図書室の魔王さま 

 榎木結仁(ゆに)というのはとてつもなく間の悪い人間であると自覚している。でなければ同級生の、一年生の半ば頃には図書室の主だなんて呼ばれていた同級生の、後輩からハーフ説さえ出ている同級生の、そのカラーコンタクトレンズが落ちる瞬間に出くわすなんてことはなかっただろう。
 最初、涙かと思ったのだ。そこで見るのはやめておけば良かったのに、と榎木は今でもそう思う。どうしても必要な本があって図書館に足を運んだその先で、やはり彼はいつものように其処にいた。
「榎木」
足音で気付いたと言わんばかりの速度で彼はゆるりと首を擡げる。
「今日は、何」
「新しく本が入ったって聞いて」
「それならいつもの棚。青い本なら向かって右、緑の本なら左」
「…左の方」
「そう。よく分からなかったけど面白かったよ」
既に読破済みらしい。
 何でも良いというのは悪癖ではないのか、と思うが、それでも何処に何の本があると探す手間が省けるのはとても助かることなので特に榎木は何も言わない。そもそも言う勇気など何処にもない。
「そういえば榎木の後輩とこの間一緒になったじゃん」
緑の本を手にとったところで、涼暮が声を発した。もう目線は本に落ちている。
「…ああ、妻鹿さん」
「上から下まで見られたと思ったらハウアーユー? とか聞くから思わず笑うところだった」
「…笑わなくて良かったね」
そんなふうに返すのは一つ、榎木が涼暮の笑顔を見たことがあるからだ。
 壊滅的だった。
 もっとこう、小さく微笑めば良いものを、どうやったらそうなるのかという程に壊滅的で、国籍の分からない見た目も相まって何処かの絵本に出て来る魔王かラスボスのような顔になるのだ。それが原因で結局、呼び捨てにすることが憚られてくん付け≠ノ留まっているところもあるのだが。
「でもあれは、I’m fine. and you?≠ニか返した涼暮くんも同罪だと思う…」
「中学生英語でしょ」
「あれではしゃいじゃって、妻鹿さんの中で涼暮くん英語圏の人決定になってるから」
「えー…発音も綺麗なものじゃなかっただろうに」
なんでかなあ、という彼は頑なにその染髪とカラーコンタクトレンズを止めようとはしない。ただの愉快犯なのか、していたい理由があるのか―――それは知らないけれども。
「喋れば、良いのに」
「面倒くさい」
と言うのは、一重に榎木との会話が面倒ではないのか、それとも面倒にすらならないとでも思われているのか。
「…結仁と喋るのは、」
 本から上がる顔。何故突然に名前を、しかも下の名前を呼び捨てにするのか。榎木は何となくその答えを知っているが、やはり特に突っ込むことはしない。それほどの勇気はない。
「たのしい、から、だよ」
その笑みに、やっぱり自分はとてつもなく間の悪い人間なのだと、榎木はまたそう強く思った。
 あいも変わらず、図書館の主の笑みは壊滅的だった。



20150928

***

星の王子さま 

「あとフランス人説も出てる」
「えっ、なんで」
「星の王子さまの原書読んでたって」
「ああー…あれ読んでたっていうよりも、日本語訳思い浮かべてただけだから、ちょっと違うな…」
「(そういう問題じゃない気がする)」

***

あたたかな腕の中で至上最低の睦言をあげる 

 根古紗霧(ねふるさきり)の自分の机に肘を付きながら、なあ、と呼び掛けた。その呼び掛けた先は根古の視界に入ってはいないのだけれども、いるのは分かっているので返事が来るのを待つ。
「………なーに、しゃむにゃん」
「前から思ってたけどそれ、何」
オレの名前さきりなんだけど、と続ければでも初見しゃむって読むじゃん、と返される。否定はしない、が。
 床に転がってるクラスメイトがね? と腕を上げた。だるっとしたカーディガン。確か今季の初めに買ったと言っていたはずなのに、ずっと着ている所為でもう一年以上着古したように見えるのは、こうして床に転がっていろいろと作業しているからなのだろう。
「佐竹」
「だからなーに」
「お前さ、起き上がらないの」
「もうちょっとで書き終わるから」
「机の上で書けば良いじゃん」
「床の方が良いアイディア出るもん」
それにいっつも掃除、ちゃんとしてあるし。
 その言葉通りに確かに床はぴかぴかだった。ホコリ一つ―――とまではいかないけれども、定期的に掃除の人も見かける。このそれなりに大きな学園で掃除担当の人がいて、今更ながらとんでもない高校に入ってしまったのでは、と思うことがない訳ではないが。
「床ってねえ」
折角机があるのに、と。佐竹の机は根古の隣で、其処にはちゃんと、作業のしやすいだろう椅子だってあるのに。それでも佐竹は床の方を選ぶのだ。
「良いじゃん、床。別に何処で考えようが最高のシナリオが出来たら良いでしょ」
結果論だよ結果論、と佐竹は言う。
「理事長だってよく朝会で言うじゃん。努力は大切だが世間は結果しか認めないって。俺、その通りだと思うんだよね。だから形式守ってる暇あったら自分の好きなようにした方が良いし、それで結果出せるなら万々歳じゃん。成功じゃん。成功だけがすべてじゃないっては思ってるけどさ、やっぱやるからには成功させたいし。俺ンとこ同好会だけど、部長に良い思いして欲しいし」
顔の見えないまま紡がれた言葉に、根古は目を見開いた。
 あの、佐竹が。
 そんなことを言うとは思っていなかった。ただだらしないと思っていた自分が途端に恥ずかしい生き物のように思えて来て、顔を覆う。
「………どうしよ、何かすごく今唐突に、佐竹に貶されたくなった」
「えっなに、さっきーってMッ気あったの」
「そうじゃなくて! っていうかさっきーって何」
「さっきーはさっきーだよ。さきりなんでしょ、名前」
「そうだけど、さっきと違うじゃん」
「分かればいいじゃん。で、Mッ気あったの」
「いやだからそうじゃないけど、なんか………佐竹ならいいかもって」
スカッとしそう、と続ければそういうモンかなぁ、と返って来る。贖罪のようなものだった、同じクラスになって隣の席になって、それで見てくれだけでどんな人間か判断して。
 そんなのは自己満足だと言うのに。
 そんならさ、と指の隙間からまた上げられた片手が見えた。いや、今度は両手だ。
「おいでよコネコちゃん」
「聞くまでもないけどそれオレのこと?」
「そーだよ、ほら、佐竹クンの腕の中にいらっしゃーい」
そしたらおねがいきいたげる。
 甘言だった、ただの戯れだった。けれどもそんなことを言われてしまえば。
「………はいはい、行ったげるよ」
「ヘーイ」
がたがた、と椅子を引きずる音がする。立ち上がった視界に、今まで机が邪魔で映らなかったものが目に入る。
「おいで、紗霧」
膝をついて、伸ばされた手の中で丸まるなんて。
 ああ、本当に猫みたいだ、なんて思った。



20150929

***

カフェオレタイム 

 涼暮洋(すずくれよう)にはとりわけ大事なものなんてなかった。
「君は最初の頃に比べると、とても素直になったね」
「そう見せてるだけですよ、理事長」
人間は慣れる生き物なんですよ、と返す顔が引き攣ることなんてないはずだ。
 今のこの状況が可笑しいことは知っている。それを言ったらそもそもこれは涼暮に限ったことではないのだし、この人の―――この学園の理事長の趣味のようなものだし、何処までも本気ではないのだし。もっと言ってしまえばこの学園だって可笑しくて、理事長の趣味でやっているようなものとまでさえ思う程自由なのだから、そう思えばこの可笑しさなんて当たり前のものとまで感じて来る。
「………前から、思ってたんですけど、」
「何?」
「重くないんですか」
「特に」
全体重を掛けているのに。盛大に舌打ちをして見せたのは、それが許されると知っているからだった。
 理事長の膝の上。
 それが今、涼暮のいる場所である。
 手を理事長の首に回して、図書室に入れてほしい本のリストを片手に耳元でオネダリ≠する。さっき言ったように慣れるほどやった、もう殆ど月一恒例の行事。
―――僕の膝にのって首に手回してお強請りできたらいいよ。
最初に言われた時は何を言うのだと思った。図書室の本を読み尽くしてしまって、読み返すのも何だか違って、でも自分では手に入れられるにも限度があって。そんな時に聞いたのは理事長に直接嘆願する、という方法。言っていたのはいつも図書室のカウンター内で唸っている自身の属する部長だったのだと思う。榎木が言ったのであればきっと、覚えていただろうから。
 「しかし、」
そんな思考は耳元でした声に引き戻された。
「君は、カラコンを付けない方が良いと思うのになあ」
「………俺、アンタの懐の深いところとか、ちょっと変な嗜好持ってるけど生徒のことちゃんと考えてるとことか、それなりにソンケーしてますけど、」
するり、と目の縁を辿っていた指を払い除ける。
「これについて言及してくるとこだけは、大嫌いです」
「染髪については何も言っていないのに?」
「今言ったも同然じゃないですか。それに前、俺の頭触りながら黒髪が好みとかほざきましたよね」
「ああ、あったね」
「…やっぱ嫌いです」
「僕は好きだけどね、涼暮くんのこと」
「も≠ェ抜けてますよ、も≠ェ」
「あはは、そうだね」
「………やっぱ嫌いです」
尚も笑いながら、ぐい、と引き寄せられた。
―――嫌いも三回重なると愛してる≠チて言ってるみたいだよね。
 寄せられた唇がそう震えたのを最後に、はい、と明るい声が響く。
「今回はこれくらいにしてあげる。コーヒー飲んでく?」
「…牛乳あるんですか」
「ミルクでよければ。角砂糖もあるよ」
「じゃあ頂きます」
涼暮が立ち上がると、それを待っていたようにいそいそとコーヒーを入れに行く後ろ姿。
「………ンな訳ねぇだろ…」
 しゃがみこまなかったのは、せめてもの抵抗だった。



20150929

***

ふしぎなことも、あんまりふしぎすぎると、とてもいやとはいえないものです。 

 「君の保護者からこの間電話があってね」
いつものように図書室に入れてほしい本の嘆願をしていた際のことだ。その言葉を認めた瞬間、涼暮の手は整えられた襟首を掴んでいた。
「あの人から連絡なんてあるはずねぇだろ」
自分でもよくこんな低い声が出たものだと思う。腹の底から、絞り出すような。同時に、そんな感情が今まで自身の中で眠っていたことに驚いた。
 この、男といると。その必死で作り上げた薄皮が一枚いちまいはがされていくような心地になる。それは、それは―――危険信号だ。わかっているのに、立ち止まれない。
 くく、と男は笑ってみせた。
「僕は保護者≠ニしか言っていないのだけれど?」
そこではっと気付く。はめられた、そんな言い方をするには涼暮自身があまりにも子供だったのだと、認めるようなものだけれど。
「君は、母親から連絡が来たものと思ったんだろう?」
「違う」
「残念だったね、連絡してきたのは父親の方だ」
「だから違うってんだろ!!」
「じゃあ何故、君は未だ僕の襟を離してはくれないのかな」
転落する、転落する、転落する。世界が終わってうわばみはぞうを飲まなくて、バオバブの木は星を埋めつくさない。
―――ひどい話だと思わない?
逃げちゃだめだよ、と言わんばかりにそっと、その唇は続きを綴る。終わった世界に続きなんかない。そんなものは存在しない、しない。
 の、に。
「…黙れ」
手が震える。理事長に対する、君の望む本を図書室に入荷してあげる僕に対する、やり方ではないよね、と言われる。その通りだ、その通りなのに、この手は震えるだけで男の襟首を掴んだまま。まるで―――まるで。
 縋り付いているみたいだ。
 そんな屈辱的な思考さえ頭に上がる。それでも、手は離せない。
「君は、母親からの連絡を心待ちにしている」
「…だまれ、」
「だから中学まで君を育ててくれた父親の連絡なんて、頭に、」
「黙れって言ってんだろ!!」
なかったんだろう、と言わせたくはなかった。深い意味などない。既に手は襟首を掴むので埋まっていて、もう猶予なんてなくて。だからその手段を選んだだけ。
「…親父は、なんて」
「今のに弁明はないんだね?」
「する必要があるかよ」
やっと震えているだけの手が離れて、その主導権が持ち主へと帰ってくる。だらり、と力の抜けた手が、二人の間に落ちていく。
「君のその容姿についての話だったけど、」
聞くかい? と首を傾げた男に素直に首を振る。
「聞きたくない」
「そう。君ならそう言うと思ったよ」
もう終わりで良いよ、と言われて立ち上がる。コーヒーのお誘いは断る。
「角砂糖もあるのに」
「気分じゃないんで」
「そう、それは残念」
理事長室の重い扉を閉めて、誰もいない廊下で唇を拭う。
 唾液一つ奪えなかったそこはおんなじように柔らかくて、まるで、生きてるみたいだった。
 


出典:星の王子さま



20150929

***

食堂の権利 

 妻鹿康生(めがこうせい)に敵というものは今まで特にいなかったのだけれども、高校一年の春、それは突然まるで嵐のように現れた。
「涼暮先輩!!」
図書室に入って大声を出すなど、司書に見つかれば大目玉かもしれないが、この時間司書が図書室にいないことはリサーチ済みである。妻鹿は一応これでも用意周到な性格だった。だから、間違うことなんてない。
 だけれども、と思う。
 この人の存在だけは、あまりに予想外だった。
「おれだって! おれだって榎木先輩と一緒にいたいです!!」
返ってくるのはいれば? と言わんばかりの表情だ。
 国籍不明、でもその名前があまりに日本人じみているから、ハーフなのではないかと一年の間ではまことしやかにささやかれている、図書室の主。それを相手取るなど、無謀になったものだな、と正直思う。でも、でも。これは引けない戦いなのだ、妻鹿は自分にそう言い聞かせる。
 びしぃ!
 指した指がかっこよく決まったなあ、なんて思いながら特に表情の変わらないその人に宣戦布告をする。
「おれは、おれは榎木先輩といたいのに! あんたがずっと榎木先輩の横にいるから! ごはんだって一緒にいたいのに! おれ、榎木先輩のためなら理事長の膝の上だってなんのそのなのに!! あんたがいるから榎木先輩おれのとこに来てくれないし、おれと一緒にごはん食べてくれないし、一緒に帰ってくれないし…それは、おれがふがいないせいかもだけど! でもちょっとくらいあんたのせいにしたいんですよ! だっておれ、まだ十六歳ですもん! いや誕生日来てないからまだ十五だった! だからちょっとくらい、おれにハンデくれたっていいじゃないですか! おれは! おれは! 榎木先輩と一緒にいたいんですよ! だから、その、えっと………が、がんばりますから! 覚悟、しといてくださいね!!」
言うだけ言った! とばかりに駆け出す。もう何も怖くないような気さえした。
 明日はきっと、あの二人の間に割って入って昼食を食べることだって出来るだろう。



 「…だってよ? 榎木」
くすくすと笑いながら涼暮は振り返る。
「あんな熱烈ラブコール受けちゃって、どうする?」
しかも結局俺の悪口なんてひとつも言ってかなかったいい子だし、と付け足せば、涼暮の影に隠れていた同級生は耳まで真っ赤にして、もう、とつぶやいた。
「ほんと、なんで妻鹿さんって二次元ロリじゃないの…」



20150929

***

白紙日和 

 佐竹豊(さたけみのる)は現在進行形で泣きそうだった。
「なんで…」
ついでに言うと頭も抱えたかった。
 図書室の隅。目の前には大きなコピー機。TRPG同好会の佐竹にとって、かなりの頻度でお世話になるものである。ある意味相棒と言っても良いだろう。
 その相棒は今、うんともすんとも言わなくなっていた。勿論相手は機械であるので機嫌が悪い訳ではない。
「なんで止まっちゃうの!」
紙が詰まったのかその他の理由なのか―――ピーッという警告音めいたものを遺して、相棒は絶賛稼働を中止中なのである。
 正直なところ、これが初めてではない。いつもならばうんうん唸っていれば見かねた司書が助けてくれるのだが、今日はちょうど職員会議があって、司書もそれに出席しているはずだった。つまり、佐竹を助けてくれる人は今此処にはいない。
 大ピンチ。
 佐竹の頭にその言葉だけが通り過ぎる。
 どうにも佐竹は機械の扱いが苦手だった。打ち込みくらいは出来るものの、スカイプだってラインだって、もっと言うならばスマートフォンについていけなくてこの時代に未だガラパゴス携帯常備である。一応メイン機はスマートフォンであるので、二台持ちと誤解されることもあるが。いや、別に誤解でもなんでもないのだけれども。物持ちが良いと褒めて欲しい。
 と、そんな現実逃避をしながら司書が会議から戻ってくるのを待とうとその場に座り込もうとした時、。
「………?」
佐竹の上に、影が掛かった。
 見上げると、一瞬その色素の薄さに目を奪われる。それからすぐに、噂の図書館の主だと気付いた。国籍不明の同級生、確か名前は涼暮。
「えっと…涼暮くん?」
こくり、と頷かれる。他の生徒と交流を持たないことで有名な彼が、佐竹に何の用だろうか、と考えてからはっとする。
「ごめん、煩かったよね。司書のセンセー来ればどうにかなると思うから…」
今度は首が横に振られた。
「え、じゃあもしかして涼暮くんもコピー機使いたかった…? ごめん、俺、今なんか詰まらしたか何かしたみたいで、ちょっと使えないかも」
またも振られる首。
 そして、本を片手に持ったまま、涼暮はおもむろにコピー機の横を開け始めた。
「うわあああ!? 涼暮くん、何するの!? 直せるの!? 直し方知ってるの!?」
横。
「えええ!? じゃあやめよ!?」
さすがの佐竹も真顔になる。
 止めようとするけれども、今日初めて顔を合わせたような同級生相手に何処までしていいか分からず、その周りをぐるぐると回るだけに留まる。機械の中に突っ込まれている手を掴んで引きずり出す訳にもいかないし、本を持っている方の手を掴んだら掴んだで彼は怒りそうだ。
「むり、無理だって先生呼ぼ? 壊したらこれいくらすると思ってんだよ無理だって」
「………理事長」
「膝に乗っても多分さすがにこれは…」
横。
 その瞬間に呆れに似た表情が浮かんだのを佐竹は見逃さなかった。あれ、と思う。この図書室の蔵書は涼暮のリクエストで増えているというのは周知の事実で、それはつまり、彼も理事長にあの方法で嘆願に行っているということで。
 それに、呆れ?
 いや確かに、呆れる人種というのはいるだろうけれども、と思う。思うけれども、今のは何かが違った。違ったけれども、一瞬すぎて判別が付かない。もう一度理事長の話題を振れば分かるだろうか。佐竹が口を開こうとした瞬間。
 ピー。ガシャン。
 今まで黙りこくっていたコピー機が動いた。
「えええ、直った!?」
今度は縦。
「すごい、すごいよ涼暮くん、ありがとう!!」
止まっていた印刷が再開される。ぱちぱち、と拍手をおくると、涼暮はひとつ頷いて、持ったままだった本を読みながら定位置に帰っていく。
 一言で今の感情を表すなら感動、だった。
 だから一瞬のうちに過ぎ去ったあの表情については、今だけは忘れておくことにした。



20151001

***

嘘も百回吐いたら 

 橘明音(たちばなあかね)は罠に嵌るのがそう嫌いではなかった。
 まるでそれは心理戦のようだし、打ち負かしてやったときの爽快感はたまらないし、打ち負かしたら打ち負かしたでちゃんと橘に利益もあるのだから一石二鳥というやつだ。だから自分より二回りも下の高校生たちがそういうものを己に仕掛けようとしてきた時には快く嵌ってやるのが常であったし、それで今まで負けたことなどなかった。ついでに言うと高校生の心を折るような真似もしていないのだから上出来と言えよう。
 だが、しかし。
 これは流石に失敗した、と言わざるを得なかった。確かにこの二人が例え一方的だろうと友人関係を築いているのは知っていたが、まさか面白いから―――そんな理由でこんな形で、嵌められるとは思っていなかったのだ。
 けれども結構橘はそれに乗ってやることにした。急いで立ち上がって去ろうとする背中を追い掛けて肩に手を置く。考える、との言葉を送ると返ってきたのは涙目だった。そこまでするか、と思いつつこれからどうしようか、と閉まった扉をのこちら側、完全に取り残されているもう一人を見遣った。
 怒っていた。
 それはそうだろうな、と思う。認めたくはないがこの生徒は事もあろうに己に懸想しているようなのである。そしてそれを誤魔化すような言葉で打ち消した過去があったにも関わらず、今のこれだ。怒るのも無理ないだろう。
 がっと襟首が掴まれる。そう来るよなぁ、と思いながら僕は理事長だよ、と小さく言ってみる。今までもこうした無礼は許して来たけれど、流石に殴られでもしたら相応の処罰を下さなくてはいけない。彼であったら一ヶ月のおねだり差し止めで充分だろうか―――とそんなことを考えていると、薄い唇が戦慄いた。
「…した、」
「何?」
「佐竹に何した!!」
 あれ、と思った。
「泣い、泣いて…何したんだよ! あいつが無茶な要望出す訳ないだろ! なん…ッ、」
「そっちが先なんだねえ」
思わず言葉にしてしまう。
 へ、と驚いたような表情が走って、それから意味を理解したのか、今度は怒りとは違った朱色が巡っていく。こんなのを可愛らしいなどと思うのだから、結局結末は決まっているのかもしれなかった。
「ッ、くそッ、きらいだ! アンタなんかきらいだ! だいきらいだ!!」
捨て台詞だけ置いて襟首から手が離れていく。踵を返して重い扉に体当たりする様を眺めながら頬を掻く。
「前にも言ったけど…」
その先は多分、届いていなかった。
 彼はきっと、友人を、自分を陥れた友人を慰めにでもいくつもりなのだろう。



「あ、こっちきちゃったんだ? はいしゃむにゃん、看板頂戴」
「ドッキリ大成功〜」
「………はあああ?」



20151001

***

green-eyed monster 

 カンセツチュー。
 その言葉の意味が分からなかった訳ではない。こんなナリをしていて国籍不明だなんて言われても、俺はそもそもれっきとした日本人であり、それに本をこんなにもたくさん読んでいるのだ。人よりも語彙力はある方だと思っている。いや、そんな話がしたいんじゃない。
 カンセツチュー。
 それは、つまり。あの男が、佐竹に。
 そう思ったらまず湧いてきたのはなんで、という言葉だった。勿論口にはしないが。どうして、人には弁明まで求めたくせに、佐竹にはなんの躊躇いもなくそれをするのか。そんなの、そんなのは―――と、そこまで考えて思考に待ったをかけた部分があった。
 今。
 俺は何故、こんなに今、ざわついているのだろう。誤魔化すような言葉を覆されたから? 良い大人がその立場を利用して、生徒に手を出したから?
―――違うだろ。
今まで見過ごしてきた部分が顔を出す。
―――それは、
「………さたけ、」
「なーに」
一つ聞いて良い、と俯向く。
「俺は、あの男が、すき、なのか?」
返ってきたのはさあね、という言葉だった。
「俺は涼暮くんじゃないからそんなのしんねーよ」
「…うん」
 ぼうしかうわばみか、箱の中にひつじはいるか。それと一緒だ。
「…分かった」
「良かったね?」
「あとお前は馬鹿だから一発殴らせろ」
「やーだよ!」
駆け出した佐竹を追いかける。読みかけの本はそのまま抱えて。
 解えは、もらったようなものだった。



20151001

***

ピンチはチャンス 

 言ってしまえばタイミングは最悪だった。あのあとでどんな顔を合わせたらいいのかと毎日悶々としていた。あれもこれも愉快犯の所為にしてしまえばそれで良いのかもしれなかったが―――あれでも一応応援してだとかそういう意図も≠ったのだということは涼暮とて一応理解している。
 だから、これは好機なのだ。
 薄々いいように使われていることは知っていたし、そもそも涼暮だって彼をいいように使っているのだ。はじめての、ともだち。その認識で彼にどれだけ甘えたか。
 それなら。
 これくらい、と思う。奪って来た紙を握りしめる。コンコン、と扉を叩く音が久々な気がした。骨の部分が痛い気がする。そんなに力を入れただろうか。
「涼暮です」
「どうぞ」
揺れた自分の声に対し、向こうの声は一ミリたりとも揺れなかった。これが大人だとでも言うのだろうか。狡い。
「いつもの話かい?」
「ええ」
なんてことない、いつも通り。なんだ、やれば出来るじゃないか、と思う。
「この本が欲しいんですけど」
 全体重を膝の上に、煩い心臓を落ち着かせて仏頂面を作る。ばれていたって良い、今はそういう意思を見せることがきっと、重要だったから。
「…これは君の趣味じゃあないよね」
「そうですか?」
しらばっくれてみる。アンタを見てたからだ、こんなことまで出来るようになってしまった。要るんだろうが、順番が多分、違う。
「何と言ったかな、プログラミング部の…彼、かな?」
「…本当にアンタに隠し事って出来ませんね」
「君の欲しい本なら兎も角、人に頼まれごとをされるのはよろしくないな」
片眉がつり上がったのを感じた。自分でもよくそんな器用なことが出来たな、と思う。
 もしも本当にそうなら、彼の後輩がいつも嘆願に来るのは撥ね付けられていなければいけない。
「べつに、いいでしょう」
頭を凭れさせる。
 この状況を存分に有効活用してやると、そう決めたのはいつだったか。それで自分がどれだけ虚しくなるかも知らないで。
―――馬鹿はお前だ。
分かっている。
「俺だって、ともだちと共通の話題を持ちたいっていう、ふつうの感覚くらい、持ってるんですよ」
それがアンタの願いだろう、と言外に言ってやればため息を吐かれた。
 了承の合図。
 膝の上から降りる。
「…君、は」
「はい」
「強かになったね」
 誰の所為だとは言わないでおいた。



20151001

***

20190117