ピアスホールは何換算か 

 別に、深い意味はない。
 ただ抵抗もままならないままにピアスホールの掃除をされ、楽しそうな佐竹と根古にあれこれ言われたものの紙は押し付けられてしまっていたし、一度行って通らなかったら彼が諦めてくれるだろうと期待しただけで。だからいつものようにその膝に座って、いつも以上に仏頂面でタイトルを読み上げた時、その男に笑われたのだって予測済みだった。
 問題は、そのあとで。
「で、」
いつもは続かないはずの接続詞に首を傾げそうになる。
「坐故くんのタイトルを君が持ってくるなんて、そうそうあることじゃあないと思うんだけど。何をしてもらったのかな」
この男に隠し事というのは出来ないのだろうか。頬が引き攣る。
「べ、つに…何も。ただ煩かったから、一回却下されれば、俺に頼みに来ることはなくなるって、そう思っただけで」
「あれ」
指が、髪を退けてその下のピアスを曝け出す。
「きれいになっているね?」
―――概念セックスだあ。
佐竹の声が蘇る。
 限界だった。
「あっ、あいつにはだめだったって言っておきますから!!」
「うん、だめだね」
「俺はその確認だけしたかっただけなんで! それでは!!」
あわあわと転がり落ちるようにその膝から、部屋から退却するのはもう何度目か。
「…あのヤロー、ぜったいゆるさない…!」
涙目になりながら、あの強引な同級生の名前が坐故というのだと、それだけは忘れないでおこうと決めた。

***

悪魔の取引(なりきれない二人きり) 

 その廊下で蹲っている背中を見つけた時、自分の目がきらきらと輝いたのを覚えている。
 人の苦しんでいる姿に快感を覚えるような質ではなかったはずだが、しかしそれでも仇敵のそんな姿はあまりに希望じみていて、思わず肩を貸してしまった。
「トイレ、こっち」
「………あずさ」
「そうだよ、梓だよ」
よいしょ、と同じくらいの身長だろうに自分より小さく見える背中を広くて綺麗なトイレに引きずり込みながら言う。
「おれ、君のこと大嫌いだよ、よーくん」
 便器に顔を持って行ってやって、その口に指を突っ込んでやればすぐにおえっと言うきもちのわるい音がした。指が細くてよかったなあ、と思いながら喉の入り口をくすぐるようにしてやれば、苦しそうに背中が跳ねる。
「吐いちゃいなよ」
おいしいご飯だったけど、どうせ味なんて分からなかったでしょ、と言えばようやっと胃液がだらだらと出て来て、もう一息、とばかりに爪を立てた。立てたといっても所詮深爪間近の凶器にもならないものだ。
 それでもぎりぎりまで張ったものにはそれで充分だった。指ごと引き込むような予備動作があって、そのままぬるり、とした多分おいしい料理だったものが下井の指を汚していく。ああ、もったいないな、とは思うものの別段それを食べようなんて気にはならない。きたないな、はやくきれいにしなくちゃ。そう思うのに喉をくすぐる指を抜き差しするだけで完全に抜くことはしないで、胃の内容物がからっぽになるまで吐かせた。
 そして、ぜえ、はあ、と息を出来るようになった彼の代わりにトイレの水を流してやって、備え付けのタオルを水道で濡らして顔を拭いて、さっきの続きを言う。
「だって君、おれの居場所全部とっていくのに其処が気に入らなくてこんなにゲーゲーしてるじゃん。それってむかつく」
「うるせえな、俺だって好きで連れて来られた訳じゃない」
「自分で選んだくせに」
「ほんっとうるせえ、な」
コップを取ってやって水を汲んで、口に流し込んで吐き出されせる。びちゃびちゃと床が汚れたけれど、ついでに下井のズボンにも掛かったのだけれど、饐えた匂いがしてむかつきに磨きがかかるけれど、まあ良いや、と思う。
 ねえ、と下井は口を開いた。
「姉さんに頼んであげる」
はいもっかい口開けて、ごろごろして、と一つ年上の人間に介護じみたことをしていると、それがどうしても敵わない人間なのだと思うと、ひどく興奮するけれど。
 だって今だけは、下井の方が、優位だ。
「父さんはおれのこと認めてくれないけど、姉さんたちはおれのことだーいすき、だから。おれがちょっと頼めばその通りにしてくれる」
「そうだな」
「姉さんたちがあの子気に入らない、って言うだけで、それだけで、君の居場所なんか此処になくなるんだから」
「…完全に失くすことなんて、出来ないくせに」
「………そうだよ、一時的だよ」
一時的、一時的、一瞬かもしれない。
 でもその一瞬が、どれほどのものになるのか。きっと彼なら、下井よりもずっと賢い彼なら、分からないはずがないのだ。
「ねえ、よーくん。おれに協力してよ」
「うるせえな、自分で努力しろ」
「おれ、だって、努力の方向も分かんないんだもん」
おれが出来るのは可愛いお人形に徹するだけだったのに、可愛くない君が全部取って行っちゃうから、と続ける。
「おれを、君より出来る子にしてよ」
「それは、むり、だろ」
「じゃあ出来る子に見せてよ」
「お前の、努力次第、だろ」
ねむい、と彼は言った。吐くのに体力を使ったらしい。部屋行く、と問えば疲れきった表情で頷かれた。仕方なく―――そう仕方なくだ、肩をまた貸してやる。
「よーくん春から高校生でしょ」
「うん」
「どこだっけ」
「たちばな」
「ああ、あそこ。よーくん一芸だったっけ」
「うん」
「おれは一般だろうなあ」
「来んのかよ」
「じゃないと意味ないじゃん」
今まで通りにしててよね、と言う。でなければ下井がわざわざ追いかけて行ってやる意味がない。
「おれ、絶対よーくん追い抜いて、父さんにおれを認めさせて、君なんか下井の家から追い出してやるんだから」
「………やってみろよ」
 喧嘩の体を作ってくれたのはきっと、彼の優しさだった。それくらいしか彼には出来なかった。今にも倒れそうに、それでもちゃんと自分の脚で歩く彼に、本当にこの人は残酷なんだと思った。一個の歳の差じゃない、育った環境じゃない、違うのは素材で、本当はそんなこと分かっているのに。
「あとで泣かないでよね」
「誰が」
 これは、籠の中で足掻いているだけの話なのだと分かっていた。
 分かっていても、何もせずにはいられなかった。だって、いつかいじっていた錠前がころんと壊れて、その扉が音を立てて崩れる日が来ないなんて、誰にだって断言出来ないのだから。



20151016

***

ねむりも忘れて朝を迎えに行こう 

 身体の中で音が響いていた。
 奇妙な違和感を乗せるように息を吐き出せば、その音が少し止むのが感じられる。そのまま続けてもいいのに、と思っていたらずるり、と指が抜かれて、洋くん、と呼ばれた。
「身体、起こせるかい?」
ん、と頷いてゆるゆると身体を起こすと、支えられる。そんなにしんどい訳じゃあないのにな、と思うも最近知ったこの腕のあたたかさに抗う理由もない。
 黙っている涼暮のこめかみにキスを落として、言いたいことなんて全部分かっているような顔でその人は言う。
「僕が君の顔を見たくなったんだよ」
「…そういうことにしておきます」
よくわからないけれど、きっとこの人が判断したのならそう間違いはないだろう。過信している訳ではないけれども、惜しみなく注がれる愛情を疑うような無粋な真似はしない。
「別に、僕はこういうのも楽しむ派だけれど…」
髪を梳く手にもやっと慣れて来た。最初は触れられるだけでいろんなものがいっぱいになって、くるしくてどうしようもなかったのに。
「君が今まで痛い思いとかしていないのか、それだけは何だかとても心配になるね」
「いままで…?」
思わず首を傾げた。
「………こんなことするの、アンタがハジメテです、けど、」
 ぱちり、とその綺麗に整ったパーツが驚きの色に染まっていって、ああそういえば学生時代、自分の周りはとんでもない奴らばかりだったなあ、と思い出す。自分のことはとりあえず棚に上げておいた。流されやすい、というのも正直あっただろうし、確かにそう力が強い方でもなかったのだし、この人がそういう想定をしていても何も可笑しくないのだ。
 そんなふうに思ってから、視線を一旦落として、また見上げる。
「何か、した方が、いいですか」
「そ、れは…君に、任せるけど」
何かしたいかい? と聞かれて、少し悩んで首肯を返しておいた。
 涼暮が腰を折った時点で察しはついていたのだろう。無理はしなくて良いと言うその人に、無理なんてしません、と返す。確かにこの人のためなら多少の無理なんてなんのそのなのだろうけれども、涼暮はそれをこの人が喜ばないことをちゃんと分かっているつもりだった。
「でも、君、遣り方知っているのかい?」
「………人の名前、出して良いですか」
仮にもベッドの上でどうなのだろう、と思って問うと、どうぞ、と返って来る。
「榎木が妻鹿で公開授業してくれたので、いちおう」
「………公開授業?」
「はい。あと、両側から佐竹と根古の解説付き」
「………何してるの君たち」
「さあ………」
 いつだか榎木がやっていたように舌を出して、それから視界に被さってきた髪を掻き上げて耳に掛けた。
―――くるしいけど、それもふくめて、ぜんぶ、うれしいんだよ。
口に含む前から榎木の言っていたことがなんとなく分かって、なるほどなあ、なんて思った。

***

ファミファソドーシドシドレ 

 この学校の図書室はすごい、と涼暮は入学以来暇な時間は其処に入り浸っていた。ありとあらゆる本がそろっていて、この分であれば三ヶ月は読書に困ることはないだろう。
 本を読まないと死んでしまう、と言っても過言ではなかった。父親の元にいる時は大抵の本は手に入ったし、大学の図書室も好きに出入りさせてくれたし、困ったことはなかったけれど。あの家に所属するようになってからは困ってばかりだった。仕方ないので今まで全然手も触れなかった教科書類をゆっくり、ゆっくり読んだり、今まで読んできたものたちを思い出してなぞったりしてはいたけれども。挙句の果てには必要だから、ないといけない知識だからと投げ込まれるブランド品のカタログの細かい意味をなさない文字すら、じっと拾って読むようになってしまった。
 そんなことを思いながらそろそろ寮に帰ろうか、と栞を挟む。どうやら父親が直訴してくれたらしく、家はここからそう遠くないにも関わらず寮生活を送ることが許されている。従弟の後押しもきいたのだろうな、と少し思うけれども、そっちには別段感謝するつもりはなかった。あれは共同戦線のようなもので、ただの利害の一致で、互いに利用こそすれどそんなふうな関係には絶対にならないと、人間関係の築き方が分かっていない涼暮でも分かっていたから。
 眩しいな、と思う。
 図書室には夕日が差し込んで、あと少ししたら寮の食堂があくんだったな、とぼんやり思い出して、そんなにお腹がすいている訳でもないな、と思って。
 こんなに本があっても、きっとすぐに尽きてしまう。新しく入る本や、図書室にない本に触れる機会なんて作れば幾らでもあったのだろうけれども、困ったことにそういう術はこの十五年で身に付けてこなかった。理論としては理解しているけれども、どうにも行動が伴わない。今までそれで困ったことはなかったし、きっとこれからも本以外では必要に駆られることなんてないのだろうけれど。
 だってこのまま。
 あの従弟が自分よりも上手く出来る≠ニ見せるには少し足りないと思った。彼が入学して、涼暮が卒業するまで、二年。それまでに、というのは少し、時間が足りない。きっとお人形≠ノなるのは涼暮で、それが変えられないなら、そんな努力は要らない訳で。
 諦めだった。それでももう、良かった。星の王子さま、彼女の読んでくれたかわいらしい物語だけ抱き締めて、それだけで生きていこうと。死ぬという選択肢はなかった。
―――自殺なんてのをするのは基本的に人間だけなんだよねえ。
事例がない訳じゃあないけれど、それでもあまりに件数が少なくて、例外として片付けられちゃうレベルなんだよね。自由なその声が言うのを忘れたことはない。
―――それに洋くん、君はこの世界の文字を置いて、いけるかい?
その答えなんて、ずっと決まりきったことなのだ。
 首を振ったところで、ふと眼下に人がいるのに気が付いた。基本的に下校する生徒は裏門から出ることが多くて(そっちの方が駅に近い)、図書室から見える正門から出る生徒というのは、そういないはずだったが。
 いつもは出ないはずの興味が出た。
―――探究心は大切にするんだよ。
それだって、自由奔放な人の言葉だったけれど。
 目を細める。きちんとスーツを着こなした男。趣味が上品そうだ、なんて分かるのはこの数ヶ月でなかった知識を吸い込まざるを得なかったからだ。教員だろうか、と思う。見覚えがあるのは確かなのだけれど、何処でか、とまでは分からない。
「理事長だ」
誰かの言うのが聞こえた。それでああ、と思う。そういえば受験の時にいた男だった。それで見覚えがあったのか、と得心する。流石に授業をしてくれている教師陣の顔を覚えていないなんて失礼だと思ったが、理事長であるならば仕方ないと言える。
 会ったのは一度きり。あとはきっと入学式だとか朝礼だとかで目にしたかもしれなかったけれど、それならば記憶に引っかかる程度でも仕方ないだろう。そう自分の中で結論付けて涼暮が立ち上がろうとしたところで、視界の中でふい、とその男が顔を上げた。校舎の方は向いていない。夕日の、方向を。
 あかね色に照らされた、その横顔は。
 ぱたん、と自分が本を閉じた音で我に返った。男はまだ空を見上げていた。慌てて時計を見る。一分も経っていなかったのに、なんだか一時間以上経ったような、そんな心地。
 司書の大丈夫? という声に大丈夫です、とたどたどしく返した。
「眩暈とかなら、座った方が」
「いえ、本当に大丈夫なので」
脈拍がやけに速いような気がした。
 それがどうしてなのか、どうして再会した後の彼女の顔を思い出したのか、分からなくて、非常に泣きたくなって、読みかけの本をカウンターに突っ返してそのまま自室に戻って布団に丸まった。
 夕食は食べ逃した。



20151017

***

このあとめちゃくちゃロックンロールフラワーにまとわりつかれた 

 「ツナサンドの匂いがする…」
参考書から顔を上げて振り返ったら、知らないうちに背後はちょっとしたパーティと化していた。いつものこと、と言ってしまえばそれまでだけれども、どうして毎回こいつらは人の部屋に集まるのだろう。今回は根古までいるし、お前、締め切りはどうした。
「最初に言うのがそれなんだ」
まああるけど、ツナサンド、と言って佐竹が差し出してきたのは確かにツナサンドだった。少し形がいびつな気もするけれど。じっと榎木がこちらを窺っている。なんだろう、この空気。そう思いながら涼暮はそれを受け取った。
「食べないの?」
「食べるけど」
 変なもの入れてないよね、と根古の方をちらりと見てから(なんで俺だけ、と笑われた)(前に大量の唐辛子を仕込まれたことをまだ涼暮は忘れていない)、ぱくり、と噛みつく。
「そこで普通に食べるのが涼暮くんだよねえ」
佐竹が笑って言うのを無視した。普通もっと警戒しない? と肩に腕を乗せられて、でもお前らだろ、と言ったら更に笑われた。向こうで根古がちょっとだけうわあ、という顔をしているけれども気にしない。
 そういえば、榎木は。何であんな顔をしていたのだろう。
 すべて食べ終わってからもう一度榎木を見遣ると、まだ視線は涼暮に突き刺さっていた。何か言いたいことでもあるのだろうか、それとも何か取引だろうか、今涼暮が食べたのは食べたらまずい類のものだったのだろうか。いろいろ思考が頭を駆け巡りはするけれども、結局まあ榎木だし、いいか、と帰着した。
「榎木?」
固まったままの榎木に、にやにやしたままの佐竹と根古。なんだろう、この空間。
「涼暮くん」
「うん?」
「その、」
「なに」
「今の、」
「ツナサンド?」
「うん」
「それがどうかした? 普通においしかったけど」
 瞬間、うわあああ! と顔を覆って榎木は膝を抱えた。
「榎木ーよかったな、美味しかったってよ」
「よかったなーあんな憎悪込めて刻んだような玉ねぎでも美味しいってよ」
「ちが、ちがう、なんでもう、なんでもう、だってもっと、ぼくもっとできるのに、なんでツナサンド」
「ツナサンド良いと思うけど…片手間に食べられるし」
「涼暮くん両手で食ってたけどね」
「片手とは言ってないだろ」
うわあああ、と呻き続ける榎木は根古が突っついていた。本当になんだろう、と思いながらたまごサンドにも手を出す。思っていたよりもお腹が空いていたらしい。

 それが榎木の手作りで、実は榎木が結構料理をする人間で、ともだち≠ノ食べさせるのならばもっとちゃんとしたものを、なんて夢を見ていたことを知るのは一週間以上経ってからのことである。



20151018

***

ただ咲いているだけの薔薇 

 「ねぇ、話聞いてる?」
読んでいた本を所定の位置から下げられて、その間にずいっと顔を入れられたら流石にうわっと声が出た。空気が押し出されるようなものである。
「聞いてないよ」
邪魔、と言ってもそれが退くことはないと分かっているのだけれども、涼暮にはそう言うくらいしか彼を遠ざけられそうな選択肢がない。
「じゃあ聞いてよ。このタイトルなんだけどさ、」
「だから死体系は通らない」
「死体じゃないよ」
「………何」
 やっと話を聞いてくれる気になったんだね! と取られた手をどうしたら振り払えるのか、知らない。
「ピアスの本」
「ピアスの」
「これなら君も空いてるし、理事長に言い訳立つでしょう」
「あのね、」
「立つでしょう」
「あの、」
「立つように譲歩したんだから絶対調達して来てよね」
「だから、」
「ね?」
ぎゅっと握られた手を見て、あれ、と思う。
 あの家にいた時は、これが、吐くほどに嫌だったというのに。
「頼んだよ!」
「あ、ちょ、」
だっと走り出してすぐに背中の見えなくなった同級生を、人の話を聞かない同級生を、涼暮は引き止めることは出来なかった。
「ってことは…」
いつの間にか握らされていたリストを見てため息を吐く。
 佐竹が見たらまた、役得なんて言うんだろうな、と思った。



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***

今度夕日を見に行きましょう R18

 「うわっむりっ…」
思わずと言ったように声を上げたその人に、涼暮はやめますか、という言葉をすぐに用意した。用意しただけで言いはしなかったが、すぐに言って次の動作に移れるように。けれども、
「これ、思った以上に恥ずかしい…」
そう顔を覆ってしまったその人に、どうやら身体的に辛い訳ではないのだとひとまずほっとする。
「明音さん」
「恥ずかしい」
確かに覆い隠せていない部分はいつもの澄ました顔からは想像も出来ないくらいに真っ赤に染まってしまっている。恥ずかしいというのも嘘ではないのだろう。
「…それを、俺はいつもやらされてる訳なんですけど」
なので。
 ついいじわるな言葉が出た。

 ―――アンタの全部が欲しい。
そう零したのは現状に対する余裕が出てきたからなのか。最初から持っていた感情ではあるので、欲が出たとは思わない。
「僕にあげられるものならなんでも」
想定してた返答を想定していた通りに返されて、嬉しくなってそのまま首に手を回す。
「本当に?」
「僕が今まで君に嘘を吐いたことがあったかい?」
「ない」
それとも、あげられないようなものが欲しいのかな、なんて笑ってみせるその人に、胸がいっぱいになって、そして。
「アンタを抱きたいって、言っても?」
「うん、いいよ」
 間隔だとか、声の調子だとか。いつも通りの合間に少しの緊張を嗅ぎ取って。
「…ありがとうございます」
涼暮にはそう言って、そのまま抱き着くしか、出来なかった。

 「だって下から見上げる洋くん格別だし…、正直自主的に動いてくれるのすごく興奮するし」
「じゃあ俺が今同じこと思ってるのも分かってくれますよね」
「それとこれはべつ…」
顔をきれいに覆ってしまっている手を、むりやり引き剥がすような真似はしないが、勿体ないな、と思う。
「…明音さん、本当にむりならやめますけど、」
「やめないよ…」
ぐずぐずと詰まるような声を聞いて、いつも自分はこんな声を出しているのだろうか、とそう思うと流石にこちらも恥ずかしくなってきたが。
「だって、洋くんはしたいんだろう」
「………」
「…洋くん、」
「すみません生理現象です」
 明音さん、ととりあえず一番近くにあった脚をなぞる。
「顔、見せてくれませんか」
「やだ、今すごい情けない顔してる」
「情けなくても良いです。明音さんの全部寄越せっつったの俺ですよ」
俺が失望とか、そういうことすると思いますか、と問えば、思わないけど、と返されるのに、その顔はまだ隠されたまま。
「明音さん、」
「やだー…」
「駄々っ子ですか。キスして欲しいんですけど、手、退けてもらえませんか?」
「その言い方狡くない? 何処で習ってきたの?」
「アンタ以外に誰がいるんですか」
 はぁ、と諦めたように息が吐かれて、うん、と決意でもするような首肯。それからゆるゆると外される、手。
 ああ、今この瞬間しかない、と思った。
「…アンタは、」
「うん?」
「すごく、きれいだと、おもう」
 折角見られた顔がまたその手で覆い隠されてしまうまで、あと五秒。

***

君にとって本当は名前もない人間の話 

 同じ学校だと言うのにあんまり見ない制服だったな、と思う。うん、わかった、と物分り良さそうに踵を返すと、スカートがひらりと揺れて、ああそうだよ、この学園にはこういうのが足りない、なんて思って。吹奏楽部なのかな、なんて思った。この学園は共学だけれども男女の敷地は完全に隔絶されていて、女子と触れ合う機会がちゃんと用意されているのは吹奏楽部で、それも大抵女子が男子の方に来ることが多い。というか、それ以外で男子の敷地内に女子がいることの説明が付かない。
 ぱたぱたと違う生き物みたいな足音が完全に遠ざかってから、よいしょ、とゴミ袋を持ち上げると、オレはそこから出ていった。
「根古」
クラスメイトの名前を呼びながら。
 一瞬驚いたような顔をした彼は、それからすぐに笑ってみせた。
「盗み聞きなんて趣味が良いな?」
「不可抗力ね、これ」
両手に盛ったゴミ袋を見せてやると、掃除当番ね、と頷かれる。
 この広大な学園には一応掃除を担当してくれる用務員さんなども存在するが、生徒による掃除当番が存在しない訳ではない。教室のゴミは基本的に生徒がどうにかするものだし、金がかかっている割にはちゃんと自立を促す仕組みになっているんだなあ、なんて思ったりすることもある。
「告白、だったね」
「そうだな」
「要約するとお前の顔がめちゃくちゃ好みだったってこと?」
「まあそうだな」
ふうん、と頷く。確かにこの学園で出会いなんてものがあるならば、それは顔を基準に判断するしかないのかもしれない。ああでも人によっては優しくしてもらった、とか、そういうのもあるのか。
 顔、顔かあ、と考える。確かに根古は同性から見ても整った顔をしているとは思うけれど。それを判断基準にされるのは、どうなんだろう。流石に聞かないけど。
「あの子、大人しく帰ってったな」
「まあ俺、振り方上手いから。まとわりつかれるのも、お試し一週間も面倒だし」
「うっわ…リピーターとかは?」
「上手いからこそ来ない」
「うっわー…」
 よいしょ、とゴミ袋をうず高く積まれたところに放り投げていると根古が手伝ってくれた。こいつ、本当こういうところがあるからなあ、だからモテるんだろうなあ、と思う。
「さんきゅ」
「ほら、早く教室帰れよ」
「根古は?」
「もうちょっと此処にいる」
「………そっか」
 何で、とは聞けなかったしどう足掻いてもオレはこいつのクラスメイトでしかなくて、友達ですらないんだろうな、と思ったらとたんにしんどくなって踵を返して、ああさっきの女子はすごかったのだ、と思った。根古が上手いのは振り方だけではなくて、さっきの女子はそれすらかいくぐったのだと思ったら羨ましくなって、でもこれ以上何も出来ないから、さっさと教室に帰ってかばんを取って、オレは部活に行くのだ。



20151019

***

飼い主っていうか保護者かおれは 

 そろそろ新しく入れてもらった本も尽きるな、という意味の分からない呟きが聞こえてきて、それから上原はその言葉の主を顔を上げて特定して―――否、本来ならばそんな発言をするような人間はこの空間に一人しかいないのだから。
「何か、欲しい本あったらついでに頼むけど」
読めれば何でも良いし、という彼はスマートフォンを取り出して最近話題のタイトルから何だそれはと言いそうになるタイトルまで列挙し始める。以前聞いた時に、嘆願は基本月一、と言っていたがこの量を一ヶ月で読み切るのだろうか。確かこの人は一芸入学で、一芸枠は基本他よりも勉強面におけるボーダーが高くて大変だという話も聞いていたのだが、いつ読んでいるのだろう。いや、いつ勉強しているのだろう。いつでも図書室にいる気がする。
「料理本、って、いれてもらえますか」
 多分きっとさっきの言葉は文芸部員に言ったのだろうけれど、一番最初に反応したのは鹿田だった。先輩も気にするのを止めたのか、無造作にタイトル、と呟く。
「『お菓子「こつ」の科学』、その新版と、『脂質の機能性と構造・物性』『カクテル完全バイブル』『COOKING WITH CHOCOLATE』、あとはGATEAUXの三年前の分とか、手に入れられたら」
「多分カクテルは通らない」
「試すだけでも」
料理もそうですけどお菓子の本もフルカラーばっかりで手が出しきれないんです、と言う鹿田は、夏前に彼の怒りを買ってしまったことを忘れていないらしい。ちゃっかり料理部の本まで突っ込んでいるようにも見えるが、まあこの先輩のことだ、そう気にはしないだろう。
 だって、そういうこと≠轤オいし。
 そう上原は思ってから、そういえば自分と鹿田もそういうこと≠ネんだったな、と思い出した。そして、そういうこと≠ネのを思い出したら、二人が喋っているのがあまりおもしろくないな、と気付いてしまって。
「そんなの、図書館いけば良いじゃん」
この街には大きな図書館がある。そこになら料理関係の本だってたくさんあるだろう。先輩はそういうこと≠ネのだから置いておいても、こうして目の前でそういうこと≠ノなっている人間が他の人間に尻尾を振っているのを見ると―――ああこれは本当に飼い主としての自覚が出て来てしまったなあ、なんて思いながら、そんなふうに話を向ける。なんだって良かった、大事な大事な、なんだろう、ほんとになんだろう、でも先輩と彼が話をやめてくれるなら、上原はなんだって良かった。
 けれども、どうやらいるらしいいじわるな神様は上原になんて味方をしてくれない。
「としょかん」
ふしぎそうに反応したのは先輩の方だった。
「図書館、行ったことない、ですか?」
そしてそれに反応したのは、鹿田の方が早かった。図書館に行ったことないとかないだろ、だって図書室の主だぞ、と思いながらいらいらと原稿を書き進める上原の耳に入って来たのは、もう何も驚きはしなかったけれど、ふしぎそうな顔のまま、その首がこてり、と傾げられて、
「………ない」
この世はよくわからない、と思った瞬間だった。
 だって信じられないだろう、本がなければ死ぬと実際死んだような顔を晒していたその先輩が、図書館なんてものに行ったことがないなんて。
「先輩の実家の近く、図書館なかった、とか、ですか?」
「えっと…あった、けど。たぶん。うん、あるんだけど、ちょっと、いろいろ、」
いろいろってなんだよ、いみわかんない、とペンを投げ出す。
「言われた訳じゃないけど、家出ちゃ、だめだったし」
「ええ、そうだったんですか、大変でしたね」
「…たいへん」
「大変じゃなかったですか?」
「そうだったかも」
「でも今は大丈夫?」
「外? 出ても良いと思うよ。パンケーキ食べたじゃん」
「そうでした。じゃあ、図書館も行きますか?」
「えっ、あ、えっ…行ってみたい」
「なら行きましょう、上原くんに連れてってもらって」
「上原ってそういうの詳しいの」
「詳しいというか、方向音痴じゃないです」
僕の飼い主ですし、と鹿田が少し自慢気な顔をして、先輩もふうん、なら、と頷く。
 いよいよわからなくなって、原稿用紙をぐしゃぐしゃにした。



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***

脚と足 

 ばたばたと騒がしい音がして、あああの後輩がやって来たのだと瑠璃川洵(るりがわじゅん)は骨から―――本物とは似ても似つかない模型から離れた。この状態であることは瑠璃川にそこそこの精神安定をもたらしていたけれども平穏な高校生活にこのやかましい後輩が現れてから、その状態を見られることで更にやかましい事態になることは既に学んでいる。
 「じゅんちゃんせんぱい!!」
ばーん! と大きな音で部室の扉が開けられて、そのうち蝶番が飛んで行くんじゃないかなんて思うけれど。
「あっおれさっき、三年の先輩とぶつかっちゃって! それでスケッチブックが! ばぁーって! 拾うのちゃんと手伝ったんですけど! 足が! すごくて!」
「…ああ、空鳴」
それだけで分かってしまうのも何だと思うが、この学園には変人が多くて、それがそれぞれ特化型なので大抵特徴を言われれば分かってしまうことの方が多い。
「すごかったんですよ! じゅんちゃんせんぱい知ってる人!?」
「去年クラス一緒だった」
「へえー! すごい! すごいじゃないですか! そんな人とお知り合いなんて! すごい!」
「下井、煩い」
「すみません! だってすごかったので! 足! おれあんな足ハジメテ見ました!!」
今までいろいろ見てきましたけど、あれすごいですね! と下井は本当にばかなのか見識があるのかよく分からないことを言う。
 ああでもこいつは、そのうち良い絵を見ては値段をつけたり、にっこり笑ってそれを買う交渉をしたり、そういうことだってするようになるんだろう。空鳴の絵を気に入ったようだけれど、ああいうものにも値段を付けるようになるのだろうか。いや別に、下井が美術商になるとは思っていないけれど。瑠璃川は模型を引き寄せる。
「あいつの絵は時々生きてるからオレはむり」
あれ見てるくらいなら、オレはこっちが良い、と呟く。
 別に、毎回そうな訳じゃなかった。ただきっと、瑠璃川が偶然見てしまったものがそうだっただけで。
本人も時々しか、と言っていたし、女の子の脚なんかは完全に瑠璃川の好みにヒットしていて、何枚か譲ってもらおうかと思案したくらいだったのだが。
 あれを、見てしまってからは。
 だめだ、と思った。あんな絵を書く人間の絵には、きっともう、感動できない。
「やーん、じゅんちゃんせんぱい、ロマンチック」
ぴこん、と額を刺激されて思わず低い声が出た。
「は?」
「絵が生きてるなんて! 普通言わないですよ!」
「………お前、空鳴の絵、見たんだよな?」
「スケッチでしたけど」
「それで、なんにも思わなかった?」
「すごいと、思いましたけど?」
最近はまた固定のモデルが出来たと風の噂で聞いていた。つまり、それは、そういうこと、なのに。
 気にしすぎなのかと、そう言われればそうなのかもしれない。
「………なんかお前のばかに付き合ってるとこっちまでばかになりそう」
「えっひっどーい。おれ、こんなにかしこいのに」
「中間考査で満点取ってきてから言え」
「満点なんてじゅんちゃんせんぱいも取ったことないくせに!!」
「満点取ったやつなんて存在すんの」
「こないだよーくんが取ってた」
「………ああ。お前の従兄の」
「でもおれも敗けないから!」
「はいはい、頑張れ」
肋のところに頬をくっつけるとプラスチックの匂いがした。ああこの安っぽさ。きっと理事長に嘆願にいけばもっと良いものがもらえるだろうに、それこそ本物だって手に入るかもしれないけれど。
 そういうことは、しないと。決めているから。
「ねえ、じゅんちゃんせんぱい」
後ろからのし、と下井が体重を預けてくる。こいつ重くないよな、と瑠璃川は思いながらもう退け、なんて面倒くさくて言ってやらない。
「おれはばかだから、じゅんちゃんせんぱいが何を怖がってるのか分からないけど、おれはずっと、じゅんちゃんせんぱいの味方、だからね」
「なんそれ。何も怖くねーし」
「おれ、よーくんに怒られてもじゅんちゃんせんぱいのためなら理事長のところ行けるから」
「なんでお前の従兄が怒るんだよ」
「なんだろうね、分かんないけど」
「いみわっかんない」
「ねえ、じゅんちゃんせんぱい」
よいしょ、と下井が言って、多分脚を上げたのが分かった。
「おれの足、その…からなり? せんぱいに描いてもらったら、どうなるかな」
「とりあえずオレにとっては最悪になる」
「そうなんだ。じゃあやめよ」
なんでお前はそんなにオレ中心なんだよ、というのは言えなかった。
 その答えなんて一年近く前からずっと、分かり切ったことだったから。

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20190117