四十三度目の日の入り 

 愛する人の死に目にあえなかったその人は、まるで未来の自分かと思う程に似ていた。たった、五年かそこら。離れていたのはその程度だろう。そのうちに涼暮は成長をしてしまって、なるほど彼女がああ言ったのも間違いではなく、今涼暮が鎧を身に着けていなかったらすぐに親子なのだと分かっただろう。
「母さんには、会えた?」
彼女の家の面々がいない時間を選んで伝えたのは涼暮だった。返って来る首肯にそれが無駄ではなかったことを知ってほっとする。
 ほっとしたので、すうっと息を吸い込んだ。
「今しかないと思うから、言うんだけど」
こんな、前妻が、母親が。亡くなったその遺体の安置されている部屋のすぐ傍で。する話ではなかっただろうけれど。
「親父、」
言いかけて首を振る。
「いえ、和海(かずみ)さん」
そう呼んだのは初めてだった。
 これから、この人とは他人になる。
 涼暮が彼女の世話をしている期間に出したのはそういう答えだった。元々既に紙面上でのつながりはないに等しかったけれど、従弟がちゃんとし始めて下井の家に涼暮が必要なくなっているこの状況で、彼が何を言うかは想像に容易かった、から。
「俺、好きな人がいるんです」
声は震えていない、大丈夫。そんなことを思う。
「その好きな人は、男、なんです」
誰、とまでは言えなかった。彼だって送り込んだ先の、その融通をきかせてくれたその人と、実はなんやかんやありました、なんて話を聞きたくはないだろうから。いやべつに、なんやかんやあった訳ではないのだが、きっと彼にしてみたら充分だろう。
「軽蔑されても、良いです。俺は充分考えました。その上で今、貴方に言っています。貴方が何を言っても、それが正しくても、俺は、」
「………縁を、切りたいの」
流石、話がはやい。
「その方が、貴方にとっては良いかと思って」
もう彼には新しい家庭があった。それを涼暮は知っていた。下井の家が充てがった政略結婚のようなものでも、それでも確かに彼にはもう別の家庭があるのだ。それならきっと、前妻との子なんて縁が切れていた方が良い。本当はそっちの方が理由だった、あの男のことは、後付けに過ぎない。
 正しい家族の形なんて、分からなかったけれど。
 彼にとって、何か足枷になるものなんて、ない方が良いのだ。涼暮には充分な思い出と、そして彼のくれた道がある。それが消えてなくなることなんて、ない。
「お金のことなら心配ありません。奨学金取りましたし、大学を卒業するのには充分ですし、俺も自分で稼いでいます」
だから、それだけで。
「ですから、」
「………分かったよ」
 彼はすごいな、と言った。
「洋くんは昔から、言い出したら聞かないからね…」
でも君がそんな誰か一人のために考えるなんて、出来るようになると思わなかった、とも。涼暮自身だって今も不思議な感覚なのだ。
 こんなに。
 自分以外の誰かを、想う、なんて。
「君がそう言うんなら、君の好きなようにさせる」
「…ありがとう、ございます」
「でも、辛くなったらいつでも帰って来て良いんだからね」
彼は手を伸ばそうとして、それからもう他人であることに気付いたのか、その手を下ろした。だから涼暮は小さく、頷くだけに留める。
 「和海さん」
遠ざかる背中に呼びかける。
「俺はもう他人だから言えます。貴方は、子供を捨てた訳じゃない」
あれは不可抗力だった。何を天秤にかけるかと問われて、本人が答えるよりもはやく、天秤に乗っていた方が反応しただけ。
「だから、気に病まないでください」
そういう人だったと知っていたからこそ、涼暮は進んだのだ。示されるままの道だったけれど、誰かの幸せになれただろう道を、選んだ。なんだ、と思う。自己満足でも、自分勝手でも。そんなに難しいことじゃあなかった、そういうものは前から出来ていたんだ。
「他人からの、お節介ですが」
運命の分岐点なんてそこら中にいくらでもあって、それは誰かによって齎されるものだったり、歯車が組み合うように突如として出現するものだったり、様々だったけれども。
 それは待ってはくれない。
 それを、高校時代で嫌というほど味わった。だから今こうして、自覚して一緒に言葉に出来るのかもしれなかった。
 彼は一つ頷いた、頷いて、ありがとう、と言った。
 他人との会話であることだし、ただのお節介であったのでそれ以上は何も言わずに、彼の背中を見送った。

***

告白 

 己の目の瞬く音、まぶたの肉のぶつかり合う音まで聞こえてくるようだった。
 今。
 彼は何と言っただろう。唇が戦慄く。どう、して。なんて。怖くて聞けない。
「アンタの、人生…全部寄越せって、言ってるようなもんだぞ」
声は情けなく震えていた。うん、と短い言葉が返って来る。それに迷いが見えなくて、更にあちこちが揺れた。
「いいのかよ」
「いいよ」
「いいのかよ…」
 放って置かれているデザートに、二人とも手を付けない、こちらに関しては付けられない、付けている余裕がない。困ったように頬を掻きながら、彼はぽそり、と呟いた。
「もっと君は喜んでくれるかと思ったんだけどなあ」
「この上なく喜んでる…」
思わず本音が出たがこの際どうでも良かった。羞恥よりも衝撃の方が勝った。
「…返せるか分かんねえぞ」
「返してくれなくてもいよ」
だから、と彼は笑う。ぎゅうっと胸がしめつけられる。
「おれ、」
「うん」
「俺、まだ言ってなかったから」
「うん」
「アンタが、すきです」
「うん」
「ずっと、すきです」
「うん、」
「…アンタは、って、聞いても、良いの」
「いいよ」
「…アンタ、は」
「好きだよ。今、恋に落ちた」
今なんだ、というのは口にしなかった。代わりに最後の確認だというように口を開く。
「アンタの、橘明音の人生を、俺に、ください」
 それが今、涼暮洋に出来る、精一杯の告白だった。



「修ちゃんの人生を私にください」
ハチミツとクローバー10 花本はぐみ

***

先輩面 

 なんでも、という言葉は暴力だなあ、と思った。思ったしそれを言ってしまうこのふわふわ感は何だかあのロックンロールフラワーを想起させたし、それはそれで苛立ったし、彼がなんでも、というのならそれ相応のことをしてやって、もう二度とこういうことがないように、と思っただけで。
 どちらかと言うのならば彼、というよりは彼の飼い主への―――ちゃんとリード引いてないとこうなるぞ、という警告のようなものだった。
「お前、今週末空いてる」
だから、そう言ったのは、文芸部の面々のいる前で、ついでに言えば最近俺のお菓子を根こそぎ食べていく副部長もいる中でそう言ったのは、ほぼ彼に何かさせようと言うよりかは、上原へ向けたものだった。上原はこんな見てくれの俺にもちゃんと原稿を催促してくるし、この部を回している立役者だし、きっとこのまま二年後にはきれいに部長か副部長には就任しているのだろう、と今から思うけれど。それでもこうも立て続けに―――というのは別に彼らの所為じゃなかったけれど、どうしても八つ当たりがしたかった。最低な言い訳だな、これ。
「空いていますが」
上原の顔を窺って、多分今予定を空けたのだと思っても、別にこれは先にも言ったように上原への警告であるので気にはしない。
「どっか出かけようか」
「どこか、ですか」
「そう、どこか」
「ええと、それは…」
困ったような顔をする彼に、極力押さえた―――前に榎木に涼暮くんの笑顔は武器になるからね、それも凶悪な、と言われたので押さえた―――笑みを向ける。びくり、と肩がはねて可哀想なことをしているなあと思った。後輩をいじめる趣味はない。誰かさんとは違って。でもむかついたのは本当なので、その原因にはちゃんと知らしめてやらないといけない。
「俺とデートしようよ」

 と、まあそれを文芸部の面々の残る中で言ったので野次馬は正直覚悟していたし、その野次馬の中に交じる上原の、なんとなく気に入らなそうな顔を見て満足をした。
「ええと、なんだっけお前、しかだ?」
「かだ、です。でもしかだとも呼ばれます」
「あだ名みたいなもん」
「そうです」
何となく言葉を投げれば返って来る様が初期の榎木と似ているなあ、なんて思いながら彼おすすめのカフェで向き合う。
 デートしよう、と言ったものの、特に何をするつもりもなかった。彼の言葉を借りるなら領域侵犯、の仕返しを、彼よりももっと的確な場所へと向けたかっただけで。今柱の影からこちらを窺っている上原の表情を見る限り、それは概ね成功と言って良いだろう。ああ、本当に満足だ。
「それ、おいしい?」
「はい、おいしいです」
「一口くれ」
「どうぞ」
そんなサービスまでしてやる。別に食べたくないものを食べる趣味もないので、これはただ普通においしそうに見えたからだ。
「お前は、」
「はい」
スプーンを握る手に力がこもるのが見える。そんなに怖い先輩じゃねえぞ、と思いながらもそんな親切なことを言ってやる筋もないので放っておく。
「おいしそうに食べるよな」
「………? そう、ですか?」
「うん」
「はじめて、言われました」
「作ってる印象の方が強いからじゃね」
「そうかも、しれません」
 先にも言ったように既に満足していた。
 だから、本当のところそこでやめておけば良かったのだが。

 「あ、ちょっと本屋寄って良い」
カフェから出て―――なんだかんだ言おうとする彼をはいはいといなして全額支払ったところで、対岸の本屋のポップが目に入った。
 新刊発売。
 そういえば発売日だったな、と思い出す。気になっていた小説の続編。いつもならば嘆願にいくところだけれど、こうして折角外に出たのだから、なんて思ってしまったのが間違いだった。
「どうぞ」
もう今日は何のために来たんだろう、という顔のままの彼をつれて、人並みを渡ろうとして、それからすぐにあっぷあっぷとどこかに流されて行きそうな彼にため息を吐く。
「ほら」
手を差し出したら、きょとんとされた。困ったことに、俺はこれ以上の遣り方をしらない。
「いつも上原にしてんだろ。お前の好きなようにやれ」
どっか行かれたらかなわない、と言ってやればようやく用途を理解したように手が伸びてきた。ざらざらとした感触はきっと、火傷か何かだろう。料理は上手い下手に関わらず、結構火傷が多いと聞く。
「お前、頑張ってるんだな」
ふとそんなことを漏らすと、聞き取れなかったのか彼は首を傾げてみせたので、なんでもない、と言っておいた。
 お目当ての本を手にとって、さあレジへ向かおう、としたその時。
「あれ、涼暮くんじゃん」
知った声に、思わず振り向いた。
「佐竹」
 ジャーン、と音がした気がした。
「涼暮くんが外出るなんて珍しいね」
「…そうかもな」
「で、それ、何」
それ、が手に持っている新刊でないことは分かっている。
 休日ともあって、店内も結構な混み具合だった。だから彼とは手を繋いだままで、彼にはきっと急激に冷えていった俺の変化が伝わっているだろう。頼むから余計なことを言わないでくれ、と思いながらええと、と言葉を探す。
「これは、話すと長いんだが、」
「先輩は悪くないんです」
「おい」
思わず突っ込んだ。言うにことかいてそれか。これじゃあまるで佐竹と俺が何かしらあるみたいだ。佐竹のことはいいともだちだと思っているけれど、根古には悪いけどそういう意味ではない、絶対にない。
「僕が、その、」
佐竹を前にして流石にこれ以上言葉を連ねさせるのは得策ではないと思った。ので、そのまま彼を自分の背中に隠してやって、
「………ふうん」
これもまた失敗したことを知った。
 いやな感じにつり上がった佐竹の眦に、お前こそその後ろの可愛い子は誰なんだよ、と聞くことは出来なかった。



20151009

***

肉食獣たちの休日 

 次の休日の行き先が動物園に決まったのに特に深い意味はなかった。ただどっか行く? と話を振ったら佐竹が行きたいと言ったからで、俺も嫌ではなかったし、それらしいと思ったし。それくらい。だってそうだろう、動物園デートなんゆてコーコーセーらしいことだろうし、そういうのって現役である今しか出来ないことだから。らしいことは嫌いじゃない、今を謳歌してる感じがして。
 紗霧も、きっと佐竹も。同じ考えだった。同じくらいクズで、同じくらい人間としてだめだったと思うけど、一応青春したい気持ちだって人並みにあるわけ。だからこそ次のデート先は動物園なんていう可愛らしいものに決まったのだろうし、そんな可愛らしい提案をしてきた佐竹に何を言うこともしなかった。
―――そういうとこ、嫌いじゃねぇんだよな。
「だめ?」
答えないでそんなふうに考えに浸っていた紗霧に、佐竹は首を傾げてみせた。ホント、でけーのにこういうの似合うんだからやってらんねーよ。
「だめじゃねーだろ」
その頭を抱き寄せてなでくりしてやると、少し嬉しそうに唇の端か歪むのが見えた。

 朝早く起きてお洒落をばっちりにして寮を出て、学園から一時間程度のところに住んでいる佐竹と電車の中で合流して。制服じゃねーってのもまたいいな、なんて思う。こんなことは何回も繰り返しているから、佐竹の私服なんて見慣れたものだったけれど。これからデートに行くんだな、なんて思ったら胸が踊る。
「なぁ、昼何にする?」
「もう昼の話かよ」
笑いながら電車に揺られて三十分。動物園は意外と近いのだ。

 何故か佐竹は肉食獣ばかりを見たがった。
「アレお前に似てね?」
くあ、と欠伸をする豹を指差して佐竹が言う。
「えー似てる?」
「似てる」
「じゃあ似てるんじゃね?」
くだらない会話。コーコーセー。たぶん、今しか出来ないこと。
 昼は佐竹の要望でオムライスにした。午後は爬虫類館の方へ行ったけれど、そこではどれが誰に似ているなどとは言わなかった。そんなに俺は肉食獣なんかな。佐竹も人のこと言えんと思うけど。
 そんなことを思っていたら園内は粗方回ってしまって、でもまだ時間に余裕があったからゲーセンで時間を潰した。だって佐竹が家に帰りたがらねーんだもん。俺が寮の門限まで付き合ってやるしかないんじゃね。俺ってやさしー。デキた彼氏じゃん。こういうのってコーコーセーらしいって言うんじゃないの。やったね、俺ら青春。
 と、まぁ俺はそこそこ楽しんだ休日だったわけなんだけど、とうにも佐竹の口数が少ない。そりゃあ帰りたくない家に帰るっていうのが嫌なんは分かるけど、その理由なんか知らないけど。
 がたん、ごとん。
 電車の揺れる音。お互いに無口だ。流石に向き合った状態で携帯をいじるような真似はしない。
「ねえ、しゃむにゃん」
「うん」
「つまんなかった?」
動物園なんていつでも行けた。コーコーセーらしいことなんていつでも出来た。もっと言えば佐竹でなくてもよくて、だからこれは大義名分だ。ばかだな、なんて思うのは言葉にしない。だってそれを言ったら紗霧だって人のことを言えない。
 だから答える。
「楽しかったよ」
嘘を言ってやるでも別に良かった。それでも本当のことを言ったのはたぶん、今しかないと思ったからだった。
「ほんと」
「嘘吐く必要ねーじゃん」
「うん」
「ばかだな」
「ばかだよ」
電車が減速する。もうすぐ佐竹の降りる駅が来る。別に、家まで送って行くような相手じゃあないし、そもそも門限までそう時間がない。それひ百八十にかかるような男だ。キレーな面をしていたって男だ。そんな狼さんに食われてしまうような男ではないし、逆に食ってくるかもなんて思うくらいだ。ああ、可哀想なまだ見ぬ狼さん。アーメン。俺はあんたのこと信じちゃいねーけど。
「ほら、次だろ」
頭を撫でてやったら佐竹は素直に頷いた。いつもこーなら良いのに、と思ってそれだと詰まらないな、と思い直す。従順な犬にはキョーミがない。やっぱ調教してこそ、だろ。
「おう」
佐竹の背中が遠くなっていく。佐竹の降りる駅は無人駅だ。一両目の扉しか開かない。
 そのまま見送って、携帯に目を落として。
「しゃむにゃん」
降りたんじゃなかったの、と声に出さなかっただけ出来た方だと思う。
 紗霧のいる車両の扉は開いていた、誰か乗ってきたらしい。それとも佐竹が開けたのか。無人駅は中から開かないけれど、外からならば開けられる。
「おれさ、」
―――今日楽しかったよ。
ありがとね、とだけ言い残して佐竹は降りていった。プシューと間抜けな音で扉が閉まる。がたんごとん、電車が動き出す。
「………ッて、なにあれっ反則かよっ!」
鳥肌立ったわ!! と自分自身を抱き締めて叫ぶと周りの乗客が驚いたようにこっちを見た。でも気にならない。気に出来ない。御同乗の皆様すみません、根古紗霧は今そんな余裕ないです。
「…あー…もう、」
頭を抱える。
 とりあえず明日、一発殴ろうと思った。

***

麻雀がいいです神様 

 「えっ…マジでそれで俺の部屋に来るってのが分かんないんだけど…」
とそんなことを言いながらも大量のお菓子を持った二人に、涼暮は半歩身を引いてやった。寮生でない二人が、この間いろいろあったはずの二人がどうしてこうも仲良く肩を並べているのか疑問も疑問であるがとやかく突っ込んで良いことはなさそうなので黙っておく。やぶへびはごめんだ、それでこの間反省文を何回も書き直しさせられたことを涼暮は忘れていない。
「俺勉強してたんだけど」
「まあまあ、休憩も必要じゃん」
「ごめんね涼暮くん迷惑だった? お菓子たべる? いっぱいあるよ?」
がさがさとどれだけ買ってきたのか、榎木が腕いっぱいに抱えたものを見せる。佐竹に全部持たされたのか、ハロウィンとかクリスマスの子供みたいだ。まだ夏なのに。夏休みも来ていないのに。季節外れだ。そんなことを思いながら半分以上受け取ってやる。
「食べるけど…とりあえずほんと俺の勉強の邪魔だけはしないで」
「あと一人きたらメンツ揃うけどしゃむにゃ呼ぶー?」
「佐竹はどっから雀卓なんて取り出したの」
「俺のいるところに雀卓ありっ! だぜ?」
部屋の真ん中に置いてあるローテーブルの上に、本当に何処から取り出したのか、既に雀卓が設置されていた。榎木もいそいそと席につくし、何なんだお前ら仲良しか。
「いやほんと…、根古呼んでもいいから三人でやって」
「えー涼暮くん、俺らが脱衣するのをタダ見する気?」
「なんで当然のように脱衣麻雀なの」
「それくらいしか面白いのないじゃん」
賭け事にするとさー、なんて言う佐竹は常識があるのかないのか、時々本当に分からなくなる。
 頭を抱えようか、と勉強机の上に目を走らせたところで、榎木が口を開くのが見えた。頼む榎木、頼むから勉強をさせてくれ。お前だけが頼りだ。
「ぼくはさ、」
自分の唇に触れながら、榎木はぼそり、と言葉を置く。
「とりあえず、セックスがしたいんだよ、ね」
 麻雀もいいけど、と続けられた言葉は殆ど意味をなさなかったし、佐竹がにんまりと笑ったのを視界の端で捉えて、どうしてこの二人を部屋に入れてしまったのかと数分前の自分をひどく憎んだ。



20151013

***

メモリーズハレーション 

 その話が回ってきたのは自身の開設している連絡用サイトからだった。ちゃんとした書式で、仕事の依頼という体で送られてきたそれに思わず息を吐く。
「…職業、説明会」
いつもは此処で振り向いたりなんてしないのだけれども、その人は今其処に―――というか今ちょうど、涼暮を膝の上に乗せた状態で、悠々と過ごしているわけで。
「…俺でいいわけ」
「君は同期の中でも出世株だろう?」
うっすらと笑うその人に、そういえばそうだった、と思い出した。此処で生活しているといろいろなものが麻痺しそうになる。俺のダスキン生活を返せと何度思ったことか。本当に、本当に。
「…職業説明会って何しゃべったら良いんです」
「好きなことをしゃべったらいいさ」
その職業の魅力だとか、楽しみだとか、其処に至るまでに大変だったこととか、との言葉にふうん、と頷く。
 頷いて、そのメールに返信を打ち始めた。私でよければ是非、という旨の文章に、すぐ後ろで嬉しそうにその人が笑ったのがわかった。
「その時は僕の用意した服を着てくれるかな」
「…アンタ、わりとそういうの好きだよな」
特に拒否することはしないでその腕の中に沈み込む。ありがとう、と嬉しそうなその人に、どういたしまして、とツンと返すのが精一杯だった。

 という、前提があって。
 無事に大勢の生徒の前でしゃべるという大仕事をこなした涼暮に、その人は理事長室で待っていなさい、と言った。あのうちの何人があの人の膝に座りに来ているのだろうなあ、とどうしようもないことを思いながら、来客用のソファに座って部屋の主の帰還を待つ。
 隠しているのか、隠していないのか。涼暮にとってそのあたりはどうでも良いことだったが、この時間に此処で待っていろ、というのなら一緒に帰ることになるのだろう。行きは涼暮の都合で一緒に出られなかった。それを考えると思いのほか可愛らしいことを望むその人がそうしようと言ったところで、涼暮が驚くことはない。
「待たせたね」
重たそうな扉を開けてやって来たその人は至極満足そうで、今日の涼暮の仕事は彼のお気に召したらしい。それならよかった、と息を吐くと、定位置に座ったその人は膝の上をとんとん、と叩いて見せた。
「君の場所は此処だろう?」
この部屋なんだから、余計に、と付け足される言葉に思わず眉を顰めた。
「再現ってことかよ」
そういえば今日用意されていた服も、なんとなく此処の制服と似ているような気がする。
「あの頃はそういう意味で愉しむことは出来なかったからね」
本当に楽しそうに笑うその人に、涼暮があれこれ言うこともない。
 いつものように、いつものように。だってこの仕事を依頼された時だってそうしていたのだ。その場所が変わったからと言って、誰かに見られる訳でもあるまいし。学生時代と変わらない、自分の体重を遠慮なくかける姿勢。
「どうですか」
楽しいですか、と聞くつもりだった。する、とその手がまだ長めの髪を掻き分けて、うなじをつっとなぞるまでは。
「…ッちょ、」
「誰も来ないよ」
「いや生徒残ってるし此処電気付いてるだろっ」
 学生時代、それを目安に何度嘆願に行ったか知れない。今は自分が一応その場所に収まっているから心配諸々その他は置いておいても、この人に懸想するなんて冒険をおかす少年がいないとも言い切れない。それに、思い出せないのだ。理事長室に鍵がついていたか、それすら涼暮の中では怪しかった。あんなにしっかりした扉だからついていてもおかしくはないけれど、この人が入ってきたときに閉めたような動作は思い出せなかった。
 つまり、何が言いたいかと言えばこの人がやろうとしていることは、この上なく、まずい。
 学生時代、あまりとやかく言えないような場所に身を置いていた涼暮が言うのはどうかとも思うが、それでも流石にこれはまずいと言える。
「誰か来たとしても、君は静かだから大丈夫だよ」
「そういう、問題…ッ」
じゃない、と最後までは言えなかった。薄い唇が食むように重ねられて、言葉ごと封じ込められる。
「あの時とは、逆だね?」
その言葉に思い出したくない失態がぼんっと蘇ってきて、それ以降はもう、何も言えなくて。
 肩口に顔を埋めたら、それはもう、どうにでもしてくれという合図と同等だった。



「アンタ、五十手前なんて嘘だろ…年齢詐称…」
「嫌だな嘘なんて吐いてないよ。あと来月、」
「誕生日だろ知ってるよ。…クッソ、覚悟しとけよ」
「はいはい、楽しみにしてるね」

***

書き直し

メモリーズハレーション

2015-10-13

 その話が回ってきたのは自身の開設している連絡用サイトからだった。ちゃんとした書式で、仕事の依頼という体で送られてきたそれに思わず息を吐く。
「…職業、説明会」
いつもは此処で振り向いたりなんてしないのだけれども、その人は今其処に―――というか今ちょうど、涼暮を膝の上に乗せた状態で、悠々と過ごしているわけで。
「…俺でいいわけ」
「君は同期の中でも出世株だろう?」
うっすらと笑うその人に、そういえばそうだった、と思い出した。此処で生活しているといろいろなものが麻痺しそうになる。俺のダスキン生活を返せと何度思ったことか。本当に、本当に。
「…職業説明会って何しゃべったら良いんです」
「好きなことをしゃべったらいいさ」
その職業の魅力だとか、楽しみだとか、其処に至るまでに大変だったこととか、との言葉にふうん、と頷く。
 頷いて、そのメールに返信を打ち始めた。私でよければ是非、という旨の文章に、すぐ後ろで嬉しそうにその人が笑ったのがわかった。
「その時は僕の用意した服を着てくれるかな」
「…アンタ、わりとそういうの好きだよな」
特に拒否することはしないでその腕の中に沈み込む。ありがとう、と嬉しそうなその人に、どういたしまして、とツンと返すのが精一杯だった。

 という、前提があって。
 無事に大勢の生徒の前でしゃべるという大仕事をこなした涼暮に、その人は理事長室で待っていなさい、と言った。あのうちの何人があの人の膝に座りに来ているのだろうなあ、とどうしようもないことを思いながら、来客用のソファに座って部屋の主の帰還を待つ。
 隠しているのか、隠していないのか。涼暮にとってそのあたりはどうでも良いことだったが、この時間に此処で待っていろ、というのなら一緒に帰ることになるのだろう。行きは涼暮の都合で一緒に出られなかった。それを考えると思いのほか可愛らしいことを望むその人がそうしようと言ったところで、涼暮が驚くことはない。
「待たせたね」
重たそうな扉を開けてやって来たその人は至極満足そうで、今日の涼暮の仕事は彼のお気に召したらしい。それならよかった、と息を吐くと、定位置に座ったその人は膝の上をとんとん、と叩いて見せた。
「君の場所は此処だろう?」
この部屋なんだから、余計に、と付け足される言葉に思わず眉を顰めた。
「再現ってことかよ」
そういえば今日用意されていた服も、なんとなく此処の制服と似ているような気がする。
「あの頃は君を生徒としてしか見ていなかったことだし」
本当に楽しそうに笑うその人に、涼暮があれこれ言うこともない。
 いつものように、いつものように。だってこの仕事を依頼された時だってそうしていたのだ。その場所が変わったからと言って、誰かに見られる訳でもあるまいし。学生時代と変わらない、自分の体重を遠慮なくかける姿勢。
「どうですか」
楽しいですか、と聞くつもりだった。する、とその手がまだ長めの髪を掻き分けて、うなじをつっとなぞるまでは。
「…ッちょ、」
「つい、いつもの癖で?」
「生徒残ってるし此処電気付いてるだろっ」
アンタの学校なんだからわきまえろ! と喚くと、うん、うん、と首肯が返って来るも妙に楽しそうな空気は消えない。
 学生時代、理事長室の灯りを目安に何度嘆願に行ったか知れない。今は自分が一応その場所に収まっているから心配諸々その他は置いておいても、この人に懸想するなんて冒険をおかす少年がいないとも言い切れない。それに、思い出せないのだ。理事長室に鍵がついていたか、それすら涼暮の中では怪しかった。あんなにしっかりした扉だからついていてもおかしくはないけれど、この人が入ってきたときに閉めたような動作は思い出せなかった。
 つまり、何が言いたいかと言えばこの人がうっかり―――もしかしたらうっかりでなんかないのかもしれないが、やろうとしたことは、この上なく、まずい。
 学生時代、あまりとやかく言えないような場所に身を置いていた涼暮が言うのはどうかとも思うが、それでも流石にこれはまずいと言える。
「まあ君は静かだし、とも思うけれど」
「そういう、問題…ッ」
じゃない、と最後までは言えなかった。薄い唇が食むように重ねられて、言葉ごと封じ込められる。
「あの時とは、逆だね?」
仕返しだよ、その言葉に思い出したくない失態がぼんっと蘇ってきて、ついでにやっぱりうっかりなどではなかったことも分かって。そうしたら、それ以降はもう。
「………でも、此処は、だめ、だろ」
「うん、勿論」
「…いえ」
「うん、帰ろうか」
 膝から降りて立ち上がる。ほらはやく、と手を出したらそれはもう、このあとどうにでもしてくれという合図と同等だった。



「アンタ、五十手前なんて嘘だろ…年齢詐称…」
「嫌だな嘘なんて吐いてないよ。あと来月、」
「誕生日だろ知ってるよ。…クッソ、覚悟しとけよ」
「はいはい、楽しみにしてるね」

***

引き出しを開けろ 

 しんどい時、と言われて涼暮は首をひねって、それからひねるまでもなかったな、と思い返した。
「ここじゃなんだから、部屋、来る?」
「えっ何する気なの」
「…読み聞かせ?」
あんまりうるさくしたら本当に出禁食らうから、と言えば榎木はおとなしくついてきた。

 ―――3たす2は5、5と7は12。12と3は15。
聞き取りやすくはないだろう声が、ひきつれるほどになぞったページを読み上げていく。
―――誰のものでもないダイヤモンドを見つけた時、それは見つけた人のものになる。君が無人島を見つけたならば、それは君のものだ。
―――だれも知らないことですが。それは私が所有している火山や花の為にしていることです。然るに 貴公は、星の為になることを何もしていない、、、。
「多分さ、こうして持ってるだけじゃあだめなんだろ」
涼暮はぱたん、と本を閉じて言う。こうして人に何か自分の考えを伝えるなんて、今までになかったことで、とても緊張する。結仁、と名を呼ぶと緊張したように肩がはねた。
「俺が、言えたことじゃないけど。名前書いて持ってるだけって、それって誰にでも出来るし、それこそ一方通行でも可能なんだと思うんだよ」
名前でも書いとけと言ったのは涼暮だった。謝ることはしないけれど、あれはきっとミスリードだった。
「俺はずっとこの話が分からなかったけど、今ならなんとなく分かるような気がするんだ」
なら、ミスリードは気付いた時点で取り払わねばならない。
 なによりも大切な、ともだち≠フためであるならばなおのこと。
「結仁、お前が本当にあれを所有したいのなら、座って名前を書いてるだけじゃだめなんだよ」
「…涼暮くんはひどいことを言うんだね」
「うん、ひどいこと言ってると思う」
「理事長と関わってからそういうの、感染ったんじゃないの」
「それなら嬉しい」
笑ってやったらばかだね、と言われたのでうなづいておいた。
 恋なんてするやつはみんなばかだ。だから今、この手には鍵が握られているのだ。



20151014

***

星に願いを 

 ともだちは名前で呼ぶんだよ!
 そんな幼い考えが根付いているのは、何処までも子供みたいだったあの人の元で大半を過ごしたからだろう。洋くんだって彼らのことをただのイルカだと、そういうふうには呼ばないだろう? 彼にとって苗字というのは種族名みたいなものであり、つまりともだちになったら更に細分化すべきものなのだとそういう話らしかった。
 だから、という訳ではないけれど。
 そもそも今までともだちなんていなかった訳で、だからそんなことを考える意味もなかった訳で。ならば今、それを実行すべきなのだと、そう思っただけ。
「みのる」
 瞬間、空気が凍ったのが分かった。知っている、これは知っている。一つ下の従弟に向けられたこともある。これは、怒りだ。
「涼暮くん、」
佐竹はうっすらと笑っていた。だけれど鋭敏になったアンテナは、間違いなくそれを怒りだと認識している。
「ごめん」
だから、何を言われるより先に謝った。ごめん、ごめん…と他に言うことが見つからなくて、ただひたすら謝り続ける。
「…べつに、いーよ」
「…でも、ごめん」
「うん、次からしないでくれればいーからさ」
「うん、分かった」
それで、話は終わりとばかりに佐竹は一度目をぎゅっと瞑ってみせた。何かを振り払うみたいだな、と思う。
 佐竹はともだちだから、何かしてやりたかったけれど。きっと涼暮に出来ることなんてこれっぽっちもないのだろう。
「佐竹」
「なぁに」
「おなかすいた」
サイゼ行きたい、というといいよ、と返ってくる。
 いつか、と思う。
 いつか、彼を細分化してもいいような世界が来たらいいのに、と。
 外は真っ暗だった。星が輝いて見えた。
「佐竹は流れ星見たことあるの」
「ないよ」
寒い中そんな会話をしながら、そんなもんだよなぁ、なんて思っていた。

***

猫の涙は海になるか 

 階段でその後ろ姿を見つけた時、あ、と思った。そしてその周りを見渡して彼一人しかいないのを確認してから、階段を駆け下りる。
「根古」
彼の耳はイヤフォンで塞がれていたけれど、ちゃんと声は聞こえたらしい。外して、振り返ってその口元がにまあ、と弧を描く。そういえば佐竹は彼のことをしゃむにゃん≠ニ呼んでいたなあ、と思い出した。なるほど童話の猫のようだ。
「涼暮から話し掛けてくるなんて珍しいな」
「そう、かも」
「涼暮って俺のこと嫌いなのかと思ってた」
「嫌いとか、別に、そこまでは。よくしらないし。佐竹のともだちだし」
曖昧な言い方をすればふうん、と納得したようなしてないような返し。多分どうでも良いのだろう。今きっと彼が気になってるのは、どうして涼暮が大して交流もないはずの根古を呼び止めたか、で。
「ねえあのさ、一応確認なんだけど、根古って佐竹と付き合ってるんだよね」
「そうだけど? 何? セフレにでも見えた?」
「ううん、ただの確認」
 それでね、と続ける。それなりに重要なことを話そうとしているのを一応根古は分かっているらしい。でなければこんなちゃんと、向き合ってくれることもなかっただろう。彼は逃げるのが、とても上手いから。思い出しかけた校舎全範囲鬼ごっこをそのまま記憶の底にうずめて、それから息を吸う。
「もう、遅かったら悪いとは、思うけど。佐竹の名前、呼ばない方がいい、と思う」
根古なら大丈夫かもだけど、と言いかけた言葉は宙に放り出された。胸ぐらを掴まれている。そういえばこいつも結構攻撃的な部類だったなあ、と思いながら、これ、やられる方は結構苦しいな、なんて呑気に思った。
「呼んだのかよ」
「根古と知り合うより前だよ」
「泣かせたのかよ、アイツを」
「………根古こそ、泣かせたの」
俺の時は泣いてなかった、と言うと、少しだけ胸元の力が緩む。これで上手く呼吸が出来る、と思う。よくもまあ、あの男だとかロックンロールフラワーだとかは、これで普通の顔をしていられたなあ。
「別に、馬に蹴られる趣味はないけど、」
「ないのかよ。マジで?」
「ないよ。佐竹、泣かさないでよね」
 俺だって一応怒るんだから、と言えばきょとん、とした目。
「なんでお前が怒るんだよ」
「なんでって、」
きょとん、としたいのはこっちだった。
「多分佐竹はそんなこと思ってないけど、」
だって、そんなことは、
「佐竹は俺のともだち≠セから」
とっくに根古の観測範囲だろうと思っていたから。
 言葉の後は暫く沈黙が続いて、根古は額に手を当ててはー…と長くながくため息を吐いた。これは厭味の分も含んでいるなあ、と思いながら次の反応を待つ。
「………テメーのその狭い世界観、ホントむかつく」
「むかついてもいいよ」
「分かっててやってるんなら尚更むかつく」
「分かっててやってるっていうか、これしかないだけだし」
話は終わった、と胸元の手を払ってやれば簡単に取れる。なんだこいつもなんだかんだ甘いよな、そういえば佐竹のともだちだった。自分で言ったことなのにこの数分ですっかり忘れていた。
「もう泣かせないでよね」
「ったりめーだろ、誰が二度とさせるかよ。あんな顔…」
俺がさせたんじゃねーのに、と掻き消えそうな言葉に、ああ、なんて思う。
「似た者同士」
「今更」
「こういう時ってお幸せに、とかって言った方がいいの」
「好きにしろよ」
「じゃあお幸せに」
「うっせーな、もう充分幸せだよ」
 その言葉だけは何故か嘘だと分かった。根古でも立ち入れない、もしくは立ち入らない領域が佐竹の中にはあるんだな、と思う。それが正しいのか正しくないのか、そういう経験に乏しい涼暮にはよく分からない。分からないから、何も言わずにいた。階段をまた、下っていく。
 ばーーーか! と長々と響いた罵声には、振り向くことはしなかった。

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先輩はいじわる 

 下井梓(しもいあずさ)はその日も二人だけしかいない同好会の部長と副部長と会計とその他諸々を含めて担当しているたった一人の先輩を押し倒していた。
「ねえ、もう、せんぱい、諦めませんか」
ぐり、と下半身をこすりつけるようにしているのに一向に反応を示してくれないその人はいつもの仏頂面で、ずれた眼鏡を直そうともしなくて、そういうところがじゅんちゃんせんぱいなんだよなあ、と下井は思う。
 じゅんちゃんせんぱい。本名瑠璃川洵(るりがわじゅん)。三年生で、この骨格愛好会を作って一人でもにゃもにゃよくわからない活動をしていた人。たった一人で好きな骨と二人きり、というらぶらぶらんでぶーみたいな生活を邪魔したのは下井だった。入学初日、桜の舞い散る下でその人を見てしまって、これが運命! と叫ばれてしまったのが運の尽き、と言うしかないだろう。下井にはそう言うしかなかった、別に馬鹿ではないのだけれど、この学園に一般入試で入れるくらいには頭が良くて語彙力だってそこそこのもので、でも一瞬でばかになった感覚がして、それはきっと恋と呼ぶんだ。
「じゅんちゃんせんぱい、おれのこと、抱いてよ」
「なんでお前なんか抱かないといけないんだよ」
「だってじゅんちゃんせんぱい、おれのこと好きでしょう?」
「何でそうなるんだよ。お前ナルシストか」
「ナルシストなのは認めるけど、じゅんちゃんせんぱいがおれのこと好きなのは世界に定められた掟だからね?」
「何電波なこと言ってんだ。宇宙人か」
「きっと貴方しか受信出来ないの、ですか?」
「オレはお前なんか受信したくない」
「してくださいよ」
「いやだよ」
会話をだらだら続けて擦り寄る動作をこんなにしているのに、一向に彼は反応を見せないで。これ以上はだめだな、と思ってよいしょ、と体勢を立て直す。
「なんでだめなの?」
「なんで、って。お前そもそも男じゃん」
「運命の前にはそんなこと些細なことじゃない?」
「お前にとっては些細なことでもオレにとっては些細なことじゃない」
「なにそれーっていうか、じゅんちゃんせんぱいってもしかして不能? 良い病院紹介しようか? うちのかかりつけの先生、ちゃんと秘密は守ってくれるよ。おれもちゃんと協力するよ」
「ちげえよ何先走ってんだ」
「先走るなんてえっち」
「ちげえよ何なんだよお前はもう、っていうか不能じゃねーわ、昨日もヌいたわ。元気だよ、元気だ男子高校生です」
「えっヌいたって誰でですかおれでですかやったね」
「何でそうなるんだよ、普通に豊満なオネーサンだよ写真だよ何でお前でヌかないといけないの」
「それが世界の掟だから?」
「意味わかんない」
 よいしょ、と上から退いてあげると彼はやっとその丸眼鏡を直した。これよりももっと彼にはシュッとしたのが似合うような気もするんだけど、それでじゅんちゃんせんぱいの魅力に気付く奴が出て来ても困る、なんて思う下井は何も言わない。
「明日も挑戦しましょうね」
「何回やっても一緒だよ、諦めろ」
「その言葉そのままお返ししますね」
「やめて」
 頭をぽんぽん、と撫でられて骨格標本のところに移動していった彼に、はあ、とため息を吐く。
「おれこんなに可愛いのになー」
「はいはい、可愛いとは思うよ」
そう返してくれるくせに何もしてくれないじゅんちゃんせんぱいは、やっぱりいじわるだ。



20151015

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20190117