その幕間、 梶+芥

 厭な音がしていた。
「君、その咳は医者に見てもらったのかい」
答えはない、どうやら少年は自分と話すのも嫌なようだ。喋る空気とでも思っているのか、いやはやしかし、喋る空気というものが存在していると思い込む方が自分にとってはひどく難解なことである。そんなものがあるとすればどういった現象なのかと調べなければ気が済まないからだ。
 少年が咳をするのは今に始まったことではないように聞いていたけれども、なればこそ余計に医者へとかかった方が良い気がした。そもそもこの組織の首領こそが医者であると思っていたのだが、少年のように期待される者であってもその恩恵には授かれないのか、それとも別の理由でもあるのか。
「君は何処へ行きたいのかな?」
厭な音は未だ続いてる。その様子をじっと眺めていればそう言えば、と思い出す。彼は自分の上司の話の中でしか聞いたことのないその人を、知っているのだと。それは一体どのような気持ちなのだろう。彼と上司が話しているところを自分は知らなかったけれども、同じ亡霊を追っているような彼らがその幻想を分かち合う場面はどうも思い描けず、そもそも自分にはそういった人間の機微というのは向かないのであったと打ち消した。
 暫くして幸福の在る処へ、という答えが返って来た。何か返さねば延々見つめられると思ってのことだったのかもしれない。幸福の在る処! それはなるほど少年らしい答えだ。この世界に夢を見ている。
「それは遠いのかな、近いのかな」
敢えて幸福の定義を求めることはしなかった。少年にそれを求めるのは酷であろうと断じたためである。例え酷であろうといつもであれば突き回すだろうに、それをしなかったのは作戦前である。作戦前に少年を甚振るような精神は持ち合わせてはいないのだ。それに、それが上司にバレて研究費の削減に繋がったらと思うとぞっとする。そう、これは慈愛の精神などではない、現実的な予測に対する防衛なのだ。
 少年は最初と同じように答えなかった。足が早まる。最早おしゃべりもここまでだろう。
 しかしながら、自分は思う。最初から少年の答えなど必要としないのだと。
「人間の定義するものなんてねえ、人間の頭の中にしかないのだよ」



交尾 / 梶井基次郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/423_504.html
河童 / 芥川龍之介
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html

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so far away/b> 国太

 涙を流さなくなったのは一体いつからだったのだろうか。この異能力は別段使用しようと思わなければ身体の奥底まで埋没させることの出来るもので、だから屹度あのまま教師を続けていたってよかった。それでも生活は出来たし、困ることだってなかっただろう。
「でも、君はこの道を選ぶのだろう?」
 たとえ時間が戻せたとしても、何度だって、此処へ戻ってくる。そんなことを朝の光の中で、したり顔で言う男に何か気まずくなって、だからまずはお早うだろう、と言うことしか出来ないのだ。

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「名探偵は完全犯罪が出来るとは思いませんか」 太乱

 太宰がそんなことを言ってみたのはとある午後のことだった。春の日差しが麗らかで、実に自殺日和だった。桜の木でも見つけて縄を掛けてみようと、その前に。お菓子を食べていた名探偵が今日はおすすめしないよ、なんて言うものだから笑ってしまったのだ。
「そもそも乱歩さん、貴方が私に自殺をすすめてくれる日なんてあるのです?」
そんなものは、ない。答えが分かりきっている問答だった。猿芝居にも程遠い。ただ口で遊ぶだけのしりとりよりも拙いもの。
「もしよろしければ乱歩さんも一緒に行きませんか。乱歩さんの見立てならば必ず死ねそうだ」
「僕はこれから仕事なんだよ」
警察に行かなくちゃ、そういう彼は名探偵であるので、人を死に追いやったりはしないのだ。彼に名探偵の仕事を説いた人物がそういう人であったために。ある種の呪いと言っても過言ではなかった、それを呪いのままにしているのは本人だけれども。
―――それは。
もっと出来ることがあると思っていた。もっと、名探偵にしか出来ないことが。勿論今でも彼は才能を生かし、とても楽しく暮らしているだろうことは分かっているが、それが全力ではない、最高ではない。太宰はそう思う。
―――視野を狭める行為なのでは?
 だから太宰は笑ったのだ、笑ってしまったのだ。おすすめしない、なんて! それは他にすすめるべき事柄や、すすめるべき時にすすめることなど、そういう前提があってこそ成り立つものなのだから!
「屹度、詰まらないものですよ」
お菓子を一つ、取り上げる。
「謎なんかよりも私を追ってきてみてください」
 そして二度と逃げられないように殺してください。



人間は一生、人間の愛惜の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。

竹青 / 太宰治

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花の夢 安吾

 桜の花だ、と視界を覆う残酷なほどに美しい世界に気付かされるまでに大層な時間を費やしたような気がする。何故だろう、と思うも坂口はいつから其処に立っていたのかすら分からない。暫く考えて、嗚呼、屹度これは夢なのだ、と思い至った。こんな現実離れした景色に巻き込まれるような生活はしていないはずだし、これが敵の異能であるとなると余計に説明がつかない。生命を狙われるような仕事をしている自覚はあれども、このような場所に連れてこられるような覚えはなかった。
 一歩、踏み出す。まるで誰かに操られたようだった。そこでふと、何者かが桜の木に凭れていることに気付いた。顔は見えない。背格好も、見えているはずなのに分からない。すぐにそれが誰でもないことに気付く。これは恐怖だ、と。或いは幻想、これから起こるはずの現実、予測。予知なんてものを持たずとも分かる、崩壊の前兆であると。
 それは死体だった。ただ凭れて眠っているように思えるそれが死体であることを、坂口は確認するまでもなく知っていた。それは誰にでもなり得るものだった。首を吊っているのはないことがまた、自身の夢らしかった。ざあ、と音がする。花片は止むことなく視界を覆い続ける。その他の世界などないように。これから誰が犠牲になるのか、坂口が、世界が、永らえるために誰が犠牲になるのか。坂口は、誰を犠牲として選ぶのか。その夥しい花片の一枚いちまいに誰かの名前が書かれていることなど、まず気付かないでいるのが一番賢いことを坂口は知っていた。
 知っていたので目を閉じた。
 それがこの夢から脱するに一番効果的な方法だと知っていた。目が冷めたらすぐにでも冷水で顔を洗いに行って、こんな夢のことはきれいさっぱり忘れてしまおうと、そんなことを思いながら瞼の向こうの花片から意識を剥がそうと必死だった。
 自分がそれになり得ることも、せめてもう暫くは考えずにいたかった。



彼の呼吸が止まりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。女の死体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。

桜の森の満開の下 / 坂口安吾

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所有印 広鴎

 いいからおいでと呼ばれて逆らう部下が何処にいるだろう。こうしてベッドに転がしてしまえば広津さんもただの男のようだねえ、と言われたのは記憶に新しくないが、広津は一体それにどう返したのだろうか。元々普通の男ですと言った気もするし、普通の男には見えていませんでしたか、と問うたような気もする。兎にも角にも拒否権はないようなものだったので時折彼の気が向いた時はおいでと呼ばれて、まるでそれが犬にするようだなと思いながら、命じられたままにその肌に触れる。一見不健康にも見えるがやはり医師であるからなのか、聞いていた年よりも少しばかりはりがあるように思えた。
 一構成員である広津に権利は存在せず、ただ言われるままに物事をこなすだけ。彼が好きにしてみなさいと言うから好きにしてみるだけ、と言った様相で、好きにしろと言われたからと言ってでは失礼しますと部屋を出てしまえば怒りに触れるのは火を見るより明らかだった。彼が恐ろしい訳ではない、彼が首領になってからこの組織も街も良くなった。彼は広津も愛するこの街を守る一翼であることには違いないのだ。
 その日は仕事を終えて戻ると、首領が呼んでいると伝えられた。こうして何かあった日に呼び出されるのは珍しい、と思いつつ血の香りを払う間もなく部屋へと向かう。
「今日はね、いつもとは少し違うことをしようと思って」
そういう彼は幽かに怒気に似たものを滲ませていた。正しく怒気である訳ではなかったが、広津はそれを明確に形取るための言葉を知らないように思う。何かしただろうか、と今日の行動を振り返るが、思い返せば思い返すほど彼の気に入らないことを積み重ねている自覚しか湧いてこない。
 足音もなく彼は近付いてきた。こうして幾人の首を掻き切ってきたのだろう、このまま広津も同じ道を辿るのだろうか。それならばもしやこれは光栄なことではないのだろうか、歪む思考もろともくろぐろとした瞳に飲み込まれる。
 一瞬だった。それでも思い切り力の込められたそれは手酷い痕を残したのだろう。
「…痛いのですが」
「痛くしたからねえ」
広津の首にはくっきりと、丸い痕がついていた。確かめた指の先にでこぼことした感触、そして唾液。歯型だった、人間の歯型だ。今目の前にいる、男が付けたもの。
「その痛みは生きている証拠だよ、広津さん」
 今それは必要なものだろうか、と思ったが、何か問うのも可笑しい気がした。
「………よく、覚えておきます」



引き裂いてしまいたくなるこの胸は雨の器として捧げます / 河蔦レイ

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天秤にのるものはない ド+モブ

 花を買わないか、なんてそんなことを言ってきた幼い少年が何処まで理解出来ているのか理解に苦しむ。そんなことを思いながら彼に頷いてそのやわらかなしかし傷だらけの手を握る。この一晩、屋根があり布団の上で過ごせることを彼がどう思っているのか、それに付随する行為のことを彼がどう思っているのか、ドストエフスキーは知らない。知らないままで良いのだと思う。理解してしまったら、きっとそれは不幸ということだから。
 いつものように蹂躙されることを予想していただろう少年は、自らの首に掛かる手から逃れようとはしなかった。びくん、と性交でもしているかのように跳ねる身体はこんなにも生を求めているのに、ああ、どうして、彼は抵抗をしないのだろう。涙も唾液も入り混じって死に直面した顔はこんなにも醜いのに、どうして。
「救いはありませんよ」
慰めは必要ないのだと思う。だから呟く。
 それでも少年は抵抗しなかった。抵抗したところで結果は変わらないが、そのままドストエフスキーの手の中で死んでいった。
―――ああ。
息を吐く。
 この世界は歩のつに、どうしようもない。



「良心! 良心て何です? そんなもの僕は自分で作っていますよ。じゃあ、どうして僕は苦しんでいると思います? 習慣からですよ。七千年にわたる全人類の習慣のためですよ。そんな習慣からはもうすっぱり足を洗って、神になりましょうよ」

カラマーゾフの兄弟 / ドストエフスキー

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貴方の名前は、 乱エド

 死体は見慣れていた、でもそれはまだ死体ではなかった。比喩だ。息も絶え絶え今にも死にそうに震えるこの生き物は名探偵が出るような難事件でもなければ複雑怪奇なトリックが用いられたのでもない、ただ面白みもなくその辺りの破落戸に絡まれて泣きそうになっている、ただそれだけのことだった。それが乱歩には理解不能であるがどうして彼は絡まれるだろうことを予見していながらこんな場所へと迷い込んだのだろう。
 案内役として付けられた敦に人払いをさせて、囲まれて死にそうになっていた彼をじっくりと検分する。息も絶え絶え、先程まで死にそうだった彼はみるみるうちに生き返って、これが本当に比喩でなかったら大層面白い事件だったろうになあ、なんて思わせる。
「乱歩さん、どうしますかこの人」
「ああ、ほっといていいよ」
敦への受け答えに思い切りショックを受けて固まる彼を見て、やっと合点がいった。
「―――ああ、そう」
吐き出すのは笑み。
「君は生きたいんだね、それも、この名探偵の隣で」
 途端に彼は目を輝かせて、それから犬のような尻尾が幻で見えんばかりの様子になった。これは困った拾い物だ、怒られるかもしれない。困ったので敦に押し付けることにした。
「彼のことよろしくね、敦くん」
ええっ!? と二人分の悲鳴が重なって聞こえたけれども、それは名探偵にはきっと関係のないことなのだ。
 こんなに胸が煩いのも、きっと関係のないことなのだ。



死の間際になって初めて、わたしは彼女の愛情がいかに強いものであったかを印象づけられた。わたしはようやく彼女が狂おしいまでに真摯な想いで、いまにも消え去らんとしている生命をいったいなぜ熱望してやまないのか、その根本を理解した。

ライジーア / ポー

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大切なものが一つとは限らない(なんて欲張りですか) 太乱

 別にこの男が本当にこの世界から自殺という手段をもってして逃げ出したいと思っているのか、という点に関しては名探偵に問うまでもないことだろうからさておくことにする。そんな一人間の変わりゆく感情のことなど、事件になってから考えるべきもので、こんな日常に持ち込むようなことではないのだ。例え、このうだついた行動によって何かが変わってしまったとしても、それは幾つかある物語の分岐の一つであって、ただの名探偵のすべきことではないのだ。
「ああ、本当に儘ならないな!」
 お前のことを何処までもつれていきたいけれどもお前はまったく逆のことを思っていることがこの名探偵には分かるから絶対にこの我が儘は言わないでおいていてやるよ。



@bollboy21

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無色透明な爪先 国太

 この世界には自分に敵意を持つ人と、持たない人の二つがいるのだと思う。私にはそれは残念なことによく分からなかったけれど、君にとってはきっとそういうものなのだろう、というのが手に取るように分かってしまって困ってしまうものだった。それに君は気付いていないようだったし、尚のこと。だって君はどうしようもなく世界に対して優しいものだから、本質的に君が敵として認めるものというのはあんまりいないのだ。君が本質的な悪というものを認めていないから、そういう結論にたどり着く。君に言えばきっとそんなことはない、と言うだろうから何も言わないけれど。
 ただ、その枠組の中には勿論私もいる訳で。
 君にとって私は、君を害す存在ではないと、そう思われているのはくすぐったかったけれど。
 この爪先で君の背中を蹴ったとしてもきっと君には気付いてもらえないんだろうなあ、と思ったら予想以上にさみしくて、笑えてしまった。



睡郷 @suikyou_odai

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ぐちゃぐちゃのパレット 太乱

 私が死んだら悲しんでくれますか? と問うたのは勿論戯れだった。恋人という関係になってそれでいて相手が死んだら悲しんでくれない人だとは思っていなかったから。ただ、肯定が欲しかったのかもしれない。あまりにもずるい考えではあるけれど。
「いいや?」
だからその答えが返ってきた時、とても驚いてしまった。
「どうして?」
「だってお前は生きるでしょう」
問いを予測していたのだろう、打てば響くよりも高らかに、その返答は舞い上がる。
「呪いのように」
「のろい…」
物語のように、その終焉のように。
「乱歩さんが呪いなんて言うなんて」
 だからきっと、その手を取ったのだ。
「本当にそうなってしまいそうだ」
踊るように、駆け出すように。
 この胸の喜びを誰にだって渡したくはなかったから。



玩具色の空を嫌ってわたしたち冷たいつま先ふれあわす朝 / 森まとり

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20190323
20200222