われるなんて!
「あの、不躾かもしれませんが、」
震える。身体が、心が、すべてでよろこびを表している!
「貴方の、お名前は?」

***

 お前は役に立たないと、そんな直接的な言い方ではなかったけれど。長いことそんな扱いだったものだから政略結婚なんて古臭いものに巻き込まれた時も素直に判を押した。
「写真で見るよりも小さな方だったんですね」
よろしくお願いします、と少し疲れた顔でその人は笑っていて、仕方なく握手をしたのが始まり。

やさしい燕はいませんが、 

 あたしの夫となった人が前妻に逃げられて、その逃げた人が所謂あたしよりも格上のお嬢様だったものだから、今度はこの人が好き勝手しないように、と鎖の意味で与えられたのがあたし、という訳だった。なるほど賢い、と思う。旧い考えで血というものを重んじるこの辺りの家では、理にかなった作戦とさえ思える。そこまで馬鹿ではないあたしはそう理解して、自分がこれからどうなるか想像して―――それからそれから、そのすべてが杞憂であったことは知った。
「僕の中にいるのは彼女だけなんだ」
 同じ家に越してきた初日、広いベッドの上で不束者ですが、と言ったあたしにその人は一瞬キョトン、として、それからそう言った。
「だから、君を抱くことは出来ない。それは海未さんへの裏切りだからね」
何を言っているのか分からなかったが、そのまますやすやと子供のような寝息を立て始めたその人に、とりあえず、とその日はから回ったまま眠りに落ちた。
 そういうふうにして日々を過ごして、あたしは少しずつその人について理解を深めていった。なるほど、前妻が逃げ出したくなるのもわかる。何もするにもこの人は仕事最優先なのだ。これでは放っておかれてさみしくなるのも仕方ないだろう。
 とても自由で、子供がそのまま大人になったみたいに、でも確かに大人で、かわいいひと。そう思ってしまったら好きになるのにそう時間はかからなかった。
 けれどもその思いを伝えてもその人はごめんね、と笑うだけなのだ。
「僕の子供は洋くんだけで、あの子は僕と海未さんの結晶で、とても出来た子で、僕には過ぎる子で…だから、僕は洋くんだけで良いんだ。君には悪いけれど、他は要らない」
その危惧はないのだと伝えても、やっぱりその人は首を振る。
「多分君には理解されないだろうけれど、僕は海未さんが好きなんだ。洋くんと間違えられることに耐えられないくらいに」
だから、はやくおやすみ、と初日から結局変えることのなかったダブルベッドで、頭を撫でられた。やさしいけれども何処か粗雑な、まるで男の子にするみたいな遣り方だった。たぶん。子供にしてるみたいだ、とあたしは思う。
 どうして理解できないなんて言うんだろう。あたしは確かにまだ子供なのかもしれない。大人になれないのだし。
 この人より七つも下で、なんでも―――セックス以外はやってもらえていると言っても過言ではなくて。こんなに恵まれていて、きっとこの人は否定するだろうけれど、愛して、もらっていて。
 それで家族になったつもりだった。セックスをしない家族なんてたくさんいる。そういう夫婦だって悪くない。そう、言い聞かせて。
 それなのに、この人はまだ夫婦になったつもりすらないのだ。もしかしたらあたしのことなんて娘か何かだと思っているのかもしれない。なんてひどいんだろう、なんて羨ましいんだろう。この人の心、すべてを奪っていった顔も知らないうみさん≠ニやらには妬ましささえ感じられなかった。
 完敗だった。
「…和海さん」
「なあに」
「明日もお仕事、頑張ってくださいね」
「うん。僕にはそれしか出来ないから」
おやすみ、おやすみなさい、と交わして眠りにつく。
 今は、この幸せを。一緒に朝食を食べて、いってきます、いってらっしゃいと言い交わして、ただいま、おかえり、おやすみを言い合う。
 この幸せを手放さずにいようと、そう、決めた。



image song「愛妻家の朝食」椎名林檎
image song「年上の彼」奥華子

***

 

 「今日泊めて」
「家には」
「友達のとこって」
それで許可が出るんだな、と思ったけれども言わなかったのはきっと正解だっただろう。自分の入寮に際してどれほどの泥沼の遣り取りが行われたのか、当事者のはずなのに外されていても、それくらいは分かっていた。察しはついていた。
「よーくん」
だめ? とその首が傾げられる前に半歩引いて部屋に入れてやる。
 この仕草が嫌いだ。否応無しに彼女を思い出させるから。
 血とでも言うのか。一人悶々と考えながら今にも泣き出しそうな顔の従弟を放って勉強机に向き直―――ろうとしたところを思い切り遮られた。
「よーくんひどい!!」
「ちょ、首締まる」
十センチは己より小さい身体に首から吊る下がられてしまうと、流石に苦しい。
「ひどい! おれがこんなに泣きそうな顔してるのに!」
「…だからだろ」
「そういう時はどうしたのって聞いて慰めるべきでしょ! 姉さんたちはいつもそうしてくれる!!」
「じゃあその姉さんのとこ戻れよ………」
「姉さんには言えないことだからよーくんのとこに来たんじゃん!? なんで分かんないの!? 朴念仁!!」
「分かりたくねーからだよ…」
 とは言うものの、このままぶら下がりお化けをされているのも気持ちが悪い訳で。
「………何があったんだよ」
「わあい、よーくん話聞いてくれるんだやった、一個勝った」
「追い出すぞ」
「わーごめん、ごめんって。聞いて」
すう、と従弟は大きく息を吸う。すごい顔だ。彼の言葉を借りるなら、可愛い顔が台無しになるくらいの。
「じゅんちゃんせんぱいのこと、本当に好きになっちゃった」
「は?」
「どうしよう、おれ、じゅんちゃんせんぱいのこと、本当に好きになっちゃった!」
「いや二回言わなくても聞こえてた」
「おれ、じゅんちゃんせんぱいに抱いて欲しい!!」
今飲み物を口に含んでいなくてよかった―――そんなことを思う。現実逃避である。
「え………何、お前、下井の家諦めるの」
「そんな訳ないじゃん!!」
「はぁ…」
「下井の家はすぐによーくんから取り返すっていうかまだよーくんのじゃないし! でも好きになっちゃったんだもん! 仕方ないじゃん!? 運命の女神様がおれにいじわるしたんだ! 入学式の日に桜の木の下にいた人に好きって言うなんて、そんな可愛いこと決めたおれに嫉妬したんだー!」
「………意味わかんねえ…」
「どれが!?」
「全部」
 桜の木の下とか嫉妬とかもよくわからないけれど。
―――本当に好きになっちゃった。
これがとりあえず、一番意味が分からなかった。そもそも同性に好きだと言う時点でとんでもないことのような気がするのだが、そうではないのだろうか。今まで真面に人間関係を築いてこなかった故に、正答が分からない。
「おれ、どうしよう」
「諦めたら」
「どっちを」
「どっちでも良いよ…」
本当にどちらでも良かった。というか諦めてくれるのならばこの世話を焼く関係も終わる訳で、一つ負担が減ると思えば。いやそれは自分にとってよくないことでは、あるけれど。
「よーくんは諦められるの」
じっと、真面目な目が向いていることは分かっていた。
「おれは、無理だよ」
 彼が、何を求めているのか、何が彼の根幹なのか、よく分かっている。だって、そうでなければあんな、刺すような怒りをぶつけられることだってなかった。
「下井の家に、父さんに認めてもらうことの方が大事だ」
そう、と息を吐く。
「ならそれで良いんじゃねえの」
「なんかよーくんが優しい」
「気のせいだ気持ち悪いくっつくな離れろ」
「えっいつもあのなんだっけちっさい先輩とか顔のキレーな先輩とか妻鹿くんとかとくっついているじゃん!」
「何で妻鹿の名前知ってんだよ。クラス違うだろ」
「だって上級生とつるんでたら目立つでしょ。あーいう感じだし」
よーくんも有名人だよね、おれ悔しくなっちゃう、と笑う従弟が本当に気色悪くてべりりと引き剥がす。ひっどおい、と勝手にベッドに転がった、それを放置して今度こそ机に戻る。
「ねえ、よーくんはさ、」
やわらかな声が気に食わない。
 物語を綴る彼女のような声が、気に入らない。
「どうして、頑張るの」
がんばるのやめてくれたら、おれの勝率も上がるのに。
「ほんとはあの家、欲しいの」
「いらねえっつったろ」
「でもよーくんマザコンだしなあ」
「てめーに言われたくねえよファザコン」
「あっ、否定しないんだー。明日じゅんちゃんせんぱいに言っちゃお」
「勝手にしろよ…」
シャワー起きたら借りるね、とごそごそ音がして、制服が床に捨てられる。
「うっわ。よーくんのくせにおれに彼シャツとかさせちゃうんだ?」
「勝手に着といて文句言うな」
「あー早く背、伸びないかな。このままじゃおれ、じゅんちゃんせんぱいにキスするのも一苦労。あっでも大きくなっちゃったらおれの可愛さ失われちゃう!? 困ったなーどうしよう」
「しらねえよ…」
何処の誰だか知らないとまでは言わないが―――そのじゅんちゃんせんぱい≠ニやらも災難なことだと思った。
 背後からはすぐに寝息が聞こえてきた。相変わらず図太い、と思う。他人のいるところで眠るなんて本当に、理解出来ない。
 家か、心か。
 彼が泊まることになった発端を思い出して、そんなものお前の中ではとうに決まっているし、これはある種の経過報告と牽制だったのだろうと、そんな言う意味もないことを思った。



20151026

***

海の見える町 

 じゅんちゃんせんぱいはこのあとどうするの、と馬鹿な後輩は、馬鹿な後輩だった人間はそう言った。知るかよ、と返すと何となくよーくんと似てる、とにへら、笑う。一応此処はベッドの上で、瑠璃川がそういうことが無理なのだと分かっていても、だからと言って他の男の名前を出すのはどうなのだろうと思う。
 否、もしかしたら―――ずっと理解したくなかっただけで、そのよーくん≠ニやらは彼の一部だったのかもしれない。逆もまた、然りなのかも。高校生だった、血が繋がっていた。瑠璃川にはそういう存在はいなかったし彼らの事情を十分の一も理解していなかったけれど、何かしら大変だったことは分かっているから。
 でも、それでも。
 今彼は、そのすべてを捨てて切って、瑠璃川を誘拐したのだから。それならそれ相応の対応をすべきだ。ぺちん、といい音がしてその意外と広いデコに瑠璃川の指がヒットする。デコピン。これも何回やっただろうか、久々な気がしないのは、本当はずっと待っていたからか。
 運命の女神さまなんてものがいるのならそれは本当に、気ままな奴なのだろう。
「下井」
ううん、と呼び直す。
「梓」
 海に行こう、と言ったのは瑠璃川だった。この時間を少しでも長く、伸ばしていたかった。この旅の目的がなくなれば、瑠璃川は、彼を。
「お前は馬鹿で、そしてクズだ」
「知ってるよ」
「それはオレの所為だ」
「うん。おれがお願いしたの」
「だからお前はオレの傍にいなきゃいけない」
「うん。分かってるよ」
「ならいい、おやすみ」
明日は海だ、と目を閉じる。
 何処でも良かった。
 このまま彼を人間にしてしまうくらいなら、明日なんて来なくて良かった。



海なんか見えっこねえよもう眠れ片面だけのコインを握って / ほむらひろし



20151027

***

タイムスリップは出来ないから、これから未来を作りましょう(つぶしましょう)。 

 それは本当に偶然で、意図的なものではなくて、そりゃあ同じ区画に住んでいるのだからそういうことだってあると思っていたし、もしかしたら彼に触れる未来なんてものもあるかもしれないなんてそんなことを夢見ていた時期も、勿論あったにはあったのだが。
―――おれのこと、もっとクズにしてよ。
どんなプロポーズだと笑うだろう。学生時代ならきっと、この言葉には傾かなかった。
 だってあの頃はすべてが見えていた。もっと冷静に、視野を広く持てていた。それが煮詰まって煮詰まって、彼と似たようなもの≠探すようになってしまったのは、何度も頭の中でもの≠ノしてしまったのは、今こうして、すべての選択肢を潰していった。
 取った手はあたたかくてきもちわるくて、涙が出るほどに苦しい。それでも、言葉にする。嘔気に混ぜて、愛を囁く。
「本当は、ずっと、こうしたかった」
 年下の男はえへへ、と可愛らしく笑ってみせた。
「そんなの、百年も前からしってましたよ」
だっておれは賢いですからね! と言う彼に、百年前は生まれてないだろ、とチョップした。



たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてくれぬか / 河野裕子

***

on the Game 

 「じゅんちゃんせんぱいと、ケンカしたんですか」
名前も知らない下級生にちょっと、とその辺の空き教室に連れ込まれ(とても小さい子なのに力はとんでもないものだった)、唐突に突き付けられたのはそんな言葉だった。訳が分からない。
「じゅ、じゅんちゃんせんぱい?」
「じゅんちゃんせんぱいはじゅんちゃんせんぱいです! 瑠璃川洵! おれの、おれだけのせんぱい!!」
ああなるほど、と頷く。瑠璃川くんのことなら知っている。去年クラスが同じだった。
 それから、喧嘩、と考える。思い当たることがない訳ではないが、あれは多分、喧嘩ではないのだろう。だって何かしら、二人の間で諍うようなことが起こった訳でもないし、交流がその後途切れたのだってちょうどクラス替えがあって、違うクラスになってしまったからで。特に、理由なんてないはずだ。
 だから、首を振った。なのにそのお人形さんみたいな下級生はとってもへんな顔をして、それからはああ? と多分彼にとっていちばんの低い声を出してみせた。全然怖くはないけれど、如何せん彼の身長が低い所為で顔が視界に入って、落ち着かない。視線を足元に落としても、いらいらと動かされる足に視線がうまく定められなくて追いつけなくて気持ち悪くなってくる。
「仲直り、してくださいよ」
喧嘩なんてしていないと言ったのに、どうして仲直りなんて話になるんだろう。
「あんな顔、じゅんちゃんせんぱいにさせるのはおれだけで良いのに」
 どきり、とその声が胸を突き抜ける。なんだろう、人の顔なんて真面に見られないのに、どうして今、彼がどんな顔をしていたのか気になったのだろう。
「ってことなので、はやく仲直りしてくださいよね!!」
ぜったいですよ! と用は済んだとばかりに彼は跳ね上がる。鞠、みたいだなあと思った。弾んで弾んで、いつか何処かに行ってしまいそうだ。
 結局、彼の言葉に真面に答えることはなかったけれど、瑠璃川くんのことはちゃんと頭に蘇ってきていた。
 仲直り。
 喧嘩をしていない、のではない。喧嘩も出来なかった、のだと思う。そんな二人に仲直りなんて高度なことが出来るのだろうか。
―――ああ。
スケッチブックを抱き締める。
―――絵が、描きたい。



20151028

***

運命の女神さまはアバズレ 

 本当に、それは偶然だった。
 運命の女神さま、なんて言ったけれども本当にそんなものが存在しているような、そんな気さえして。
「………下井」
思わずと言ったように見開かれた目は未だ丸眼鏡の向こうで、ああ二十年も経つのに何も変わっていないと心が、この二十年で、いや二十年も前にちゃんときっちり殺したはずの心が跳ねるのを感じた。
 死んでなかった。
 それだけが今は、事実だ。
「えー…えっと、じゅんちゃんせんぱいは、えっと、」
「実家の葬儀屋継いでるよ」
「し、知ってます」
「あと元気だよ」
「み、見れば分かります」
どきどきと煩い胸が伝わらないように、二十年もずっとこんなものを抱いていたなんて、思われないように。普通に、普通に―――普通ってなんだっけ。
 お人形にならすんなりなれるのに、普通の後輩ってどうやるのか、分からない。だってそれは人間だ、目指していたものでも、今到達した点でもない。ええと、順調ですか、今でもよくわからない本を読んでるんですか、楽しいですか、ご飯でも行きましょうか―――ああ、これはだめだ。もう、こんな偶然はないようにしなくては。
 本当はずっとこの日を待っていたなんて、そんな、こと。
「結婚は、してないよ」
頭を殴れらたような気がした。どうせお前は分かってるだろうけど、と瑠璃川は言う。何でもないことのように、それを知っているのが当たり前だと言うように。確かに知っていたけれども、驚いて口を開けて何か言おうとしていたはずなのに、それから恋人もいないよ、ずっと、ほんとにずっと、と続けられた言葉に、ぐらりと視界が歪んだのが分かった。
「…な、にそれっ。おれ期待しちゃうんですけど。でもおれここでじゅんちゃんせんぱいの手、取ったらとんでもないクズじゃないですか」
「お前がクズなのはむかしからだろ」
 手を、差し出している訳ではないのだろう。きっと彼は思ったことを言っているだけで、プロポーズなんてしているつもりもないんだろう。そういう人だって知っていた。何もかも普通の状態なのに、心とかそういうものを全部奪っていく、暴力的な人。
 ねえ、じゅんちゃんせんぱい、と呟く。この二十年、何があったのか。長かったと思う。それでも顔を合わせた一瞬で分かってしまうほど、煮詰まった感情。今まで何処にいたの、何処に隠れていたの。貴方がおれを、人間にする。してしまう。
「おれ、好きでもない年増の女抱いたし、息子なんてのも作っちゃったし、父さんには褒められたし、よーくんよりも上って認めてもらえたし、下井の家も、奪い返したし、おれのにしたし、ちゃんとさせたし………、おれ、ねえ、おれ、がんばったよね」
ああ、そうだ。
 本当は、ずっと言って欲しかった。学生時代のように、些細なことで頭を撫でて欲しかった。
「もう、いいよね」
「お前はいつだって頑張ってたよ、クズだけど」
あはは、と笑う。何も変わらない。お互い歳を取ったはずなのに、何も、何も。
 だから、もう、諦めた。
 運命の女神さまには逆らえない、そういうことで良い。一番勝ちたかった相手には勝ったのだ。ならば運命の女神さまにくらい、それがどんな奴でも敗けたった良いだろう。一度きり、一度きり。下井梓、たった一度の敗北だ。
 手を差し出す。
「せんぱいおれのこと、もっとクズにしてよ」



20151029

***

青い鳥 

 洋くん、と呼んだのは彼の携帯が光っているのを見たからだった。
「電話着てるよ」
「え…どこから…」
「登録はしてないみたいだけれど、」
画面に表示された番号を読み上げてやると、寝ぼけていた顔が一瞬にして起きた。
 そして、親の敵にでも会ったような顔で彼は携帯を拾い上げると、息を吸い込んではい、と出た。
「洋ですが。何か」
ピリピリとした空気に、そういえば先ほどの番号は学生時代の、彼の連絡先だったと思い出す。つまり、彼の学生時代の保護者、の方の。母親は亡くなったと聞いているが、今では従弟と交流があるだけで、その家とは縁を切ったようなものだ、と言っていたと思うのだが。
 電話の相手は狼狽しているようだった。時折声を荒げるようで、携帯から耳を離して聞いているのを、橘はただ黙って待つ。そしてとりあえず一通り聞き終わったのだろう、彼はハッと鼻で笑って見せた。
「貴方たちには自由がいるでしょう」
拳を握り締めたのは、彼がそれなりに従甥を可愛がっていたからか。
「だからもう、梓のことは放っておいてやったら良い」
相手の大声に耳が痛くなったのか、彼は顔を顰める。
「アイツはアイツなりにアイツの使命を全うしたでしょう」
それでも、その声から芯は失われない。
「貴方の、いえ、下井の良い人形であろうとした。それが自分に求められる価値だと知っていたから。俺を排除してまで、アイツはそれに固執して、使命を全うした。正しく、長男である貴方のご子息は、下井の家を繁栄させた」
 学生時代、彼をまだそういう目で見ていなかった頃から、震えることすら知らない子供だと、そう思っていた。けれども今は違う。そういうことを知って、それでも尚、彼は凛と立とうとする。ああ、強くなったのだな、と思った。結局、彼の助けになるようなことは何一つ出来なかったし、人にそれを指摘されてからはいつでも助けを求めておいで、なんて言い草は、あの一件を知っている彼には言えやしなかったのだが―――それでも、彼は一人で、否きっと一人ではなかったからこそ、こうして立ち上がることが出来ているのだ、と思わせた。それは少しさみしい気持ちにもさせたが、あの誰一人として寄せ付けない空気をまとっていた子供がここまで成長したことを、橘は素直に嬉しく思うし、そのおかげで今があることを思うと、とても幸福に思う。
「それで充分じゃないですか」
せせら笑うことだって、あの頃の彼には出来ないことだった。それを出来るようにして、それは約束≠フためだけでなくても、其処に限りなく自分が存在していたという事実がこんなにも胸を満たしていく。
「それともまた、俺を呼び戻しますか? 貴方の可愛い妹を死に追いやった原因を? 呼び戻さないでしょう、呼び戻したくないでしょう。緊急性もないんだ、可愛い妹の仇を目に入れる程、貴方は人形≠ニして出来ていない。アイツの方がずっと、その点ではアンタよりもずっと、下井の家に貢献していた。だから、自由を残したんだろう。アンタは、下井の家は、そんなことも理解出来ないのか」
 相手は、きっと彼の伯父は、それで引き下がることにしたようだった。そして最後とばかりに小さな声で、何かを続けて、また彼の目がつり上がるのを見る。
「消しません」
蒼白に、唇を噛んで。
 それでも彼は震えを悟らせない。
「絶対に消しませんから」
話がそれだけならもう切りますから、と一応の断りを入れてから電話は切られた。
「洋くん」
ソファの端に丸々ようにして携帯を抱き締めた恋人に、声を掛ける。
「………従弟が、失踪したって」
「事件じゃなさそうだね」
「はい、多分、逃亡したんです」
逃亡、と繰り返すと逃亡です、と返って来る。言葉が崩れていないところを見ると、その出来事も、この電話も、そう思考の範疇外ではなかったのだろう。
「多分そうなんだろうな、ってメールが来てて、あの人はそれを削除しろって、でもアイツが、一度も本当の意味じゃあ甘えてこなかったアイツが、俺に、多分消さないだろう俺に、メールしてきたってことは、多分、そういうことだから、俺、」
 ねえ、とクッションに埋もれた喉から、引き攣れたような声がした。
「こういうとき、どういうかお、したらいいのか、わかんない」
―――なにをいったら、いいの。
 初めてだな、と思った。彼がこんなふうに、言う、のは。
「僕が君の感情を、決め付けるのはよくないとは思うけれど…」
ひどいだろうか。けれどももう、二人なのなら。それで良いじゃないか、と自己完結をする。自己完結したかった。それは、嬉しいことだったから。
「君はさみしいのではないかな、と僕にはそう見えるよ」
「さみ、しい」
「うん、違ったらごめんね」
さみしい、さみしい、と繰り返して、それから彼はうん、と頷いた。
「あいつは…」
「うん」
「あいつは、」
「うん」
「あいつだけが俺の敵だった」
 敵。
 それは不穏な言葉ではあったけれども、彼の声はそぐわないくらいにやわらかかった。
「あいつだけが、俺の敵になってくれた」
さみしい、と呟かれた声はとても小さくて、この距離でなければ聞き取れなかっただろう、と思う。顔を上げた彼が、じっと、求めるようにこちらを見遣った。
「さみしい」
あかねさん、と弱々しい声が呼ぶ。
「抱き締めても、良いですか」
「代わりは嫌だよ?」
そんなことはないと知っていて、言う。
 彼に言葉にして欲しいから。
「さみしいって思ったら、明音さんに触れたくなりました」
「うん」
「あいつの代わりは、誰にも出来なくて、でも俺は、明音さんがいたら、さみしくない、から。それで、あいつがいなくなったことが、消える訳じゃないけど、俺の敵は、戻って来ないけど、」
伸ばされた手が、首に少しだけかかって胸の辺りに顔が押し付けられた。
「今だけ、俺のこと、甘やかして」
「別に、いつでも甘やかしてるつもりだけどね?」
「もっと」
体勢が辛そうだったのでいつものように抱き直したら、腕の中に微かに鼻を啜る音が聞こえて。ああ、これも初めてだな、なんて思った。一羽の鳥が鳥籠から飛び立ったことは、彼にとって大きな喪失だろうけれど。
「お望みのままに」
 今はただ、この腕に縋ってくれるのが嬉しかった。

***

ヒーロー症候群 

 この子はこのまま、何処まで生きられるのだろう。
 そんな不安を抱いているのはこの中で一番年若い俺だけだったように思う。みんなその幼子が自分たちについてくるのが嬉しいらしく、彼のこれから育まれるべき大切なものが引き換えにされようとしているのに、何も思わないらしかった。
 変人研究室。
 そう呼ばれている此処に配属したことに後悔はない。周りには憐れみの視線を送られたけれども、入ってみればいろいろな知識をくまなく吸収できるし、上下関係はないようなものだし、教授は自由人であることを除けば本当に素晴らしい人だし。此処で勉強出来ることはとても良いことだと、そうとまで思った。此処に所属出来たことはきっと、振り返った時にもずっと、良いことだったと思えるだろう。
―――ただ一つのことを、除けば。
 この大学にいると噂される座敷わらし。それが噂などではなく、実在するものなのだと知ったのは、此処に入ってからだった。
 尊敬する、その自由すぎる教授の実の息子。確かに言われれば、とても似ているように思う。いつも薄暗いところにいるし、難しいだろう本を読んでいて下を向いていることが多いし、そうでない時は人を見ると逃げていくし。
―――この子は、此処にいて良いのか?
周りがあまりに普通にしていたから突っ込むのを忘れていたけれども、此処は子供のいるようなところじゃないだろう。教授のご家庭はそこそこ複雑らしいが、子供を小学校に行かせるくらい、出来ない訳じゃないだろうに。
 それを。
「でも小学校には行きたくないって言ってるし、此処が好きらしいし、良いんじゃない?」
のったりと、彼はそう言った。
「勉強なら、何処でも出来るし、なんなら小学校なんかよりも此処の方が、出来ると思うし」
あの子、君が思っているよりも賢いよ、と続けられた言葉に、そういうことじゃない、とは言えなかった。
 義務教育の場は、何も勉強だけをしにいく場所ではない。もっと他の、そうだ、人間関係の築き方だとか、そういうものだって学ぶ場だ。見たところあの子はそういうことが出来ない。ならば余計に、行かせるべきだ。彼が仮にも親であるのなら、行きたくないと子供自身が行きたくないと言ったとしても行かせるべきなのだ。
―――君は普通≠カゃないんだ。
きょとん、と。ふしぎそうな目でこちらを見上げる彼に、思わず拳を握る。だって、だって、こんなのは何にもならない。善悪も分からないような子供に一体俺は何を言っているんだ。
 もっと本当は、この子のことを思うのなら、本当にヒーローになりたかったのなら、言うべき先があったのだ。何も知らないような子供に言葉をぶつけるような、そんな真似をしなくても、もっと、もっと。
 彼の。父親であるとか、それが、一番。
 でもそれは出来なかった、いつものあのやわらかな口調と笑みでどうして? と問われるのが目に浮かんで、俺はそれに正確に答える自分を想像出来なかった。
―――それって、ほんとうに、ひつよう?
そう言われてしまった時に、言い負かせるような、そんな自分を。
 想像出来なかった。
 敗ける未来しか、あの子を救えない未来しか、視えなかった。

***

20190117