百合のない部屋 広鴎

 特に用もないのに部屋に呼び出されることは決して少なくはない。それを何故と聞くほど広津は愚かではなかったがしかし、エリスも静かにしている中での特に用も意味もない世間話というのは苦痛ではないが不思議ではあった。一介の構成員である広津に首領である森が今更何を仕掛けることもないだろうし、それは長いあいだ広津を使って(飼って)来た森が一番よく分かっているだろう。
 けれども、今日も他愛のない話は続く。
「広津さん」
甘えるように森は言う。
「君は私が百年待てと言ったら律儀に待っていてくれるのかな」
丸まった背中、組まれた指の一つひとつまでに隙間なく広津とは違ったものが流れている。それが彼を彼足らしめていることを、ポートマフィアの首領足らしめていることを知ってはいるが、毎度のこと認識しては胸の詰まる思いになる。
「…首領が、それをお望みであるのならば」
「ふふ、私は君のその私にも組織にも忠実で懐の深いところが気に入っているけれどね。それはそれとして、出来ないことは出来ないって言わなくちゃだめだよ、広津さん」
「出来ないことと思って言われるとは、首領もご趣味が悪い」
「そうかもね」
だって、と森は笑う。薄っぺらいその笑みはいつだってその顔の表面に張り付いているようなもので、広津は彼の本当の笑みというものが存在するかも知らない。
「広津さんは嘘でも頷いてくれるって知ってたから」
私はそれが聞きたかったんだよ、と言う森と、後ろからじっと黙ってそれを見つめているエリスに広津はため息を吐くことさえ儘ならないのだ。



どっちみち 百年たてば 誰もいない あたしもあなたも あのひとも(江國香識「すみれの花の砂糖づけ」)

***

夏のある町 梶中

*過去捏造

 嘘みたいな話だと言われればそうかもしれなかった。中原中也に生まれ故郷はない。家族はいない。裏の世界にいる人間、大抵がそうであった。甘ったるいことを言うつもりはなかったが中原にとっては此処が家族だと、言えなくもないことは分かっていた。仕事場で、けれどもそこ以外を知らないのなら。きっと一般人にとってはそういうものなのだろうと。
 中原にとってそんなことを言うべき一般人は存在しなかったのだけれど。
 だから油断していたという訳でもない。自分の酒癖の悪さは知っているし、その程度で情報を―――中原にとってはそれは情報だった―――漏らすなんて真似をするはずがないのだ。だから聞いている梶井も恐らく話半分で聞いているはずだ。そういうふうに育てた、否、躾けた。拾った犬のような梶井を前に、酒を一滴も飲まない梶井を前に、中原は口元を緩ませる。
「小せえ頃さ、あれ夏だったと思うんだけど。とんでもなく暑い日でさ、遠くの景色がぼうっとしてて。そん時思ったんだよな、ああ世界が終わるって」
「世界の終わりですか、なかなかロマンチックなことを考えますね」
「ただでも世界が終わる訳ねえってのも分かってて、それで俺は失望したんだよな」
「へえ」
「でもさ、あん時ほど―――生きてる、って思ったこともねえんだよ」
「それはそれは」
「だからこんなとこに来ちまったのかな」
そう語る中原のことを梶井はジッと見つめていた。何だよ、と言えばいえ、今日はよく喋るのだな、と思って、と返される。何処か慇懃無礼なこの部下のことを咎めるのはもう止めていた。元々中原はそういうものを求めていた訳ではないから。
「何でだろうな」
笑ってみせる。薬でも盛ったか、と冗談を言えば貴方に毒をやれる人間などそういないでしょう、と返された。
 いや、これなら分からねえぜ、と唇を合わせたら、燃えるような夏の香りがした。



出典「少年時代」中原中也

***

枷の枷の枷 梶中+広鴎

 黒蜥蜴の百人長、広津柳浪に息子がおり、その息子が同じくポートマフィアで構成員をしていることは実のところあまり知られていない。裏方であるし鉄砲玉にも成り得ない、広津が言うのも何だがどうしてポートマフィアなんかに残っているのかと思うほどだった。別にポートマフィアは辞めることの出来ない組織ではない。勿論難しくないとは言わないが。
「君の息子は君ほど役には立たないね」
ある日、広津は首領である森にそう言われた。その通りだったのではい、と答える。
「けれどもあれは裏切らない。そういうふうに育てました」
「へえ。でも広津さんのことだから組織に対する忠誠を説いた訳じゃないよね」
だって広津さんは組織に忠誠を誓ってくれているけれども、それを誰かに強要するようなことはしないものね、とまるでお見通しの顔をして森は言う。
「その通りです」
「ふふ、やっぱり。何て教えたの?」
「―――友人は大切にするものだと」
 それだけで森は解答に辿り着いたようだった。
「梶井くんが彼の枷になると?」
科学班の男は広津の息子の友人だった。ええ、と広津は頷く。
「あいつは此処から出られない」
もしも科学班の彼がただの構成員であれば、広津の息子は彼と手を取り合って逃げることも出来たかもしれない。けれども、森も彼がなるほどそういう信念なのであれば仕方がない、と思っているようだった。
「彼の明るさが何の上に成り立っているものなのか知っているあいつは、此処を気に入っている彼を此処に残しては何処にも行けませんよ」
 その言葉に親子だね、と言われたので、そうかもしれませんね、と曖昧な答えと笑みを返すしかなかった。

***

いつか来る終末にて 乱エド

*スワロウテイルパロ

 いろいろな―――本当にいろいろなことがあって今この日本という国は男女が分け隔てられて生活している。人工知能(コンピュータ)の反乱、終末予言(エンケラドウス・レポート)、〈種のアポトーシス〉と呼ばれる主に性交渉にて感染速度と症状の進行を速める、因果が逆転したような病。発症すれば徐々に身体が若返っていき、悪ければそのまま胚にまで退行してしまう。良ければ身体の成長と釣り合いが取れるだとかで何処かでいい感じに止まる。その辺りはたった今現場に到着した私設自警団(プリ・イエロー)の一員である江戸川乱歩には関係のない話だった。乱歩は名探偵であるので上司がやっとの思いでもぎ取ってきた十五分で実のところ充分だった。
「で、今回もあの人工妖精(フィギュア)を呼んだの?」
「ああ」
上司は重々しく頷いた。
「何でさ! 僕だけでも何とか出来るよ!」
「材料は多い方が良い。十五分しかないのだから」
「だって! でもさ!」
「いつも通り解決出来れば褒めてやる。だからちゃんと協力し合え」
「! そこまで言われちゃ仕方ないなあ〜!」
 人工妖精とは、この国が真っ二つになることを決めた時に生まれた、第三の性(サード・セックス)≠ナある。人間とまるで同じような貌(かたち)をした彼・彼女たちは子は成せないが生殖行為は可能であるし、新たなる人間の伴侶として世間に広く受け入れられている。唯一の外見上の違いである放熱器を兼ねた羽はいつも隠されていることだし(人工妖精にとって羽を見られることはとてつもなく恥ずかしいことらしい)、普通の人間にとっては他の人間とそう変わらない。人間だって様々な治療を施して若い身体を保っているものが多いため、人工妖精の若い見た目は自然に紛れていく。乱歩もまた、人工妖精に対して悪い感情を持っている訳ではない。彼らにも感情があることを乱歩は知っているし、人間なんかと比べたら犯罪率も可笑しなことをすることも少ない。彼らには五原則なるものがあり、そのどれかを逸脱しない限り彼らは狂う≠アとがない。人間のようによく分からないスイッチで犯罪に手を染めたりすることはない。五原則というのははるか昔のロボット三原則を可能な限り≠ニ書き換えたものにプラスして、情緒二原則と呼ばれる第四、第五がある。第四原則というのは人工妖精の製作者の任意の元設定されるが、第五原則はその第四原則を他者に知られてはならないことである。
 さて、話がズレたがその人工妖精が現れたのは数週間前だった。
「乱歩くん!」
彼が男性を模した人工妖精であることは見て分かった。こちらは男性側居住区のため、男性の姿をした人工妖精というのは珍しい。いない訳ではないが、やはり男性の伴侶には女性の姿をした人工妖精が多いし、男性の伴侶には逆、だ。感染を広げないためにも双方の居住区を行き来するには相応の立場が必要なのであるが、どうやらこの人工妖精はそれを持っているらしかった。
 彼が言うことには彼が女性側居住区にて生活していたところに、流浪の乱歩がやって来てさっさと事件を解決してしまったというのである。ああそんなこともあったな、と思い出したがその時乱歩は話を聞くだけで何も言わなかった。乱歩の推理力は向こうでも必要とされることが多く、女性側居住区にも行ったことがある。その中に一人、確かに自分に匹敵するほどの頭脳を持ち得る人工妖精がいたと思い出すことは容易だった。
「わ、吾輩はエドガー・アラン・ポオである!」
「で?」
「君に推理勝負を挑みに来た!」
「僕に利益がない。つまらない。十点減点」
「うっ…」
そんなやり取りを数度繰り返したあと、流石に可哀想だと思ったのか上司と同僚の仲介あって、今の準協力関係に落ち着いている。
 科学の発展により、ゴミはすぐに蝶の形をした微細機械(マイクロマシン)に変わり果てる。同じ蝶が共食いをするように要らなくなったものと判断したら、分解しようと寄ってくるのが常であった。乱歩も外で菓子を食べる時は注意している。少しでも放っておくとすぐにこの蝶たちは寄ってくるのだ。油断も隙もあったもんじゃない。
 今回の犯人―――人工妖精もそうであった。
 伴侶ではない男とラブホテルじみた健康施設に入った、日傘を差した人工妖精。傘持ち(アンブレラ)≠ニ呼ばれ指名手配とされているその人工妖精は、結果的に言えば乱歩は初めて目にしたのではない、ということになる。けれども乱歩は残っていた映像を見る限り、彼女を見るのはやはり初めてだと思うのだ。乱歩にとってはポオの仕事は自分の推理を裏付けるものでしかなかった。
 ポオにはその場の人工妖精の残滓を集める能力があった。微細機械をかき集め、その分解される前の情報を呼び出して再構築する。それを自分の手に憑依(トランス)させて、言わば死人に喋らせるのだ。乱歩なんかはその仕組みも何もかも説明することは出来るが、一般人にとってはそれが理解出来ない魔法のような代物に見えるらしい。けれども、乱歩の道筋の見えない推理よりもその不可解な魔法じみたものの方が信用出来るのだと。
 馬鹿馬鹿しい。
 イエローの面々は乱歩の能力を信用し信頼しているが、その他の組織、特に上は良い顔をしないのだと、それが分かっていたから大人しくしているようなものだった。
 いつも通りにポオが憑依を始め、その手がガリガリと何かを書き始める。それは残された情報の断片、いつだってつなぎ合わせることで成り立つもの。それを見ていて、あ、違う、と乱歩は思った。
「君、」
呼び掛ける。
「やめなよ」
 憑依状態の彼の手を無理矢理にペンから引き離すように同僚に言うと、彼らは急いでポオを止めに入った。
『しんだ。しんだ。しんだ。しんだ。ころした。わたし。わたし。ころした。あのひと。いちにちそう。いちにちそう。わたしがころした。わたしが。わたしが。わたしが? あくあのーと。あくあのーと。あくあのーと。あくあ。あくあ。あくあのーとああああああああああああああああああ』
最早言葉になっていないものの数々。これはだめだ、と思う。サルベージは失敗だ、元々壊れていたのかもしれない、とさえ思う。
「アクアノート…」
その言葉には覚えがあるなんてものではなかった。
 此処最近続いている猟奇殺人事件。その犯人は皆一様にそう名乗っていたのだ。すぐに彼らは乱歩(とポオ)によって追い詰められ、ポオが自身の権限でもってして彼らを切除(ころ)した。人に作られた人工妖精は人を害してはならない、それを守れない個体であれば狂うのも時間の問題、だから切除せねばならないのだと、ポオはたどたどしく言っていた。それに関しては乱歩は何も言わない。人間が人工妖精を無為に消費すればきっと保護団体が黙ってはいないが、人工妖精が人工妖精を消費する分には何も言われないのが世の中だ。まあ、世間に公表する訳にもいかないので人工妖精が狂った°搭蛯ノ自死した、と言ってはいるが。
 約束の十五分が過ぎてしまい、そのままイエローとポオは外に締め出された。
「乱歩くん、被害者の状態はどんなだったのであるか?」
「全身重度のやけど。肌なんか残っちゃいなかった」
「うむ。例に漏れずであるな」
「でも、これは死後のもの。死因は普通にショック死。外傷性の」
「外傷? 珍しいのであるな。凶器は?」
「やすり」
「は?」
ぽかーん、と。そんな音が似合う。
「正確には耐水ペーパー。水に濡らして使う紙やすりね」
「ああ、なるほど…って何でそんなもので人が死ぬのであるか」
「あのねえ、君、あそこがどんな建物か知らないで来た訳じゃないよね?」
「所謂一種のラブホテ…ル…」
まさか、とポオが青褪める。
「そ、そういうこと。紙やすりで陰茎を包んで、こう。すごかったよ、おぼろ昆布より酷かったし、現場にあったの血だけじゃなかったし、諸々で汚れたやすりの切れ端が蝶に食い尽くされないで残ってたんだけど控えめに言って惨状って感じだった」
「い、痛くないのであるか?」
「僕が知る訳ないでしょ。でも、勃起してないとああいう状態にはならないだろうね」
ああああそれ以上聞きたくないとばかりにポオは耳を覆った。その様子があまりにも事件を解決しようと言うものの態度には見えなくて、乱歩は眉を顰める。
「人間は、皆、そんな性的倒錯に走るのであるか…?」
「………君、独身なの心配してるならさっさと女性側居住区に帰ったら?」
人工妖精は三歳を過ぎれば行き遅れとされる。既にポオは四歳と聞いていた。既に一年オーバーだ。
「べべべべつに、そういう訳じゃあないのである!」
「そう。ていうか君、憑依中に向こうに何か言ったでしょ。例えば―――そうだね、海の魔女(アクアノート)は自分だ=Aとか?」
「…何でもお見通しなのであるな」
「情報は疑問を持っていたようだったしね」
―――わたしが?
幼い疑問のような、唯一のズレ。
「傘持ち事件もまた振り出しかな」
「もしかしたら新種の精神汚染系かもしれないのである」
「…君、なんかそういう本読んだの?」
「今書いてるのである!」
「そう」
それは楽しみだね、と言うと面白いほどにポオは頬を上気させた。そして、それから少しだけ悩んだように、そっと聞いてきた。
「乱歩くんもそういうのが好みなのであるか?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「まさかと思うけど、紙やすり?」
「それしかないであろう!」
「いや…僕普通に痛いの嫌だし…」
何言ってんのいみわかんない、と言うとポオはあからさまにほっとしてみせた。
「なら良かったのである!」
 何が、と思ったけれども結局乱歩は問うことはしなかった。

***

愛は世界を救わない 広鴎 R18

 その人の中に愛という感情があったことに、広津は半ば強引にベッドへと引きずり込まれる羽目になったときに初めて知った。冷たいものだと思っていた肌はにわかにあたたかく、広津とまったく変わらぬ人間のように思えた。
 お戯れを、と言った時、森はすぐにじゃあ命令だ、と言った。そう言われれば広津が断ることが出来ないと知っての行動だった。首に絶えず手を掛けられているよりなお悪い。首輪に繋がる赤い糸は、誰も持っていてくれはしない。
「広津さんは誰かの犬になるのかな」
じっとりとした汗の中で森は呟いた。
「私は貴方の犬です」
「なら私の命令なら聞くのかい」
「実際に聞いているつもりですが」
「はは、うん、そうだ」
君はそうでなくてはならない、と森は笑う、嗤う、微笑う。そのくるくる変わる表情が愛おしくて、手を伸ばす。
 言葉は赦されていなかった。
「広津さんは、」
譫言のように紡がれる。
「私が殺すんだよ」
だから誰にも殺されてはいけないよ。
 いいね、と森は言った。だから広津がその命令を忠実にこなし続けるのは当然のことなのだ。ただひたすらにまるで捨てられた石のように、広津はただただ歯車の一つに徹するのだ。



次に会う約束がないことももうこの世の終わりと思わなくなる / みずたま

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行き先のない八つ当たり 梶中

*梶井くんのポートマフィア入社時期捏造

 自分が拾われる前にこの組織がどういうものだったのか、実のところ梶井は気にしたことがなかった。此処は梶井のやりたいことをそれなりにやりたいようにさせてくれるし、最初はそれだけで良かったし、本当のことを言うのであれば今もそれだけで良いのだが。
 それでも、と一緒に行ってきなさい、と送り出された少年を見遣る。乾いた咳をする彼は梶井から見ればいつだって死の淵を歩いているような影を背負っており、そこそこに興味を唆る存在であった。自分とはまったく正反対の存在、何と言うのかは知らないが彼には信仰する神がおり、それはどうやら実在し、梶井の上司の話の中にも時折出てくるのだ! 無論、上司の方は彼を神だとは思っていないようであったけれども。並んだ少年に梶井は無駄に話し掛けることはしない。話が合わないのが目に見えいているからである。ただ今後の作戦とも呼べない作戦を口にして、コミュニケーションを取ったような気になるだけで。
「君は頑張るね」
その胸は大変だろう、と言っても特に言葉は返ってこない。
「…太宰さんに、見てもらえるのであれば、この程度」
ああ、また、と思う。太宰、というのが彼の神の名前で、時折上司が口にして苦々しい顔をする名前でもある。それが梶井には分からない、何せ、その太宰さん≠ニやらは最早このポートマフィアを抜けてしまったそうなのだから。
 少年が歩いて行く。梶井もまた、進んでいく。もうすぐ作戦の時刻だ。
「…僕は、」
その先の言葉は言わない。それは誰に言ったところで何にもならないことを梶井は知っている。
―――太宰さんって人が、羨ましいなあ。

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黒板消しについたチョークの粉 梶中+国太

*学スト

 理科準備室から、と同僚の梶井が口にしたのがいつもの世間話だと国木田は疑わなかった。
「二年生の教室ってよく見えるんですよね」
「そうですか」
言われてからこの学校の構造を思い出す。なるほど、確かに梶井の言う通り、理科準備室からは二年生の教室がよく見えるだろう。丁度遮るものが何もない。
 梶井が名簿のチェックを済ます間に国木田は黒板を消していく。こんなのは生徒にでもやらせたら良いと思うけれども、やはり自分がやった方がきれいになるのを知っているし、既に放課後だ、その辺をうろついている生徒を捕まえるのも悪い。しかも今汚れているこの黒板も授業の跡ではなく、二人の間での話し合いのために使われたものであるので、それに生徒を巻き込むのも忍びない。
「だからいろいろなものが見えるんですけれど」
「真逆梶井先生まで太宰のように人の秘密や弱みを握るなんてことはしませんよね」
「ああ、その太宰くんなんですけれども」
「先生、先に答えてもらえますか」
「いや僕は人の秘密や弱みなど! そもそも科学以外にあまり興味はないのものですから」
「そうですか。では続きをどうぞ。太宰がどうしましたか。また問題でも?」
「いえ、問題と言うほどでもないのですが」
 これはどう言ったら良いですかねえ、と梶井は少し言葉を考えていたようだったが、暫くして口を開いた。
「太宰くんに手、出さないんですか?」
がらがらがっしゃん!
 大きな音がして国木田は自分が黒板消しを落として、更にはチョーク入れやら定規やらが置いてあるスペースに突っ込んだのを知った。
「な、な…」
「何を見たか、でしょうか。特にこれと言って決定的な場面は見ていないのですが、そうですね、太宰くんの動きはあまりに芝居がかったように分かりやすく表現をするので、更にはそれがどうやら演技ではないようなので、国木田先生はどうお考えなのかと疑問になりまして。というか、此処で言葉に詰まるということはもしかして既に手を出したあとでしたか? そうだったら僕は重大な秘密を知ってしまったことになりますねえ。どうしましょう、僕秘密にするの苦手でして、最悪教頭にはバレるかもしれないですははは」
「笑っている場合ではないですしそもそも俺は生徒に手を出したりはしません!」
「では卒業したあとは?」
「はいっ?」
思わず上擦った声が出てしまった。
「ですから、卒業したら生徒は生徒ではなくなるではありませんか。僕たちは先生のままですけれども」
「それは…」
「難しいですよねえ、相手が生徒だからと言って何が変わる訳でもないのに」
その言い方に何か引っかかるものを感じたものの、はい! これでチェック終わり! と梶井が声を上げたので聞くことは叶わなかった。
「うわっ。国木田先生黒板消し全然きれいになってないじゃないですか」
誰の所為だと、と思ったが癪なので言わないでおく。チョーク入れと定規を直している間に梶井が黒板消しを持っていき、黒板消しクリーナーに掛ける。
「僕これ苦手なんですよね」
どうせなら丸洗いしたら良いのに、と続けられて、本当に話題を逸らされてしまったような心持ちになった。

 その後二年の教室を見回った時に太宰に出くわして、先生何ですかその顔は、まるで梶井先生に私との逢瀬を指摘されたような顔じゃあないですか! と言われるのはまた別の話である。



感情のすみに微笑むようにいるその人の名をなつかしく呼ぶ / 東直子

***

真の死に至れり 梶中

 人間というものは死に対して不可逆で、そしてそれ故に死というものに対して一定の恐怖心というものを抱いている。それは死というものを研究として扱っている梶井基次郎にとっても同じことであったし、あれこれ実験はするものの漠然と死というものは本当に分からないなあ、と思うことばかりであった。しかしながら理解の出来ないものだから恐怖する、という方程式は成り立たず、梶井は理解の出来ないものだからこそ興味を持つ方向へと転がったのだ。
「手前はまるで死ににいくみてえだ」
そんなことを上司である中原中也に言われたのは作戦から帰還した時のことだった。
「ええ?」
梶井はこの上なくすっとぼけたような声が出てしまったのをよく覚えている。それが気に食わなかったのか上司はひどく恐ろしい顔で睨め付けて来たけれども、その反応はこの上なく素直なものだったので勘弁してほしい。
「まるで中原さんは僕を自殺志願者のように言うのですね」
そんなことはないと言いたくてそう返せば、中原は何か嫌なことでも思い出したかのように更に苦虫を噛み潰した顔になった。人の知らないところで勝手に怒るのはやめてほしい。こちらは好きで部下をやっているのではないので。
「けれども僕は別に、そういう訳ではないのですよ」
「そうであってたまるか」
「おや、中原さんも生き延びればこそ、のような思考の持ち主で?」
「別にそういう訳じゃねえが」
 会話はそれで終わりだった。その時は彼の過去の話もまだ何も知らなく、強く小さな上司のことを少々目障りだと思うことさえあった。梶井が勝手に外出すればリードを忘れたとばかりに連れ戻しに来るし、研究所で三日三晩寝ずに作業に没頭すれば酒瓶で殴られそうになる。それでも中原は梶井の上司であって、梶井の部下たちにとっては上司の上司であるので誰も梶井を庇ってくれるような人間はいなかった。時たま報告をするついでに所属を変えられないかと呟いてみても、首領は何か不都合があるかね、と言うだけであって、そう考えてみると不都合らしい不都合がある訳でもなく、結局梶井の自由が若干制限されているくらいのもので、それも今後のことを考えてのものと思えなくはないのだ。なので結局梶井は黙ることしか出来ず、首領に仲良くね、なんて微笑まれる羽目になるのだ。
 仕方なく、梶井は中原を観察してみることにした。どのような状況で彼がどのような行動を取るのか、梶井の分かる範囲はすべて。中原も分かっていたはずだがやめろとは言わなかった。もしかしたら彼もまた、首領に何か言われていたのかもしれない。
 そして、梶井は。
 一つの解に至った。
 至ってしまった時に、思わず笑ってしまったくらいだった。それほどに単純明快なもの。唐突に笑い出した梶井にその時研究室で読書をしていた中原は一瞬驚いた顔をして、とうとうイカれたか、と問うてきた。それにいえ、と返してから向き直る。
「貴方の像(かたち)はまるで宗教のようだ、僕とは永遠に相容れない、しかしその行き先にどうしたって貴方は横たわっている!」
自分で言うのも何だが大仰で芝居がかったものだった。それでも中原は何でもなかったかのように煙草を出し、火を付け、吸い込んだ。
「………まるで、」
中原が言葉を吐いたのは暫く経ってからのことで、それはまるで煙草の煙を吐き出すようなものだった。自身の身体の中に要らなくなったものを吐き出すような、呼吸と似通うほど当たり前な行為。その自然さが余計に梶井の背筋をなぞっていく。
「手前は神を信じているような言い草じゃねえか」
確かに、その通りだった。
「ええ、そうですね、神はどのみち居るのでしょう、だって僕は人間の心や心を作り出す脳の構造までもを否定することは出来ない! ですから神は居るのです、ただ僕がその神とやらに対してもまず疑うことをするだけで!」
「疑うことが出来るのならば信じているも同義だと?」
「ええ、ええ! その通りです!」
一方を信じる限りもう一方とは離れることが出来ない、まるで神と悪魔のように。
 中原がどちらであるのか梶井には分からなかったし、どちらでもないのかもしれなく、どちらでもあるのかもしれなかった。
「俺が手前の行く先に横たわっていると言うなら、俺の死を観測するのは手前か?」
「さあて、どうでしょう! 貴方が引き換えして来て僕の死を観測するのかもしれません」
「生憎とそういう趣味はねえ」
「ならば、僕は進まねばなりませんね」
停滞は科学の敵だ、例えそれが完璧という名を冠していたとしても。
「手前は死が怖くねえのか」
「そうですね、正しく言えば感覚が麻痺しているのでしょう」
「何故」
「死にかけたことがあるからではありませんか」
「そんなこと俺なんかしょっちゅうだ」
「幹部殿がそんなヘマをされるとは考えにくい。つまり、冗句ですね?」
「………手前は本当に、可愛げのねえ奴だな」
喫みかけの煙草を梶井の口に突っ込んで、梶井が咽ている間に中原は部屋を出ていった。
 口の中はこれでもかと言うほど不味くて重くて、よくもまあこんなものを好き好んで吸っているものだと呆れることしか出来なかった。

***

愛に名前をつけましょう 梶中

*学スト

 中原くん、と呼ばれる。机の上に座った中原ははい、とまるで優等生のように答える。
「それ、楽しいですか?」
聞かれて少し首を傾げそうになった。眼鏡の向こうの目は黒く濁っていて、こんな変人塗れの学園にいなければ屹度彼は犯罪者予備軍として扱われていたに違いないと思うような目だった。中原も人のことは言えない目をしているとは思うし、そもそも世間の評判としては不良なのであったが。
「帽子を取り返したいんですよね」
「はあ」
返ってくるのは生返事。
「それとこの体勢に何の関係が?」
 中原は机の上に座っていた。その両足はその机で本を読んでいる化学教師を捕まえるように挟んでいる。唐突に化学準備室へやって来ての中原の行動に、彼は問いかけることしかしなかった。
「梶井先生」
「なんでしょう」
「その本面白いですか」
「まあそれなりに」
「何の本ですか」
「シェイクスピアです」
「シェイクスピア」
「名前くらいは知っているでしょう」
「そういうのが好きなんですか」
「好きですね」
「化学教師なのに?」
「趣味と専攻は必ずしも一致するものではないでしょう」
「そういうもんですか」
「そういうもんですよ」
へえ、と中原はぞんざいに頷いてから、その頭に手をやった。石鹸ででも洗ってそうなざわざわした髪質が指に馴染まない。
「…なに?」
「俺は何になろうかと思って」
「そういうのは森教頭が相談に乗ってくれると思いますよ、進路指導も受け持ってるから」
「そういうのじゃ、ない気がして」
「モラトリアムですか? 羨ましいなあ!」
「そんなこと思ってもいないくせに」
「あれれ、バレましたか」
 隠す気もなかったくせに、と思う。脚で背中を引き寄せるようにして近付くと、あの、ととどめるように脚に触れられた。
「で、帽子の件なんですが」
「そういうのは国木田先生に直截言えば良いでしょうに」
「この体勢、あまり外から見られて良いものではないですよね」
「基本的に化学準備室に人は来ないので大丈夫じゃないですか」
「じゃあもういっそ既成事実でも作りますか」
「何がじゃあだったのかまったく分からないんですが、そもそも君、未成年でしょう」
未成年に手を出すのはちょっと、と言ういろいろなものがスレスレの化学教師に、思わずお前がそれを言うのかと髪で遊んでいた手をぎゅっと握ってしまった中原は何も、何も悪くはないのだ。



(ハゲたら中原くんの所為ですよ!?)

***

確殺 梶中+国太

*学スト

 そういえば昨年は大人気でしたよね、と梶井が言い出すのがあまりにも唐突だったため、国木田はそれが一体何についてのことなのかすぐに判断を下すことが出来なかった。釦の話です、と付け足されて初めて、ああ卒業式でのことだと思い出す。
「今年は第二釦を大量に用意しておかないといけないのではないですか」
「大量に用意したらすでにそれは第二釦ではないだろう。それに、まだ新年度になったばかりだ」
「今年も大人気になるだろうことは否定しないんですね!」
言われてしまった、と思ったがここで否定を付け足すのも何だかおかしな話だ。
「まあそうなんですよね、第二釦というのは一つしかないのです」
 国木田先生のそれが誰に渡るのか、とても楽しみですねと笑う梶井の白衣に釦は一つもついていなかった。

***

20190323