僕のいない街 

 さあっと風が吹いて、あ、と思ったのはどうしてだったのだろう。いつもと何かが違った訳でもない、いつもの場所で、いつもの時間帯で、いつもの風だった。なのに、その時だけ、あ、と思ったのだ。
―――この風は、海から吹いているものだ。
それはずっと前から知っていたはずだった。職場の近くには海があって、その潮気を含んだ風が良く此処まで届く。その香りを楽しみながら帰るのが楽しみの一つでもあって。
―――此処に、君が、いる。
 そんなことを思ったのは、一度は手にしたものがまたこの手から離れてしまったからだろうか。
「女々しいかな」
いつか弟だったその名を呼べば返すように風が吹く。
 そちらへはいけない、いけないけれど、と思った頭を、ただ、撫ぜるように。
「ごめんね」
―――あの人たちをよろしくね。
 その声が、届くとは思っていなかったけれど。



風が通りすぎた。わたしの乗れなかった時間はそちらで動いてますか / 東直子



20160108

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 今日帰るから、とそのメールは素っ気なかった。

帰る家のある人 

 慣れないこと、でもないけれど、いつも自分一人の分を作る時よりは大分奮発して食事を用意する。小洒落たものなんて出来ないけれど、どれもまあ、好きだと言っていたものだ。日が傾いて来て、そろそろ電車が着くかな、なんて思ったところで携帯が鳴って。
『着いたよ』
迎えに来て、という意味のそれに、返信もせずに家を出る。
 当たり前のように、当たり前のように。道なんて覚えてるくせして。
「よっ。久しぶり」
「久しぶり。またでかくなったんじゃねーの」
「えーしゃむにゃんが縮んだんじゃね?」
「それはねーよ」
「ないかー」
早く帰るぞ、と手を出すと笑うから。
 尻尾でも見えそうだよな、と思った。それくらいに幸せ、というのが伝わってきて、ひどくこそばゆい心地になった。

 二人で狭い部屋へと戻って料理を並べて、二人揃っていただきます、という。腕によりをかけて―――まではいかないけれどそれなりに頑張った料理を美味しいと言ってもらえるのは嬉しい。あれこれ突っついたり、近況を許される範囲で語り合ってテレビを見て。あとはまあ風呂に入ってやることやって、なんて考えに至ったところでいい感じに酒が回っているなあ、と思って。
 だから、今なら言えるかと思った。
「お前のさ、メールが、」
ん、と佐竹は首をこちらへと傾けて来た。あっつい。こいつすぐ熱くなるな、と思ってそこに手を差し入れる。冷たいよしゃむにゃん、と身を捩られて、その反応が可愛い、なんて。
 ああ本当、毒されている。
「帰るって、書いてあって」
「うん、だって、帰るから」
「うん」
別に、特別なことじゃあない。
 いや、きっと特別なことなんだろうけれど、それに甘えたりするのは違うけれど、こいつの中でもう、これは特別じゃなくて当たり前になっているんだ。
「俺の、勝手な感傷だけど、さ」
「うん」
「お前が帰って来る場所が此処なのが、」
「うん」
「すっげえ俺には嬉しいんだよ」
なんでだろうな、と問いかけると幸せだからじゃないの、と返された。
 なんだかちょっとだけその余裕が羨ましくなったのでチョップしたら、仕返しの代わりにキスをされて、そのあとはもうお察しだ。



image song「おいしいごはん」宇宙まお

***

曖昧なイノセントな大災害を振りまいたエゴ 

 いつものように部室に最後まで二人きり。パソコンとずっと向き合っているような部活だ、そもそもカーテンは開けていなかったし、マスターキーという存在はあるものの扉に鍵だって付いている。
 正真正銘二人きり。
 というのを榎木が認識したのはそういう状態になって随分経ってからだったのだろうが、その中でもるんるんと音符でも振りまきそうな笑顔で榎木の指示だけを待っている、その犬じみた美しさに眩暈がしそうだと思った。犬じみた、なんて彼に失礼だとは思ったけれど、確かにその賢さを連想させるにあまりある成分が彼からは滲み出ている。
「えっと、その、あの…」
 次は何をしたら良いですか? そう問うて来た彼に、やっとあげた顔に、部屋の状況を把握して。
「妻鹿さん」
やって欲しい作業なんていくらでもあるけれど、これはそもそも部活なのだし、納期だとかそういうものは存在しないのだし、つまるところ自己満足なのだし。
「やらしいこと、したく、ない?」
ならば、同じ自己満足を、並べたって。
 こちらを恐る恐ると言ったように見遣った目が多分、自分とおんなじくらいに濁って見えて、ああ、と思った。

 誰か来ちゃうかもしれないね、なんて言ったら彼は面白いように息を飲んだ。
「そんな中で、ぼくとするの、いや?」
ここまでしておいて、もう挿入ってしまっているのに、いや、なんて言わせるつもりはなかった。貪欲になったなあ、と思う。思うけれども、手を伸ばすことをやめられない。
 ばちり、と合った目が、その奥が、とろけている。
 彼もおんなじことを願っている。いやもしかしたら願わせているのかもしれない。榎木如きが彼の何がしかを操作しているなんてそうともとれる思考をするなんて、ああ、なんて痴がましいのだろう。粘膜のこすれ合う音が部屋中に響いているようで。
「えの、きせん…っぱい」
榎木の腰を掴んで離さない、彼のそのどろどろとした瞳の光が心地好くて。きもちがいいから、だけじゃない。勿論それもあっただろう、けれども。
―――このひとでよかった。
―――このひとで、このひとがぼくを求めてくれて。
―――すきで、いてくれて。
 全部ぜんぶ、運命だとかそういうものに導かれたとは思えない道の果てで、そんなことを思えるのだから。



image song「裏表ラバーズ」初音ミク(wowaka)



20160110

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彼女の庭 

 個展で知り合ったその人は一つしか違わないのにひどく大人びて見えて、なんだかとても羨ましかったのを覚えている。彼女は病気がちでだから一年学校を休んでの三年生なのだと、そう多分、笑っていたのを―――普段人のことなんか覚えられないのに、顔だって見ることが出来ないのに、そのことを覚えていたのは声が、言葉が。印象的だったから。それでも顔を上げられずに少し長い髪の先をやっとのことで見上げながら、いつかまたこういう機会があったら良いな、と思った。
 だからだろう。
「………あ」
休日の公園で、少し中心からは離れた、静かな休憩所で。その声に思わず顔を上げてしまったのは。
 はっと飛び込んで来た人間の顔に思わず俯いて、それからそれは失礼な行為に当たるのだと、そんな常識が浮かび上がってきた。
「すっ、すみま、せんっ」
なんとか謝罪を絞り出す。
「すみま、せん。ひと、人の…顔を見るのが、とても、苦手で」
「そうなの」
「すみませんっ」
「いいのよ」
気にしないで、と彼女は多分、笑った。空鳴は彼女の顔を見ていなかったから多分、としか言えなかった。そしてそれを見れなかった自分はもったいないことをしたなあ、と思った。
 どきり、とする。
 もったいない、なんて。そういえばこの間も思った、と思う。同級生と、その後輩と少しあった時に、思ったのだ。どうしてだろう、人間の顔なんて、あの子以外のものは見たいなんて思ったこともなかった―――はず、なのに。
「みんな人間なんてどっかちょっと可笑しいんだから」
それくらいがちょうど良いの。
 その言葉が、息が止まりそうなほど悲しい、なんて。
 それからあと、数度その公園で彼女に会うことがあった。空鳴のその癖はどうにかなることはなく、彼女の表情を確かめることは出来なかった。
「私、進学先が決まったの」
彼女がそう言ったのは空鳴のそれが決まるよりもやや早い時期のことだった。まだもだもだとキャンバスに向かう空鳴に、彼女は多分、やっぱり多分、笑ってみせたのだろう。
「遠くの大学へ行くの」
「とお、く」
「ええ。だから、今日でお別れ」
彼女の言葉ははっきりしていて、空鳴にはそれすら眩しい。
 さよなら。
 それすら彼女は言わずに、元気でね、と言っただけだった。私も元気でやるから、とは言わなかった。空鳴と彼女はそれだけで、空鳴もまたさよなら、とは言わなかった。連絡先も知らないような関係で、それをしないということはこの先偶然というものが笑うのを待つということにも等しくて。
 ああ。
 彼女は今、元気でやっているだろうか。



うっすら言の葉の庭パロ

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朝焼けも嫌いですが夕焼けはもっと嫌いだ 

 下井自由には好きな人がいる。
 その人は男で大分年上で、なんと従兄伯父である。とは言え彼自身もまた男を好きになりその男は自由と彼との差よりもあるという状況であったので、自由にもチャンスがあったように見えなくもないが。だってその人は彼よりずっと早くに亡くなってしまうのだから、それは抗えない事実で、彼にその後追いをするような人間性があるようには見えなかった。
 それはそうで、自由のその見立てはとても正しかったのだけれど。
「貴方に選ばれたかった」
言葉が溢れる。彼のいない、この場所で。
―――それは無理だよ。
彼が何を言うのか、静かに微笑みもせずに仕事の文字列を見つめながら、何を言うのか分かってしまっているから。
―――だって俺はもう選んだんだから。
 臆病、とも言えただろう。事実、そうだっただろう。でも自由はかの人亡き後、その残された箱庭へと身をうずめるようにした彼についていくことは出来なかった。かの人と同じように子供と触れ合い、時には微笑みさえ見せるその対象に、自分がなれないことが分かりきってしまっていた。
「洋さん」
「なに、自由」
「…この間の本、すごく良かったよ」
「そう、ありがとう」
どうして彼がそれを選んで、数年に一度程度しかやらない物語の翻訳をやったのか。
 ああ、嫌という程、分かるから。
 玉砕する覚悟もないまま、その人の優しさか、若しくは残酷なほどの盲目さに甘え続ける、そんな日々を続けるのだ。



image song「ワタリドリ」[Alexandros]



20160112

***

いつか還る場所 

 何度目だろう、と思う。特別海が好きではないことなんてもうとっくに気付いているだろう、それでも何も言わないのはぜんぶあげるよ、なんて馬鹿みたいな言葉が真実だったからだろうか。
 本当は分かっている。
 彼は、下井梓は。瑠璃川洵に嘘を吐かない。
「ねえじゅんちゃんせんぱい」
波打ち際でぱしゃぱしゃと遊んでいた彼は振り向かずに呼ぶ。そういえばその呼び方をやめろと、結局言うタイミングは逃してしまったな、と二十年と少しなんていう長い時間を掛けてやっと思った。これからも言わないだろうな、とも。だって、もう、馴染んでしまった。もしも彼がこれから先他の呼び方をするというのならば、それはこの関係が終わるということなのだろう。
「おれ今から最悪なこと言うね」
「お前の言うことが最悪じゃなかった時があったか」
「もう! 茶化さないでよ!」
ぱしゃり、波が跳ねる。
 攫われる、とは思わなかった。溶けてしまう、そうも思わなかった。
「おれ、」
震えるみたいな声で、それでも彼は堂々として。ああ、瑠璃川には出来ないことを彼はいとも簡単に―――いやきっと彼だって戦って辿り着いたその場所なのだろうけれど、それでも瑠璃川には出来ないことをいとも簡単に見えるようにやってみせる。
「天国にいるみたいだ」
 てんごく。
「おれ…」
「馬鹿」
近付いていく。彼の靴ばびしょびしょで、どうやっってそれで家まで帰るんだ、いろいろ迷惑だろう、と現実的なことが頭をめぐって。
 それからすべて、本当はどうでも良いことに気付いた。
「オレもおんなじ気持ちだよ」
「…うそつき」
「嘘じゃねーよ」
「うん」
じゅんちゃんせんぱいは嘘吐かないもんね、と引き寄せた頭は小さい。それこそ片手が抱え込める程に。持ち運びなんか楽に出来てしまうだろうな、と思った。
「………また来るか」
「うん、行く」
それが、いつの約束か知らないけれども。
 まるでそうでもしなければいけないと言うように、その間に約束を置いて置いて、それを追いかけるのだ。



image song「新宝島」サカナクション

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春夏秋冬 

 あっ涼暮せんぱいだ! という明るい声と共にぱたぱたと足音がした。その図体でその足音は詐欺なんじゃないのかと思いつつ涼暮は本から顔を上げない。
 つもりだった。
「お前は…」
目が文字を滑って、口からは苦々しい言葉が溢(こぼ)れて。
「いっつも、夏みたいだ」
「夏?」
きょとん、とでもしているのだろう。別にともだちの後輩の表情に興味はない。というか見たら疲れるのは必須なので正直見たくはない。ともだちが彼を大絶賛する意味は分からなくはないが、だからと言って涼暮の好みであるかと言ったらそんなことはない。
「眩しい…って言われた」
「眩しい? 涼暮せんぱいが?」
「お前の所為だ」
お前が結果的に俺の周りでウロチョロするから、と吐き捨てると、びっくりしたように涼暮せんぱいって、とその後輩は少しばかり高い声を出した。
「本当に日本語お上手ですよね!」
言うことにかいてそれか。
 呆れる涼暮を他所に後輩は夏ですか〜分かるような分からないような! と思案を始めたようだった。どうでも良いけれども何処か他所でやって欲しい。別に涼暮に彼への用はないし、多分彼だって涼暮に用なんかないはずだ。此処に榎木はいないし、目の前の後輩に切羽詰っている様子も見られないから榎木を探しに来たのではないのだろう。
「俺が夏ならせんぱいは冬だし、榎木せんぱいは春だし! 佐竹先輩は意外と秋っぽいですよね! みんな違うんですよね。四季、揃っちゃいました」
だから何だ、と思った。ねえ、と美しい―――眩しいくらいに美しい後輩は微笑む。それを見て初めて、涼暮は自分が顔を上げていることに気付く。
 「涼暮せんぱいは、今、たのしいですか?」
 そんな、の。
「………たのしいよ」
「わ! 涼暮せんぱい素直!」
「お前がいなければもっとたのしい」
「嘘は良くないですよ〜佐竹せんぱいに言っちゃいますよ?」
「言えば…」
もう勝手にして、と本に目を落とせば、それ以上ロックンロールフラワーは何も言わなかった。

***

name name name(それは新たなハジマリの色) 

 良い名前だよな、と毎回それを見る度に思う。豊。豊かと書いて、みのる=B根古紗霧は自分の名前をどうとも思ったことはなかったけれども、恋人のそれについては時折思い出したようにそう思った。良い、名前、なんて。名前で呼ばれることが多かったからかもしれない、そんな価値観が付き纏うのは。
 だって彼は、呼ばせてはくれないから。
 否、例えば紗霧がプライドやなんやかんやをかなぐり捨てて土下座でもして頼んだらきっと、彼は時折見せるような無理のある笑顔をしてみせて、それから良いよ、と言うのだろうけれども。紗霧がしたいのはそういうことではなくて、別に、名前を呼ぶことでどうとか、そんなことを思うようなロマンチックさを持ち合わせている訳でもなかったし。
―――豊。
好きだからそう思うのか、そう思うほどに好きなのか。
「なあ、佐竹」
 これはひとりごとだと前置きをする。だから答えなくて良いのだと、先に逃げ道を作る。紗霧とて泣かせたい訳ではない。それが自分の手によるものでないのならば尚のこと。
「俺はお前の何にもなれないけど、」
お前の涙腺の操作一欠片だって、
「いつかお前の名前を呼びたいと思うよ」
誰かに明け渡したくないなんて、これは独占欲?
「だから、お前が大丈夫って思ったら、言って」
「やってみたいって思ったら、じゃだめなの?」
「俺さぁ、確かに加虐趣味あんだけどさあ、」
それはそれで間違いなくて、それすらなかったらきっと知り合ってすらいなかったのだろうけれど。
 似た者同士、似た者同士、その境界線だけ保っていて。
「お前に泣かれるのだけはだめ」
―――どうか、何も出来ない俺のために。
「お前には泣かれたくない」
 こんなのは我が侭で、距離の取り方も分からない子供のようで、でも知らないんだからしょうがないだろ、分からないんだから仕方ないだろ、と喚きたい部分すらあって。
「………俺も、一緒」
泣かせるのと、自分の所為で泣くんのは違うよね、とぼそり、言葉が返って来る。
 ああ、それのどれだけ許されたことか。
「大丈夫になったら、一番に呼んでもらうね」
「ああ。涼暮とかに先越させんなよ」
「………あれ、俺、涼暮くんに名前呼ばれたことあるって話、しゃむにゃんにしたっけ」
「………したよ、したした。ちょーした」
「えっなにそれ、涼暮くんがしゃむにゃんにしたの!?」
「ちっげーし。ンなことある訳ねーだろ。あの涼暮だぞ」
「いや、涼暮くんよく突拍子もないことするし」
「あー…確かにするけど、別に、涼暮から聞いたんじゃねーし」
「はいはい、そういうことにしとくね」
ね、と甘ったるい声がする。
 何処までも着いて来てくれる、きっと何処でも聞こえると信じられる声がする。
「紗霧、好きだよ」
抱き締めて良い? との言葉には一つ、頷きだけを返した。



image song「声」THE BACK HORN

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こころのいろ 

 賢い子供というのが必ずしも幸せに―――幸せという言葉はこの場合においてあまりに不確定な要素を孕んだものだったかもしれないが、幸せになれるものではないということを、橘は既に知っていた。だからこそ既に大人しい子供の皮を脱ぎ捨てた子供に対して、その賢さを示して見せた子供に対して今後正しい大人の指標であらねばならない、そんなことはいつだって思っていたけれども強く、そう思ったくらいで。
 にぃ、と最早猫をかぶることをやめた唇が弧を描く。
「貴方が何をしたい、とか別に、聞くこととかしませんよ」
俺の友人のことも含めて、と彼は言う。他人のことまで言及出来ることをその程度にはなかったことになった≠ニ息を吐くべきか、それとも。
「貴方は大人で、俺は子供だから」
歌うようにして彼は今月の申請をする。橘は雑談交じりにそれを確認して無駄なものではないことを繰り返してから分かった、と言う。
 いつものように、いつものように。それが彼に出来る唯一のことだろうから。
 トンッと膝から降りたその仕草は猫のようにしなやかで、そういうのはいつも一緒にいる子供の役割のような気がしていたけれども。
「俺にとって貴方は一風変わった尊敬出来る人」
今までもそうでした、きっとこれからもそうで、それだけです。
「そういうことで良いじゃないですか」
聡い子供にそこまで言葉を選ばせた、自分のその失敗を忘れないでいようと思った。
 一生、忘れないでいよう、と。
 彼が例えこの先どんな幸せをその手にしようとも、彼へときっと形は違えど甘えたのだろう、その失敗のことは忘れないでいようと思った。

***

感染しました 

 体調の悪い自覚はあった。多分このあと熱が上がるだろうことも。だから今日は部活を休みます、とのメールを入れて、そのまま帰ろうと下駄箱へ向かったのだ。まだ歩ける、歩ける、熱は出ていないから大丈夫。咳とか鼻水とかその他諸々やばいけど。
「うわぁどうしたの康生くん、つらそォ」
ばったり会った顔見知りの先輩にそんなことを言われてしまえば、ああやっぱり大分まずいように見えるのか、とがっくり肩が落ちた。
「そんなに辛そうですか…」
「うん。顔色悪いとまではいかないけどォ…、熱、大丈夫ゥ?」
「さっき計った時はなかったはずなんで…上がる前に早く帰って休もうかと」
「ああ、うん。それが良いねェ」
お大事にね、なんて付け足す先輩はその場から足を動かす気配がなくて、彼が立ち去らないのならばそういった上下関係が染み付いた妻鹿には少し、立ち去りがたくて。
「風邪って…」
ぼそり、と彼が呟く。
「誰かに伝染した方が、はやく治るって言うよねェ」
 掠める、ような。
「榎木くんには、秘密だよォ」
 スキップでもしそうなその後姿に、妻鹿はただぽかん、としているしか出来なくて、ああもうそうじゃないだろう! とやっと頭を掻き毟れたのは三十分も経ってからのことだった。

***

20190117