五億の鈴と 

 六年。
 そう言われた瞬間に殴りかからなかったのは、もうその時には自分の感情へのラベル貼りが済んでしまっていたからだった。一過性のものなのだと言いたいのだ、この大人は。冷静な状況では噛みつくことすら許されなかった。きっと何かしら言えば彼はもっともらしい言葉で涼暮を丸め込むのだろう。残念なことに、あまり対人戦が得意という訳ではない。今まで何もしてこなかったツケが回ってきた、それを突き付けられるのは少し、悔しいけれど。目の前の大人は言葉通りに大人で、十七年しか生きていない涼暮なんか目でもないくらいに経験が豊富で、そしてそういうこと≠ェ得意な人間だった。勝ちの目はない。そう認めるのは、非常に、悔しいけれど。
 六年。
 それはとても長い時間に思えた。子供の時間を、なんて言うのだから、その長さが分からないなんてことはないだろうに。それとも諦めるとでも思っているのだろうか、諦められたことが、あるのだろうか。そんな十把一絡げと―――なんて言ったらきっと過去に散っていったかもしれない彼らに失礼かもしれなかったけれども。
 だから、涼暮は言葉の捉え方を変えることにした。
―――六年後に出直しておいで。
その言葉を。高校生としての一年半と、大学生としての四年、社会人としての一年。合計六年のその猶予のことを、短期間だと思うことにした。
―――これだけあれば結果くらい出せるよね?
そう唇を吊り上げる大人は想像に容易い。
 妄想だった、ただのこじつけだった。けれども相手が涼暮を全力で子供扱いするというのなら、少なくとも現時点では、それに甘んじている他ないのだ。だから、この選択は間違っていない。
「分かった」
思いの外、声はきちんと通って行った。
「六年、だな」
六年だよ、とやわらかい声がして、それに諦観が見て取れてクソ、と拳を握った。

 そのことを、片時も忘れたことはない。
 高校時代にしていたカラーコンタクトも染髪もやめて、何処から見ても日本人、という顔で涼暮はそのエントランスに座っていた。管理人には先に話を通してある。いつでも通報出来るようにか、視線は痛いけれども。
「………あ」
その、学生時代は想像も出来なかっただろう間抜けな声を聞いて、それからあちゃーと言った顔をした男に、つかつかと近付いて行く。今の反応でこちらが誰だか分かったことは分かった。二番目の反応は何なのか分からなかったけれど。
「…知らないかも、しれませんが」
学生時代はずっと、タメ口だったな、と思い出す。きっとまた、そうなるのだろうけれども。それでも今は、今だけは、この長かった六年に終止符を打つ、この瞬間は。
 儀式、みたいなものだった。
「俺、今、翻訳業をやってまして、えっと学生時代からちょこちょこしてたのを形にして、卒業してから一年で一応、食べていけるくらいにはなりました。結果には、なってると思います。俺、ちゃんと約束果たしました。貴方の言うとおり六年で、結果を出しました」
短期間だったと、結果を出したことで言えるようになった。あとは、もう一つ。
 彼が。
「今度は貴方が約束を果たす番です」
顔が上げられなかった。
 ただ昔と同じくぴかぴかに磨き上げられた革靴の、その少し尖った爪先を見つめて、六年前から決っているはずだった返事を待っていた。



20151002

***

ひのなか みずのなか あのこのすかーとのなか 

 彼のことをどうだとか思ったことはなかった。強いて言うのならばともだちの後輩で、それ以上の感想を抱いたことはない。いつだか指をさされて何かしら宣戦布告をされ、それから昼食を共に(実際に彼が昼食を共にしているのは榎木の方なのであろうが)する程度の仲だ。
 前に一度、聞かれたことがある。
 敵意丸出しの視線で聞かれたことがある。
―――涼暮せんぱいは、俺のこと、どう思ってるんですか。
聞く人が聞いたら誤解されそうな台詞だな、と思いつつ特に何も、と返したらもっとなんかあるでしょう! と喚かれた。面倒だな、と思う。榎木がパソコンにべったりで、他の文芸部員もそう図書館にいない時間帯を狙って来るところを見ると馬鹿ではないらしいが。いや、それ以前にあの男がただの馬鹿の入学を許可する訳がないのだ。何かしらあってしかるべきだ。
「じゃあ、」
オネダリ≠フ時や榎木と喋る時、それくらいでしか使わない唇を湿らせる。
「榎木の、」
「榎木せんぱいのッ!?」
「………キーホルダー」
「キーホルダー!?」
そうだった、彼はともだちの後輩で、それはともだちのもので、涼暮にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。うん、と頷く。
「妻鹿は、榎木の、キーホルダー」
煩いけど、と付け足すと、彼はなんだか微妙な表情をしていた。
 というのが前提にあって、今榎木の話を聞いて、書庫から漏れる声を聞いて。
―――あーあ。
思うのはそれくらいでまた読書に戻ろうとしたのを、榎木の腕が遮った。
 流石に驚く。
 榎木は今までこんなことをしてこなかったし、それは彼自身のあれやこれや苦手意識やコンプレックスなど諸々まとめ上げたものだと推測されたから何を聞くこともなかったし、何より涼暮はその距離が心地よかったからここまでともだちを続けていられたのだろうけれど。
「涼暮くん、」
こんな声を出せたのだな、と思った。
「手伝って」
 その日、初めて榎木の目をまっすぐに見た気がした。どろどろと何かが燻っていて、今はそれが怒りに彩られていることは確かだった。拒否権はない、それが分かる。唾を呑む。
「根古くん捕まえて妻鹿さんを取り返す」
早口にまくし立てるのはいつもと一緒なのに、それが今日は一言一句はっきり聞こえる。
「あれは、ぼくのだ」
走りだした背中を追い掛ける以外に、涼暮に出来ることはなかった。あまり体育は得意な方ではないけれど、それに相手は佐竹に根古だ。以心伝心、こちらのいやがることを平然とやってのける。
「だれにもあげない」
そう言った榎木は背中しか見えなくて、どんな顔をしているのか分からなかった。だけれども、一つ思うことがある。
―――それ、本人に言ってあげたら良いんじゃないんだろうか。
 黙っていたのは他でもない、人のことを言えないからだった。

***

持っている星の数を紙の上に書き出して鍵を閉めてしまっておきましょう 

 榎木、榎木、とぜえはあ言う背中をさすってやって考える。これは他でもないともだちの頼みなので、涼暮の中にとりあえずは放棄するという考えはない。ない、が。このまま根古を追い掛けていても追いつけっこない気がする。いや、気がするとかではない。確実にそうだ。事実根古はずっと先で踊っている。どこからあんな体力が出て来るのか。無尽蔵か。
 佐竹がどんなことまで想定しているのかは不明だけれども、このままだとどう考えても大事だ。図書室には他の文芸部員もいて、きっと書庫の中の遣り取りは彼らにも聞こえていて。
 万一。
 彼らが誰か教師でも呼びに行ったら。
 それはいろいろまずい気がする。文芸部の後輩の中にはきっと妻鹿と仲の良い人間だっているだろうし、同性同士、というのに嫌悪を抱いている人間だっているだろう。佐竹だって、敵がいないという訳ではないはずだ。それを考えると、今の状況はこの上なくまずい気がした。佐竹がそんなことくらい分からないはずがないのに、どうして。
 と、そこまで考えてはた、と思い至る。
「…榎木」
「なに。ぼくいま、怒ってるんだけど」
「発端は榎木が理事長にオネダリ≠ノ行ったから、だったよね。そこで妻鹿に会っちゃったんだよね」
「そうだけど、涼暮くん、はなし、きいてなかったの」
「聞いてたよ。確認」
なんとなく線が繋がった気がした。佐竹が愚行ともとれる行動に出た理由、妻鹿が今、監禁されている理由。
「これ、多分、あの男が関わってる」
「………あの男って、理事長? そんなの当たり前じゃん、だから、はなし、」
「聞いてたってば。俺が言ってるのはそのあとのこと」
佐竹も根古も確かにお祭り事(人のあれやこれやを巻き込んでおいてお祭り事と言うのも何だが)が好きだ。だけれども、自分たちの収束出来る範囲内でしかやらない。だって彼らは面倒をそこそこに嫌うから。まぁ、確かに面倒を越えてでもやりたいことをやる側面がない訳ではなかったけれど。
 こんな、何か一致しない違和感。
 それに一つ付け足すなら。
「…戻ろう、榎木」
「でも、鍵」
「確かに一個は佐竹が持って入っちゃってて、もう一個は根古が持ってるけど、それだけじゃないでしょ」
「………?」
「マスターキー、多分、ある」
「あ、」
「それで、たぶん、あの男が持ってくる」
発端だから、と言えば榎木は少し考え込んだようだった。
「でも、これ、俺の推測だから。信じるとか、信じないとか、根拠もなにもないし、俺榎木引き止めてって頼まれる前に佐竹が携帯確認してたのは見てるけど、それがあの男だって確証はないし、でも、あの男が関わってるなら、佐竹唆しても可笑しくないし、でも正直あれやりすぎだと思うし、まずいと思うし、なら事態の収拾は多分、」
「うん」
まるでいつもと逆だな、と思っていると話の途中で頷かれた。
「信じる」
「………いいの?」
妻鹿がかかってるのに、という言葉は飲み込んだ。その代わりというように、榎木が真剣な顔で頷く。
「だって、涼暮くんはともだちだもん」
 少し、榎木は落ち着いたようだった。怒りの色はまだ消えないけれど、それは無理もないけれど、とりあえず解決策は見えた。次にやるべきは。
「根古引きつけながら戻ろう」
「うん」
 あの愉快犯コンビの裏を、どうかいてやるか、だった。

***

火山というものはちゃんと煤払いをしておけば噴火はしないものなのです。 

 根古くんがちゃんとついてきてるのを確認しながらあとは猛ダッシュだった。何処に逃げるか分からない相手を追っている時とは違う。目的地がはっきりしている。それだけでこんなにも違うものなんだなあ、気分は未だ最悪も最悪なんだけど。涼暮くんに考えがある、っていうからそれを尊重することにした。
 すごく、今、ぼくは怒っている。怒っているけれども、それもなんとなく理由が掴めてきて、それでもまだ解決策が見えないで。
 涼暮くんにはさっき、ひどいことを言った。ともだちだから、なんて。確かに思っているけれども、口からでまかせレベルだ。ぼくが涼暮くんと友達をしているのなんてほかの人みたいに関わってこないからで、つまりは便利屋扱いみたいなもので。涼暮くんだって怒ったら良いのに、ああでもこの間は怒っていたなあ、ほんとうの友達ならどうしたの、なんて聞いてやるのかもしれなかったけれど。
 策は一応ある、と涼暮くんは言った。だからもう、思考停止したかったからそれにに従うことにした。妻鹿さんが今どういうことになっているのかとか、同級生の佐竹くんのことだとか、噂程度でしかしらなかったけれど大体予想がつく。もう多分、手遅れだ、手遅れだから多分、妻鹿さんはぼくのことを嫌ってしまうしぼくのものじゃなくなってしまう。そうなる前に理事長でもなんでも使って彼を手に入れてしまいたかったのに、ああどうしてうまくいかないんだろう。
 一瞬だと思うから、と涼暮くんは言った。
 絶対に見逃さないで、と彼は言った。緊張した声だった。涼暮くんでも緊張することがあるんだな、と思った。そういえば彼は人間だったと当たり前のことを思いながらついていく。根古くんが後ろから何か言っているけれども聞いちゃいない。だってぼくには殆ど関係のないことなんだ。
 だって、本当に、そうじゃないか。
 ぼくと妻鹿さんが、どうなろうか、なんて。
 誰にだって本当は、関係がないんだ。
「!」
廊下の角を、あと一つ曲がれば図書室に戻れるという角を曲がろうとして、涼暮くんの背中が止まった。
 彼越しに覗き込むと、理事長がいた。
―――一瞬だよ。
それは危なすぎる賭けだ、勝率なんてないにも等しい。涼暮くんだってそんなことは分かっているんだろうけれど、意趣返しくらいしかきっと、やることがないんだ。
 だから、彼は踏み出す。
「理事長、」
ゆっくりと呼びかけて、
「あっ! 理事長!!」
根古くんが追いついてくるのを待つ。
 そして振り返って、根古くんの襟首を掴んでそのまま。
 ちゅ、と。
 可愛らしい音を立てた。聴覚情報しかないのはぼくがそんなのみてなかったからだ。ぼくはただ一直線に理事長へ向かっていって体当たりをかました。
 これには流石の理事長も驚いたらしい。そりゃそうだよね、この間まで触れるのも厭だと言っていた相手に体当たりなんて思考停止でもしてなきゃ出来ない芸当だ。素早く振り返った涼暮くんが転がったマスターキーを拾って榎木、と叫ぶ。
「走れ!」
何処へ、なんて聞くまでもなかった。ランニングパス、そんな言葉が思い浮かぶ。バスケの授業だったな、と思い出してあの時は出来なかったのに、とも思う。流れるように受け取った鍵をそのまま鍵穴に突っ込んで、それを持ったまま中から鍵を掛けた。
「あ、今のは佐竹からのお裾分けの、佐竹の分だけのお返し、だから」
 外では根古くんがうわ、と声を上げていて、ああそういえば涼暮くんの笑顔って壊滅的だったなあ、と思い出した。

***

ぼくのものになった花 

 ただいま、と言っても電気は付いているのに、返す言葉はなかった。集中しているのかな、と思って橘はそのまま彼に割り当てた部屋の扉をノックする。それにも返事はない。寝ているのだろうか、それならば少しばかり可哀想ではあるが一度起こしてやろう。そう思って入ると、案の定訳し掛けの原稿の上に突っ伏して彼は寝ていた。
 涼暮洋。
 六年前まで、自身の教え子であった子供である。否、正確に言えば教えていた訳ではないが、自身が教職につく者であるという自負がある以上、彼は元・教え子という区分からは抜け出せない。それを残酷だと言う人間もいるのだろうし、現実彼がすべてまるっと呑み込んだとも思えないが、橘は自身の立場のために、嗜好のために、それを崩すことは出来ない。
 すうすうと規則正しい寝息を立てている肩を叩く。ん、と身動ぎされたけれども、残念ながら彼はそんなに寝起きの良い方ではない。それが分かっているから耳元に唇を寄せて、
―――洋。
ふう、と息と共に名を呼んだ。
 途端、びくりと肩が揺れて、閉じられていた目が見開かれる。六年前は緑のカラーコンタクトレンズの入っていた目も、今では何にも遮られない黒だった。ああやはり、こちらの方が良いなあ、と思う。自分の嗜好を押し付けるのは如何なものかとは思うが、こればかりは仕方がない。
 本当に驚いたのか、ただ単純にそういうことに弱いのか。寝起きの焦点の合っていない目が橘を捉えて、くそ、と悪態を吐いた。
「アンタって、六年経ってもいじわるなんですね」
「おや、いじわるな僕は嫌いかい?」
「………きらい、じゃ、ないです、けど」
こういうところも変わった、と思う。六年前ならばすぐさま嫌いだと返って来たところだろうに。
「むかつきます」
驚いた拍子にぐしゃぐしゃにしてしまった紙を彼は直す。そのままパソコンに打ち込んだ方が速いだろうに、一度高校時代にデータを飛ばしてからというもの、アナログを通さないと落ち着かないらしい。
 彼の今日の頑張りを褒めてやろうと思って、その文字列に目を遣る。普通は世に出す前の翻訳物を見るなんて良くないのだろうが、橘は口が固い方であるし、いたずらに触れ回るようなこともしない。それを分かっているのか彼も何も言わずに見せてくれる。まぁ、そもそも彼の走り書きはとてもじゃないが解読不能で、今やっている仕事が日本語に訳すものなのか、日本語を他の言語に訳すものなのかも判然としないが。
 と、その中で。並びから外れたものを見つけた。じいっと目を凝らした結果、どうやら日本語のようだと結論付ける。仕事ではないのか、他の文字に比べると読みやすい。
「そっちは…訳じゃないみたいだね」
「暇潰しです。知らないかもしれませんけど、俺、一応文芸部だったんで」
「知ってるよ」
手癖で詩とか小説とか書くんですよ、との言葉に被せる。
「君のことなら、ちゃんと知ってる」
驚いたように見開かれた目に、本当に信用されていなかったのだな、と思う。
 六年。
 橘がそう言った時、彼が本気で六年後にまた自分の前に現れるのならばちゃんと責任を取ろうと思っていた―――勿論、彼が現れない確率の方が高いと思っていたのは事実だけれども。彼が結論を出すまでに与えたその期間、恋人を作るつもりもなかったし、また彼のようにぶつかってくる生徒がいれば先約があるからといなすつもりだってあった。彼が息抜きに端に書き殴った文字列をなぞる。今訳しているものの影響なのか、堅い文章が目立つ。
「学生時代みたいなのは、書かないのかい?」
 その言葉に、ぴしり、と面白いように彼は固まった。
「学生時代、みたいなの、とは」
「なんていうのかな、ほら、恋愛詩のような。…ああ、そう、ハイネが近かったかな?」
「え、あ、」
「ええと、………『わたしの美しい薔薇の花よ、もう二度と逢えないとしたならばわたしの胸は張り裂けるだろう』」
「ちょ、ま、」
「全文覚えている訳じゃあなくてすまないけれど、『わたしの美しい薔薇の花よ、お前は約束を忘れてはいまいか、小指の触れることすら赦されぬ箱庭でそれでも確かに契ったのだと、お前の血に刻み込まれているだろうか?』だったかな?」
「なんでわざわざそこチョイスすんですか恥ずかしい!!!」
そもそもなんで俺のペンネーム知ってんだ!? 学生時代はバレてないと思ったのに!! もしかして部誌漁ったのか!? それはねぇよな!? と暴れる彼をはいはい、と抑えて抱き込んで、そのままベッドへと倒れ込む。学生時代は、とつけたのは今彼が仕事に使っている名前がそれだからだろう。
 漁った訳じゃあないよ、と前置きすると、じゃあなんで、と返って来る。
「そんなの決っているだろう、佐竹くんから聞いた」
「さたけええ!?」
裏切り者めええ、と唸り始める頭をぽんぽん、と撫でて、こら、と声を潜める。
「ベッドの上で他の男の名を出すのはいただけないな?」
「…先に出したのアンタでしょーが」
スーツ皺になりますよ、と言う声はまた眠気を漂わせていた。いいよ、替えがあるから、と返して今度は背中を撫ぜてやる。
 暫くして先ほどと同じように規則正しい寝息が聞こえてきたのを確認して、橘もまた同じように目を閉じた。
 明日の予定は特になかった。ならばこのまま眠って、起きたら風呂に入るという怠惰も許されるだろう。



後日

「っていうかなんで佐竹は俺のペンネーム知ってたの(怒)」
「え、あんだけあからさまなの書いててバレてないと思ってたの!?」



詩提供:鳴神夭花

***

黄色い蛇になんかやるものか 

 橘が帰って来た時、居間の電気は消えていた。部屋にこもってでもいるのか、いつもならば帰りの時間に合わせて居間の電気を付けておくくらいの気配りは出来るのに、珍しい。
「洋くん」
パチン、と軽い音で居間の電気を付けると、今日も一日家で仕事をしていたのか部屋着の涼暮がソファに埋まっていた。転がっていた、とかいうレベルではない。クッションが好きなのかあれこれ買ってソファに置いている彼ではあるが、それを一箇所に敷き詰めてそこに埋まるというのはどうなのだろう。
 そう思って少々乱暴に持ち上げて、此処なら大丈夫だろうと元いたクッションの山に落とす。
「むがっ」
変な声がして笑っていると、鼻をさすりながら涼暮は上体を起こした。
「…あれ、もう、そんな時間…?」
「十時過ぎたよ、ただいま」
「おかえりなさい…」
 空いた場所に座って膝をとんとん、と叩くと、ん、と眠そうな声と共にずるずると身体を引きずって涼暮が乗ってくる。六年前と似ているなあ、なんて思った。でも、似ているのは構図だけだ。あの時彼は制服を着ていたし、こんな無防備な姿を大人に見せることなんてしなかった。それに、こうして見ると少し背が伸びたのだと思う。子供の成長は速いな、と思って黒に戻った髪を好いてやると、睡魔に濁った目が差し向けられた。
「………アンタに、」
「ん?」
「手が届く日が来るなんて、思わなかった」
 夢と現実の境界が曖昧なのか、いつもよりも随分浮遊した口調で涼暮は続ける。
「ろくねん、って言われてたけど俺は………それだけやるから、諦めろ、って、そう言われたんだと思ってた」
「うん」
「でもがんばったし、結果だす、って勝手にきめたの、俺だし…振られても多分泣いたと思うけど、仕事もちゃんとあったし、くってけるし、なんとかなるかなって、そう思って、あの日、」
あのひ、と繰り返される。
「アンタに、会いに、行って、そいで、」
 黒髪に戻してカラーコンタクトレンズも取って。制服も脱いでしまったらあの頃の涼暮洋を形成するものなんて一つも残っていなかった。
「ちゃんと、自己紹介からしようと、おもってたのに、アンタ、一発できづく、から…」
ともすればそのまま、また夢の中へと戻ってしまいそうだった。うん、と橘は彼の境界を壊さないように、けれども彼がまた完全に夢の中へと落ちてしまわないように相槌を打ちながら、その先を促す。
「ちょっと、期待して、でもないだろ、って、それで、そいで…もっかい、ちゃんと、ろくねんたっても、すきだって、いおうと思って、できなくて、」
「うん」
「ずっと、アンタの靴、みてて………」
ねえ、とワントーン上がった声。
「なんで、おれのこと、えらんでくれたんだよ」
それとも、だれでも、よかったのかよ。
 不穏な言葉を残して今度こそすう、と夢へ帰って行った涼暮に、ふ、と息を吐く。
「その答えは君がちゃんと起きている時にでもしようかねえ」
眠っている相手に、答えのない相手に秘密を打ち明けてやるほど、詰まらないことはしたくなかった。



20151003

***

Are u jelly? 

 正直なところ失敗した、と思っていた。
 否、あれだけのことをやったにも関わらず涼暮においては反省文三枚で済んで、当事者たちは停学も謹慎処分も免れたのだから良い方なのだろう。やっぱりあの一瞬に驚いてくれたのも温情だったのだ。そもそもあの男が関わっていると察した時点で既に涼暮の仕事は終わったようなもので、あのまま榎木に伝えてそっちを待った方が良いと言うべきだったのかもしれない。
 けれどもそれではきっと、榎木の腹の虫も治らなかっただろうし、何かべつの事件を引き起こしていた可能性だってあるし、壁が薄いとは言え密室でも作ってやらなければ、なんとか発起人だろうが部外者を外してやらなければ、と思った訳で。
 べつに、榎木のため、なんてうすら寒いことは言わないけれど。
 だって本当に、そうじゃなかった。
 やっとのことで書きあがった反省文三枚をまとめて、再度己の部活の部長と副部長に、本当にお騒がせしました、と頭をさげる。他の部員にも同様に。すると逆にいや巻き込まれて反省文書かされてんのに何言ってんだとの反応を貰った。妻鹿が飛び込んで来た時も、妻鹿が引きずり込まれていった時も思ったけれども、どうやは彼らは涼暮がそう心配するような精神はしてないらしい。
 涼暮が本当に阻止したかったのは、もっと言えば邪魔をしたかったのは、本当のところ、自分のためだ。
 図書室を出て生徒指導室へと向かう。あまり見慣れない顔に先生方も戸惑ったようで、それも不純交遊とあって更に戸惑いは増したらしかったが、それは教育に携わるプロというべきなのか、それともあの男の根回しが効いていたからなのか、特に言及されずにすんだ。だからこそ、こんな反省色の見られない反省文を提出しに行こうなんてしているのだけれど。
 涼暮が邪魔したかったのは、あの男が不本意にせよ関わったからと言って、佐竹や根古を使って事態の収拾を試みたことだった。確かに涼暮としては妻鹿なんて榎木の付属品であり、ロックンロールフラワー以下の存在なのだけれども、榎木が何か言ってきたなら面倒でも勉強の邪魔になっても、彼を探し出して来て榎木の前に突き出してやることくらい、出来たはずなのに。
 それはすべて終わった今だから言えることであって、やっぱり結果から言えば佐竹や根古に頼むのが一番良かっただろうし、あの男は二人が自分の予想範囲を超える可能性だってちゃんと考慮していたと思うのだ。
 そう、考えると。
「わりにあわない…」
自分で選択したこととは言えそれがすべて裏目に出た気がして、そんなことを呟いてしまった。

***

タイム・リミット 

 大人は狡いと知っていたはずだった。もう、自分もその大人≠フ仲間入りを果たしたというのに、涼暮はそんなことを思った。
―――一週間後に、答え合わせをしよう?
一応六年悩んだ結果あそこへ赴いたのだったけれども、確かに言われてしまえばやっと此処がスタートラインなのだ。
 一週間。
 それは六年に比べたらとても短くて、寧ろそんな時間で答えを出して良いのかと柄にもなく相手のことを心配した。その心配もすぐに打ち払われたけれども。そんなのはまるで、期待をしている、みたいだ。一週間も考えてくれるだけで幸せだと思わなくてはいけない。それと同時に、一週間で最後の望みに縋れるように文言を考えないといけない。
 とは言え、学生時代、たった三枚の反省文にすら苦戦するような人間だ。プレゼンテーションは今でも苦手だし、大学の面接なんて思い出しただけで吐き気がしそうだ。受かったから良いものの、何だ、自分の長所と短所って。何だ、自己PRって。自己分析が得意な人間なんてそうそういないとは思うけれども、本当にあれは苦手だった。何時間も付き合ってくれた担任の先生には感謝してもしきれない。

 そんなふうにこの六年間を詰め込んだ言葉を考えながら迎えた期日、前とはまた違った店で、それも完全に個室制の店に連れて行かれてああ、と思った。これは完全に、取り乱すことを想定されている、と思った。
 そりゃあ確かに六年だ。長かった。短かった、と思えるように目標を立ててやっても、やはり長かった。何度も何度も悩んだし、なんでお前あいつがいいのと自問自答したことだって数え切れない。一週間前に本人に列挙されたようにノーリスクな訳ではないし、いやそもそも人間関係にリスクのないものなんてない気もしてきたけれど。思考を放棄したくなってきた。榎木が今も時々会う度に、全部消えてなくなれば良いのに、と言うのも今やっと理解出来た気がする。
 「えっと、どれから話した方が良いでしょうか」
一通り食事が終わったのを確認して、先に言わせてなるものかと口を開く。正直料理の味なんて分からなかったしそもそも何を食べたのかも記憶が曖昧だ。折角一緒にご飯をしているのに、これが最後かもしれないのに。そこまで思って馬鹿だなぁ、と思う。駄目だった場合を考えて―――というかそうなるだろうことを予想して、あの学校にどうにか潜り込めるような算段は付けているというのに。それでもこうして一対一で食事をするなんてことは最後かもしれないのに、それを一切堪能出来ないなんて本当に勿体ない。勿体ないけれどもこっちは余裕がないのだから仕方ない。ちなみに一週間前も殆ど料理の味なんか分からなかった。
 君の好きな話から、と言われて、じゃあ、と口を開く。
「介護の話なら正直考えてました。まだ勉強段階ですけど、一応知識は詰め込んであって、今一応、ボランティアとか…そんな多くないですけど、やってます。時間の、ある時、くらいですけど」
相手の返答も分からないうちから何を考えていたんだろう、と思われるだろうか。これではまるで受け入れて貰えると信じ切っていたみたいじゃあないか。どんなお気楽思考だと笑われるだろうか、やっぱり成長していないと呆れられるだろうか。
 でも考える上で、どうしてもその辺りは外せなかったのだ。二回りも上の人間に、しかも同性に、恋、なんてものをして。待つと言われてその感情を殺したままにしておかなくて良くなって、結果的にいろいろと現実問題を考える余裕が出来てしまったような気がする。
 兎にも角にも、そんなことをしていたらすっかり諦めるだとか心変わりをするだとか、そんなことはきれいさっぱり吹っ飛んでしまった。ずるずると引き伸ばした青春の結果がこれだと、そう言われてしまえば涼暮には返す言葉がない。なんとか軌道修正、というか対抗手段、だろうか、を講じようとして出した結論は、期日までに独り立ちが出来ていなかったら、完全に親の仕送りなしで生きて行けていなかったら、この気持ちが消えていなくても約束をすっぽかそう、ということだった。
 自分のために、用意された逃げ道だったろうに。そもそも彼が覚えているかなんて怪しくて、だからひと目で自分を見抜いてくれた彼に、約束を覚えていてくれた彼に、胸がいっぱいになって、もうそれだけで充分じゃないか、とすら思った。自分で決めた目標は達成してしまって、まだ諦めることも心変わりも出来ないで、なんで、なんて言葉にも明確な理由も持てなかったけれど。それでも条件は揃ってしまった、と頭をかきむしった結果が自宅特攻である。
「あと足しになるか分かんないですけど、一応母親のそういう姿、見てるんで。心配なのは例えば、例えばですけどアンタが俺のこと忘れちゃって、俺のことが分からなくなって、俺はアンタの世話出来るだろうけど、その時はどうしようかな、って。そういうことだけは、なんとなく、心配、です」
ああまた二人称がアンタ≠ノなってしまっている。せめて、せめてこのちゃんと向き合ってくれている間くらいはちゃんとしておこうと思ったのに、これでは成長していないと思われてしまう。
「…例えばの話、ですけど。たとえばの、はなし、です」
 言葉を続けながらなんとなく、二人の友人を思い出していた。そういえば榎木も佐竹もこういうふうにまくし立てるタイプだったな、なんて。二人の方向性はそれはそれは違うものではあるのだけれども、卒業後も連絡をこまめにとっている二人であるので、何処かしら似たところが出て来たのか、それとも無意識のうちに真似ようとしていたのか。
「あと、ちょっと、人の死に目にあう機会がありまして、その時………」
 思い出す。無機質な音。
「その時、思ったんです。アンタも、いつかこうしていなくなってしまう、って。それで、俺はそれを見届けられないんだ、って。それは、………それは、ちょっと、悲しいなって」
そう、思いました。
 もう自分が何を言っているのか分からなくて、そう言葉を締めくくった。あとは裁きを待つだけだった。どんな結果になっても―――結果なんて分かりきっているけれども、ちゃんと受け止めよう、そして、この人の前では泣かないように、ちゃんと笑って、良い店に連れて来てくれたお礼と、向き合ってくれたお礼を言って、それで、ちゃんと。
 絶対に目を閉じないぞ、と思った矢先、目が乾いた気がして瞬きをした。
 顔を上げる勇気はやはり、なかった。



image song「オーダーメイド」RADWIMPS

***

ハローグッバイ、スローワールド。 

 あまいものと、脚。それだけで充分だった。ひとの顔なんてきっと、みられるものじゃないんだ。神さまがそうやってぼくをつくってしまったから、ふつうでいられなくしてしまったから、でもそのミスのおかげで、今日もぼくはとてもうつくしいものを見ることが出来ている。いろんなひとの目に映るのに、そんなに取り沙汰されない、脚。そのうつくしさを、一体全体どうしてみんな気付かずにいられるのだろう。
 空鳴鵤(からなりいかる)はそんなことを思っていた。だから、充分にひとの顔を見られない自分のその性質を恨んだことなどないし、一応は満足しているのだが。
 でも困ったことにそのうつくしいものには持ち主というものが存在して、もしくは介在する意志とでも言った方が良いだろうか、それを空鳴が邪魔だと思ったことはないし寧ろ尊重されるべきだとさえ知っているのだが、これがどうにも苦手なことには変わりがなかった。いや勿論、意志が介在するからこそその脚はうつくしく動くのだろうが、それにしたって意志というのはとても面倒で、まず描こうと思ったら近くで見ないとおさまらず、それには許可が必要だし、意志の方の機嫌だってとってやらなくてはいけない。
 でも逆に言えば、それだけやってのければ空鳴は好きなだけそのうつくしいものを描いていられるのだ。だから空鳴はその努力を怠らなかったし自分のすきなもの―――この場合どうしたら脚というのは評価されにくいようなので、あまいものだとかを与えて釣って、それで機嫌をとっていた。
 機嫌をとれていた。
 この学校に入ってからそれは顕著になっていて、それこそ周りに変人しかいなかったからなのだろうが、大抵があまいもので許可をくれたし、まあまったく断られることはなかったわけではないけれど。
―――だからきっと、彼にされたこともきっと、本当は意志があって、空鳴はそれを本当のところ理解してやらないといけなかったのだろうけれど。
だって大切な脚の意志だ。放っておいて良い訳がない。でも空鳴には何も分からなかったし、彼の皮膚の感覚が指から離れていかなくてひどくざわざわして。
 理事長室で一通り泣いたあと、迎えに来てくれた友人におぶられて美術室へと戻る。まだめそめそする空鳴に友人が言葉をかけることはなかった。
 これからどうするのか。
 決めるのは空鳴と、あのうつくしい脚の意志でしかないのだ。



20151004

***

青く染まるぼくらの未来 

 桜は咲いていなかった。
 というか、季節外れの大雨ですべて散ってしまったあとだった。
「答辞―――」
卒業生代表の元生徒会長が同級生とは思えない威厳を以ってして言うのを、涼暮は欠伸をかみ殺しながら聞いていた。
 卒業式。
 確かにそれは人生の中でも大切な行事の一つに数えられるのだろうけれども、涼暮にとってはただの一つの通過点に過ぎなかった。
 第一志望には難なく合格した。ついでに奨学生枠も勝ち取った。門出にしては上々、と言えるだろう。その選択肢が間違っていなかったと仮定して。
 いや、と心の中でだけ首を振る。それを間違っていなかったことにするのはこれからなのだ。今から何を言っても仕方あるまい。努力は報われなければただの徒労だが、それでもそれは努力を怠る理由にはならない。
 ちらり、と教員席の方を見遣った。その男はいつものようにきっちりとしたスーツ姿で壇上の元生徒会長を見つめていた。
 彼に、とって。
 卒業式というのはひとつ、大切な行事なのだろう。自らが手塩にかけて育てた生徒たちが旅立っていく、大切な日。涼暮はそのうちの一人でしかない。
―――もう、触れられないんだな。
ふと、そんな当たり前のことを思った。
 嘆願というその男の良い趣味は、唯一涼暮を彼に触れさせてくれる手段だったのに。彼は高校生の、自分の教え子たちの葛藤する様が愛おしくて、彼らを自らの膝の上に乗せオネダリ≠させる。彼らの未来に役立つように、彼らの未来が少しでもみのりのあるものになるように。
 自分の気持ちを自覚させられて焚き付けられて担がれて。そんあひどい荒療治の結果得た、一つの約束=Bそれだけを与えられて、もう今後はその期日までその話題にはふれないことを暗黙の了解にして。そんあ中で嘆願という制度は、彼に合法的に(と言ったら少し違うような気もするが)触れることの出来る唯一の手段だった。
 元々ちゃんと欲しいものがあっての交渉なのだ。だからその行為を続けることは、その男の中でも許容範囲だったのだろう。実際、一度も彼はそれをやめろと言うことはしなかった。それを言うには暗黙の了解を破る必要があって、設定された側の涼暮ならまだしも、した側の彼がそれを破る意味など。
 欲しい本のリストを彼の膝の上で読み上げている時間の、淡い幸福は。涼暮にとって支えであったことは間違いない。それでも嘆願の量を増やすことも、無駄に彼に接近することもしなかったのだから、それなりに涼暮は聞き分けがよく、真面目な方だったと言えよう。勿論、そんなことをすれば約束が、期日を待つことなく反故にされていたときっと当たっているだろう予想が簡単に出来たからであるのだが。
「卒業生、起立」
掛け声で立ち上がる。同じ色のネクタイがくるん、といくつも揺れている。お前とも今日でおさらばだ、なんて思って校歌斉唱。この歌も入学したての頃は随分歌いにくかったのに、ここまで馴染んでしまうなんて。
 そこまで思って気付いた。どうやら涼暮は思っていた以上に、高校生活を謳歌していたらしい。

 式も無事に終わり、後輩たちに囲まれて花なんて貰って。予想以上だ、なんて思っていた。予想以上に、高校生活というのは涼暮に欠けていたものを補ってくれたらしい。父親に、最後に勧められて推薦受験した高校。最初は何が変わる、と思っていたけれど。
 変わった、なんて。そんな言葉で片付けてしまうのが勿体ないくらいに。
 そんなことを思っていたら、ふいに、後頭部に視線を感じた気がした。急いで振り返る。まさか―――まさか。期待が、胸を巡る。期待などするだけ無駄だ、この一年半で何度自分に言い聞かせたか。何度、忘れてしまえと思ったか。
―――目が、合う。
生徒の中にその男はいた。カリスマ性とでも言うのか、いつだってその男の周りには人がいる。今だって、何人もの生徒に囲まれていて、ああこれが彼の生き甲斐なのだと改めて突き付けられたような心地だった。
 男が歩き出す。惜しむような声が上がって、彼は小さく笑ってそれに応えてやる。仮にも理事長だ、そういつまでものんびりしていられないのだろう。
 すれ違う。
 その、一瞬。
「五年後、君が覚えていたら」
思わず振り返ると今度は本当に目が合った。はく、と呼吸が漏れる。冷静になれ、叱りつける。唇を湿らせる。
「―――…はい」
忘れる訳がないです、とは言う必要はないと思った。
 本当に一瞬のことだった。何事もなかったように男は前を向き、進んでいく。追い掛けることは出来なかった、許されていなかった。
 走り出す。
 男との距離がどんどん離れていく。これで良い、これで良い、これで良い。走っていった先には榎木がいた。走って来た涼暮を見て驚いているようだった。この気持ちを、衝動を、どうにかしたくて、でも言葉になんて到底出来ないような気がして、榎木の腕を掴む。大きな目がぎょっと、更に見開かれる。
 そして、そのまま抱き締めた。
 涼暮にとっても予想外の行動だったが、榎木にとってはもっと予想外のことだったらしい。暫く悲鳴のような声が断続的に続いて、それからやっと、己の肩口に只管顔を埋め続ける涼暮の行動に気付いたようだった。
「………涼暮くん」
榎木が大人しくなる。
「泣いてるの」
「うるさい」
「ぼくでいいの」
「ちょうど良いのが榎木しかいなかった」
「妻鹿さんが煩いかも」
「妻鹿も巻き込む」
 榎木の予言通り、暫くそうしていたら妻鹿がやって来て、第一声は悲鳴となった。べりっと引き剥がされなかっただけよかったのかもしれない。榎木がシーッと言って、シーッて言うせんぱいかわいい! と喚いて、それからやっと状況を把握したようだった。伺うように近付いて来たところを、手を伸ばして捕まえて引き寄せる。
「えっ、涼暮せんぱい何か変なものでも食べたのっ」
失礼なやつだと思ったのでそのまま妻鹿に回した手の方だけ力を強めてやった。何も見えてはいないが上手く入ったのか、ぐえ、と声がする。
 二人とも、温かかった。
 あの男と同じ、生きているのだと分かる温度、だった。ああ、と思う。自覚なんてとっくに済んだものだと思っていた。でもまだ、足りなかった。
―――俺は、アンタのことを、    。
感情の正しい操作もままならないで、同級生と後輩を巻き込んで居る今、思うことではない気がしたけれど。
 それが、道標だった。深く、息を吐く。顔を上げる。
「もう、大丈夫?」
「うん」
「ならよかった」
ついていけないでおろおろとする妻鹿の後ろから、聞き慣れた声がした。
「お、涼暮くんこんなとこにいたんだーって、何その顔!? お前泣いちゃうようなキャラだったんだ!? うわ、めっちゃウケる、写メ撮らして写メ」
「…そういうのは事務所通して」
「冗談言うならもっと笑えよー」
佐竹と、その後ろから現れた根古。根古にはむに、と頬をつままれたのではたき落としておいた。
 そのついで、ではないけれど。二人にも手を伸ばす。榎木や妻鹿と違って二人とは身長が近いので、さっきよりそれは楽に感じられた。すんなり収まってくれたところを見ると、二人も二人なりに思うことがあるのかもしれない。ただ涼暮の奇行を面白いと思って眺めているだけかもしれなかったが。
「………」
「……………」
「…………………」
「涼暮くん」
「…なに、佐竹」
「何か言ってよ」
「………特に言うことなくない」
「唐突にハグしといてそれ? 俺泣いちゃうよ? しゃむにゃんも何か言ってやって」
「えー、もうこの状況が面白すぎて何も言うことねぇわ」
「まあ確かに面白いけど。多分涼暮くんが何か言ってくれた方がもっと面白い」
「うるせえ」
 ようやっと気持ちが落ち着いたので二人を解放する。頭が冷えたとも言う。
「あ、そーいえば涼暮くん、中央外語合格おめでと」
「ありがとう」
「通い?」
「うん」
「じゃあこれからもちょくちょく会うんかなー」
「…お前がそうするんならそうなるんじゃねえの」
なんてことない会話。これが永遠の別れになる訳じゃない、その例示のような。
 暇なら飯でも食いに行く? 卒業祝いに、と振ってきた佐竹にこくり、と頷く。
「榎木来る?」
「えっ、じゃあ行く」
「えっ! 榎木せんぱいが行くなら俺もっ」
「お前卒業してねーだろ…なんだっけ、ロックンロールフラワー?」
「根古せんぱい!? 何ですかそれ!!」
「涼暮が言ってた」
「涼暮せんぱい!?」
「うるせえ、ロックンロールフラワー」
「マックで良い?」
「いいと思う」
妻鹿の方が短いのに! と騒ぐロックンロールフラワーを他所に佐竹と榎木が話を進めて、それから誰ともなしに歩き始めた。ロックンロールフラワーも付いてくる。
 一度。
 一度だけ、振り返る。
 三年というのが短かったのか、これからの五年が長いのか。
 桜は咲いていなかった。ずたぼろの花片がそこら中に散らばっていた。
 空だけがいつもと同じように青くて、それが目にしみたような気がして。涼暮は慌てて前を向く。そして少し離れてしまったともだち―――友人たちの、背中に追い付いた。



20151005

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20190117