「おいしいね!」 

 お前は笑う。いつだって笑う。それは学生時代に見ていたようなふっとした瞬間無機質になるようなものではなくて、オレといることが楽しくてたまらない、みたいなそういう笑顔だ。
 訳が分からない。差し出された手を取ってそのまま流されるように誘拐なんてされた訳だけれども、そう長く逃げられるとは思っていなかったし、このまま一緒にいるのもだめだと思っていた。だから期間を設けた、はずだったのにペースに流されてなんやかんや部屋を借りて狭いところで二人、暮らしている。
 分かれていない台所から音がして、良い香りがして、最初は包丁すらおぼつかなかったのによくもまぁこの短期間で、と息を吐いた。そういえばこいつは努力家で、オレの見ていなかったところでそれなりに練習したのだろうけれども。
「じゅんちゃんせんぱい!」
出来ましたよ! と振り返るのはとても三十後半には見えない。
 それに、手を伸ばしたところで。
 はっと我に返った。ああ、と思う。伸ばした手は取られて、胃液の上がる感覚がする。そいつはそんなことはもう分かってるとばかりに薄い唇を合わせてきて、つまり、流れ込んで。流し込むようにして。
 けれども全部落ち着いた時、彼はにっこりと、この上なく幸福そうに笑うことを、オレは知っているのだ。

***

欠けたペンの先 

 瑠璃川洵(るりがわじゅん)の筆箱の中には死んでしまった万年筆が入っている。別にその辺に売っているものだし、多少金はかかるだろうが修理が出来ない訳じゃあない。それでも修理をせずに瑠璃川はそれを筆箱にいれて、持ち歩いている。
 あれから、何年経ったのだろう。
―――じゃあくださいよ。
扱いが分からないわけではあるまい、彼はその言葉の次の瞬間にはそのペン先を折っていて。
―――これ、もらいますね。
そう笑って言った彼は今もまだ、それを持っているのだろうか。
 考えることは無駄な気がした。今瑠璃川の手元にある万年筆のうちの一つはペン先が可哀想な感じで欠けている。その事実だけで、良かったし、それ以上は何も言ってはいけないのだ。



https://t.co/2v67Z0H1ho

***

君の世界を俺だけにして 

 甘い、と思う。
 この朝食のことではない。この生活が、予期せぬ幸運のようなもので始まったこの生活が、涼暮にどれだけの甘さを齎したのか、この人は気付いているのだろうか。
 もしも、この人を。寝惚けた頭でそんなことを思う。
 俺だけで、満たしてしまえたら。
 一人で首を振る。もしもそれが可能だとしても、そうなってしまえば―――
「さて、そろそろ出掛けるね」
「俺は寝ます」
「おやすみ」
 それはもう、その人ではない。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
だから、涼暮はその馬鹿馬鹿しい妄想を欠伸と一緒に噛み殺してまた、一日を終えるのだ。

***

目隠ししようか 

 耳まで真っ赤になっている恋人を―――つい最近恋人になった人をじいっと見つめながら、橘はただかわいいなぁ、とだけ思っていた。なんてことはない、二人の空いた時間が重なったから大きめのソファで彼を膝の上に乗せて、テレビを見ていたときのこと。画面の中で重なり合った唇になんとなく、彼の方に目をやると、彼もまた同じようにこちらを見ていて。
「…ん、」
橘が自身の唇を指差してみたらこの有様、という訳である。
 昔に一度しているのになぁ、と思いながらそれでも橘は言葉を発しない。いやかい? なんて見れば分かることを聞くほど意地悪くもないし、今はただこの恋人を甘やかしたい。
「…み、」
「み?」
「見られてると、出来ない」
「目を瞑ろうか?」
「そ、それはそれで、ま、ずい」
それじゃあ困ってしまうな、なんて笑ってふいとやった机の上にきちんと折りたたまれたネクタイを見つけて。
「ならあれで―――」



「尚悪いわ!!」

***

出せなかった手紙 

 「その箱は何かな?」
引っ越しには殆どすべての荷物を持ってきたけれども結局、何が部屋から溢れる訳でもなく。というか書庫だった部屋の半分も埋められないでベッドやら机、棚などを与えられたのも記憶に新しい。
 殆どすべての荷物を持ってきたということは、本来ならばいらないだろうものもあるということで。引っ越しに当たって処分したのは洗濯機と冷蔵庫、レンジくらいだ。
「そ、れは、」
「開けてもいい?」
「だっだめ!!」
橘が指差しているのは段ボールの箱だった。これに何が入っているのか、涼暮は忘れていない。
「仕事関係のもの、かな」
「あ、えっと、そうじゃなくて、」
「でもだめ?」
「だ、だめ」
 見せられるわけないだろ―――っていうかなんで見たがるんだ―――と心の声が聞こえているのかいないのか。
「隠されると気になるなぁ、洋くん」
「気にしないで」
「気になるなぁ」
 顔を寄せられて、撫でられて、教えてもらえないかな? と言われて。全部ぜんぶ、涼暮が弱いと分かっていてやっているのだろうからタチが悪い!
「アンタへの手紙だよ!! 六年分のな!!!」
思わずそこから逃げ出すためにそう叫んだのはすぐに間違いだったと分かったけれど、言ってしまったものを回収する術などなかった。



このあとめちゃくちゃ読まれた



https://t.co/5nZZFBuBWT

***

この一秒を切り取って 

 にらみ合い、という程でもなかった。目があって、それから思考が交錯、読み合い、探り合い。楽しく出来たらそれで良い、でも、それでもやはり相手の予想は越えてやりたい。
―――カワイイ顔して負けず嫌いなんだよなあ。
前にそんなことを言われたけれども、負けず嫌いというよりかはトリックスターになりたかった願望が強いのかもしれない。
 誰でもない誰かに。
 でもその場面にはきっと必要な、誰かに。
―――ああ、
思う。胸がどきどき、背中がぞくぞく。
 僕ではない僕が、物語の中で、炸裂する。
―――今、僕、此処に存在している!
 それを感知したかのように彼はにっと笑った。だから僕も笑い返して、それからまた物語に戻っていった。

***

「泣いてもいいのかな。」 

 なんとなく察していたことをあ、そういえば言ってなかったよね、と言われて、うん、そうなんだおめでとう、とぼんやりした言葉が出たのを覚えている。それからいつものように部活をして、遅くに別れて。
 帰り道。
 ため息なんてものが、出た。
「あっれー小川ちゃんじゃないですか。小川ちゃん家、こっちだったんです?」
のもつかの間、センチメンタルな空気は空気を読まない声に払拭される。
「下井、くん」
「帰り道に会うとか初めてですね! 暗い道怖くないんですか?」
「下井くんは怖いの」
「怖いですよ! 怖いって言ったのにじゅんちゃんせんぱいは一緒に帰ってくれなかったんですよ! もう! ひどいですよね! 可愛いおれがこんなにお願いしてるのに放置して帰っちゃうなんて!」
「怖くないんだね」
「もーなんですか、小川ちゃんまで。今日なんかトゲトゲしてますね」
トゲトゲ。言われて息を呑む。
「特別にかっわいーいおれが話聞いてあげてもいいですよっ?」
じゅんちゃんせんぱいにもナイショにしてあげます、との付け足しに、なんとなく、うん、と頷いた。
 その説明は大分端折られたものだったと思う。友人に恋人がいるのが薄々分かっていたけれども、今日それを改めて告げられて、なんとなく、そうだ、なんとなく寂しくなっていたのだと。
「何ですかそれ」
聞き終わった一個下の偶然知り合うことになった後輩はぷくーっと頬を膨らませた。
「小川ちゃん、好きでもないのに、そういうこと思うんですね」
そういうのずるいって言うんじゃないですか、と下井は言った。何事もずけずけと言う、彼とは正反対というか、彼の嫌いそうなタイプだなあ、というのは黙っておく。
「好き、だよ」
「でもそういうんのじゃないでしょう?」
「そうだけど、うまいこと分けられないっていうか」
「ふーん…そういうもの、なんだ」
わかんないや、と下井は言った。言って、参考にしますね、と言った。何の、とは聞けなかったけれどもやっぱりずるいんだな、とさっきの言葉を繰り返して呑み込んで。
「じゃあずるくないですね」
否定を、された。
 「え、さっき、ずるいって」
「訂正です」
「なにそれ」
「訂正だから、小川ちゃんは狡くないです。でも、臆病です」
「………知ってるもん」
「何で拗ねるんですか、良いじゃないですか臆病。かわいいし」
「下井くんって、本当、全部それだよね…」
「良いじゃないですか! かわいいは世界を救う!」
ねっと笑われた。でも手は取られない。
 触れたらだめだ、となんとなくそれは暗黙の了解なのかもしれなかった。
「はは、」
話していたらなんだか自分のことが馬鹿らしくなってきた。言わないけれど。そういえば、彼の言うじゅんちゃんせんぱい≠ニやらは彼のことを面と向かって馬鹿にするらしいけれど、すごいなあ、と思う。きっと、言えないだろう、言わないだろう。
 だって、小川は、臆病者、だから。
「そうだね、可愛いは正義だね」
「あっ今小川ちゃんちょっと投げやりでしたね!?」
「そんなことないよ」
賑やかな声が、暗い道を照らしていく。
 息を吸ってぽつり、こぼしてみたらなにそれそんなの別に、おれに聞かなくてもしていいんだよ、と言われた。

***

いついつまでも、そんな欲張り 

 本当は、知っているんだ。そんな言葉を小川は発せない。もっと正確に言うのならば、発せない、ことにしている。だってそんなことをすれば彼は離れていくだろうし、今だってとても危うい場所にいて、そうだきっとここは平均台の上で、二人でやじろべえみたいに両手を広げてふらふらと。
 小川に手を差し伸べる権利はない。
―――権利とか、そういうの、ないよ。
そう、言われるかもしれないけれど。
 それでも小川にとってそれは権利だった。
―――死んじゃうんだよお。
幼い遊び。五秒ルール。はいはい、と乗ってくれたその優しさを。
 これは恋じゃないけれども。
「欲張り、だなあ」
自分のことが嫌になった。



https://shindanmaker.com/122300

***

たいへんなひと 

 さわらないで。
 直接言ったことはなかったし、今まで言うこともなかったし(そういうのは得意だととてもよく分かっていた)(だって下井梓≠ヘちゃあんとお人形≠ェ出来るのだから!)、二つの例外(敵と大大大大大運命)を除いてはこれからも触れないで―――というのは無理なのだと分かっているけれども。下井梓≠ノなら出来て当たり前のことなので、そりゃあ勿論出来るようにするのだ。
「下井くん」
「はい」
何でしょう、とお茶会に交じっているのは本当何でなんだろう。この間邪魔してくれた先輩も一緒だし、きっと小川にだめ? と聞かれなければ参加していなかったし、自分で紅茶を淹れるような真似だってしなかった。
「あんまり、むり、しちゃだめだよ?」
息が。
 止まるかと。
 でも下井梓≠ヘそんなこと読ませない。何故なら読ませてはいけないから。息なんて止めない、止めるのは止めてみせた方が良い時だけ。
「えっ何ですか突然小川ちゃん! おれ、べっつにそんなむりとかしてないですよう」
「なら、良いんだけどね」
少しだけ翳った表情に、むっとして。
―――ああどうして、
自分の持ってきて、自分で開けたお菓子を口に放り込む。
―――こういう人間がいるんだろう。
 甘くてすぐ溶けたそれは、まるで自分のようだと思った。



20151116

***

Berry Berry Berry 

 「えっていうか実際何処が良いの? お金くれるしよしよししてくれるから? でも涼暮くんってそーいうのあんま不自由してなくない? よしよししてもらうのもチョーニガテそうだし。それにえっと、なんだっけ? ああそう、ほら、一年の。あのちょっと小さい子、いるじゃん。あの子と従弟なんでしょ? 涼暮くん、下井の家と関係あるってそれ、もう殆ど人生保証されたようなもんじゃん。今更お金がどうとかでもないんでしょ? ああー副部長もしてみたいなお金がどうでも良い! みたいな台詞吐ける生活! そいでもって一回部長のほっぺたを諭吉でぺしーんって!」
「………副部長は本当に、何でも知っているんですね」
「いやあ何でもなんて!」
知ってるかもだけどね! と言う文芸部副部長はやはり今日も部長からお菓子を巻き上げては幸せそうに笑っている。いつもの光景だ。平和だなあ、とお菓子を一つ貰った涼暮は原稿に戻ろうとして、
「で、結局何で理事長なの?」
最初の質問に引き戻された。
 下井の家のことは別に隠しているつもりもないし、そもそも自分の人間性から遠巻きにされるタイプだからあまりそういうことは気にならなかったし、此処に反応らしき反応をするのは、そうなんですかへえ、なんてぼんやりしたことを言う鹿田くらいしかいないし。
「何で、って言われましても」
「えっ涼暮くん恋に落ちるのに理由は必要ないとか言っちゃうタイプ?」
「いえ、あの、」
「それじゃあ理由あるんだ?」
「そう言われると、」
「ん? え? どっち?」
「どっちでも良いじゃないですか…」
「やだよ気になるもん!」
「気にならないでください…」
お菓子あげますから、と言えば簡単にその小さい嵐みたいな人はわーいと声を上げ、それにありついてそれ以上の追求はやめてくれた。お菓子の分だからね、お菓子、と言われて忘れるまで何かしら用意しておくべきだなあ、と思う。
 思う、傍らで。
「………」
「………」
奇怪な格好をした部長と目が合って、そういえばこの二人は夏休みになんやかんやあってくっついたんだよなあ、、部長の方は押し負けたのだろうけれども、それは聞かなくても分かるけれども、副部長の方の理由はなんだったんだろう、と。
 それこそ聞いてみたかったけれど(別に部長が愛されるべき人間ではないという訳ではない)(よく奇っ怪な格好はしているけれど)(面倒見は良い方だと思うし)、自分がたった今お菓子の犠牲をもってして封殺した質問が息を吹き返すのも困るので(だって分からないのだから)、ただ黙っていた。上原が何かいいたそうに固まっていたからお前も食べる? と問うたらそういうことじゃないです、と返された。
 先輩も後輩も、よく分からない。

***

20190117