洋、と優しく呼んでくれる声のことを忘れたことはなかった。そのあとに続く、ふしぎで少しむつかしい物語のことも。
―――母さんの好きな話だから、洋にも好きになって欲しくて。
だから。
 「まるで、あの人が帰って来てくれたみたい」
彼女が記憶の中で父親に向けていたような視線をぶつけられた瞬間、涼暮の中で何かが音を立てて崩れたのだった。

砂の中のぼくの足跡 

 ピッ、ピッ、と無機質な音が響いている。高校時代から始めた変装≠ヘ未だやめることが出来ないでいた。最初はこの病院のスタッフからも敬遠されていたけれど、今では少しずつ声を掛けられるまでになって来ていた。涼暮にとっては声を掛けられても大して気の利いたことを言えないので、どちらでも同じような気はしていたが。
「洋さん」
彼女は呼ぶ、何も知らない少女のような顔で。
「ご本の続き、聴かせてくれないかしら」
「いいよ」
もうぼろぼろになってしまった本を取り出す。なぞった表紙のぼっちゃんの表情はもう分からなかった。彼女が最初にくれた本、涼暮の世界の始まり。
「今日はどんな話かしら? 昨日はどこまで読んだかしら? 王子さまは、どんなところを旅しているの?」
「今日は―――」
スピンを挟んだページを開きながら一瞬言い淀む。
「王子さまは、今、地球にいるんだよ」
「ええ、知っているわ」
「それで、飛行士と出会うんだ」
「そうね、そうだったわ」
「今日は、今日はね―――」
 ひっそりと、息を止めるように。
「王子さまの唯一の、薔薇の話だよ」
「あら、すてきそうな響きね」
「…うん、すてきな話だよ」
もう本当のところ、そらで言えるくらいになぞった文章をまたなぞる。
 少女は目を閉じて、それから歌でも聞くようにその物語に埋没していった。

 余命、というものを伝えられたのは、涼暮が大学に進んですぐのことだった。あまり涼暮のことをよく思っていないだろう家に呼び出され、何を言われるのかと思えば。想定外すぎて何の反応も返すことが出来なかったのを覚えている。
「あと二年保てば良い方だそうだ」
彼女の兄であるその人は、悲痛そうな顔でそう言った。二年。口の中でだけ呟く。それが彼にどう映ったのかは知らないが。
「一緒に、いてやってくれないか」
 四人兄妹の末っ子で、唯一の女の子。そんな存在だったからだろうか、彼女はとても可愛がられたらしい。だから長兄である彼は、こうして涼暮に頼みに来るのだろう。
「君は、別にあの子が嫌いな訳ではないんだろう」
「………そう、ですけど」
「だめ、かな」
少しだけ角度の変わった視線に目を細める。こういう視線は、榎木がよくやっていたなあ、と思ってから、べつに良いですけど、と呟いた。
「ありがとう」
「でも、」
安堵した彼にすかさず言葉を被せる。
「これは、やめませんから」
自分の目と髪を指差し、じっと戦いを挑むように涼暮は言う。
 これは、涼暮の鎧だった。
―――そっくりね、いえ、瓜二つだわ。
もう二度と、そんな言葉を貰わないための。

 「わたし、ほんとうは、こわいの…」
「うん、」
もうその終わりが近付いて来ていることは知っていた。
「とおすぎるの、このからだ、おもくてもっていけないの…」
「うん、わかってるよ」
何度も何度も涼暮がなぞったように、彼女もまた、何度も何度もなぞったのだろう。
「怖くて当たり前だよ」
 彼女が忘れてしまった、本当の物語も、きっと。
「重くて持っていけなかった身体は、ちゃんと目に焼き付けておくから。貴方の薔薇の花の話も、俺、忘れないよ」
「…貴方、」
ふつり、と糸が切れるようだった。
「私の好きな人に、よく似ているわ」
そこだけ明瞭に切り取られたように、笑みが零れ落ちた。
 ピーッという音に、ドラマみたいだ、と思った。
「………当たり前だろ」
ずっと触れられなかった手に触れる。まだ、温かかった。
「―――母さん」

 ナースコールを押して、後のことをお願いして、それからふらふらと携帯使用の許されるスペースまで出て来る。そして呼び出したのは、離れてから殆ど使われていなかった番号。予期していたのか、数コールも置かないで相手は出た。
「洋だけど」
この声は、きっと、今は死神の宣告のように聞こえているのだろう。相手は電話口で泣き喚くような真似はしなかったが、それでもどんどん声が沈んでいくのが分かる。
「―――うん、親父。さっき。うん。大丈夫。こっちは俺がやっておくから。下井の家も煩いだろうし、そこんとこは任せてよ」
―――この人は、愛する人の死に目にあえなかったんだ。
「大丈夫だから。…じゃあ、」
電話を切って、それからぼう、と考えた。病院の廊下の、その妙に境界の曖昧な電灯を見上げる。
―――ああいつか、あの人も自分より先にいなくなってしまうのだ。
 彼女には申し訳なかったけれど、そう思ったら、それをこうして見届けられないのかと思ったら涙が出た。

***

これはただの八つ当たりです(反省文は十回以上書き直しをさせられました)。 

 夕方だった。
 図書室は赤く染まり初めていて、それで他には誰もいないで。だからだったのだろう、その、ともだちの所持品が彼を探して図書室に入って来た時、涼暮は息を吸った。
 読んでいた本に栞を挟んでそれから歩き出す。つかつかと寄ってくる涼暮に、それは驚いたように大げさに目を見開いてみせた。そういう仕草は榎木にでもやらせとけよ、と思いながらその襟首をがっと掴む。驚いた顔が今度は慌てたように染まる。
 息を、もう一度吸う。
「別にあれのこと俺は合法だと思ってるしすごく助かってるし有益だと思うし殆ど趣味みたいなもんなんだから使ってやれば良いしなんならみんなやればいいくらいには思ってるけどともだちにしかも榎木にやられるのほんと腹立つしそれにあいつ今までやらなかったのにその原因がお前なのも腹立つし佐竹とか根古があんな感じに使われるのも本気で腹立つしほんと許さねえって思うから次ああいうことしたら佐竹が何かしようとしても何かする前に俺がお前に何かするから」
一息だった。区切ったら自分が何を言っているのか冷静になってしまって言えなくなる気がした。だけれども言わないでいるのも本当に腸煮えくり返るようで、兎に角どうにかこれにぶつけてやらなければいけないと思ったのだ。
 原稿をやっている時よりもずっと手が疲れていた。反省文はなかなか通らなかった。最終的には可哀想になったと言って、ついでにそういう文章の書き方も教えるからと、リアルタイム校正を喰らってまあそれはきっと将来役に立つのだろうけれど。書くべき文章は反省文だけではないのだし。けれどもまあ、疲れたことに変わりはないし、その間満足に本も読めなかったので、これくらいは良いだろう、と思ってこれの襟首を掴んだのだった。地味に背が高い所為で、余計に腕が疲れる気もするけれど。
 掴んだままでいるとそれは呆けた顔をしていた。そしてゆるゆると内容を理解したのか、あーだのえーだの意味のなさない音を吐いたあと、
「涼暮せんぱいって日本語喋れたんですね…」
第一声がそれかと、思わず襟首を掴む手に力が入る。このまま一発ぶっこんでやろうか、そう思った時。
 ガラッと図書室の扉が空いた。
 二人揃ってそちらに目をやると、驚いたような榎木が立っていた。しかし、すぐにその表情は歪められる。
「涼暮くんそれぼくの」
「おあいこだろ」
「みんなやってんじゃん」
「お前にだけはやってほしくなかった」
「なにそれわがまま」
「そうだよわがままだよ俺のじゃねえよ」
馬鹿馬鹿しくなって襟首を離してやった。話についていけないとばかりに狼狽していたそれはそんな小さな力でもバランスを崩した。そのまま榎木の方へと突き飛ばす。
「榎木」
それに巻き込まれて床に倒れ込んだともだちを呼んで、カウンターにあった油性マジックをばっと取って放り投げた。
 それは綺麗に放物線を描いて、持ち物の方が綺麗にキャッチした。まあそうなるよな、と思いながら読みかけだった本を拾う。
「自分の持ち物には名前書いとけよ」
その後は振り返らずに出て行った。図書室の鍵は机の見えやすいところに置いてきた、あとは勝手にするだろう。
 榎木があれを管理出来ないなら、その時はその時だった。



20151006

***

かんじんなことは目に見えない 

 「なにそれ、赤本?」
 放課後図書室に行って、定位置に彼の姿がないことが気になって、佐竹はぐるりと図書室内を見渡した。そして見つけた姿に、あれ、と思う。定位置よりもずっと、奥の方。まるで誰にも邪魔されたくない、とでも言うような。最初に戻ったみたいだな、ハリネズミみたいだ、と思いながら佐竹は歩を進める。別にハリネズミの棘に刺さる気はなかったけれども、気になることがあったから。
 その先で見たのは、なんとなく存在だけは知っている赤い本と、それを真剣に解いている同級生の姿で。
「涼暮くん、中央外語受けるの?」
「うん」
返って来たのはそっけない返事。
「赤本に手出すのは早くね」
「俺もそう思うけど担任に相談したら進められたから」
相談、ねえ、とは言わなかった。何で相談したの、なんて真っ正面から聞いてもどうせ答えてくれないに決まってる。素直じゃないというよりも、そう人に何か話すということを知らないっていうか、まあ言ってしまえば不器用というか。それで許されることなんてないのは分かってるけど。
「っていうかまだ二年なのに、もう受験勉強? いや早くて悪いってことはないけど、何? 理事長と何があった知らないけど、成績上げろとでも言われた? それとも合格実績? 涼暮くんが外語って、確かに何となく分かるけどさ、だっていつも英語上の方じゃん。でもさ、そういうの、人の言葉で決めて良い訳? 俺、そういうのちょっとムカつく」
口から出るままに言葉にしていくのももう慣れたもので、こう言えば頑なな涼暮くんも何かしら言い返してくれるだろうと、そんなことを思ったのも事実。あとは少しの好奇心。あれだけ盛大に蹶しかけてやったのにも関わらず、何だかあの二人は落ち着いてしまって、涼暮くんに関しては早々に受験勉強なんて始める訳だし。
 これは何かあったな。
 そう思うのは自然なことで。ならばそれを知りたいと思うのもそんなに変なことじゃあないだろう。
「………別に、あの男に言われたから行くんじゃない」
ぽつり、と言葉を零す涼暮くんに、そういえば出会った最初は本当に何も喋らなかったな、と思い出す。面倒なのか、それとも喋り方というのを知らなかったのか。それはこっちの関与するところではなかったけれど。だって人の過去の事情とか本気でどうでも良い、大事なのって今じゃん、と思う訳で。
「俺に一番合ってると思ったから、………将来の夢が、出来たから」
でもそれが、そんなだったやつが、こんなに人間みたいにうっすら笑みを浮かべている。
「ただそれだけだ」
 涼暮くんの顔はなんだか妙にいきいきして見えて、ああ、なんて思った。これは確実に何かあった。口を割らせる術なんて幾らでも思い付いたけれども、これはこれから何が起こるのか眺めていた方が面白そうだ。いや別に、それはこれから引っ掻き回さないなんて確約でも何でもないけれど。
 二人の間に何があったのか。
 それを、涼暮くんから話してくれる日が来た方が、きっと。
「邪魔するなら帰れ」
「んー邪魔しないならいても良い?」
「………別に、」
 するすると解かれていく問題を、原稿用紙に向かっている時にしか見たことのないその手の動きを、斜向かいの席から眺めていた。
―――人間って、変わるもんなんだよな。
そんな当たり前のことを思って、それからくあ、と欠伸をした。



あんたの目から見ると、おれは、十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……
星の王子さま



20151007

***

ふたりぶんしかない星 

 どうやら自分が仕事でいない間、彼は自炊をしているらしい。それに橘が気付くのにそう時間は掛からなかったし、だから一緒にすると約束した朝食の席で、食べてみたいなあ、なんて零すのはそう可笑しなことでもなくて。
 だからその言葉に対してじとっとした目線を寄越されたのは予想外だった。何が嫌なんだろう、と思って目線だけで促すと、しぶしぶと言ったように口が開かれる。諦めが早くなった、と言えば少し聞こえが悪いが、それだけ素直になったのだと思うとあの頑なだった子供が、と思わざるを得ない。そんなことを言えばきっと先ほどの答えはもらえないだろうから、黙っておくけれども。
「………アンタさ、舌肥えてんじゃないんですか」
「まあ、否定はしないよ」
 理事ともなればあらゆるところに出向くことがあるし、大抵それには食事はつきものだ。そこで供されるのは良いものであることの方が多い。となれば、自然と舌は肥えてくるもので。
「…ですよね」
「それがどうかしたの」
「どうか、っていうか。そんな、舌の肥えた人に、俺の料理食わせるっていうのは、ちょっと…」
どうなんだろう、って、とむすっとして見せる彼に橘は笑う。
「別に、普通のものも食べるよ」
「ねるねるねるね食べたことなかった癖に」
「それは別じゃないかなあ…」
普通の料理と知育菓子を一緒にされても、答えに困ってしまう。
 「黒焦げじゃなければ食べるよ」
だから、そんなふうに言ってみた。きっと黒焦げでも、食べるのだろうけれど。
「そんなひどくねえよ」
思った通り、彼は更にむすっとして次の言葉をくれた。
「今日は特に会食もないから」
「俺は寝てるからな」
「うん、ちゃんと寝てね」
その頭をぽす、と一なでしてから立ち上がる。仕事が詰まっているのか、最近またうっすらと目の下にくまが浮かび上がっていた。これもそのうち、自分でどうにかしてもらわないとなあ、と思う。世話を焼くことは嫌いではないけれど、自分がいなくなったあとのことを考えてしまうのは仕方のないことだろう。
 鞄を持って玄関へと向かうと、その後ろをかるがもの如くついてくる。
「………いってらっしゃい」
「いってきます」
いつものやりとり。
 それに加えて少しの期待があって、今日此処へと帰って来ることがとても楽しみだった。



「普通だね」
「だから普通だって言っただろ」
「あんなに言うからどんなショッキングなものが出て来るのかと逆に期待して胃薬も買ってきたのに」
「だからそんなひどくねえって言っただろ!」



20151008

***

Sweet Berry 

 昼休み。最近は屋上に集まる面々も定まってきたなあ、と思う。佐竹に根古に榎木に妻鹿。少し前に何かしらごたごたのあった面々とは思えないほど穏やかに食事をするのだから、人間というものは不思議だなあ、とさえ思う。
 その、帰り際。
「涼暮くん」
佐竹に呼び止められた。何、と返す前にポケットに何かしらを突っ込まれる。
「それ、処分しといてよ」
「処分って」
「俺の好みじゃなかったしさっきーの好みでもなかった」
「俺、ゴミ箱じゃないんだけど」
「いいじゃん、甘いの嫌いじゃないでしょ」
「嫌いじゃないけど」
「ならいいじゃん」
じゃ、と手をあげて、それから根古と競い合うようにして廊下を走っていく。
「…ブルーベリー味」
ポケットから取り出したそれは果汁グミで、困ったことに苦手な味だった。

 なので、放課後までずっとそれがポケットの中で放置になっていたのに特に意味はない。榎木にそのまま横流しすることも考えたが、それはそれで彼の持ち物がうるさそうなのでやめておいた。ロックンロールフラワーにまとわりつかれる趣味はない。
 苦手でも、食べられないわけじゃない。食べ物を捨てるというのがはばかられる以上、自分でどうにかしようと思っていた。
 のだが。
 そうっと手が伸びてくる。放課後の図書室でのこと。小さな手。顔をあげると見たことのある人。せんぱい、名前はすぐには出てこないけれども、自分の属する文芸部の副部長。パッケージが見えていたのか、突っ込まれたままになっていたそれはいとも簡単に奪われる。そして、何も言わずに彼はジップロック部分を開けて、食べ始めた。
「………」
「………」
始終双方無言である。
「…おいしいですか」
返ってきたのはこくり、とした頷き。自分のように無口なわけではないのだろう、ただ今、口の中にこれでもかと言うほどグミを詰め込んでいるだけで。榎木みたいだな、と思う。榎木も時折、こういう仕草をしてみせるときがときがある。なら良かったです、とだけ返して、読書に戻ることにした。
 苦手だった味のグミは、きれいさっぱりその人が片付けた。
 ということがあったから、という訳ではなかったけれど。
 次の日、購買に寄った際に目についたチョコパイを買ってみた。そして、昨日のことで味をしめたのかこちらをうかがってくるその人に、差し出す。
「すきなだけ、どうぞ」
そうしたらその人は嬉しそうに笑ってチョコパイに手をつけた。
 ほとんど食べられた。

***

恋人たちの朝食 

 一緒に暮らすことの条件に朝食を一緒に摂ることがあげられた時、胸の辺りがすこし、苦しくなるような感覚があったのを覚えている。それを榎木と食事をした時に零したら、榎木に着いて来ていた妻鹿が、それは胸キュンって言うんですよ! なんて言った。
 胸キュン。
 異国語のようだった。いやそもそも今仕事で異国語になんて腐る程触れているのだがそれ以上に。
「妻鹿は榎木に胸キュンするの」
「あっ涼暮せんぱい、久しぶりに俺の名前呼んでくれましたね!?」
「そういうのどうでも良いからロックンロールフラワー、早く答えて」
「戻っちゃった!! してるに決まってるじゃないですか! 今もクリーム口の端につけてる榎木せんぱいにキュンキュンです!」
巻き込まれてクリームを指摘された榎木が袖でぐいぐいと拭っている。妻鹿があー勿体ない! と声を上げる。食べるつもりだったのだろうか、食い意地のはったやつだ。
「で、今の流れからすると、涼暮せんぱいは同居人さんに胸キュンなんですね!」
「…榎木、どう思う?」
「今回ばかりは妻鹿さんが正しいと思う」
「涼暮せんぱい、俺のこと信用してませんよね…」
 しゅん、とした妻鹿に榎木がじとっとした目線を寄越したので、自分の分のケーキを皿ごと押しやった。

 こんなところに住んでいるのだから何かとんでもないものでも食べているのかと思ったら、案外普通だったことに驚いたのを思い出した。クロワッサンをちぎるその人を寝ぼけた目で見つめながら、この間言われた言葉を思い出す。
 胸キュン。
 勿論意味は知っている。主に恋心によって胸がいっぱいになり、しめつけられることだ。そういうふうに考えると涼暮はそもそもその人に恋心を抱いているのだし、そう可笑しいことでもないけれど。最後の一欠片を飲み込んで、それから皿を下げると、その人の後ろに立った。
「俺、アンタのことどんどんすきになる」
振り返るな、と暗に言ったのは伝わったらしい。その人は食べかけのクロワッサン皿に置くと、そう、と頷いた。
「終わりがないみたいだ」
「怖いかい?」
―――怖い。
「怖いのなら、やめても良いよ」
 手を肩の辺りに伸ばして、それからするり、と首に回す。縋っているみたいだな、と思った。前にもそんなことを思ったことがあるような気がした。
 ずっと、そうだ。
 どうしても埋まらない歳の差が焦燥を生んで、いつか離れていってしまうのではないか、なんて。今が幸せすぎるなんてそれはきっと、馬鹿馬鹿しい言い訳だったけれど。
「…怖くねえよ」
「嘘が下手だね」
「ちっとも怖くなんかねえ」
昔と方向が違うからか、それとも。ちらりと時計を見遣る。まだその人の出勤までには充分に時間がある。
 首は、細くなったように思えた。それすら胸をしめつけて来て、もう何を言っても足りない気がして、それから暫くそのままでいた。
 


秒針の音で符号が入れ替わるみたいに一途、恋しています / 小箱

***

はなまるをあげよう 

 元々人の名前を呼ぶことは少なかったのだと思う。だってそもそも交友範囲が狭かったのだ。名前を呼ばないでも成り立つことが多かったし、もっと言えばその人に対しては必死になりすぎて、再会してから殆どアンタ≠ニしか呼んでいなかった。それは向こうだって君≠ニばかり呼んで来たのだからおあいいこだろう。それに、二人だけの空間でならなあ≠竍ねえ≠ナ事足りてしまう訳で。
 だから名前の呼び方なんて、全くもって考えていなかったのである。
「理事長、」
と、そう高校時代のままに呼んだのにそう深い意味はない。何で名前を伴わない呼びかけですませなかったのか、それを覚えていないくらいに涼暮にとっては自然なことだった。だって彼はずっと、理事長だった。その立場を振りかざした、とは言わないけれど、その立場が何かしらこの関係を築くまでに障害として立ちはだかったのを忘れてはいない。
 それを聞いた彼は少しだけ笑って、涼暮においで、と言った。
「確かに僕は今でも理事長ではあるけれど、」
言われるままに寄っていくと少しだけ高いところにある目線を合わせられ、一言ひとこと漏らさず聞くように、とでも言うように。
「君の理事長ではないよ」
 ぱちり、ぱちり、と。
 自分の瞬く音がして、それからすぐに彼の言いたいことは分かって。分かったからこそ一気に緊張が身体中を駆け巡り、口の中がからからになる。
 それでもにこにこと、涼暮の言葉を待つ彼に涼暮が何も言わないで逃げることは出来ない。
「………た、たちばな、さん」
精一杯で呼んだのは、彼の苗字だった。
「洋くん」
にこにこと、彼は涼暮を呼んだ。涼暮の名前を呼んだ。ああまずい、と思う。息を吸う。うまく吸えているのかよく分からないけれど。
「…たちばなさん」
「洋くん」
 名前を知らない訳じゃあないんだろう? と言われればもう。
「………あ、あ、………あか、ね、さん」
絞り出すように呼んだあとはもうやたらと恥ずかしくなって、他のことはすべてどうでも良くなって目の前の胸に埋まってやった。
 その後頭部を撫でながらとても嬉しそうな声で、彼は良く出来ました、と言った。



20151008

***

Sweet Sweet(加速する化学反応) 

 名前も知らない料理部の一年に先を越された分はちゃんと翌日出なおして、それから膝の上でどれが良いのか選んでやって部活に行った。
 別に、ああいうことがあるのは、それがあの男の趣味だと言うのはちゃんと分かっていて、その恩恵に肖っている以上、何も言うことはしないと決めたし、それで彼が楽しいのなら、とさえ思うのだが。
 だが、しかし。
 この前もそうだったけれど、どうやら観測範囲内(同じ部活でもない彼を範囲内と言って良いのかよく分からなかったけれど)でやられるのは、この上なく嫌だったらしい。
 変なの、と思いながらその日も購買で目についたお菓子を購入する。
 図書室に行っていつものように本を読んで、その行動のちょっとした端にいつもと違う行動を入れると、いつもと違うことが起こる。それはなんだか化学反応みたいで面白いな、なんてことを思った。ちょうど化学の本を読んでることもあってそんなことを思ったんだろうと思う。
 榎木みたいな先輩は一切容赦なく人の分のお菓子を貪っていた。いちいちお伺いを立てられないところが心地好い。別にそんなに懐は痛くないし、一番高校生活で心配だった本の出費はああいう形で抑えられているのだし。
「涼暮くん」
今日もお菓子をすべて食べ尽くした先輩は、幸せそうな顔で名前を呼んできた。びっくりする。そりゃあ自身の属する部活の、目立つ存在の名前くらいは知っていて当然だとは思うが。
「ありがとう」
明日もよろしくね、と言われて思わず頷く。
 そのまま去ろうとした彼を、あの副部長、と引き止めた。
「あの、もしよければ、名前、とか…きいても、いいでしょうか」
副部長としか、しらない、としどろもどろに続ければ、彼はさっきのような表情でまた、笑ったのだった。

***

バオバブで星が破裂しないために、 

 夢を見ることを許されたのだ、と思った。
 赤い本やらその他諸々テキスト、担任にすすめられたものを片っ端からばか真面目にやっているこの状況は、多分きっと他から見たら異様なんだろう。スピードが追い付いているから何一つ無駄にならずに済んでいるし、無駄になんかしてやるものかというプライドもあったけれど。
―――六年後に出直しておいで。
 それは優しい拒絶だった、今は何一つ進ませないという、彼の強い意志だった。
 それはひどくうつくしくて、涼暮なんかには侵せない領域で。だから、頷くことしか出来なかったし、
引き下がることしか出来なかった。引き下がって、出来ることを。真正面から跳ね返されたことの、防衛を。
「経歴に傷をつけたくないとかアンタにそのまま返してやるよ」
 本当に言葉の裏に隠されたものくらい、読み取れてしまう。読み取れるように、されている。
―――本当に僕で良いのかな?
考えろ、考えろ、リスクも何もかも、今の視野の狭さもすべてまとめて成長させて。一つ残らず、ちゃんと大人≠セと胸を張って言えるようになって、それからそれでもその感情が生きているのか、と。
―――六年経ったら君は僕のことを忘れているよ。
そんな、ことを。
 言うのなら。
―――アンタこそ俺の相手なんてしてて良いのかよ。
 その答えはこの夢が終わった時にきっと、聞けるだろう。



叶わない夢で自分を甘やかすたった一人に汚されたくて / 小箱

***

貴方もやっぱり、おばかさんだったのよ。 

 事の発端は覚えていない。ただ、俺の方がアンタを好きだ、というようなことを言って、そうしたら僕だって、といつもの穏やかな口調で反論されたのが切欠。こういうところがまだまだ子供≠ネんだろうけれど―――じゃああげてみろよ、なんて言ってしまったのが運の尽き。
「そうだね、例えば僕の帰って来る時間を必ず聞いてくるところだとか、その頃には玄関と居間の電気を付けておいてくれているところとか、いってらっしゃい、というのを欠かさないことだとか、君がもらってきたお菓子でもちゃんと僕の分もとっておいてくれるところだとか、六年経っても好きでいてくれたところとか、あんな情熱的な告白をしてくれたところだとか、そのくせすぐに照れるところだとか―――」
まだ続きそうだったので、思わずもう良い、と手でその唇を止めると、おや、というように瞳が動く。
「前のようにはしてくれないのかな?」
前、前ってなんだ、と一瞬途方に暮れかけて、それからあ、と思い出した。
 どうして忘れていたのか。
 もごもごと手で塞がれている所為でその声はいつもの明瞭さを失っていたけれど、それでも涼暮の耳にはしっかりと届く。
―――あれは、蛮行だった。
流石に今ならそう思える。というか、学生時代に既にそう思っていたからこそ、今の今まで忘れたふりをしていたような気さえする。普通なら反省文ものであろうに彼はそうしなかったし、弁明を聞いただけで拒否した涼暮をそのままにした。それを踏まえて、涼暮が思うのは。
「アレもアンタの計算内だったんだろ…」
悔しくて恥ずかしくて、顔が見られない。
 掌で唇の動く気配がする。ああ、これも相当良くないと思うのに、手を外すことも出来ないで。
「いや、あれだけは僕も予想外でねえ」
 え、と出たのは本当の本当に素だった。
「え、って」
「え、だって、そんな」
「君ねえ」
僕のこと何だと思ってるの、と問われれば返す言葉がない。
 手を退けられる。
「僕はあの地位についてそこそこ長いし、あの趣味をずっと続けてはいるけれど―――」
目を合わせて来るのは狡い、と思う。それだけで涼暮のすべての動きを止めるような、仕草。
「君以外に、あんな失態を演じたことはないよ?」
 戯れのような言葉が、どれだけ。
「で、どうする?」
いたずらを思い付いたような瞳に、ああ、こんなんだからあの学園をまとめていられるのだろうと思った。
「………目ぇ閉じろよ」
「言われなくても」
 恋というものがひとをばかにするというのなら、今きっと、二人して今世紀最大の大馬鹿者を演じているんだろう。

***

20190117