日が暮れるまで ぺらり、ページをめくる音がする。静かだ。図書室で騒ぐ馬鹿はいないし、いつの間にか出来た妙なあだ名の所為もあってか、この読書の邪魔をする者なんかそうそういないし。 「あ、の…」 無視をする。 「あのっ」 しつこいな、と思いながらでもやっぱり無視をする。というかよく話し掛ける気になるな、放っておけば良いのに。誰だよ、そんな空気読めないことするの。 「スズクレ先輩は、お帰りにならない…?」 鹿田だった。その手に握られているのは図書室の鍵。鍵閉め当番なんてみんな俺に押し付けていくのに、どうやら真面目なこいつは―――というかこいつは文芸部じゃないだろ。ぐるぐる思考がいろいろと追い付かないけれど、とりあえず手を出すことには成功した。 「?」 「鍵だよ鍵。俺が閉める」 「でも、職員室…」 「返す」 教員の間でどういうふうに受け取られているかは知らないけれど、図書室の鍵を返すのが涼暮じゃなかったことの方が少ないのだから、他の人間が来たらきっとこの後輩は時間を食われるのだろう。今こうして読書が一時中断されているように。別にそれくらいで怒ったりはしな…しない、けれど。 「でも、スズクレ先輩に押し付ける訳には…」 「…俺が好きで残ってるんだから別に良いだろ」 上下関係とか、正直、よくわからない。 だから、そういう言葉を返しただけ。だと思ったのだが。 「スズクレ先輩の、好きな時間だから、ですか」 思わぬ返答に本に戻りかけた視線はまた鹿田を捉えた。 「………俺、夕方が好きなの」 「少なくとも、僕にはそう見えました」 「そう、なんだ」 「そういう自覚は、なかったんですか」 「うん」 ぱたん、と本の閉じられる音がする。完全に無意識の行動だったから音で気付いたけれど、それでもまたすぐに本を開き直す気にはなれなかった。 「そうなんだ」 殆どひとりごとだ。 「俺、夕方が好きなんだ」 言葉にしたら妙にすとん、と落ちてきて、ああ、と思った。 ああ、と思ったのでまた本を開いて、それで鹿田は帰るのだと思ったのに。 「お付き合いしますよ」 「別に。早く帰れば」 「危ない、ですし」 「その言葉、そっくりそのまま返す」 俺は寮だから、別に良いから、とその手から鍵を奪い取ってまたページをめくる。 までしたのに。 ちょこり、と隣に座る長身。 「…お邪魔はしませんから」 「なんで」 「僕も、スズクレ先輩の好きなものを、感じてみたいなって思ったからかもしれません」 この間はパンケーキに付き合って貰いましたし、と言われて、そういうもんか、とそれ以上は言うことをやめた。 *** オルゴール 今日も今日とて文芸部の副部長は奇っ怪な格好をしている部長をほっぽらかして後輩たちにお菓子をせびっている―――ついでにその膝に乗っかったりなんだりしてきゃっきゃととても楽しそうだ。その中には例のこわい先輩や自分の恋人―――こいつに関しては文芸部員ではないのだけれど、まあ、副部長の手にかかればそんなこと関係ないんだろう。 「部長は大変じゃあないんですか」 部長に話し掛けに行ったのは原稿の催促をするためで、そんなことを言うつもりじゃなかったのに。 「大変だよ」 即答ではなかったのはどう答えるか迷ったからなのだろうか。 「でもさぁ、僕、この間オルゴール直したんだよね」 「はい?」 「オルゴール」 知らない? と言われて首を振る。知っている。当たり前だ。オルゴールくらい、常識。 「それ、篠祢くんが元カノにもらったらしくて、それを僕が直すのってどうなのって思うし思ったんだけどさ」 いやそこはどうなの、で良いと思いますよ―――とは言えないまま話は続いていく。これくらいなめらかに原稿も書いて提出してくれたら良いのに、なんて失礼なことを思う。 「でも篠祢くんにとってはとっても大事なもの、なんだろうなって思ったから」 「大事な、もの」 「うん、大事なもの」 こくり、と部長は頷く。 「上原もそうじゃないの」 何が、とは聞けなかった。 「篠祢くんのオルゴールと、おんなじ、でしょう?」 こてり、と傾げられた首にどうやったらその状態から首なんか傾げられるんだよ、と思ったことは秘密だ。 * 20160114 *** オアシス 心地好かったんだ、と鹿田の目の前に立った人はそう言った。 とても心地好かったんだ。静かな声で、まるで目の前に鹿田なんかいないかのようにそう、水が水面に落ちるみたいな感覚で、言った。 「君の文章を読んだ」 知らない先輩に呼び止められたのは図書室でのことだった。だれだろうなあ、と思っている鹿田の都合など気にも留めない様子でその先輩はただ静かに、湖面のように言葉を紬続ける。 「静かで、本当はこの世の何処にもないみたいな、そんな気持ちになるんだ」 「それは…」 後ろから足音がする。上原の近付いてくる音。 それと、もう一つ。にゅっと上原の手が鹿田に伸びてくる方が早い。 「褒められている、と取ってよろしいですか?」 「貶してるに決まっているでしょ!」 上原の質問に答えたのはぴょこり、とその後ろから飛び出してきた影で、バーンと、鹿田と、上原と、その先輩の間に立った。その先輩を守るみたいに。どっちかと言えば絡まれた、という状況なのは鹿田の方のような気がするけれども。 「じゅんちゃんせんぱいこんなのいいから早く部室行きましょう!」 「図書館」 「それは借りておきますから! 先行っててください!!」 その遣り取りを見ていて思い出す。ああそうだ、同い年の下井くんだ、と。しかしこんなにぎやかな子だっただろうか。クラスは違うけれど、大人しそうだと思っていたのに人は見かけによらないものだなあ、と思った。上原が話は終わったろ、とばかりに手を引く。そうだね終わったね、と鹿田は振り返りかけて、 「ちなみに、」 先輩は足を止めたようだった。 「褒めてるよ」 「じゅんちゃんせんぱい!!」 「下井煩い」 「だってえ」 「お前の文章も嫌いじゃないよ」 「嫌いじゃない、は褒め言葉じゃないです!!」 じゅんちゃんせんぱいのいちばんはおれがいいんだもん! と喚く同級生を見ながら、それなら真似したら良いのに、と思ってそれが口を出そうになって、口を噤んだ。噤んでから上原の方を見やれば、よく出来たね、という顔をしていた。 ―――誰もが自分と同じことを出来る訳じゃない。 噛みつくような顔がこちらを見ていて、それをさせているのがその先輩であるというのがとても不思議で仕方がなかった。 * 20160120 *** けいしょう その男のところに行くと大抵揃っているティーカップなどは一切使わずに安いペットボトルのミネラルウォーターなんかを転がしているので、勿体無いという理由から揃っているものを使って紅茶を淹れてやる。甘いものが好きな男のために角砂糖も添えて渡せば、ありがとう、と彼は笑って、いつも、そういつもだ、たった一度、カップに口を付けて。 「―――」 その瞬間にどんな顔をしているのか自覚はないのだろうな、と思う。それが自分の淹れたものであるからではないということも。 それでも硬度の高い宝石が見せる一瞬の表情のために下井自由はそれを続けるのだ。 *** ビタミン剤 図書室は原則飲食禁止ではあるが、文芸部の活動をしているとその区域だけは違う空間のように扱われるので特に司書に怒られることもない。 だから、という訳でもないがその日、涼暮の制服のポケットには一つ、ビタミン剤が入っていた。口内炎が出来た、と昼にぼやいたら榎木が慌てて購買で買ってきたものだ。曰く、口内炎にはビタミンがどうのこうの。涼暮の中の知識としては口内炎とは胃腸の不調から来るものだと思っていたのだけれど、一応は心配してくれているのだろうともだち≠フ配慮をにべもなくはねつける程人非人ではない。ありがたく頂いたそれは、数個口に放り込まれただけでその後は殆ど忘れられたようなものだった。 が、しかし文芸部にはそういうものを発見するのに長けている人間がいる訳で。 「涼暮くんがお菓子持ってる!」 人のポケットを勝手に探った副部長が普通の顔でしれっとそんなことを言うという事態には最早慣れた。 「それ、お菓子ではないですが」 「良いよお、美味しいし」 「そうですか」 了承も取らずに勝手に食べたことに対して咎める気すら起きない。 「涼暮くんは、」 「はい」 「なんでもないや」 「…珍しいですね、副部長がそんなふうに言うの」 「そうかな?」 「………そう、だと思います」 そもそも涼暮は彼についてよく知らないはずなのに、どうしてそんなことを思ったのだろう。 副部長は涼暮くんも食べる? とそのビタミン剤を口元に突き付けられて、なんとなく小さく頷いてその手からビタミン剤をもらった。一瞬だけ触れた指がとても小さくて少し、驚く。 目が合った副部長は面白いものを見つけたように笑って、それからその指を自分の唇に当てて間接キスだねえ、と笑った。 * 20160121 *** ガラクタ きっとした敵意を感じたのは廊下でのことだった。前から来る人間と進行方向が被ってコントみたいな行動をしてごめんね、と謝ってからやっと、あれこれはわざとやられているな、と気付いた。 「ええ、と」 何処かであっただろうか、と榎木は首を傾げる。なんとなく見覚えはあるような気はするけれど、その程度の人間に敵意を向けられるようなことがあっただろうか。もしかしたら榎木の無意識のうちの行動がこの後輩―――ネクタイの色で判断した―――の地雷を踏んだ可能性もなきにしもあらずだし、人間というのはその意図するところでなくても勝手に腹を立てたりするものだし。 「アンタ、じゅんちゃんせんぱいと仲良くしてる」 その言葉で、ああ、と思い出した。 「仲良く、は、してないと思うけど」 「してるじゃん!? なんで嘘吐くの!?」 別に嘘を吐いたつもりはない。 ないが、誤解を解くのも面倒そうだ。 「じゅんちゃんせんぱいもこんなのの何処が良いんだろう! こーんなにかわいいおれがいるのに! おれだけじゃ満足出来ないのかな、もう、じゅんちゃんせんぱいったら欲張りさんなんだからー」 多分瑠璃川先輩(ついでに思い出した)はそんなつもりはないんだろうが、その後輩(こっちは名前を教えてもらったのに忘れてしまった)にかかればそういうことになるらしい。よくもまあ噂にならないな、いや榎木の知らないところでなっているのかもしれない、とぼんやり思いながら早く部室に行きたいのになあ、と彼のマシンガントークを右から左へ流す。おんなじ言葉の羅列のようで、多分きっと、文章とか書かせたら下手なんだろうなあ、と思うのは反省文を何枚も書いたからか。 何かを言うつもりはなかった。 本当になかった。 でもこのまま聞いているだけだと終わらないだろうから、なんかこういい感じの言葉で乗りきれないものかと―――そうだ、急いでるから、とか、そんな言葉で良かったのに。 「…仲良くするなとは言わないんだね」 ぽつり。 落ちたのはそんな言葉で、 「なんで?」 間髪入れずに返って来たのはそんな言葉だった。 「そんなの、じゅんちゃんせんぱいの自由じゃん」 まばたきのされない大きな目が榎木を映している。 「そういうの、人に強制したらいけないんだよ」 まるで、道徳の本だ。 「知らないの?」 朗読でもしているみたいに。お手本。最初から作られたものを吐いたそれはにっこり笑って、先輩急ぐんですよね、と道を譲ってくれた。だからそのまま廊下を走って部室へ向かったけれど。 気持ち悪い。 そういった関係ではなくそんな感情を抱いたのは久しぶりだな、と思った。 * (だって、全部、要らないものだから) * 20160122 *** 静かな夜 風邪を引いた。 何度目だよ虚弱体質か、と思うもそもそも中学までは人間のたくさんいる場所になんかいなかったし、好き勝手勉強が出来たのだ。環境の変化がやたら激しくて結局それが一年では片付かなくて、二年になってもまだ引きずっている、それだけのことなのだけれども。 こんこん、と控えめにノックの音がする。誰だろう、と思うけれども心当たりがない。これが佐竹や根古辺りであればきっと何処かから調達して来た鍵で勝手に入ってくるだろうし、榎木は放課後見舞いに来てノートをおいて行ってくれたけれどもすぐに返したし、坐故であるならもっとガンガンと遠慮のない叩き方をする。他に部屋を訪ねてくるような知り合いはいないはずだったし、そもそも扉には中に病人がいるから来訪は控えろとそういう旨の札が掛かっているはずだった。それでもノックをするということはつまりそれほどに緊急の用なのか、と思って重い身体を引きずって扉を開けると、 「涼暮せんぱいっ!」 あまりに想像の範囲を超えた顔が目の前にあったので、思わずそのまま扉を閉めそうになった。 あっあっ閉めないでください! と足を差し込まれてしまい、それは叶わなかったけれど。 「…何、俺、今、熱あんだけど」 「榎木せんぱいが、」 「榎木が?」 「心配、してて…でも榎木せんぱいを、涼暮せんぱいのところに行かせるなんて、」 「俺は野獣かなんかか…」 「そんなことっ!」 分かっている。 「風邪感染りでもしたら困るもんな…」 それが心配で涼暮だって榎木を帰したのだ。アイツ出席大丈夫なの、と今は要らないだろう言葉さえ出て来る。それくらいに参っているらしい。どうにも下がらない熱、苦手―――そうだ、苦手なのだ。榎木の持ち物でいる間はひどく煩い置物くらいに思っていたのに、それを一人の人間として認識した瞬間、相容れない部分ばかりが見えてきて。 要するに気まずいのだ。正直早く帰って欲しい。何しに来たんだこの馬鹿は。馬鹿は風邪を引かないとは言うけれどもそれにしたって榎木が怒るし拗ねるだろう、そんなことも分からないのか。馬鹿だ、馬鹿だ、本当に馬鹿だ。熱にぐらぐら煮立った頭でそんな思考をすれば、言うつもりもなかった言葉が落ちるのは殆ど当然のことで。 「………お前も、人間なんだな」 言ってから、しまったと思った。思ったけれども何を言うよりも、言われた本人が反応する方が速かった。 「人間じゃなかったらなんだと思ってたんですか!?」 「ロックンロールフラワー…」 咄嗟に誤魔化す。 「………せんぱい、それ、本気で言ってたんですか…?」 「いや、冗談だけど…」 「どっち!?!?」 「煩いから早く帰って…」 「いえっ! 今日は帰らないって連絡して来ましたし、宿泊届も出してきたので!」 「………はァ?」 「せんぱいの看病します!」 マジで帰って。 そう言うより先にほらほら早くベッド戻って、と押される。いやそもそも起き上がったのは妻鹿が来たからなのだけれども、最早文句を言う気力さえない。 「涼暮せんぱい、大丈夫ですよ」 ロックンロールフラワーは笑う。 「さみしくありませんよ」 とん、とん、と背中を叩いてくる後輩に心臓が止まったような心地がして。 ああだから、こいつが嫌いなんだ、と目を瞑った。 * (嘘みたいに、お前は人間なんだ) *** 認識記号 廊下でぶつかりそうになって、すい、と避けられて。そんな流れるような動作に出会ったことはあまりなかったから驚いて顔を上げて、それから、あ、と声が漏れた。 「どうかした?」 何処かで会ったかな、と言われていつも他の人はこんな気分なのだな、と思った。自分が知っているはずの人間に知らない顔をされると、何か。だからと言って榎木の記憶力が改善される訳でも人間に対してのあれやこれやが改善される訳でもないのだけれど。 「…瑠璃川先輩、でしたよね」 「ちょっと待って、思い出すから」 ええと、と少しこめかみの辺りに指を当てて、その眼鏡がずり下がるのを見て―――それからああ、と 瑠璃川は呟いた。 「…あの子の」 あの子ってどの子だ。 そうは思ったものの流石に先輩に、別に人の領域を侵そうとした訳でもない先輩に、失礼な真似をするほど榎木の常識のボーダーは低くはない。そんな思考をしていることに気付いているのかいないのか、瑠璃川は薄っすらと笑うと友達だろう、と言った。 「梓。覚えておいて良かっただろう?」 その梓≠ェあの子≠ナないことは、分かった。 ―――先輩は。 聞けない。 ―――あの目にも頭にも悪そうな後輩を中心に回っているんですか、なんて。 * (惑星みたいなヒト) * 20160124 *** レクイエム ぼんやりと唄が聞こえていた。煩くはない。いつものようにして見せたら良いのに、と涼暮はそう思う。自分と比べたら不出来な従弟はどうやら暗記物が苦手なようだった。だから、唄。その方が覚えられるような気がするんだよね、と言った彼に何も言わなかったのは、母親という存在が唄を歌うものだと、そういう夢を抱いていたからか。 「お前はいつか死ぬのか」 気付いたら、聞いていた。脈絡のないもの。戯れ言。それでも彼はちゃんと言葉を返す。そのまま流したりはしない。すべてを殺してしまえとでも言うように、何も逃しはしないとでも言うように。 牙を、剥くように。 「死ぬよ」 返されたのは真っ直ぐな瞳。 「でもそれは今じゃない」 ―――涼暮には出来ない、強い、瞳。 「今じゃなくて、きっとおれはずっと自分の意志で生死なんてもの決められる日なんて来ないよ」 ねえ、よーくん、とその声は甘えたものになった。色を滲ませてそのまま何処かへ消えてしまうみたいに。下井梓なんて存在は最初からいなかったみたいに、 「死にたい?」 じわり。 「………いや」 死にたい訳ではなかった。だから首を振ってとん、とシャープペンシルの頭で教科書を差す。 「お前、暗記サボんなよ」 「えーっ、なんでバレるかなあ」 「バレるわ」 「苦手なんだよね」 「そのままで良いならそれで」 「良くないっ!」 静かな声でまた唄が始まる。 * 20160129 *** 人生プラン 「この先のこと、考えないといけないんだよね」 ころん、と真四角の砂糖を紅茶に転がして、それから続いた可愛らしい声に榎木は首を傾げてみせた。 「この先?」 「うん、この先」 小川はこくり、と頷く。卒業したあとこのことじゃなくてね、まあそうなんだけど、もっと先、将来のこと。続けられた言葉は御伽話のようで現実味がない。 「俺は、誰かと出逢うかな」 誰かと。 榎木は既に出逢っているから、そんなことを考えたことはなかった。 「出逢うんじゃないの」 「投げやり」 「ううん、確信」 運命なんてものがあるのなら、きっとそれを引き寄せる力を彼は持っている。 「だってぼくが妻鹿さんと逢えたんだもの」 だからきっと、小川くんも、大丈夫。 その何処か稚拙な言葉がやけに心強く思えた。 センター一ヶ月を切った、そんな冬の日のこと。 *** 20190117 |