汚れたものを知ったなら、 

 いいなあ、と思っていた訳ではない。すべての人が問題があるからと言ってその原因を憎むことがある訳では―――別に憎んでいるつもりもない―――ないと分かっていたし、そんなものがこの世界の何処にだって転がっている事象でどっちがいいだとかそういうこともないし、珍しくもなんともないのだと。
 けれども明日、立ち日なんだ、と言った涼暮の、その何とも言えない横顔に何かわき出しそうな衝動を感じたのも事実で。
「…ふうん。誰の、とか。聞いた方が良いワケ」
「母親」
「仲、良かった?」
「そういうのでは、なかったと思う」
詳しいことなんか何も知らない、それだけでこれからもそのラインを崩すつもりはなかった。そもそも佐竹にだって何も言っていないのだ、大してよくも知らないこいつに何か言うことなかない。
 のに。
「…そう」
「うん」
「うちも」
「そう」
そんな言葉を零してしまったのはきっとその日が寒かったから、ただ単純にそういうことで別にこれがキレイな物語になるとか、そういうことはまったくないのだ。



うつくしい音を紡いでいる人が消えてゆくのは社会の摂理 / 岡野大嗣



(生きていられたかもね)

***

【自主規制】 

 最初はこんなことになったのだって興味本位で、一旦折れてしまった手前唯々諾々とまでは言わないが従ってやるつもりはなくもなくて。
「しゃむにゃん、しゃむ、ここ、ねえ」
でもぐちぐちと腹の中を掻き回されるような、それにまだ足りないような、まだそんな状態なのにそんな声で呼ぶな、とは思う。
「欲しくないの?」
欲しいなら、言って、と甘ったるい声で、脳味噌の奥の奥までだめになるような声で言われたら本当に何処までも溶けてしまって良いような心持ちになる。だからやめて欲しい、やめて欲しいけれども、こいつがそういうのが好きなのもちゃんと分かって付き合っている訳で。
「テメーッの、そういうとこ、ン、マジで腹立つ」
 虚勢、と言われて良かった。と言うかそうとってもらえた方がマシだった。だって嫌だろ、気持ちが悪いだろ。全部どろどろのぐちゃぐちゃになって二人の人間である境界も取っ払って、それで全部、わからなくなりたいかも、なん、て。
「だって、聞きたい」
優しい声が甘やかす。
「俺だって肯定されたいの」
「肯定?」
「そ、肯定」
肯定、と繰り返されるそれが何処まで本当か。
 最早その判断、さえ。
「言わせたいだけじゃないの」
「そういうのじゃなくて、」
そういうのもなくないけど、とゆるゆる指を絡ませられて、ずるり、と熱を押し付けられて。何処もかしこも熱いくせして、まだ更に熱上げるなんて、
―――それも俺、相手に。
「紗霧に求められたい。俺じゃなきゃヤって、言ってよ…?」
 全部、馬鹿だって笑う声がする。その声をよく知っている。とても、よく、知っている。
「………あー、もう、馬鹿じゃねえの」
「馬鹿で良いよ」
即答だった。でも用意された答えではないのだと、そう思った。
「お前が良いよ」
馬鹿、と言う。馬鹿だよ、と返される。
「お前にしかされたくねーよ」
「………うん」
「だから早く寄越せ馬鹿。泣くな」
「泣いてねーし」
 わざとらしく目元を拭う仕草にこういうところは可愛いんだよな、と待ち望んだ来(きた)る融解に身を任せようと目を瞑った。



image song「え?あぁ、そう。」初音ミク(蝶々)

***

世界、俯いちゃう前に。 

 夏休みがあけて登校をして、部室に行ったら後輩が既にいた。
「じゅんちゃんせんぱい、どうしたの?」
何かあった? と首を傾げるこの後輩に、こいつはどうせ突っ込んでは聞いてこないのだろうな、と思う。そういう距離がちゃんととれるやつなのだと、そういうことを知っている、知ってしまっている。人を押し倒したりなんだりはするけれども、結局それ以上先のことをしてくる訳でもないのだし。
 ふざけているのだとは言わない。
 でも、越えられないものがあるのは聞かなくても分かるから。
「どうしようもないなら、踊る?」
ほら、と思う。思ってから、踊る? と繰り返してしまった。踊るってなんだ。
「ほら、こっち」
 手が差し出されてぽかんとしていれば、もう、と頬が膨らまされた。
「手、手ですよ。手貸してください」
お前はそれで良いの、と表情を窺う前にいっそ小気味良いほどの音を立てて手が取られる。
「はい、ワンツー、さんし」
 動かされる足。自分より大分身長の低い後輩にリードされるというのは正直、どうなのかとも思うがこういうものには無縁なので仕方ない。そしてきっと、この先も無縁であるので仕方ない。
「………お前、やっぱこういうの踊れんだな」
「嗜みだからね!」
見直した? とその後輩は笑ってから、それから違う! と騒ぎ出した。何が違うのかと足を止めて見ればにこっと笑って、
「惚れ直した?」
 呆れるしかない。
「あっじゅんちゃんせんぱい笑ったー」
「笑ってない」
「笑ったよ。でも良かった、笑えなくなるのはあんまりよくないよ」
おれみたいにいっつも笑ってるのが良いよ! と言ってまたくるくる回る後輩に、それもそれでどうなんだと思ったけれど言葉にするのも違う気がして、結局そのまま回り続けた。



image song「ワールズエンド・ダンスホール」初音ミク・巡音ルカ(wowaka)

***

にわとりとたまご 

 この家さえ手に入るなら、と言ったこの野望が何処から来るものなのか本当のところ良く分かっていなかった。最初は手に入るはずだったものが横から掠め取られそうになって意地になっているのか、それとも本当に欲しいだけなのか、それとも―――
「父さん」
久々に見たその人に声を掛けるのに、躊躇うことなど何もない。してはいけない。ただ当たり前のように微笑んで、あの従兄とは違うのだと見せつける。
 これは戦争だった。
 誰が何と言っても、姉たちに無理なのだと諭されても、下井梓にとっては勝ちにいくしかない戦争だった。相手が敗北を宣言しても何にもならない、条件からして不利な戦争。
「おれ、何でもするよ」
だからその不利から覆さなければならない。
 媚を、売ってでも。
 それは武器だった、この家では絶対に使えないといけない武器。そしてきっと、あの敵には使いづらいだろう、武器。
「…俺がお前を慰み者にしたいと言ってもか?」
静かな声がする。何も読ませない、それを聞いてああこの人も下井≠ネのだな、と思った。これは脈々と受け継がれて来たものなのだ。
 それを、混ざっているとは言え外部のものにくれてやるなど。
「それが下井≠フ意志なら」
笑ってみせた。これ以上ない笑顔だったと、自負していた。

 だからそのあと、馬鹿者、と呟かれたのが何故だったのか、下井梓にはまったくもって分からなかった。



image song「いろは唄」鏡音リン(銀サク)

***

半径八十五センチ。 

 最早何で人の部屋にいるのだと聞くことはしない同級生に、佐竹は甘くなったもんだなあ、だから付け込まれるんだよ、と思いながらもそれを甘受していた。家に帰りたくない、でも紗霧のところには行けない。そんな日に転がり込む場所なんて幾らでもあったけれど。
 勉強の邪魔さえしなければ、と言った家主を巻き込んで布団に転がって、追い出すぞ、なんてそんな気もない言葉を抑え込んで。電気を消した部屋で二人布団に丸まっているなんて傍から見たら浮気そのもので、もしかしたら腕の中にいる彼はそういう心配をしてるのかもしれないけれど。
「佐竹は、」
細い声だな、と思った。そんな声を出すからからかい甲斐があるなんて思われるのだ。自分のことは棚上げにしてなに、と返す。
 自分の熱で眠れそうだ、布団の中はぽかぽかしている。人がいるだけで、こんなにも違う。悪いけど部屋に入れた時点で諦めて欲しい。眠れない、とか文句は言うけれども大した抵抗もしないのだから(仕方を知らないのかもしれなかったけれど)その辺りは自業自得というやつで。
「おれの手の届くところにいる?」
―――なんだその質問は。
 暗がりで顔は見えなかった。そもそも抱き込んでしまっていて、明かりがあったとしても見えなかっただろう。
「根古を置いて、何処かに行っちゃわないよね」
―――なんでそこでしゃむにゃんが出て来るの。
「………ナニソレ」
「寝言」
「余計なお節介って知ってる?」
「知ってる。だから寝言」
もごもご、と続けられる言葉ははっきりしなくて上手く拾えない。
「でも、俺は、」
何、なんだっけ、と眠たい思考を巡らす。しゃむにゃんと涼暮くんってそんなに仲良かった、っけ?
「あの人、が、」
―――ねえ。
 誰の話をしているの?
「ごめんぐちゃぐちゃ」
「寝言なんでしょ」
「寝言だよ」
「眠れないくせに」
 ほら抱き締めててあげるからさ、と言ったら余計眠れない、と不機嫌そうな声で拒否られた。



image song「ダブルラリアット」巡音ルカ(アゴアニキ)



20160106

***

君がきれいだからかしらね 

 ぽろり、と零れた涙に思わずあっと声が出た。
 あっと言われた方は方であわあわとするだけで、その状況が改善する訳でもない。ぼろぼろと流れていくその珠に、ああ、と思って。
「ねえ、妻鹿さん、それ…」
「はい」
「舐めて良い?」
瞬間、その涙の量が増した気がした。
 慌てて謝る。
「ご、ごめんね、舐めたいとかもう言わないから、ちょっと魔が差しただけだから、その、妻鹿さん、泣き止んでほんと…あの…ごめんね…」
「いえ、あの、別にそれは良いですけど、その、ちょっとまってせんぱい、」
俺も急には泣き止めないです、あと舐めても別に良いですけど、そこはせんぱいに任せますけど、やっぱりちょっと汚いかもしれないですし、とずびずび言う後輩が、そのきれいな顔を汚すものたちが、愛おしくて。
「ごめんね、でも、あの、妻鹿さんのなら、全部、きれいだから…」
「そう、いう…問題、じゃない気が、」
「でもあの、言わないから、その、もう言ったけど、その、泣き止んで…」
「が、頑張るので、もうちょっと、待ってください…」
目が痛いです、と言うので手、洗った方が良いかも、目触っちゃだめだよ、と言いながら風呂場へと導く。そういえばさっき風呂もためてしまっていたのだし、そのまま風呂に入っても良いかもしれない。泣いている相手を風呂に誘うなんて、なんだかいけないことをしているみたいだけれども。
 尚もずびずびと言う後輩をするすると脱がせながらやっぱり絵面的にまずいかなあ、と思いながら特に止められないのでそのまま続行すると、すみません、と事態をまだ把握しきれていないらしい後輩が小さな声で謝った。
「玉ねぎで泣いて、すみません………」
 そういえば事の発端はそんな可愛らしい理由だったのだけれども、もう台所に戻って料理の続きをすることは出来ないなあ、玉ねぎだめになるかなあ、でもまあいっか、と思った。



image song「デンドロビウム・ファレノプシス」初音ミク(蝶々)

***

PUZZLE 

 もうすぐ卒業だね、とひょんなことから知りあった後輩は呟いた。図書室。今日は此処の主はいないらしい。
「ねえ、小川ちゃん」
前に言ったこと、憶えてる? こてん、と傾げられた首がその所作が、すべて彼のために作られたもののようですごいな、と思う。
「どの話?」
「小川ちゃんは卒業したら、おれのこと、忘れた方が良いってはなし」
言われて、ああそんなことも言われたな、と頷くと、半分忘れてたでしょ、と笑われた。
 そして、
「小川ちゃんは優しいね」
何を突然言うのだろう。
「ちょっと、悔しいくらいに」
 彼が彼なりの遣り方で、自分を慕ってくれているのだろうことは知っていた。知ってたし、分かっていたけれども。
「下井くんを忘れるのは、少し無理があるんじゃないかなぁ」
こんなキャラの濃い人間を忘れられるだろうか、いや、多分無理だろう。そう思って言うと、だよね、小川ちゃんはそう言うよね、と後輩は笑う。
「小川ちゃんは、おれのこと忘れた方が良いんだって、本当は分かってるんだ」
―――そんな、こと。
「でも、小川ちゃんはそんなこと、してくれないでしょう」
まるでそれを小川が選んだかのような言い方だった。もしかしたら彼からはそれが選択に見えているのかもしれない。小川にとっては自然なことが、彼にとっては自然ではないのかもしれない。
 彼とは世界が、違うから。
 そんな淋しいことを、思いたくはなかったけれど。
「おれね、小川ちゃんと出掛けるの、楽しかったよ。小川ちゃんと買い物して、可愛い小川ちゃん見てるの、楽しかったよ。小川ちゃんがいて、おれは高校生ってこういうことなんだなって知ったって言っても過言じゃない」
小川ちゃんがいなきゃ、高校生を知らないまま高校生を終わるところだった、と彼は言う。そんな大層なことはしていないつもりだけれど、彼が言うのなら彼の中ではそうなのだろう、と思って何も口を出さなかった。
「だからね、言わせて」
―――ありがとう。
 吐息のような声は夕焼けに溶けて消えた。

 春が、もうすぐやってくる。



image song「1925」初音ミク(とみー)

***

ほんのコンマ一秒でも 

 ずっと、分かっていたことだった。
 この人は涼暮を置いていく。それは殆ど決まりきったもので、覚悟の上で、それを恨むなんて真似は今更しないのだけれど。何か特別なことでもない限り涼暮は置いて行かれる方以外にはなれなくて、涼暮にはそういったものを選ぶつもりはさらさらなくて。だからこその覚悟だった、追い縋ってでも、この心に刻んでおこうという、ひどく女々しい覚悟。
「いかないで」
いつだか同じようなことを言った記憶があるな、と笑ってみせたら、きっと同じことを思い出していたのだろう、その人も同じように笑ってみせた。
「それには応えられないよ」
「…分かってます」
「うん、分かってることも分かってるよ」
だから君に恋をして、今、愛しているんだ、とその人は言う。
 「君はもう、子供じゃないからね」
「そう言われてる時が、一番子供扱いされてる気分になるんですよね」
頬を寄せた手はあたたかかった。とても、あたたかかった。
「…明音さんは、」
「うん」
「俺といて、幸せでしたか」
―――甘えだった。
 残りの時間すべてで、出来るだけ長く、甘やかして欲しかった。もうこれ以上ないほど占拠された心を、すべて持って行って欲しかった。
「幸せだったよ」
過去形にしたのは間違いだったな、と思った。
 今が幸せだと、そう言って欲しくてもう一度手を握り直せば、僕は幸せものだなぁ、とその人は笑った。
 ひどく甘い声で、ああ、この時間がいつまでも続けば良いのに、と思った。



image song「from Y to Y」初音ミク(ジミーサム)



ながく。

***

MAMA 

 その手をとって、交わって、こんなことが許されるなんてああ世界というのはひどく優しく出来ていると、そんなことを涼暮和海は思った。まぐわうことがそう難しいと思っていた訳ではないし、その人と出会うまでに何度か経験はあったけれど。
「貴方は海そのものだ」
ここ、まで。
 心の底まで掴まれたような、そういう心地に陥ったのはこの人が初めてだった。最初はなんて素敵な名前なんだろう―――そう思っただけで、ただそれだけだったはずなのに。
 この人は名前以上に。
「だから、ねえ、とても美しい」
壊れた蓄音機のように何度も同じことを繰り返しても、その人は微笑んでくれるから。
―――貴方の中に、溶け込んでいる。
それが分かる。
―――愛が、溶け込んでいる。
 散らばってしまった愛はこの人の中にくるり、水が循環するように集まって、そうして和海を愛しに来た。それが、和海はとてもうれしい。
―――彼が、帰って来た、みたいだ。
「愛しているよ」
「私もです、和海さん」
定型句を交わし合ってキスをする。
 それがどれだけ幸せなことなのか、この時は本当はまだ、分かっていなかった。

***

また一人で夢を見るよ 

 さよなら、と言ったきり、その後輩は音沙汰もなくなった。長期休暇を利用して地元に戻ることもしなかった自分が言うことでもなかったし、そもそも携帯の連絡先だって知らないのだ。住所だって教えていない。いや、彼だったらそんな情報、すぐに手に入れることが出来るのかもしれなかったけれど―――もしかして、それを、期待していたとでも?
 じゅんちゃんせんぱい、と甘い声が耳に住み着いている。たった一年、でも何度も何度も呼ばれたその甘ったるさは、どうしてもこの身からすぐには離れていかなかった。
 やめてくれ、と思う。やめてくれ、期待をしてしまう、もしかしたら―――もしかしたら、お前、と。
―――なんて。
 そんな夢は一人で見ていれば良い、一人でその夢だけを抱えていれば良い。
 誰かを巻き込むことなんて、しない方が、良い。
 ワンルームの部屋でこの唇が呼んだ名前は、一体誰のものだったのだろう。



image song「from Y to Y」初音ミク(ジミーサム)



20160107

***

20190117