あの冬が終わったら その日の恋人(恋人!)の予定についていったのにはそう深い意味はなかったし、最早それが普通になっているからで、予定の向こうにいる人間も顔見知りで特に食事に妻鹿が着いて来てもいつものこと、と流すのが分かっているからだった。まあ、つまるところ妻鹿は甘えているのだ。二人に。 どっちの趣味なのか毎度毎度可愛らしい店の中に、せかいいちかわいいひとと、無表情のひとと、妻鹿と、三人。他の客もいるけれど、妻鹿にとってはせかいいち好きな人が―――恋人(恋人!)がそこにいるというだけで、何処だって天国だ。 うん、おいしかった、と恋人(恋人!)がフォークを置いて、そうだね、とその正面の人が答えて、それから雑談タイムだ。いつもと同じ、妻鹿の役割はその雑談に割って入ること。別に二人が話すことが気に入らないとかそういうことではないけれど、放っておかれるのは性に合わない。前にそう言ったらだいすきなひとには妻鹿さんは待てが出来ない犬みたいだね、と言われたけれども。ちなみにそれには首輪をつけますか? と返したけれども。 「涼暮くん、プリンになってるけどいいの」 「うん、もういい」 「いいの」 「いい」 その遣り取りを聞いて、初めて妻鹿はその髪の生え際が黒く染まっていることに気付いた。この場合染まっているのは毛先の方であるのだろうけれども。それでも妻鹿の中ではその黒の方が異質で、だから染まっている、というのならば黒の方で。 「ええええ!?」 全貌を理解した瞬間、がたんっ! と立ち上がることをしてみせた妻鹿に非はない。 「煩いんだけど、ロックンロールフラワー」 「妻鹿さん、お店では静かにしないといけないよ」 「あっはい、榎木せんぱい、そうですよね…っていうか涼暮せんぱい、それ、えっと、それ…」 「染めてた」 「ええええうぇッ………榎木せんぱい、わきばらはやめて」 「ボディーブロー」 「ちがうきがする!」 騒ぐ恋人たち(恋人たち!)を他所にその人は、店員を呼び止めてあ、デザートお願いします、なんて言っていた。 「え、なんで、」 「染めたかったから」 「えっと、ハーフでは、」 「ない」 「妻鹿さんまだそれ信じてたんだ」 「だって目が緑…」 「ああ、これカラコン。これも要らないなあ」 そう言って目の前でカラーコンタクトレンズ(だと初めて知ったもの、というかほぼ妻鹿にとっては目)を外してみせて、また叫びそうになったのをなんとか呑み込んだ。要らなくなってしまったらしい目は紙ナプキンに包まれて、もう、見えない。 「涼暮くん」 「何、榎木」 「本当に、いいの」 それは最終確認のようだった。じっと、大きくてまるくてきれいな瞳がその人を見つめて、ああいいなあずるいなあ俺の方も見て欲しいなあ、なんて。 「いいよ」 多分、それは笑みだった。ゆるく口角があがっただけの、何処かで見たことがあるような。 「いいんだよ、結仁」 「なら、いいけど」 「おまたせいたしましたー! フォンダンショコラとマスカルポーネのクレームブリュレ、まるごとりんごクリームプリンです」 「あ、フォンダンショコラが俺でブリュレがここ、りんごはそっちです」 「ちょっと待ってください涼暮せんぱい、俺のだけでかくないですか。さっきいっぱい食べたんですけど」 「残念、それは榎木チョイスだ」 「食べます!!」 「嘘だ」 「なんで嘘吐くんです!!」 食べますけど!! と言えばまたゆるく口角が上がる。この人も変わったんだな、なんてことを思いながら本当に名前の通りにまるごとのりんごにフォークを突き立てた。 何処までが嘘だったのか、妻鹿にはよく分からなかったけれど。 たいせつなひとが納得したようにブリュレをつついているので、妻鹿にとってはそれで充分なのだ。 * image song「私とワルツを」鬼束ちひろ *** あなたのめにうつる「僕」 手を。 握られるというのは、そしてそのまま目を見つめられるというのは怖いことなのだとずっと思っていた。それを覆された学生時代、ともだち(今は友人だけれど)、彼らの手を借りては握って目を見つめて見て(榎木には大分動揺された)、やっぱり吐き気なんてものは上がってこないことを確認して。 「なんでだろう」 そう呟いたらそこにいた全員からお前がなんでだろうだよ、と突っ込まれた。 それが、今。 この人もこんな目をするのだと思ったらなんだかやけに緊張をしてきて、やっと自分の恐れていたものが分かったような気がした。このあと、このあと、おれ、は。この人に失望されて、しまいはしないだろうか。食道をせり上がる胃液、頼むから、出て来るな。頼む、頼むから、本当に、おねがい、だから。 「洋くん」 すっと、魔法にでもかけられたような気がした。 「顔色、良くないみたいだけど大丈夫?」 「え…あ…今、大丈夫になりました」 「本当に?」 「たぶん…」 「スキンシップは苦手なのかな」 「いえそういう訳では、ってか学生時代に散々しただろ」 「そうだったねえ」 「そうじゃなくて…うまく、いえない、けど………」 思い出すのはいつだって彼女だった、そういう意味では彼女がきっと、俺の初めてだった。ああ、だからなのだ、と思う。あの瞬間はきっと、この時のためにあった。 「あの、ひとつ、お願いがあるんですけど」 「ひとつとは言わず何でも聞くよ」 「………アンタって本当にそういう台詞似合うよな…」 息を、おおきく、吸って。 「もうすこし、このままで、それで、あの、もう一回、なまえ、よんで、くれますか」 「うん」 ぎゅっと、少しだけその手を握る力が増やされて、昔見ていた分よりもずっとやわらかくなった視線が俺に向いて。 「洋くん」 すきだよ、と続けられた言葉に、言葉で返すことが出来なくてただ頷いた。 * ask 奇妙なデジャヴ体験をしたことある? * 20151021 *** 花びら 嘘みたいに晴れた日で、嘘みたいに幸福な日で、本当はこんな馬鹿なこと言わない方が良いと、一応この一年で劇的に賢くなった頭は分かっていたのだけれど、それでもそれはふりで、お人形になるための下準備で、つまり下井梓≠ナいるための瞬間はきっとこれが最後だと、そう思ったから。 じゅんちゃんせんぱいは、それで納得なんてしてくれないだろうけれど。 「あのね、じゅんちゃんせんぱい」 一歩、踏み出す。薔薇の花束なんて用意出来なくて、金銭的な問題ではなく、ただ下井の問題で、出来なくて、その門出に何も用意出来ないけれど。 でも彼だって何もくれないのだから、それで良いだろう。 今日この日、この関係は終わる。二人だけの同好会。部長は卒業して、骨になんか興味のない後輩はきっと、帰宅部だとかそういうものに戻る。うずもれていく。彼のいなかった生活に、ただ只管に目標に向かって走り続ける生活に。宿敵に、頼る生活に。 「卒業おめでとうございます」 なんてことない言葉だった。だからきっと言えた。来年きっとあのにっくき従兄にも言ってやるのだ。これはその前哨戦。だからじゅんちゃんせんぱいがいなくなってしまうことになって、下井は何にもおもっていないのだ。思ってはいけないのだ。 たとえ、これが恋でも。 赦されないこと、どうにもならないこと、それが分からないほどばかにはなれなかった。それが結論だ。 「同好会は解散ですね」 「ああ」 「花束とか、用意するがらでもなかったんで」 「ああ」 「ねえ、じゅんちゃんせんぱいはどこへ行くんでしたっけ」 「北の方」 「きた」 「受かったから、医学部。別に、そういうのいらないけど、うち、葬儀屋だから」 「…知ってます」 「そういう知識、あって損はないだろ」 「うそつき」 「嘘じゃない」 「そうですね」 もっともっと、言うことは探せばあったはずだった。ネクタイとか、校章とか、第一ボタンだとか。そういう俗な文化もこの一年で知った。でも言わない。 手元に残っていたら、追い掛けてしまうかもしれないから。 「下井」 じゅんちゃんせんぱいが動く。くるりと回った背中は大きくて、いやきっと下井が小さいだけなのだろうけれど、でも、大きくて。 「お前はこういうの似合うよな」 頭に付けられたのが何か、分からなかった。 「何」 「さくら」 「桜って、全部散ってるじゃないですか」 「おう。だから拾った」 「拾ったって、泥とかついてませんか」 「ついてないの選んだつもり」 「ならいいんですけど。…落ちちゃった、さくら、ですか」 「ああ」 「しんじゃったみたいですね」 「そうだろ」 「えへへ」 「今ので笑うとか意味分かんねえ」 涙は出なかった。これからずっと使うことになるであろう笑顔を貼り付けて、それで下井は笑う。 「じゅんちゃんせんぱい」 この一瞬でいい、この一瞬を。彼が憶えていてくれれば。 彼のために死んだものがいたのだと、憶えていてくれれば。 「ばいばい」 * 20151022 *** 甘いものが好きで何が悪い ともだち=B その言葉がどれだけ曖昧で狡くて子供っぽかったのか。今なら分かるなあ、と久々に顔を合わせた友人≠ノ会ってそんなことを思った。彼が一体何を抱えているのか、それは涼暮は聞かなかったしきっと彼だって聞いたとしても答えてくれなかったし、同じように彼だって涼暮に何を聞くこともなかったけれど―――それでも、似たようなものだったのだと、今なら何となくそう思うことが出来る。 「元気そうだね」 「おう、元気げんき」 「じゃあ言い換える、健康そうだね」 「俺ずっとそうだっただろ」 お前らの中にいたら余計にそう見えただろーし、と大きなパンケーキにぱくつくその様を見て、確かに、と返した。不健康、な自覚はなかったし一般的にいったら結構のボーダーにちゃんと入っていたのだろうけれども、まあ彼の言いたいことも分からなくない。特に榎木とか。自分のことは棚上げである。 「ねえ、あのさ、」 こんなことを聞くのはまだ、ともだち≠引きずっているからなのかもしれなかった。 「いま、たのしい?」 別に、刹那主義という訳ではない。今後ずっと生きていくことが偉いと思っている訳でもない。それでも涼暮は彼に生きていて欲しかったし、欲を言うなら涼暮よりももっと長く生きて、自分がどんな終わり方を迎えようともその葬式に笑って参列して欲しかった。言葉にすればきもちわるいかおもたいか、どっちかが返って来そうだけれど。 「たのしいよ」 ふっと笑った唇の端に赤いソースがついていた。いちごだろうか。 「すごく、たのしいよ」 きついけど、しんどいけど、言外のものは耳を塞ぐことにした。ああこれもまだ狡いのだろうなあ、と思っても彼がそれを望まないなら涼暮はそうするのだ。そうするしかないのではなく、そうすることを望むのだ。 「ん、そう。それ、おいしい?」 「うまい」 「一口。あと口のとこ、ソースついてる」 「まじか」 * ask 友達を評価するあなたの基準は? *** 眠れない夜 おれ、分かんないの、と下井は呟いた。安っぽいラブホテルの受付のおばさんは二人をちらりと見遣っただけで、それ以上は何も言わないで入れてくれた。やったね、と言いながら久しぶりのベッドに転がって、今後のことを考えたりしていたらその間にじゅんちゃんせんぱいは勝手に風呂に入っていた。というか此処、風呂あったんだ、そんなことを言ったらはやく入って来い、と頭を叩かれて、こういう乱暴な扱いがじゅんちゃんせんぱいだなあ、二十年経っても変わってないんだ、と思ったら嬉しくなって、さっさと風呂なんて済ませてしまった。 本当はもっと、いろいろすべきなのだろうけれど、きっとじゅんちゃんせんぱいは何もしてくれないし、今日だってただ単に安かったから此処を選んだだけで、特に意味なんてないのだろう。下井に逆をやるだけの心意気はなかったし、いや抱かれる準備ならばっちりなのだけれども、きっとじゅんちゃんせんぱいはそういうことは望まないから。 「じゅんちゃんせんぱい、どうしたら喜んでくれる?」 そんなふうにさっさとかかった風呂の中で延々ぐだぐだ考えていて、びったびたのまま出たのはそんな言葉だった。 「おれ、分かんないから、ばかだから、ばかのまんまだったから。ばかになることを、選んだから。じゅんちゃんせんぱいよりも、ばかになる方を、選んじゃったから、分かんないの」 二十年前の、あの卒業式の。 選択が間違っていたなんて思わない。下井の中でそれは正しいことで、どうしても達成したい目標で―――夢で、それは恋なんてものよりも優先させられるべきものだった、それだけ。 「おれ、お人形になりたくて、でも、だから、今、すごく、困ってる」 でも。 「ねえ、どうしたらじゅんちゃんせんぱい、喜んでくれる?」 今、それが、下井をこんなにも苦しめる。 暗闇の中で光の方向が分からなくて、分からなくて、しんどくて、たまらない。何も出来ないことを突き付けられる、それこそ二十年前に逆戻りだ。何の功績もおさめていないお人形、ディスプレイの中で売れ残って。ああ、と思う。 ああ、ああ。 「おれ、人間じゃないから、じゅんちゃんせんぱいの喜ぶこと、出来ないのかなあ…」 だから彼は何もしてくれないのだろうか。下井がすべてを切って、なんとかこうして彼を誘拐して、それで、それで。 もう出来ることは、した、のに。 それでも、何もしてくれない、のは。 「出来るよ」 降って来た言葉には反射のように嘘、と返した。 「うそつかないんじゃなかったの」 「嘘じゃないよ」 顔上げろ、と言われてその通りにする。 いつもの顔だった。いつもの、ちょっと今はそういう成分が足りなくてしんどくなっている時の、いつもの顔。二十年も経ったはずなのになんにも変わらない。 「でもするなよ」 「なんで」 「オレが人間でいたいから」 「なにそれ」 布団に引き込まれる。びったびたの頭が、シーツを濡らしていく。そういうふうに汚されるものじゃないはずなのに、まあ、別に、いいのか。 「お前は人間だよ」 ぺたぺたと、頭を撫ぜる音がする。じゅんちゃんせんぱいの手は、冷たくなっているのがよく分かった。 「じゃなけれりゃ、」 その先は言葉にされなかった。戯れるように額にキスを落とされて、早く寝ろ、と言われて。明日は海を見に行くんだろ、と言われればうん、としか言えない。 ただ只管に歩くだけ、何もないから、なんにもないから、歩くだけ。手を繋いで、二人で、多分それって生きてるんだろ、なんて言われてしまえば頷くしか無いから。 「じゅんちゃんせんぱい、」 「なに、」 「おやすみなさい」 「おやすみ」 せめてこの人が、いい夢を見られれば良いのに、と思った。 * 人間になったつもりでいたけれど愛についてはわからなかった / 佐々木あらら *** 空の瓶 その話を知っていたのは話題作だったから、それとそもそもそういう伝承があったりするのを知っていたからで、つまりそいつの為だとかそういうことは全くもって全然なかったことを一応弁明しておく。というのは結局のところ言葉にはならないので(話を聞かれないとも言う)、意味はないのかもしれなかったけれど。 「お前の、それ」 その話は伝聞だった。榎木から聞いた話で、榎木は妻鹿から聞いた話で、二人も間に挟まれば本当のことなんかわからなくなって。そもそも真偽なんてどうでも良かったので結局、自分の思ったことを言うのだが。 「邪魔そうだし、これに入れちゃえば」 ラムネの瓶。 差し出したそれはさっきやっとのことで飲み干したものだった。あまり炭酸は得意ではないのにそれを飲んだのは、店先で冷やされているのを見てしまったから、それだけ。 「邪魔そう?」 れ、と出された舌の真ん中にはいつもの銀に光るまるいもの。邪魔そう、と返せばそういう考え方もあるよね、と返される。それだけでああ捨てるつもりはないんだな、と思った。別に涼暮に強制するつもりもないので、これで話は終わりだ。邪魔そうなのに邪魔じゃないと言う、いや言ってはいないけれど、そう振る舞う。それならともだち≠ナもないのだし、涼暮が何かしてやることもないのだろう。 「邪魔そうかあ」 考えたこともなかったな、と手が瓶をひったくっていく。 えーい、と勢いをつけて溝(どぶ)に吸い込まれていったそれを見て、思わず、せーんせーにいってやろーというフレーズが浮かんだ。 * どこにも届かない手紙(貴方は今、何処にいますか)(死んでてくれてもいいよ、もう)。 * 20151023 *** 死せる少女、生ける少年 いつものように自分の絵を見て、それから徐ろに口と、あと胃の辺りを押さえたクラスメイトに空鳴がしてやれることなんて殆どなかった。 「るり、が、わ、くん」 いつもいつだって彼はどうにも他とは違う目線で空鳴の絵を褒めてくれて、空鳴もそれは心地が悪いわけでなくて。 良い、関係だと。 そう、思っていたのだけれど。 「ごめん、空鳴」 「あ、う、うん…だ、だいじょ、うぶなの」 「大丈夫…」 苦しそうなクラスメイトは泣きそうな声をして、けれども勇気のない空鳴には彼に触れることすら思い付かないで。 「ごめん」 彼は繰り返す。余裕がないのか、彼のトレードマークとも言える丸眼鏡が転がって落ちる。 「ごめん、おれ、」 ―――おまえのえ、もう、みれない。 約束をした訳ではなかったし、見るも見ないも気に入るも気に入らないも彼の自由で、それを空鳴は咎めることはしないけれど。 ―――おなじようなことを、云われてしまった、なぁ。 嗚咽を堪えるクラスメイトの前でそれがため息にならなかったのはきっと、神さまとかそういうものの思し召しなのだ。 *** 言葉はいつだって遠回りして迷子になって いいよ、と言われたのは多分、今後を考えてのことだったのだろう。何かとんでもないこと―――いや、人の死なんてものはそこらじゅうに転がっていていつもテレビや電話を賑わせていて、そんなに珍しくもないしずっと考えていたものではあったし、そういえばついこの間、ボランティアで知り合った人が亡くなったのだったな、と彼に揃えて貰った喪服が役立ったことも芋づるのように思い出された。そういう方面の常識に疎いので、本当にあれは助かった。彼女の葬式には何で出たのだったか、彼女の兄が揃えたのだったか、記憶に薄いことを薄情だとは言えないだろう。彼女は最期まで息子を認識せずに逝ったのだ。それなのに、彼女がそういったことを望むとは思えない。 話がずれたが、そういう訳でその言葉に対して―――仮にも恋人に対して浮気をしていいよ、なんてそんな暴言ともとれる言葉に対して、怒ることはしなかった。 盟約の、ようなもの。 恋人に対して、そんな言葉を使うのはどうかと思うけれども、そういった一種、不可侵領域のようなもの。 「覚えておきます」 物分りがいいわけではない、彼のすべてが分かる訳ではないけれど、分かろうとする努力をやめたくなかったから。 彼の何かに。 なりたかったから。 「アンタが死んだら考えるので」 それをどうとられても良かった。死して尚、この人が恋人を縛りたがるような人間ではないだろうけれど、どっちかと言えばそれはこっちの方だろうけれど。 おいで、と言われて素直に従う。 忘れないのは、忘れたくないのは、アンタのためじゃないのだと、そうしたいから多分そうするだろうと思っただけなのを、残る時間でどれだけ伝えられるのだろう。 *** ゆたかな音が降ってくる 家出をしたことがある。 なんて、多分ぽろっと零せば根古にもそんな青い時代があったとはねーなんてクラスメイトは笑うだろうけれど。オレもしたことあるよ、なんて返って来るかもしれない。みんな一度は通る道だよね、そうだね、理由なんてそんな大したことじゃあないんだけどさあ。もしかしたら、もしかしたら。なのに根古紗霧はそういうふうに返されるかもしれないことを想定して、その事実を人に零したことはなかった。家出、家出。確かに血気盛んな青少年は一度は通る道なのかもしれない。 ―――笑って、話せて。 そんなんだったら、世界は違っていただろうか。 自分の思考に首を振って、それから馬鹿だな、と笑い飛ばした。 根古紗霧として生まれてしまった≠フは呪いのようなものだった。どういう人だったのだろう、理解するのを諦めてからずっと、紗霧は彼女≠フ顔に靄をかけるようにしている。いつだか記憶というのは最後まで残るのは声なのだ、と聞いたことがある。本当にその通りだな、と思うのは今でも父親の携帯を勝手に使って電話がかかってくるからか。違うような気がしていた。きっと、紗霧は。 どうしてこんな失敗作になっちゃったの あの声を、一生忘れることが出来ない。 彼女がどうしてそういう人間になったのか、紗霧には興味がなかった。 『あんたはまだ小さいから』 『あんたにはまだ適切な判断というものが出来ないから』 『私があんたをまもってあげる』 『あんな子と付き合うのはやめなさい』 『あんたのためにならないわ』 『子供をまもるのは母親の役目でしょう?』 『あんたは私の言ったことだけしていれば良いの』 『あんたにはこれが似合っていると思うわ』 『ねえ母さんの見立てに間違いはないでしょう?』 声、声、声。こんなものに永劫付きまとわれるのかと思うと本当にうんざりする。 『どうしてこんなことも出来ないの?』 嫌だと言った、でも彼女には届かなかった。ある日本屋で立ち読みした本に花火を上げろ≠ニ書いてあって、ああ、これだ、と思った。 言葉で分からないなら、行動で。 世界は決して、此処だけではないのだから。 そんな中学生の目論見はあっさりと打ち破られて、市内放送をされて警察に保護≠ウれ、そうして連れ戻された家(オリ)で。真っ青だったと、その頬の色だけはやけに、こびりついている。 『私が悪いのよね』 ゆらり、と立ち上がった彼女はきっと紗霧が連れ戻されるまでに何度も取り乱したのだろう。いつだって綺麗にしていた髪は振り乱れ、一週間ものを食べていないような雰囲気さえ醸しだしていた。 だから、まだ何も知らなかった紗霧は一瞬、期待なんてものをしたのだ。 花火は上がった。だから、彼女も、きっと。なんて。 だから、次の瞬間床に転がった自分と、遅れてやってきた衝撃が痛みなのだと認識するのに時間を掛けてしまった。 『私が、私が全部悪いの…!!』 喚く彼女の言葉で聞き取れたのはそれだけで、あとは断片的だった。間違えた、とか、失敗した、とか、なんとか。細い腕からは想像もつかないような力で、そのまま殴られて初めて、紗霧は間違えたことを知った。 目測を見誤ったことを知った。 幼い子供が暴れまわるような調子で暴力は続けられ、そこにいたはずの父親も止めに入らないで、そりゃそうだ、家出なんてした不良息子なんか可哀想な妻に殴らせておけば良いんだろう。ご近所にも警察にも迷惑を掛けて、明日からどんな顔をして生きていけば良いんだろう、この人たちは。それが愛じゃなかったとは言わないけれど、それは紗霧には重すぎて、理解が出来なくて。あのお家の子、家出したんですってよ―――狭い町では噂はすぐに広まる。はは、ザマーミロ。口の中が切れていて血の味がして、言葉を発する気にはなれなかった。今まで気にしてきた世間体をすべて台無しにされて、それが少しでも復讐になっていたら良いのに、抑圧されたものたちへの、餞になれば良いのに。 捨てられてしまった本、口を出された交流、強制された習い事、与えられる彼女好みの服。 『あんたは弱い子だから』 ―――そんな弱いあんたをまもれる私はすごい、でしょう? それを、否定する程、朴念仁ではなかったけれど。 気が済んだのか、いつの間にか暴力は止まっていた。殴り返す気力もなかった。たった一度だ。徹底抗戦の姿勢を見せただけで、こうまでなるのか。彼女にとって根古紗霧≠ニは本当に、一体何なのだろう。こんな愛なら要らなかったけれど、こうして生まれてしまった以上きっとついて回るから。諦めていた。中学生でも紗霧と彼女の愛≠フ認識が違うのはよく分かっていたから。でも、それでも、少しでも、その見解の相違があることが、分かってもらえたら。 何か、変わるんじゃないか、って。 紗霧の上から退いた彼女は荒い息のまま、何処かへ行ったようだった。父親がようやっと寄ってくる。大丈夫か、なんてそう見えるんならアンタの目は節穴だ。身体中が痛くて、これからどうしようか、と思って、彼女の戻ってくる音がして。 「おいおい嘘だろ」 そんな馬鹿みたいな言葉が漏れたのも、それで口の中が痛くなったのも、仕方ないことだと思った。 彼女の手には包丁が握られていた。直前の叫び、この行動、次に何が起こるのか、分からないほど愚鈍ではない。 『失敗作は、殺さないと、』 ティーシャツを着ただけの腹に、その切っ先が突き立てられれる。横で父親は動かない。ああ、と思った。 初めて、彼女の底が見えた気がした。 同時に、身勝手だ、と思った。でも身勝手だということを思った瞬間に今までのすべてに納得がいってしまって、多分紗霧は、うん、と頷いた。 『だって、私の、責任、だもの。私が、責任を、取らなきゃ』 頷いて、その切っ先を振り払った。 よく管理された包丁はティーシャツを裂いて行った。大人しくしなさいという叫び声で我に返ったらしい父親が止めに入る。また警察沙汰だろうか、とぼんやりとそれを眺めながら、彼女に殺されるのだけは絶対に嫌だなあ、とやっぱりぼんやり思った。 実のところ、そのあとのことはよく覚えていない。身に覚えのない疵痕を見る度に思うのは、あの後も何度か同じようなことがあったのだろう、ということだった。だから父親は紗霧に寮のあるこの遠方の学校を勧めたのだ、と。それがどれだけ意味を持つかな、と未だ父親の携帯で連絡を取ろうとするその執念を思う。失敗作なのに、いやだからこそだろうか、その手で殺さないと気が済まないのか。 もうここまで来たら戦争で、紗霧は少し、それに気付くのが遅れてしまっただけ。なんとか作ったこの数年でどれだけ遅れを巻き返せるか、そういう話、なんだろう、けれど。着信履歴を消して、朝のタイマーを掛けて。いつものように、いつものように。 出来ないだろうなあ、と思う。 「べつに、いきたいわけでも、ないし、なあ」 こんな時、どうして佐竹の顔が浮かぶのだろう。 だめだと思ったから距離を取ったのに、そういうのを感じ取ってくれると思ったのに、どうしてか佐竹はそれを越えてきた。軽々しく、いやきっと、佐竹だっていろいろ考えたんだろうけれど。考えたのならどうして、と尚のこと疑問が消えない。 「紗霧」 重なる唇の温度が、違う人間なのだと伝えている。なのに、此処からそのまま融け合って、ひとつになってしまいそうな恐怖が駆け巡る。ちがう、ちがう、そうじゃない、おまえはおれじゃなくておれはおまえじゃなくて。 お前は。 ―――失敗作じゃない。 零れそうだった涙も言葉も、すべて佐竹が呑み込んだ。 「馬鹿じゃねえの」 一蓮托生なんて本当、こんにちの高校生の言葉じゃないし、そんな決めて良いものじゃあないのに。鏡よ鏡、鏡さん、世界でいちばん面倒なのは誰、俺? 根古紗霧? 彼女? 父親? それとも―――目の前の、お前? ああ好きだよ、嫌いになんかなれねえよ、馬鹿じゃねえの、それを忘れようとしてたのに、なんで掘り返すかなあ、馬鹿だなあ、そういうところも好きだよ。これが今、言葉に出来ないのが辛くて苦しくて、佐竹の胸におもいっきり埋まってやった。 いつの間にか身長差がついていて、本当に腹が立って一発殴ってやろうと思ったけれど。それはとりあえず今渦巻いているこの気持ちを全部、言葉にしてからにしようと、そう思った。 佐竹はあたたかくて、いきていて、ああなんだ、と思う。 ―――こいつの隣でいきたい。 そんな生存欲は、がらんどうの身体の中にもまだ、あったのだ。 * 20151024 *** そうじは誰れが、するのかしら。 学校には行かないの、と言った彼の顔も名前も覚えていない。若い、男だったように思う。研究室の、生徒とかだったのだろうか。その辺りもよく分からない。何故彼が涼暮のことを知っていたのか、大学内では座敷わらしのように扱われていて、そう人に話し掛けられることはなかったように思うのだが。 ただ恐らく同年代の子供よりも小さかった涼暮をその人は見下ろしていた。薄暗い書庫で、そんな状態だったものだから彼の表情が見えなくても可笑しくはなかっただろうけれど、涼暮は今でもそれをわざと忘れたのではないかと邪推することがある。その邪推も、今だからこそ出来ることで、顔も名前も忘れてしまった彼に真意を確かめることなんて、今更出来る訳もなかったし、するつもりもなかったけれど。 「君は普通≠カゃないんだ」 その降って来た言葉に何と返したか覚えていない。それも忘れた、忘れてしまった。 「君が普通じゃないから―――」 ぼくは、と握られた拳は涼暮の目と同じくらいの高さで、それだけがしっかりと、のこっていた。 というのを、その日に父親に話したところ、返って来たのは、 「そうなんだ」 というなんとも軽い返事だった。 「俺は、普通じゃない≠フ?」 「ん? 洋くんはそっちが気になるの?」 意外だね、と父親は笑って、それからうーんと少し唸った。それからそうして、 「ああ、うん、確かにそうかも」 とやっぱりなんとも軽く頷いてみせた。 普通じゃない。 それはよくないことなのかと思っていたけれど、そうでもないのだろうか。そう涼暮が問うと、父親はそうだなあ、と涼暮の頭を撫でくり回した。 「だって普通なら学校に行くだろう? でも洋くんは行きたくないから此処にいる」 「………だって、ここのが、たのしい」 「楽しいなら良いんじゃないの?」 「そういう、はなし?」 「そういう話じゃないかなあ」 普通じゃないことが悪いこととは、僕は思わないよ。 その言葉を聞いて、そっか、そういうものかと思った。思って、その話は終わりになった。涼暮はそれからも彼の元にいた時は学校になんか行かなかったし、次第にそれは普通≠ノなっていった。 「でも時々、思い出すんですよね」 ぽつり、と零した言葉に返答は求めない。 「彼は、あれを言葉にして、何か変わったのかな、って」 俺には関係のないことかもしれませんけど、それでも、時々、思い出すんですよ。 そう言葉を綴じた涼暮にいつもの手が伸びてきて、頭をやわらかく撫でていって。 それが思い出の中の父親の手と違うことが嬉しくて、目を閉じた。 *** 20190117 |