1
日本の扉って蹴破れないように出来ていたんじゃなかったかな、と思いながら汚い寝床でそれを見上げていた。技術の進歩とやらで革命的な発展を遂げたらしいその銃器の名前を正しくは言えなかったけれど、それは裏を返せば興味がなかったからとも言えるだろうな、と。
あまり治安が良いとは言い難いタイプの生活圏内で暮らしていて、治安が良いとは言い難いタイプの環境にずぶずぶと沈むように生きていて、その中でしている仕事なんて真っ当なものだなんて言えないことはよく分かっていた。分かっていたから様々なものに対して仕方がない、という諦観でもって接してきていた訳だし、これからもそうしていくつもりだった。だから今回だってちょっと行ってこいなんて言われてへえふうんと承諾したけれども、行ったら何が起こるかなんてよく分かっていた。枕営業なんて言葉を考えたやつは枕がない場所で盛る馬鹿がいることを考えていなかったに違いない。まあ今更守る処女もなければ尊厳もクソもなかったので良かったし、これが通れば当面楽に暮らせると思っていたからそこまで深刻に気にしていた訳ではないけれど。
まあ救うべきは事が始まる前だったことかな、と現実逃避をする。服も着ているしどこそこ唾液で汚れている訳でもない。でもまあ寝床―――というかこれ一応ソファか―――があれこれの痕跡で汚いのは事実なので、正直言い訳は難しそうだな、と思った。言い訳すべき事柄がある訳でもないのだが。流石に最期に見たあの特徴的な傷などはなかったが、それでも一目で分かってしまった。最悪だ。本当に最悪だ。しかもこっちが気付いた瞬間向こうも気付いた。最悪だ。本当に最悪だ。普通分からないものだろう。特徴的な顔をしていたそいつとは違って、こっちは平々凡々のはずだったのだから。ていうかあんまり面影なんて残ってないし、あと普通に髪を伸ばしたら全然違う人間になったのを確認して生きてきた、はずなのに。シケた音がして上に乗っかっていた脂ぎった男の頭が撃ち抜かれる。一応仮にも平和な世の中のはずなんだがな、と思いながらその血飛沫を素直に浴びて、どうしたものかと考える。いや、考えるまでもなかったけれど。平和な世の中でも物騒なことが起こるなら、その対処法は変わっていないはずだった。目撃者は消す、つまり自分である。このままこの世とさよならだ。そんなに長い人生じゃあなかったしあんまり良いものでもなかったから未練なんか一つもないが、残念無念また来世…はなければ良いな。
なんて思考しているのをガン無視とばかりににやあ、と口角はつり上がった。相変わらず猫みたいな顔をしているんだな、と思う。もう投げやりだった。
「おやおやもしかして前世で月島基軍曹をやっていたお方ではありませんか? 奇遇ですなあこんな場所で。一体何をしておいでで? アンタのことですからまた財布か何か忘れたのでしょうか! …と、こちらは仕事の真っ最中なんですけれども、なんやかんやで人の心というものを獲得したので知人を掃除するのも忍びない! アンタなら忘れてるてこたないでしょうからどうです、手伝ってみませんか?」
死ね、と思った。矢継ぎ早なことを除いても兎に角死ね、と思った。今殺されていないのはきっとただの気まぐれなのだろうけれども、どうせ未練なんか微塵もないのだから別に殺されても良かった。いや、やっぱりこいつに殺されるのは腹が立つ。前でだってそんなの許したりしなかったのに。
だから、盛大なため息を吐いてやる。
「前世でどんな罪を犯したら部下の中でもいっとう嫌いだったやつに結果的に生命を助けられてついでに恩を押し売りされる羽目になるんだ信じられん今からでも良いから死んでくれないかいや頼みじゃない今すぐ死ねほんとに死ね」
一息だった。残念ながら言うべきことがあまりに見つからなくて短くなってしまったのが心残りだ。まあ嫌いなやつに言うべき言葉がないのは当然のことなので仕方ないと言ったら仕方ないが。
「前世の罪って尊属殺人じゃないですか? ついこの間まで合憲だったらしいですし、ほら、神様とやらもアップデートが間に合わんのでしょう。で、話は変わりますが今度も父親を殺したんです?」
「話変わってるように聞こえないんだが?」
その言葉に答えはなかった。代わりに死体を蹴り飛ばして、それから相変わらず血が似合いますね、と言われる。似合いますけどそのままだと問題があるので拭きますね、と何処からともなく出されたハンカチで拭かれた。普通に趣味の良い高そうなハンカチだったのがムカつく。
「よし、綺麗になりましたね」
「頼んでないんだが」
「頼まれてませんからね」
ほら立って、と言われて手を引かれる。有無を言わさず。それから外に待機していた仲間らしい男と落ち合って、会話するのを聞いていた。これ拾得物なので好きにして良いですよね、というのは本当どうかと思うし死んで欲しいと思う。人をモノのように言いやがって。でも残念ながら押し売りというのは迷惑だから押し売りというのであって、それから逃れられる人間は選ばれしものだけなのだ。
「許可ももらったし、行きましょうよ」
「何処に」
「家」
「何処の」
「愛の巣?」
「答えになってないしまずもってお前と愛とかいう言葉の親和性が悪すぎる吐きそうだ」
「吐きそうだなんて可愛らしくなったものですなあ、そりゃああんな豚に犯されそうになってたら当たり前ですかあ」
「話聞いてたか?」
「どうせ人殺しの感覚なんてそのうち思い出しますよ」
「だから話聞いてたか?」
繋がれた手は、離されなかった。いや、掴まれているの方が近かったけれども最早振り払う気力もなかったし、なんだかもう全体的に面倒だった、兎に角面倒だった、こいつは楽しそうだし今直ぐ死んではくれないだろうしついでに恩も押し売りされてしまったことだし。視界が悪くて、現場に眼鏡を置いてきてしまったことを思い出す。
「おい」
「なんですか」
「眼鏡置いてきた」
「連絡しておきますよ。取られたんですか」
「ああ」
「まあ、」
腕を引かれる。唇が、押し付けられる。
「キスするのにはない方が良いですもんね」
アンタが今度も鼻低くて良かった、と笑うそいつが誰なのか分かっているのに尾形、とは呼べなかった。
自分の名前が今は月島じゃあないことを分かっていたので、尾形と呼んで良いのか分からなかった。
2
此処で待ってましょうよ、とアオキに連れ込まれスーツを買い換える。アオキだったのは多分通りがかりにあったからだった。ひらひらふわふわの服を着付けさせられなくてよかったと思う。そういうことを平気でしてくるさまは想像に難くない。裾はあとから直すので大丈夫です〜と笑う顔は一般人のそれによく似ており、一回死ねば人間変わるものだなあ、と思う。変わるついでに性別も変わっているし、まあ出来たら今直ぐ死んで欲しいなと思うのは変わらないのだけれど。そのまま其処で待っていると眼鏡が届けられた。無事に。此処まで物騒な無事が今まであっただろうか、いや、ない。あそこに誰かが行った痕跡もなくなってそうだな、ついでにあの死体も、と思う。一応仕事の話をしに行ったはずだったのだが、この分では職場もなくなっていそうだ、と。あちらこちらに連絡するそいつの言葉の端々からそんなことを思う。分かっていて止めなかったのは別に思い入れがなかったからだった。別に誰が死のうと死ぬまいと、あちらこちらに影響はないし何なら死んだ方が社会貢献になるかもしれないと思うくらいの場所だった。自分のことも含めて。
眼鏡をやっとのことでかけ直すとしっかりした視界が戻ってきた。まじまじと顔を見て、性別変わって傷もないのに此処まで面影が残るものか、と感嘆すらする。もうこうなったら分からないまま向こうだけ分かって理由も判断つかずに誘拐されるよりマシだったと思おう、と決めた。そうだ、これはれっきとした誘拐である。自分に捜索願が出るかどうかはさておき、それでも立派な誘拐だった。犯罪沙汰だった。なのに手を引かれてスーツを新調して、いやホント何やってんだ。まじまじと見たため向こうからもまじまじと見返され、何を言われるのかと思ったらそれ似合わないから買い直しましょうよ、なんて言われて。やっぱり手を掴まれて眼鏡屋に連行されてあれやこれや試されたのも一体何だったのか。最終的にこちらの意見など一切無視で新しい眼鏡が決まった。店員さんの引きつった営業スマイルが見えなかったのか、と思ったけれどももう口に出すのも面倒だった。正直センスは悪くないと思ったし、向こうの財布から全額出ている訳だし。ていうかそれは真面な金か? と思ったのに突っ込まなかったのを褒めてもらいたいくらいだった。
スーツ、眼鏡と続いたのでそのまま日用品も買いましょう、という話になった。
「いや、日用品って」
「話聞いてました? 家戻れないんですよ、アンタ」
「話聞いてなかったのはお前だろ」
「それとも戻りたいんですか?」
「戻りたいって言ったら?」
「とりあえず土地買い上げて更地にする計画を」
「………分かった」
「理解が早くて助かります」
そういう訳で日用品も買いましょう、と話が戻って、数枚の着替えと寝間着、あとは歯ブラシ等々、と改めて並べてみると所謂お泊りグッズだなこれ…と思うようなものを揃える。日用品。いまいち今の状況に実感がわいてないのだろう。いや、直ぐにこの状況に適応出来る方がどうかしている。だから向こうの方がどうかしている。
「洗顔とか今何使ってるんです」
「最近ずっとミノン」
「貰い物ですか」
「何で分かった」
「アンタの好みの香りじゃないと思ったので」
「は?」
「嫌いじゃないけど好きでもないだろう。なら使い続けるのは節約だろ」
「いや、そうじゃなくてだな。香りの好みとかなんで知ってるんだよ。文脈無視すんな」
「似合う香りもそのうち探しに行きましょうね。当面は家にあるの使ってください。アレルギーとか大丈夫ですか」
「だから文脈無視すんなよアレルギーとかは特にない」
「分かりました」
まあ拾得物らしいので仕方ないと言えば仕方ないし、ギリギリまだ人間扱いに入れておいて良いような気もするので特に何も言わないことにした。往来で大声でも出せば誰かに保護してもらえたかもしれないが、それはそれで警察沙汰になりそうだし、なったらなったで困ることもある。探られたら痛い腹しかないので、結局このままついていくしかないのだった。ギリギリ人間扱い、と言ったのはお人形遊びの延長線のようにも思えたからだ。このまま着せ替え人形にされる程度ならまあ可愛らしいものだったが、如何せん、元・尾形である。着せ替え人形で満足する未来がまったくもって思い浮かばない。出来れば人権は尊重してもらいたいが、今までも尊重されてきた人生だったかと言うと微妙なのでせめて今まで以上にひどくならなければ良いな、なんていう諦めモードに移行した。人生諦めが肝心だ。
「という訳で此処が今日から家です」
表札に名前書きます? という割にはその部屋に表札はかかっていない。部屋番号だけが簡素に書かれている。1601。此処まで来るのにぼんやりしていて全く考えていなかったがどうやら十六階らしい。意味が分からないし高すぎるし耐震性は大丈夫なのか不安になる。
「はあ…」
「まあ疲れてると思いますからどうぞ今日は休んでください」
「はあ…」
「風呂入ります?」
「入る」
「其処だけ真面に返事するとこ変わってませんね」
湯、沸かしますよ、と言いながらあれこれどうやるんだっけな…と迷っているようだったのでついつい手を出してしまった。こんなところに住んでいたことはなかったけれど、使い方は知っていた。理由はご想像にお任せする。
「お前今も風呂が嫌いなのか」
「別に嫌いな訳じゃないですよ」
「烏の行水で有名だっただろ」
「有名じゃあなかったですよ。だからアンタが知ってたならそれは興味があったからなんでしょうね」
―――何を言っているんだお前は。
先程嫌いだと堂々と口にしたはずなのにそんなことを言われてしまえば言い返したくなっても仕方ないのではあったが、やはり言われた通りに疲れてはいたので、もうそのままその日は放置した。
風呂は大きくて気持ちが良かった。
3
思っていたよりも日々は普通に過ぎていった。
「ちょっと長めの休みもらったんですよ、拾い物もした訳ですし」
環境にちゃんと適応出来るかどうか見てないといけんでしょう、という言葉はどう考えてもペットだとかそういうものに対する言葉のような気がしたが、とりあえず生命があることを理解しているようで安心した。今更殺される羽目になったところで命乞いなぞ出来なかったけれど、死にたいか死にたくないかで言えばギリギリ死にたくない方に天秤が動く。そんな生活の中で一番に強く思うことは―――ヤバい、だった。
何が、と問われると曖昧な物言いになってしまうのだが、兎に角ヤバい。そもそも始まり(と言って良いか分からないかもう面倒なので始まり)からしてアレだったと言うのにあんまりに日々が普通に過ぎている、というか過ぎすぎている。すぎすぎうるさいと思っただろうけれどこっちは真面な日本語なんてくそくらえというテンションである。電化製品の殆どにはロックがかかっていないし、それはもうスマホもデスクトップもアイパッドもサーフェスも…いやこいつ幾つ端末持ってるんだよ。まあそのたくさんある端末はすべて勝手に使って良いことになっていた。訳が分からない。油断させて殺すつもりなのだろうか。そんな面倒なことが出来る人間だとは思っていなかったけれど。
「どうしました? 何かご不満でも?」
覗き込んで来る目の死に具合は変わっていない。その死に具合がそのまま全身に感染して死なないかな、とは思うけれどどうせ死なないんだろうな、とも思う。今こうなってしまった以上、直ぐに死なれると行き場がなくなってしまうし、やっぱり拘置所とかそういうところに入りたい訳ではないし。逃げるにしても何にしても、今直ぐは無理だった。それが分かってしまう自分の冷静さが嫌になる。冷静でなかったらベランダから身を投げている。さらば、世界。来世はやっぱり人間じゃないやつが良い。
「………別に」
「別にって顔じゃあないですけどね」
まあ言いたくなったら言ってください、と笑みが返される。それが対一般人用のものではなく、前でよく見た薄暗いものであるのでもう何も言わなかった。
初日以降、曰く環境に適応出来るかどうか見極めるための期間で、一緒に出掛けたり通販でなんやかんやしたりをした。そんなことをしていたら、あっという間にこの家で暮らせるだけの準備が整ってしまった。元々持ち物も必要不可欠なものも少ない方だったけれど、ここまでさっさと揃ってしまうと今までの生活って一体何だったんだろうな、と思う。ろくなモンじゃなかったのは確かだし思い入れもなかったが、それでも其処で生きてきた年月というものがあるのだった。
服や下着類は大体向こうの趣味になってしまった。文句を言いたかったけれどもやっぱりセンスは良いし、そもそもこだわりがあるかと言うとないのだし。流石にランジェリーショップに連れ込まれた挙げ句、試着中にサイズどうですか、とカーテンを空けられたのには怒っているが。別に身体を見られるのがどうとかではなく、常識的に考えてアウトだろう。此処の店員さんも引き笑いをしていた。こんな奴ばかりが来店する訳じゃあないはずなので強く生きて欲しい。
そうして普通≠フ日々を過ごす中で、意外にも料理が真面に出来ることも知ったし、掃除も洗濯も普通にやってのけることを知った。こっちの方がものぐさと言われても仕方ないレベルだった。
「一人だったから出来るようになっただけですよ」
あと散らかってるのあんま好きじゃないですし、と続けられる。確かに前もなかなか清潔感を気にしていたような気がする。いや、気にしていたというレベルを越えていたかもしれない。少しでも目についた部下が比喩ではなく蹴り飛ばされていたのを仲裁に入った記憶がある。
「ココア、美味いですか」
「ああ」
「良かった」
「何で自分で練るところからやるんだ」
「手間かけた方がアンタが早く懐くかと」
「お前に懐くことは一生ないと思うが、このココアは美味い。ココアに罪はない」
「そりゃあ良かった。まあ意地でも懐いてもらいますけど。もう此処アンタの家ですし」
「家じゃない」
「家ってことにしましょうよ、そういう強情なとこ変わってませんね」
「強情とかの問題じゃないだろう」
「いやでも冷静に考えてみてくださいよ、そんな傷作ったやつのところにいるより、此処で生活保証されながら美味いココア飲んで、ついでに時々悪いこと手伝ってるくらいの方が建設的じゃあないですか? ほんとに時々ですし。毎度毎度危ないことに首突っ込んでる訳じゃないしそんなに暇でもないので、まあそこそこ死なない保証もありますし」
「マジかよ…」
「マジです。別に快楽殺人者って訳じゃあないんで」
「いや、今のマジかよは死なないの部分についてだ」
「分かってますけど嫌そうに言うアンタの顔が見たくて言いました」
お前こそ変わってないな、と思いながら、自分用にコーヒーを淹れる姿を眺めている。どんな顔をしていたのだろう、少しばかりの時間だったはずなのに、そんなに見つめないでくださいよ、と言われた。気にした様子も見れられなかったけれど。
「コーヒー、嫌いなんですか」
「別に」
「そうですか。まあ嫌いなら煙草吸えませんもんね」
「コーヒーが煙草の代わりになるか」
「まあ煙草はやめてほしいんですけど匂いがつきますし」
「は? なんでお前の都合にあわせにゃならんのだ。出て行く」
「とか言いながら人のアマゾンアカウントでクッションポチるなよ」
「此処ちゃんと佐川配達してくれるのか?」
「クロネコで来ますよ、それ」
「住所あるのか、此処」
「なかったら困るだろっていうかこれ横幅幾つあるんです? 人間の縦幅くらいありません?」
コーヒーを淹れたマグカップが顔の横にきて、ソファの後ろから覗き込まれたのが分かる。コーヒー、こぼすぞ、と注意したら置いてください、と渡された。流石に断る理由もないので言われたとおりにしてやる。
「傷、」
そのまま、空いた手が首に回された。
「手当てしますよ」
「されたくない」
「そういう我が侭を生命助けた人間に言っちゃいます?」
今までもやってたじゃないですか、と言われると反論がないのだけれど。
聞かれたから拒絶してみようかと思ったのだ。その拒絶が通るかどうかは別として。
「アンタに拒否権ないんだよ」
華奢、とは言い難い指だった。こんなことを仕事にしているのだから当たり前か。それが、するり、と首を滑っていく。その指で巻かれた包帯を解いていく。
「分かってるだろ」
包帯なんて、するようなものではないのに。
「これ、何で絞められたんですか」
「知らん」
「目がついてるし、麻ひもとかですかね」
「だから知らん」
「これ下手したら死んでますよ。なんで把握してないんですか」
「下手したら死んでたからだろ。そんな状態で把握出来るか」
再会するより少し前、別口で関わった人間につけられた痕だった。
「ふうん、よく分からんのですが絞めたら締まるみたいな話ですか」
「知らんが、そうなんじゃないのか」
酸素が足りないとアラートの鳴る中で、ただ誰かの笑い声が響いていたことしか、覚えていない。ソファを回り込んできて、隣に座られる。コーヒーを其処に置いてしまったのは失敗だったな、と思った。使わないだろうに、丁寧に救急箱を持ってきて。薬を塗ってまた包帯を巻き直される。痣扱いだろうから湿布でも張っておけばそれで良いだろうに。
終わりました、と包帯止めから離された指が、そのままつつ、と鎖骨へと下った。
「入れ墨」
ボタンを数個外して着ている今の状態だと、それが少し、見える。別に見せている訳ではないが。
「引っ剥がされたいんですか?」
「別に意味のあるものじゃあないんだが」
「でも入れる時思ったんじゃないのか」
「好きで入れた訳じゃないから知らん」
ちょっと失礼しますよ、と手が差し入れられて、襟が広がった。
「翼、ねえ」
その半分が、目に映る。
「皮肉ですね」
腋辺りを基点として広がる、片翼のそれ。何を考えてそんなデザインにしたのか、ついぞ聞くことはしなかったな、と思う。
「アンタは今、こうして羽根をもがれているのに」
「…もいでいる自覚があったなら何よりだ」
もう良いか、と言ったら思いの外素直に手は離された。
でもそのまま隣に座ってコーヒーを飲まれたからマイナスだった。
4
風呂が沸いた、というお知らせの音で瞼を押し上げる。どうやら少し眠っていたらしい。そのままぼんやりしていたら、玄関の鍵のあく音がした。そういえば今日は仕事だと言っていたな、と思いながらも起き上がる気になれない。扉が開いて室内の風向きが少し変わっても、特にそれらしい香りはしなかったな、と思う。再会時のように血や硝煙の香りがするかと思ったのだが、どうやらそういう仕事ばかりではないらしい。単にあの時がそうだっただけなのだろうか。そういえば未だ環境適応期間なのか、仕事を手伝えと言われることもないな、と思った。まあどうせそのうちに言われるのだろうけれど。
足音が近付いてくる。余計に、よく感じる。
「………アンタ、何で床に転がってるんだ」
「うん」
床に、転がっているから。余計に、足音が分かる。
「うん、じゃないんですけど。ソファに座るのそんなに嫌です?」
「座り心地の良いソファだよな」
「会話する気あります?」
「ない」
「風呂、入りました?」
「さっきたまった」
「会話してくれるんですね」
「風呂の話だからな」
起き上がる気配がないことを察したのか手が、伸びてくる。そのまま顔の横につかれて、覆いかぶさられるような形になった。脚と脚の間に膝が割り込んできて、逃げ道を塞いでいく。…いや、逃げようと思えばまだ余裕があった。手首を掴まれている訳でもないし、別に掴まれたところで抜け出し方くらい知っている。それくらいは出来た。別に枕営業をよしとしていた貞操観念の死んだ部分はあったが、誰彼構わず足を開いていた訳ではない。そこまで自分を安売りするつもりはなかった。というか、そんなことをしたら相対的に価値が低くなってしまうので適度にいなすことだって必要だった。出来たら一生いなし続けていたかったこともあったなあ、と思う。首の件だとかもそのうちの一つだ。何も言わずにじっと、見つめられる。
「お前、」
ふと思い出したのは、最初の台詞だった。
「人の心なんて獲得していないくせに」
床に転がったまま言う。どうにでもしてくれの合図。恩の押し売りをされたのだからこれくらい仕方ない、と思う。そう、仕方ない。何が楽しいのか分からないけれど、つまるところのマウント行為なのかもしれなかった。これが別の人間だったら、実は前世で恋慕とやらをしていて云々かんぬん、若しくは顔が好みで云々かんぬんつまり一目惚れだとかいろいろ考えることが出来ただろうが、結局のところ元・尾形なのであった。残念ながらそういう情動とは無縁だろう。思い出してもまあギリギリ社会適応レベルで性欲はあったのではないか、くらいでその他諸々の情緒もとい感情の成熟というのがなっていなかったように思える。聞いて確かめたこともなかったしそんなことをしたところでどうせ誤魔化されたとも思うのだが、まあまあ間違ってはいないだろう。
「そう思いますか? アンタの生命の恩人なのに?」
「お前からそんな言葉が出たからだろうな」
「折角助けたのに」
「助けてやったのに≠セろ」
「そんなに信用ないですか?」
ああ、と返す前に言葉が被せられる。
「月島軍曹=v
少し、反応が、遅れた。
「………もう、軍曹じゃない」
「でもそれ以外になれるんですか?」
温度のない声だな、と思う。怒っている訳でもなければ、面白がっている訳でもない。前でも感情の動きの読めない奴だとは思っていたが、この件に関しては本当に答えが出ない。気まぐれ、と言われてしまえばそれで終わりなのだろうが。
助ける理由なんて、何処にもなかったのに。
「まあなれるでしょうね、アンタなら。なれてなかったらこんな傷、アンタがつけさせるはずがない」
もう首の痕は消えていた。痕があったことすら分からないのに、いつまで言い続けるのだろうか。するり、と指が首を回って、真ん中に行き着く。前であれば喉仏があったような場所。いや、今でもそれらしいものはあるにはあるのだが、やはり男のそれよりは目立たない。
「この首のとこのピアス、なんて言うんでしたっけ」
「知らん」
「知らんものつけたんですか」
「空けられたんだよ」
「だろうと思いました」
流れに身を任せてるの、つまらんでしょう、と言われる。別につまるつまらんで生活をしていた訳ではない。
「刺しとくの、やめませんか」
「………遺品だから」
「またまた。どうせ俺≠ノ言われるのが嫌なだけなくせに」
息が。
止まるかと思った。今まで一人称の必要ない会話しかしていなかったから、余計に。
「引きちぎっても良いですか」
「…血が出ると思うんだが」
「そういうの気にします?」
「普通に痛いだろ、引きちぎったら」
「まあ、そうですけどアンタが言うとこの上なく似合わんですね」
「痛覚くらいあるんだが」
「それもそうですね」
よいしょ、と退かれる。どうやら会話は終わりらしい。
「風呂、入りますか」
「何で今の流れでそうなった?」
「傷とか、確かめておこうと思って」
今此処でひん剥いても良いんですがそれじゃあまりに情緒がないでしょう、と言うものだから、情緒の定義が分からなくなった。お前が何をしても情緒なんか伴って来やしないだろうと、今更言うのも馬鹿馬鹿しかった。
5
今更まごつく理由もなかった。もう使い慣れた風呂場ではあったし、身体を他人に見られることに抵抗らしい抵抗をしても無駄だと思っていたし。何せ今のこいつは持ち主≠ネのだし。一応生命があるものだと認識されているところを見ると、飼い主と言った方が近かったのかもしれないが、まあ、最初に拾得物と言われたのが尾を引いている。尾形だけに。いやこれあんまり面白くないな。
そういう訳で何も着付けない状態で、一度も同時に使われたことのない風呂椅子に腰掛けて向き合っている。風呂椅子って言ってからこういうのはバスチェアと言うべきだろうか、と思ったがどうせ口に出さないのだ、どちらでも良かった。箱型のそれに江戸切子みたいな模様が刻まれている。いや本当に江戸切子な訳がないのは分かっているけれど、そういう表現しか思いつかなかった。いちいち趣味が良さそうなのが置いてある生活にも慣れてきてしまって、本当にお前が選んだのか、とは結局聞かないまま此処まで来てしまった。
視力は良くない方ではあるが、眼鏡を外したからと言って何も見えなくなる訳ではない。シャワー温度調節出来ましたよ、とこちらに向けてくるのをじろじろ眺めるのもどうかと思ったが、どうせこちらはじろじろと眺められるので遠慮などしないことにした。遠慮するだけ無駄だった、こいつに良心など砕いてやるのも馬鹿馬鹿しい。
「………人のこと言えなくないか、お前」
「思ってたよりもアンタは小奇麗だな」
「小奇麗て」
「腹にも傷がないし」
するり、と。
指が肌の上を滑っていく。シャワーの湯と共に。前=A確かに其処に傷はあった。それを忘れたことはない。でも別にあれが死因だということはないし、生まれ変わっても残るようなものではない。咄嗟に浮かんで死因とか思ったけれども死因の場所に傷も残っていなかったし、やはりああいうのはロマンチストが勝手に提唱したものなのだろう。見覚えのない傷や痣に納得したい人間の悪あがきなのだ。残念ながらそこまでお花畑な思考は出来なかった。こんなふうに前の記憶が残っているのに言うことではないのかもしれないけれど、きっと前の記憶が残っているからこそこんなにも現実的にしかなれないのだった。お湯熱くないですか、と問われて別に適温だったので別に、と返す。というか、これはもしかして身体を洗われる流れだろうか。ぬいぐるみのような………シャボンボール、が湯にさらされる。それが向こうの手を離れる様子がないまま、泡立てられていく。最初から泡で出てくるタイプのボディーソープを更に泡立てる必要はあるのだろうか。思うことはたくさんあったけれども何を言うのも面倒で、ただ発された言葉だけに返す。
「…前と混同してるだろ。内臓出すような怪我をこのご時世にホイホイ出来るか」
「それもそうですね。トラックに轢かれたとかじゃないと無理そうだ」
「それはそれで死ぬと思うが」
「そうですか?」
「人のことをなんだと思っているんだ…」
泡が、落ちていく。人に身体を洗われることがこんなにも落ち着かないことだとは思わなかった。そういうプレイが好きな人間がいることを身をもって知っていたはずなのに、これはそういうものではないのが分かってしまうからか。自分ではなかなか手の届かない場所が丁寧に洗われていくのを待つ間、一体何処に視線を投げておけば良いのだろう。背中にも傷ないんですね、と言われて、前だって真面に見たことなっただろう、と返す。
「でも背中って、目立たないじゃないですか」
「目立たなければ良いという問題でもない」
「ははあ、見せつけるために首なんかに痕をつけたりするんですかね」
「根に持ってるのか」
「何を」
「繰り返すから」
「そういう訳じゃあないんですけどね」
まるでアンタが遅れを取るのを許しているみたいで、気に食わないじゃないですか。
言葉は、再びひねられたシャワーの音に消えていった。
6
ざばざばと泡が流れていく。掌が肌を払っていっても何もない。それが逆にむず痒く感じてしまう。困ったな、と思う。別に何もないならそれに甘んじれば良い。甘んじるまではいかなくても、状況に適応していけば良い。ただそれだけ、今までと同じ。そう思っていてもどうしても情報が先んじる。もう、月島軍曹≠ナはないと言ったのは自分なのに、ならばこいつだって尾形≠ナはないはずなのに(実際に呼ばれていた名前はまったくもって馴染みのないものだった)(偽名かもしれないというのはさておき)、どうしたってその情報から逃れられない。
―――あの、
扉が、蹴破られた、時。
顔を見るよりも先に、分かった。きっと殺気だとか、そういうものだった。何もかもが変わってしまっていたのに、面影が残っているだけで、この世には同じ顔の人間が三人いるのだとそんな馬鹿なことを唱えるだけで済んだはずだったのに。
どうして、分かってしまったのか。音より先に空気を裂いた殺気が、底に沈めたはずの月島軍曹≠引っ張り出す。まるで、引力が働いているかのように。自分は当事者であるのにあまりにも無力だ。
この世界に生まれたのは自分のはずなのに、ぐいぐいと引っ張り上げられて。
「まあ傷は少ない方が良いですよ」
「…そうか」
「一応平和な世の中ですしね」
「お前が言うか?」
「アンタも言えませんよね」
「こんなのは、ただの…運だ」
「そりゃあ相当悪いクジを引いたんですね」
そういうお前はどうなんだ、なんて聞くつもりはなかったのに。
「これはですね、」
聞いてもいないのに説明が始まる。
次は頭洗いますんで、と指示を出される横で、挟むように言葉が続いていった。どうやら勝手に話すらしい。まあいつものことではあるので何も言わない。
「女に生まれたんだって思って、最初は納得したつもりだったんですよ。でも、成長するにつれてどんどん、記憶の中の母…前の、母に、自分が似てくるのが分かりましてね」
丁寧に髪が梳かれる。どうしてこんなところに櫛があるのかと思ったら毎度こんな面倒なことをしていたのか。そうは思っても気持ちが悪い訳ではないのでされるがままだ。いや訂正、大分気持ちが良かった。美容院に行ったのも結構前な気がしていた。そろそろ髪をすきたいな、と思った。髪の長さを変えるつもりはなかったけれど。
「それって、嫌じゃあないですか」
ねえ、そうでしょう、とシャワーが再び持たれる。これまた丁寧に髪が濡らされていく。シャンプーが手に取られるまで結構な時間が流れたような気がする。目、瞑っててください、と言われてそれに素直に従うのは拾得物の自覚があるからか、それとも先程の櫛が気持ちよかったからか。これでは本当に動物みたいだ、ペットみたいだ。ブラッシングで気を許すなんてあんまりにもほどがある。
「………お前の、母親のことなんか知るか」
泡が立つのははやかった。痛かったら言ってくださいね、と指圧が始まる。本当に美容師みたいだ。そんなことを言ったら調子に乗るだろうので言わないけれど、あとこいつに鋏を持たせるのは危険だとも思う。もっと危険なものを持っているのを見たことがあるのに。
「どちらの、ことも」
「まあ、アンタならそう言うって分かってましたけどね」
はい、流しますよ、と再び上を向くように言われる。丁寧な指が、今だって人を殺したことがあるはずの指が、そんな気配微塵もさせないで髪の間を通っていく。ひどく、やわらかく。しなやかに。
「これが原因なのか、それとも他の要因なのか、性欲はあるみたいなんですが、あー…なんて言うのが正しいんですかね、オーガズム? で、伝わります?」
「………まあ、なんとなく分かったからそれで良い」
「まあ、それ、そういうのが、分からんようになりまして。所謂不感症? みたいな感じなんですよね。医者とか行ってないんで何とも言えんのですが」
「どうにかしたいのか?」
「いいえ、まったく」
最後に軽く髪を絞られて、はい、終わりです、と言われる。顔に泡残ってませんか、と濡らしたタオルまで用意するのだからもう何もついていけなかった。お前こんな面倒なことを本当に毎回やっているのか、とすら思う。ちょっとこっち向いてください、と続けられてタオルで拭かれるのだろうと思って向いたら、項に手を添えられた。そのまま、引き寄せるようにして舌が挿し込まれる。
唾液を交換するようなキスだった。最初の時とは違う。ぽたり、と髪から水が滴り落ちるのが分かる。濡れタオルからも。犬歯が人より尖っているのか、角度を変える度に舌に当たって。項の手が反動で動く度に、ぞわり、と何かが駆け抜ける。何かに縋りたくて、でもこいつに縋るのだけは何か違うと思って、視界の端にあった濡れタオルを掴んだ。水の音がして、でもそれが本当にタオルから落ちている水の音なのかも分からなくて。さっきまで何も、そんな様子はなかったのに。
「で、アンタ、」
べろり、と名残を惜しむように舌が唇の上を喰んでいった。
「あの糞虫に何処までやらせたんだよ」
手が滑り降りてくる。項から肩甲骨、肩甲骨から腰、ぐるりと太腿を経由して鼠径部へ。その先に何があるのか、嫌というほど知っている。嫌というほど教え込まれた、誰にも教えなんて請うていないのに。
「………俺≠ノ黙秘権はないのか」
「あると思ってんですか? 俺=Aアンタの恩人ですよ」
それを、不幸だなんて言ってやれるだけの余裕もなかったけれど。
「じゃあ、私≠ノなら言ってくれるんですか」
数センチしか離れていなかった唇が再び接触するのはひどく、容易かった。
「何でもない、ただの、アンタを助けた私≠ノなら」
まるで言葉を直接流し込まれているみたいだ、と思う。触れただけの唇が、言葉の振動を伝えてくる。
「私≠フ言うことなら何でも聞いてくれるんですか」
唾液は、糸を引かない。
置かれた手に、それらしい意図は見えない。
「なら、私≠ノ教えてください」
それなら良いか、と思った。どうせ、拾得物≠ネのだし。生命の恩人≠ネのだし。死ぬほど納得はいかないが、何かが減るような話でもないのだし。
「………あの男に会ったのは、あの日が初めてだ」
「へえ?」
「お前が見たのは確かにベッド…っていうかソファか。…の上だっただろうが、あれに転がされたのも初めてだった」
「まあ、知っていましたけどね」
素直に言ってもらえて嬉しいです、と心底どうでも良いような顔で言うものだから此処は笑うべきところだろうかと少し迷う。迷っている間にまた舌が挿し入れられて、唾液を奪っていった。気まぐれなのか、ただ優位性を示したいだけなのか。よく分からないな、と思う。
「調べててアンタが出て来たから」
呼吸の隙間に言葉が詰め込まれる。理解するより先に続きが執行される。
「それでさっさと掃除したんですよ」
それじゃあまるで、あの場所に来る前にこちらのことを知っていたみたいじゃないか。
反論のように口にしたかったのに、時折遊ぶように立てられる歯の所為で何も言うことは出来なかった。
7
意外にも途中で気が済んだのか、先に湯船にでも浸かっててください、と解放された。このまま風呂で事に及ぶのかと思っていたが、そういうことはないらしい。まあ先程説明されたような気がするが、あまりにも曖昧で要領を得ないものだったため考えるのを放棄していた。前もこういう、何処か説明不足なところがあったよな、と思う。というか、自分では分かっているからそれ以上の説明が必要だとは思わない、とでも言えば良いのか。適宜聞いてやらねば必要な情報が出なかったりしたな、と。まあ、今回追求しなかったのはこちらなのでその辺りを責めるつもりはないけれど。
けれど、キスをしてきたのは向こうなのだ。これは一体どういうことだろうな、とは思う。そういえば初日にもキスをされていたな、と思い出す。あれは触れるだけのものだったけれど。まあでも、別に乗り気でなくてもキスくらい出来るか。相手の反応を窺うだけで事足りるのだから。一人で身体を洗うのをぼんやりと眺めている。風呂は気持ちが良い。身体を洗ってもらった―――訂正、勝手に洗われたのでこちらからもやり返すべきだろうか、と思ったけれども何も言われなかったのでそのまま自分でやってもらうことにした。察しが悪いとか気が利かないとか思われても痛くも痒くもないのだから、今は普通に湯船を楽しむべきだろう。
そのまま何事もなく一瞬だけ湯船に浸かって、先に出て髪乾かしてますね、と言われる。
「ああ」
「ゆっくり浸かってても良いですけどのぼせないでくださいね」
「お前じゃあるまいし」
「確かに」
そんな会話をしたものだから、長いこと脱衣所から気配が消えないことが不思議だった。ドライヤーの音も消えたのに。倒れた音はしないから、のぼせた訳でもなさそうだが。仕方ない、と思って立ち上がる。様子を見てやるくらいはまあ、お節介の類にはならないだろう。
「あれ、はやくないですか」
とかなんとか考えたのに、扉を開けた先にあったのはケロッとした顔だった。いや、一応風呂上がりだからかいつもよりは血色が良いようには見えるからいつもと同じとは言えなかったけれどもやはりケロッとした顔ではあった。
「…何してるんだ」
「待ってました」
「何で」
「髪、乾かそうと思って」
「…は?」
「アンタ、どうせテキトーにやるでしょう。今日は諦めて世話されてくださいよ」
「いや…」
「ああ、もしかして」
ニィ、と口角がつり上げられる。
「心配してくれました?」
「肯定するのも馬鹿らしく、今なった」
「でも否定もしないんですね」
アンタ、前からそういうところあったよな、と言われながらバスタオルに包まれる。
「まあほら、一緒の湯を掻いた仲とも言いますし」
「言わん。釜の飯が泣いてるぞ」
「飯は泣きませんよ」
髪もてきぱきとまとめられてから身体を拭かれて下着を渡される。そういえばこれもこいつが選んだものだったな、と思った。いや、此処に自分で選んだものはあまりないのだけれど。歯ブラシくらいな気がしてきた。
元々抵抗など無駄だと思っていたし、ここまで来て拒否するのも可笑しな話なので、そのまま好き勝手にやらせておいた。
ドライヤー、熱くありませんか、と問われる。別に熱くなかったので大丈夫だ、と答える。丁寧に水分を拭く、というより押して吸わせるような形で除かれていくのを、ただただ大人しく甘受していた。毎回こんな手間のかかることをやっているのだろうか、という疑問は喉を落ちて腹に消えた。改めて鏡越しに見遣れば確かに髪に艶がある方ではあるのだと思う。そういうものに気を遣う人間だと思っていなかったから、今まで気にしていなかっただけなのだろう。前は軍人であったのだから兎も角としても、まあ今はこうしていろいろなものが充実している訳だし、規律はないしで自由にあれこれやってみているのかもしれない。それに口を出すつもりはない。
「あーあ、」
と、そんな思考に沈んでいたら、突然ぐっと背後の身が沈んだ。別に今のは合わせた訳じゃない。
「アンタが処女だったら良かったのに」
息を止めるような真似はしなかった。
「…ユニコーンかよ」
「別にアンタの処女にしか興味ないのでそうじゃないです」
「破るためのモノもないくせによく言う」
「知らんのですか? 今の時代、何でも便利になってるんですよ。銃も大分進化してたでしょう、それと同じで」
「なんで銃と比べた」
「似たようなモンじゃないですか」
ドライヤーの音が止まる。
「殺し合いも、セックスも」
指がするすると髪の間を滑っていく。ちゃんと乾いてますね、と満足そうに付け足されて。
「ねえ、月島軍曹………いえ、月島さん、の方が良いですかね」
それから、そのまま。
耳元で囁かれる。鏡を通して、目が合っている。
「俺≠焉A私≠焉Aアンタとセックスしたいなって思うんですけど、どうですか」
「…さっきの話を聞く限り、お前はつまらないんじゃないのか」
「つまるつまらんで言えばつまりますな」
「つまるってなんだよ、日本語はちゃんと使え」
「つまりやることやる分には楽しいってことですよ。アンタをぐちゃぐちゃにしてみたいってことですね、つまり」
「つまつまうるせえ」
ドライヤーを持ったままなのが少し、気になってしまった。どうしても視界の端をチラつくから。
「まあよく喋るバイブとでも思ってくれたら良いんじゃないですか。それとも他の表現が良いですか」
「最悪すぎないか、それ」
「やりようは幾らでもあるんでしょうが、濡れもしないものを合わせてもそれこそ楽しくないと思いますし。お望みなら装着してなんやかんやするやつとかを購入しますが」
「なんでそうお前………なんか別ベクトルにえげつなくなってないか?」
「技術の進歩に合わせただけですよ」
えげつないなんて思ったこともないくせに、と言われたのには何も返さないでおいた。そのとおりだったから、肯定してやるまでもないと思った。
「ドライヤー、片付けないのか」
「…ああ、片付けます」
片付けると言っても引っ掛けるだけなのだけれど。だからそれは一瞬で終わってしまって、時間稼ぎにもならない。
「で、」
再び身を屈められ、耳に息がかかる。
「どうしますか?」
時間稼ぎ、とは言ったものの本当に時間を稼ぐ意味はあるのだろうか。
「今何にも手元にないので指でしか出来ませんけど。まあ何をセックスって呼ぶかは人によるでしょうし。俺≠ェ私≠ェセックスって言ったらそれはセックスなんですよ」
―――拾得物≠ナあるのに?
「………恩の、」
さらさらと指が髪を梳いていく。其処に人殺しの気配など一ミリもなかった。どうしてだろう、今だって、前とは違えども似たような環境に身を置いているはずなのに。何が違うのだろうか。性別、ではないことは分かっていた。そんなもので変わるようなものではないはずだ。
「押し売りをしておいてよく言う」
それくらいで変わるものだったら、きっと今、こんなところにはいないだろうから。
こっち向いてくれますか、と言われる。先が読めたが素直にそれに従う。唇が押し付けられる、押し付けられる、だけ。
「抵抗しないんですか?」
「押し売りされてるからな」
「アンタがそこまで投げやりだったとは知らなかった」
投げやりな訳ではないが、やはり言葉を尽くすのも馬鹿らしい。身が起こされて、一歩下がるのが見える。だから前を向いて、同じように立ち上がってやった。
「まあ、でも、」
手を引かれる。今度は掴むような動作じゃないんだな、とだけ思った。やわらかく―――そうだ、やさしい。とても、やさしい。そのまま、ベッドに導かれて。
「天国見せたらきっと一緒ですよね」
一緒に倒れ込んだベッドは今朝も寝ていた場所だったはずなのに、まったく別の場所に来てしまったかと思うくらいにふかふかに感じられた。
8
セックスなんて挿れて出して終わりのものだった。世間には物語になるような甘やかなものがあることは知っていたけれども、結局触れてきたのなんてそんなもので、性別が変わっても同じであってもどうせ大して変わらないのだろうな、と思っていた。何と言っても元・尾形なのだし。なんやかんやで前も箱庭に詰め込まれていたようなもので、だからこそそういった¥を持つ人間は幾らか見てきたが。結局無縁だったな、と思い出す。向こうだってそれは同じだろう、そもそも人間と真面に関わっているのを見た記憶がない。自分とは関わっていたと言われると、まあそうかもしれなかったけれど、つまり、そのレベルだった。前にこういうことになったという事実はないし、部下と呼んで差し支えのない期間のことについては兎も角、その後のなんやかんやでめでたく嫌い≠ノまで押し上げられたのだし。あと初日にしっかり言葉にしたはずだ。それを戯言と思うような人間ではないだろう。
倒れ込んだまま、腕を伸ばされる。抱き締めているみたいだな、と思う。まあ誰だってこれくらいは出来るだろう。ちゅ、ちゅ、と音のするような可愛らしいキスを繰り返している間に、下着で覆い隠されていない場所に手のひらが当てられた。風呂の余熱がまだ残っているのか、其処から熱が伝導していくようだった。シーツの温度との差で、余計に際立って感じられる。
妙に丁寧にやるんだな、と思った。風呂での行動も然り、だったけれど。まあ挿れるものも出すものもないと言ったらないのでこうなるのは必然かもしれなかったが、それでもやはり、前≠ェチラついて違和感が残る。もしも―――もしも、前が特筆するようなことのない人間だったら、こんなものは抱かなかっただろう。でも残念ながら特筆事項ばかりだった。多分メモか何かに書き出せばメモが足りなくなる。余白が足りない案件だ。フェルマーに謝ってくれ。
「やっぱり似合いますね、これ」
キスの合間にそんな言葉が落とされた。くだらない考え事をしていた所為で何について言及されたのか分からなかったが、今着付けているのは下着だけなのでそういうことなのだろう。
「なんて言うんですかね、色っぽい? 女としての身体のいいとこ取り? 女体欲張りセットって感じですよね、アンタ。それをあんなところで消費してたって言うんですから本当、勿体ない」
「今からお前にも消費されようとしてるんだが?」
「消費はしませんて」
どんな印象なんですか、と問われたのでそういう印象だ、と返しておく。まあそうでも良いですけどね、ひっくり返すだけですから、と言われて余計に分からなくなる。
やさしく、なんて。
出来る人間じゃあなかったはずだ、される理由もなかったはずだ。なのに、今この仕草はどれを取ってもやさしいとしか言えないものだった。これまでの生活と同じく、何か、見落としているような。何を見落としているのだろう、見落としている、と思うのであれば、今までの行動に現れているということだろうか。項を支えるようにしていた指が首筋を滑り降りて、それから鎖骨に到達する。触っていいですか、という言葉にはいちいち聞くな、と返した。
「聞きたいんですよ」
「意味がないだろう」
「会話してください」
「してないのはお前だろう」
「いつもしてくれないのはアンタですけどね」
じゃあお言葉に甘えて、と鎖骨から肩、肩から腕の方を巡って肋の辺りから回り込まれる。相変わらず掌は大きいようだった。ぴたり、と押し当てられて、暫く動かない。何か気に入らないことでもあったのか、と思って顔を見てみても特に変化は見られなかった。表情の分かりにくい奴だな。前も大分そういうところはあったけれど。
「………ふわふわしてる」
「は? ふわふわ?」
「言われたことありません?」
「残念ながら鷲掴みにされたことくらいしかない」
「そりゃあ、また。勿体ない」
するする、と手が動かされるのに一向に力が入れられない。セックスがしたいんじゃなかったのか、と思ったけれども急かすのも何か違った。なにせ所有物≠ネので。
「自分で触ったことあります?」
「身体洗う時に」
「それ、触ったうちに入りませんよ」
言いたいことは分かったが、何が悲しくて自分の胸を触らないといけないのだろう。いや、そっちも分かると言えば分かるけれど。そういうのが見たいという人間の存在は知っているし。ただ面倒だとは思うしその考えが煮詰まっているというだけだ。ふむふむと頷きながら、未だ掌は添えられるだけ。
「確かにでもまあ、鷲掴み………気持ちは分からんでもないですが。ほら見てくださいよ、指がこんなに沈み込む。力入れてなくてこれですよ。力入れて形変えてみたらそりゃあ征服欲も満たされますよね」
「何なんだよ実況動画かこれ? そういう趣味なのかお前」
「アンタにそういう趣味があるなら録画機材なら今から出してこれますけど。一儲けします? モザイク処理くらいはちゃんと出来ますよ。それとも美人局が良いですか?」
「美人局って漢字でどうやって書くか知ってるか?」
「びじんきょく」
「無茶だろ」
「別に、それこそ個人の感覚によると思うんですけどね。今までアンタが何やってきたか理解してない訳ないでしょうに」
今更そういうこと言うんですね、とまたキスが落とされる。もしかしてこいつキスが好きなのか。そんなことに思考を割いているとやっと、わやわやと手が動き始めた。でもそれにだって、大した力はない。
「此処のデザインが羽根っぽくて良いですよね、アンタによく似合ってる」
「自画自賛か」
「まあ、そうですね」
けれども、その分。
じりじりと遠回しに火で炙られるような心地にはなる訳で。今まで暴力的に与えられることしかなかったから、こんなふうになるとは知らなかった。くるりくるりと円を描くような動きに性急さはどうしたって見て取れなくて、これがさっきまであけすけな言葉を転がしていた奴の手なのか、と思ってしまう。
「外すの勿体ない気もしますが、アンタはそうでもなさそうなので外しますよ」
「うるさい」
「前からうるさかったと思うんで諦めてください」
「前はもっと………寡黙だっただろう」
軽々と留め具が外される。こいつ今見もしなかったし片手で外した。手慣れているのか、それとも単に器用なだけなのか。これで今回も男だったらさぞかし腹立たしいことになっているだろうな、と思った。
「そうでしたか?」
「少なくとも記憶ではそうだった」
「へえ」
「何だ今のへえ≠ヘ」
「記憶に残っているんだな、と思って」
記憶が残っているんだな≠ナは、なかった。その意味が分かってしまって言葉を失う。言った方は言った方で気にしていないのか、はい、腕ちょっと上げてくださいね、なんて言いながら下着を取り去っていく。サイドテーブルに畳んで置くのはどうなのか、と思ったけれども本当、いちいちツッコんでいたらキリがない。
「照れないんですね」
「さっき散々見られたからな」
「そういうとこ、変わってませんよね」
「逆に聞くが、こんな記憶があって簡単に変われるとでも思ってるのか?」
「まあ、わりと思ってますよ」
「………その割にはお前は変わっていないようだが」
「ええ、これでも努力したのに?」
―――努力。
お前が、と思った訳ではない。これ以上なく努力という言葉が似合う人間だと認識していたはずだ。それでもそれを口にするところはついぞ見たことがなく、だから一瞬、言葉に詰まった。
「はいはい、舌出してくださーい」
「逸らして良い話題なのか」
「良かあないですけど、まあ、今する話でもないですからね」
ほらこうやって、とお手本のように出された舌を真似ると、すぐにぺたり、と合わせられる。唾液と唾液が混ざり合って、飲み込めなかった分がシーツを汚していく。それに追随するように再び手が戻ってきて、今度は何の隔たりもなく触れた。
ん、と声が漏れる。鼻にかかったような声。
「心臓の音、すご」
「…うるさい」
「そこで風呂入ったからとか言い訳しないの、アンタらしいですよね」
「だから、うるさい」
手を何処に置くのが正解なのか分からなくて、間のシーツを掴むことにした。緩やかに坂道を散歩するような速度なのに、それでも身体は性感の拾い方を覚えている。僅かな刺激を必死に追い掛けるように、じわじわと熱が身体中に広まるように。
「もしかして、」
小さく、揺れたのは腰だった。自分の身体のことなのだからちゃんと、追えている。
「期待、してもらえてます?」
「………うるさい」
「今のは照れ隠しと取っていいですか?」
「…ちなみに他はどう思ってるんだ」
「八割方本当にうるさいと思ってるとは思ってますよ」
「認識が正しそうで本当腹が立つな」
「じゃあ二割が照れ隠しというのは肯定してくれるんですね」
「本当にお前うるさいな」
「今のは八割の方ですね」
絡ませるように、足が割り入れられた。浮いた隙間に指が落ちる。
下着、一枚。
それだけと言えばそれだけだったけれども、隔たりとしては充分な機能を果たしている。
「直接触ってなくても、あついのが分かる」
充分すぎる機能を、果たしている。
「なあ、」
指は置かれているだけ。それ以上の刺激を与えることはされない。
「直接さわりたい」
空いている手を動かすな、とばかりに腰に当てられたら、自分で勝手に動くことも出来ない。
「いいですか?」
流石に此処まで来て引き返すようなことをするつもりはなかった、それに今は所有物≠ナあるのだし、聞かなくても良い気がするのだけれど。いちいち合意であることを仄めかなさいと気が済まないのだろうか。
「…察して、欲しいんだがな」
「聞きたいんです」
「強情だ」
「我が侭だって言ってくださいよ」
「お前が我が侭なんて可愛らしい言葉で片付くか」
「そうですか?」
「そうだよ」
ため息。
「………さわれ」
「は、」
漏れたのは、何の笑みだったのか。
「アンタ、やっぱりそういうの似合うよな」
「そういうのってなんだ」
「命令」
「別に命令した訳じゃない」
「でも可愛くおねだりした訳でもないでしょう」
それもそうだが、そういうのがお望みだったのだろうか。もしそうだったとしても、言わなかった方が悪い。
「では、お言葉に甘えて」
前言撤回をするつもりはなかった。なかったけれども、指がそのまま滑り込んで来ようとするので慌てて止めた。手を掴んで止めるという、今までやったことのないことをやった。やっぱり嫌ですか? なんて思ってもいないことを問うてくるこいつの横面を一度張り飛ばしても許されるだろうか。一度息を吸って吐いて、それから顔を見据える。いや別に、そこまで重要な話でもないのだけれど。
「…下着、伸びるんじゃないのか」
「下着こそ消耗品ですよ。そんな劣化気にするくらいなら買い換えれば良いですし。それに、」
何故そんなことを気にするのか分からない、という表情で首を傾げられる。いつもこれくらい分かりやすかったら良いのに。
「どうせ、あとで着替えるんですから」
「…それとこれとは違う話だろう」
「そうですか?」
「そうだよ」
「ええー」
「ええーとか言うな」
「脱ぎたいならそれは止めませんが、やっぱりこの色、アンタによく似合っているので」
もう少し見ていたいです、と我が侭のようにキスを落とされたら、頷くしか道はなかった。
9
まあどちらにせよ一時中断になったことですし、体勢でも変えましょうか、と起き上がるのをぼんやり見ている。そういえば風呂から出てそのままだから眼鏡がないんだよな、と思った。別に、ないと死ぬほど目が悪い訳ではないけれど。あと普通に距離が近いので表情が見えないなんてこともない。見えたところで読めるかというと微妙な話になるのだが。
ベッドの縁に腰掛けて、膝に乗るように言われる。重いぞ、と言ってはみたものの人間の標準的な重さでしょう、と少しズレた解答が返ってきた。
「気になるならこの辺に手でもついててくれたらまあ、少しは軽減されるんじゃないですか」
なんにせよ死体よりは軽いですよ、意識がある分、と続けられたので諦めて指示に従ってやることにした。死体と比べられてはたまらない。ぽんぽん、と示された膝の上に乗り、脚を下ろす。揃えられた脚を跨ぐような形になっているので自然と広がる形になったけれど、これからのことを考えたらこっちの方が都合が良いはずだ。手はこの辺、と示された通り膝についてやることにした。
こちらの体勢が整ったのを確認したのか、よいしょ、と肩に顎が乗せられる。それからヒュウ、と口笛が吹かれた。夜に口笛吹くのはよくないんじゃなかったのか。
「これはこれで絶景と言いますか」
「絶壁に何を言われても」
「密着出来てよくないですか」
「ポジティヴすぎんだろ」
確かに密着と言えば密着だったけれど、背中に当たる布の気配がどうしても気になってしまう。別に相手が着衣だろうが全裸だろうが気にしたことなどなかったのに、どうして今気になってしまったのだろう。
そんな葛藤を見透かすかのように、ああ、今脱ぎますんでちょっと待っててくださいね、と言われる。いやお前が脱ぐ必要は、とは思ったけれども一瞬前に気になってしまってはいたのでそのまま言葉を飲み込む。なんだか此処に来てからというものそんなことばかりな気がする。落ち着かない。
「ほら、今度こそ密着ですよ」
「別に頼んでない」
「頼まれてませんからね」
「押し付けがましい」
「そういう性格ですので」
心底楽しそうな様子で人の胸を揉まないで欲しい。自分にはないから物珍しいのだろうか。この体勢にさせたのもこれが目的だったのかもしれない。いやもう何を言うこともしないけれど。所詮拾得物≠ネので。
肩口で、ふ、と笑い声が聞こえる。
「そんなさみしそうな顔しないでもらえますか。置いてけぼりにされたうさぎみたいだ」
「うさぎは存外無の表情をしているぞ」
「へえ、飼ったことがおありで?」
「ないが」
「ああ、何処ぞで飼っているのを見たんですか。それで、アンタも一緒に飼われていた?」
「………人をヒモが生き甲斐の人間みたいに」
「そこまで言ってませんが?」
「言ったも同然だろう」
「アンタは少し、ネガティヴが過ぎますよね」
半分で足して割ったらちょうど良いのかもしれませんね、なんて。何処をどう見たらそんな言葉を吐けるのか。
「大丈夫ですよ」
顔上げてください、と言われてそのとおりにしてやるとキスをされる。やっぱりこいつ、キスが好きなのだろうか。首をひねっている状態なので少し苦しさはあるが、まあ今までを考えるとそうでもないだろう。それに、やっぱり、丁寧だ。歯列をなぞって、時々遊ぶように歯を立てて。押し付けがましいとさっきは言ったが、ちゃんとこちらの反応を窺っている。
ぷは、と唇と唇が離れると、その間で短く、銀糸が引いた。それを綺麗に舐め取ってから、にこり、と笑われる。…胡散臭い。
「ちゃんと続きします。飽きてなんていませんよ」
「別に、どっちでも良い」
「どっちでも良かったら此処に座ってくれなかったんじゃないですか?」
それに、と言葉の横で手が目元を滑っていく。
「そんな可愛らしい顔をされたら飽きることなんて出来ませんよ」
いやどんな顔だよ、という言葉はやっぱり口からは出ていかなかった。
水音がしている。大して激しい動きをしている訳でもないのにそれが分かるのは、自分の身体の状態は自分がよく分かっているというのと、恐らく意識が他に巡らせられるほど余裕があるから、なのだろう。今までもあれこれ言われたりしたことはあれども、ここまで意識に食い込んできたことはなかったはずだ。最早いろいろ通り越してエグいとすら思う。
「あつ…」
とは言えそんなことを思っているのはこちらだけのようでひどく真剣味を帯びた声が落ちた。そんな感動したように言わないで欲しい。
「このまま間違えて指はいりそう」
それは間違いなのか? とは思ったけれども、独り言のようだったので放っておくことにした。それに、何処までやるのかなんて言われていないのだし。
「いつもこんななんです?」
「な、にが」
「好きでもない…嫌いな相手とでも、これだけ濡れるんです?」
心臓が、うるさい。
密着した場所から、鼓動が恐らく伝わっている。その割には向こうの鼓動は分からないのだから感覚はままならない。
「なんてね」
ぱく、と唐突に耳を喰まれて思わず、ひ、と声が出た。
「此処に来てからアンタ、食事ちゃんとするようになったでしょう」
「そうかも、な」
「水分もちゃんと摂るようになった」
「何が、言いたい」
「風呂だって毎日ゆっくりしっかり浸かってる」
「だ、から…ッ」
「好きなものを買って、好きな本を読んで、のびのび暮らしている」
弱監禁生活(軟禁と言わなかったのは軟禁では強度がなさそうだったからだ)に対してのびのびという言葉を使うのはどうかと思ったたしこれは流石に言おうと思ったけれども、舌がぬろ、と耳の中に滑り込んできて構築されかけていたはずの言葉が破綻した。意味を成さない言葉が漏れいでるのを必死にこらえる。
「つまり、出来るだけストレスを取り除いてある状態なんですよね、今」
声を出せ、と言われるかとも思ったがそういうことはなく、少し様子を見るようにしてから舌は戻っていった。ほ、と息を吐く。相変わらず喰まれてはいるが、さっきほどではない。
「…人、を、」
だから、今度は言葉を発せる。
「屠殺される、豚の、ように」
「牛の方が良いです。牛肉好きなので」
「知るか」
「知ってくださいよ」
何処の部位が好きです? と問うてくる声は弾んではいたが、ただそれだけと言ったらそれだけで、こちらだけ追い詰められているようで気に食わなかった。元々そういう話だったので仕方ないと言えば仕方ないが。
「今度、焼き肉行きましょう」
「…出掛ける、のか」
「別に出掛けるのだめって言った記憶はないですよ」
確かに、そう言われてみれば。聞いてもみなかったのは自分だった、聞かなければ真面に答えなんて得られないと分かっていたのに。
「それともお誘い待っててくれたんですか?」
それはそれで嬉しいですけどね、と言われる。そのまま耳弱いんですね、と続けられるけれども今までそんなふうに言われた事実はまったくもって本当にないし耳を弄られたのだって初めてではないはずなのにこうなっているのでつまりお前が悪い―――と言いたいところだったがそれを口にすれば喜ばせるだけに終わりそうだ。別に喜ばせたくてこんなことをしているのではないし、そう、拾得物≠ナ生命の恩人≠セからこんなことをしているのであって、別にサービスでも何でもないのだ。それを忘れたくない。だから無駄に喘いでみせたり求めてみせたり、そういうことは言われた時にやれば良いのであって、言われない限りやらなくて良いはずだった。
「気持ちいいなら好きなだけ気持ちよくなってくださいよ」
なのに。
思考が離れていく、身体が制御を失っていく。
「逃げようとしてるのかもしれませんけど、身体浮かしてくれるとこっちとしてはやりやすくなって助かります」
腰に、空いている方の腕が回った。それが逃さないためではなく、膝から落ちないようにするための安全装置と分かってしまう。
「―――ァ、ぅ、く…」
「ちゃんと支えてますからね」
大丈夫ですよ、と耳に軽く歯を立てられてから再び舌を挿し入れられたらもうだめだった。膝についている手に力がこもる。指先が白くなるくらいになって、多分、これでは痕が残ってしまうのに。
腰に回っている腕の感覚だけがやけにはっきりしていた。
自分の鼓動がうるさくて、もう何も分からなくなりたかった。
10
くた、となった身体を支えられながら、再びシーツの波の中へと戻る。妙な疲労感だった、確かに疲労には疲労なのだが、それにしてはふわふわしているというか。喋るのも面倒で、大丈夫ですか? との問いには首を振るだけに留めた。というか支えられた、というよりは少しだけだったからそう思わなかっただけで、形的には姫抱きだったのではないだろうか。膝の裏に手を入れられていた気がする。現場(現場)に出ているのだからそこそこの力はあるとは思っていたけれど(さっき死体運びの経験がありそうなことも言っていたし)、あまりに流れるような動きで意識出来なかった。いや、原因はそれだけじゃないような気もするが。
脱がせて良いですか、とも聞かれてこっちも面倒で頷くだけにする。やはり、なんだか妙に手慣れているが、まあこいつも女の身体なのだからそりゃあ手慣れもするだろう、と思う。てきぱきとサイドテーブルにやっぱり畳んで置いて(洗濯するんだから畳む必要はないだろうに)、それからよいしょ、と立ち上がって自分も脱いだ。いやほんとお前脱ぐ必要ないだろ。何で脱いだ。
腕が伸びてくる。少し、ぼやけていた表情がはっきり見えるようになる。…前は、こんな顔はしなかったな、と思った。いつだって何を考えているのかよく分からない顔で、口角をつり上げてみせるだけで、こんな―――こんな、感情をちゃんと、頬に乗せるような真似、は。
本当は。
前も、出来たのだろうか。知らなかっただけで。
前も、したかったのだろうか。出来なかった、だけで。それを、知ることもしなかった、だけで。
キスが落ちてくる。やっぱり好きなのかもしれない。唾液が混じり合っていく。でも不快じゃない。歯磨き粉の味が残っている。控えめなミントに似た味が、あとを引いていく。
「月島さん」
唇を合わせたまま、呼ばれる。今は月島ではないのに、それに反応してしまう。
「続き、して良いですか」
「…脱がせておいて、続きしないつもりか」
「嫌ならしませんよ」
「嫌だと言える立場だと思ってるのか」
「じゃあ、言えば良いですか? 言ったら言ってくれますか?」
今少し、会話に段差があったような気がしたが、頭がふわふわしているままなのでそのまま流す。じゃあ、って何だろう。言ったら、って何をだろう。
「…嫌なら、ちゃんと言ってくださいよ」
馬乗り、ではなかったけれど、それでも似たような状態で、二人とも何も着付けていなくて。性別だとかそういうものは些事だった、この先何が起こるのかなんて幼児以外なら誰だって分かる。
「じゃないと泣きますよ」
「…お前が泣くような人間か」
「でも生命の恩人が泣きますよ。泣いちゃいますよ。年甲斐もなく。小さな子供みたいに」
それはそれで見てみたい気もしたが、生命の恩人≠そんなふうにする訳にはいかない。…と、言い訳をしてみたものの、結局、この丁寧に芽吹かされた熱(ほて)りをどうにかして欲しいだけだった。浅ましいな、と思う。今まで相対してきた男たちと大して変わらない。
「………、」
尾形、と。
呼ぼうとして呼べなかった。でもだからと言って、他の名前で呼ぶことも出来なかった。
「つづき、」
だから、代わりに腕を伸ばす。首を引き寄せるように。実際は唇が触れ合うような距離なので、もう引き寄せる必要なんてないのだけれど。
「良いんですか」
「何度も言わせるな」
「―――はい」
了解しました、とまたキスが落とされた。歯磨き粉は甘くないものだったはずなのに、どうしてか甘く感じた。
やはり今日は水音がよく聞こえる。聞こえるというか、耳が否応なしに拾い上げていく。この部屋は広くて、特に壁が音を反響させやすいだとか、そういうこともないのに。
指は、すんなりと入った。ひどくゆっくりな動きに、こちらの反応をじっと窺うような動きに、どうしてもついていけなくて顔を覆う。口も抑える。ゆっくりなのについていけないというのはこれ如何に。変な話だとは思ったが、そう思ったのだから仕方がない。顔や口を覆う手の甲にキスを落とされただけで、引き剥がされたりはしなかった。ただ、噛んだりはしないでくださいね、と言われただけ。手の甲をなぞっていく指には胼胝があった。ああ、やっぱり、今でもあるんだな、と思う。
―――前。
一度だけ、尾形の手に触れたことがある。今よりもずっとかたくて大きくて、傷だらけの手だった。その中で、指にあった胼胝がひどく、印象に残っている。
指の隙間から見遣れば、にこり、と笑われた。慣れている、と思う。前は表情筋の使い方を知らないのではないかと思うくらいにだめだったのに。今のは、社会に適応出来る笑い方だった。馴染める、と言い換えても良いかもしれない。まあ本当に馴染んでいたらこんな暮らしはしていないのだろうが。
と、余所事を考えていたのがバレたのか、急にナカで指を曲げられた。
「ッ、あ」
びくり、と肩が跳ねる。
「此処ですか」
「ま、まて」
「はい。待ちますけど、ゆっくりされるのと、ちょっと強めにされるの、どっちが良いですか?」
それなんか変わるのか。
そう聞けてしまうくらい無知だったら良かったのかもしれない。
「どっちが良いとか分からなければ、どっちも試してみますが」
「い、いや…」
「分かってるんですね」
「そう、だけど、いや、そうじゃなく、て」
そうだ、そうだけどそうじゃないのだ。手を、ゆるゆると外していく。こんなにベッドの上での自分の動きが、たどたどしいものになる日が来るなんて思ってもいなかった。
そして、恐らく向こうから顔がしっかり見えるだろうことを確認した上で。
「お前の、好きな方、は」
いや、どんな答えが返ってくるかなんて分かっていた。分かっていたけれども、これはもうサービスだとかそういうものに分類した方が楽なのではないかと思って言った言葉だった。きっと伝わる、これだけで分かる。そういう賢い人間だった、賢さを地続きにさせてしまった人間だった。
「月島さんが、」
だから、そんな戯れには乗ってくれない訳で。
「気持ちよくなれる方」
―――逃げ道を。
塞ぐような行為だった。自殺行為。そんなことは分かっている、逃げ道はあった方が良い、あった方が良いのに、今失くしてしまった方が良い、という気持ちにもなる。あった方が楽になれるのに、失くしてしまった方が、その方が―――真面、だなんて。そんな、ことを。
「………、なん、で」
「なんで、って言われると難しいですね。でも、ほら、セックスなんですから気持ちよくてナンボじゃないですか」
「だって、拾得物=A」
「だからって気持ちよくしてやっちゃだめって理由もないでしょう」
それは確かにそうだった。拾得物だと言うなら、持ち主だと言うなら、それをどう扱うかはその人間に一任される。今まで、あまりそういうタイプに捕まっていなかったというだけで、そういう人間はいなくはない。
と、理屈では分かっていても、どうしたって前≠ェ過る。どうしようもなく、人間が下手だった男の顔が、過る。
「ちょっとは、」
性別が変わっても面影は残っていた。特に、その、死にきった目とか。
「成長、したと思いませんか」
「…それは、」
何もかも、人間のことなんて分からない、人間の遣り方なんて分からない、といった顔ばかりしていた男の顔が、過ってしまって仕方がない。
「………どうして、」
「どうして、なんでしょうね」
嫌い、だった。それは正しい、前≠ェ、月島が、死ぬ時に尾形に抱いていたのはそんな感情だった。憎しみですらあったと思う。それを果たせないまま死んだのが心残りとまでは言わないが、生まれ変わったところでそれが覆され消えるようなことはない。
「前、は………」
向こうにしたってそうだ、月島は尾形に何かしてやったような記憶はないし、こんなふうに拾われる筋合いだって本当はない。ない、はずなのに。本当はある、みたいな、そういう。
「アンタのこと、そうやって見たことなかったのにな」
違和感を、浮き立たせるから。
「たぶん」
「多分かよ」
「だから努力したんですって」
「努力中の間違いじゃないのか」
「それはちょっと否定出来ませんね」
膝頭にキスが落とされる。指が動かないようにの配慮なのだろう。
「ずっと、」
答えを待っている。
「思い出してました」
仕掛けて来たのだからそのつもりがあるのだろうと、発破をかけてくる。
「前のこと、何度も何度も、話せる人間なんかいなかったから、一人で。自慰行為みたいですよね、アンタが生まれてるかどうかも分からなかったのに。でも、いんのかなって、そんなこと思って、だから」
探してました、それで、見つけました、なので、拾いました。
銃口を突き付けるように、微笑まれる。そうだった、同じだった、殺し合いもセックスも。似たようなものだった。だからきっと、此処から積極的に出ていこうとは思わなかったのだろう。
―――ずっと、知っていた香りが。
此処にはあるから、脳にこびりついて離れなかった戦場の匂いが、此処には、あるから。
気付いたら、ゆっくり、と唇が紡いでいた。知っていたとばかりに指が泳いでいった。
はは、と笑みが齎される。
「アンタの身体、今までどんな扱い受けて来たんだよ」
「どう、せ…ッ、知ってる、だろ…っ」
「はい。知ってますけどね」
何度、と数えることは無駄だった。細かな波を一つにまとめ上げるように、切り口が分からない。
「嬉しがってる」
身体中の熱が、ぐるぐると巡ってそれからまた腹へと戻っていく。其処が身体の中心だと言わんばかりに。
「丁寧にされて、もっとって言ってるの分かるだろ」
その熱を集めて、ぎゅう、と押し込めて。そんな作業が行われているみたいに。
まるで別の生き物みたいだった。意識を断絶させるかのように、瞼の裏で火花が散って、星が瞬いているみたいだ。連続しているのに一つひとつが独立しているようで、自分が幾つにもなっているみたいで。
「キス、好きですか」
「ん、」
唇が触れ合う度に舌がもっと、と蠢く。
「する度に、ナカが締まる」
それと連動するように下腹がきゅう、と鳴く。焼き切ることもされない生殺しの理性が、それでも腕を伸ばせと叱咤した。
「可愛いですよ」
力のうまく入らない腕を上手く首に引っ掛けて回収していく、その器用さに腹を立てることも出来ない。
「アンタがこんなに可愛い生き物だとは知らなかった」
キスとキスの間に言葉を詰め込まれる。絶対に落とすな、とでも言うかのように。
「やっぱり、拾って正解だった」
人をモノのように、と思うのに、指先があまりにもモノ扱いとは程遠いもので気が狂いそうになる。拾った、それは事実で、手放されない限りきっと此処で暮らしていくのだろう、ということは考えていた。でもその反面、いつ要らないと言われるかも分からないんだよな、とも思っていたのに。
「月島さん、」
「ひ、ぁ」
「此処、すきですか」
此処、が何を指すのか一瞬考えてしまった。白く閃くものが思考を途切れ途切れにさせる。
―――でも。
「わ、か…、らん」
「そうですか」
「だ、から、」
どうせ、終わりが来るなんてことを思うのなら。
「おまえが、みつけろ」
きっちり付き合ってやろうと思った。どうせ行く宛などないのだし。前の因縁やら何やらも盛りだくさんな訳だし、ネタに困ることはないだろう。時折暮らしの丁寧さについていけないことはあるけれど、貧乏舌がこの生活に慣れきることなんてないのだから心配することなんて何もない。
「それで、おしえろ」
ぐっと背中が丸まる。自分から動いたような形になって、喉が震えた。
「―――うん」
こどものような音がする。
「すきなだけ、みつけますよ」
キスが降ってくる。言葉を封じるような、息が出来ないような、でもそれだって気持ちがいいような。
「だから、つきしまさんも、すきなだけ、みつけて」
シャワーを浴びて(そのシャワーの間にもなんやかんやあったのはもう省かせてもらう)(シャワーに打たれながら女とは言え人間一人をしっかり支える腕力があることがよく分かった)、新しい下着を着付けて。今度こそ部屋着も着て、ベッドに倒れ込む。折角丁寧に洗ってもらった髪だったのに、二度目のシャワーで台無しになったような気がする。でも満足したように髪を弄んでいるので、まあ良いのだろう。こちらは特に気にしていないので、当人が良いなら良いのだ。
「ていうか、」
一束持ち上げた髪に唇を落としながら、言葉が発せられる。こいつほんと、キスが好きなんだな、と思う。もしかしたらそれくらいしか表現を知らないのかもしれないが。
「月島さん≠ナ良いんですか」
「どうせお前、それしか呼ばないだろう」
「でも名前違いますよね」
「名前なんて、」
――― 、
耳に残る声の主は、もういない。拾われる前にいた場所だって、真面に本名で呼んでいた人間なんていないに等しかった。もしも名前に消費期限があるのなら、きっともうとっくに過ぎている。
「呼ばれなければ呼ばれなかったものが消えるだけだ」
「まあ、一理あるかもしれませんね」
つきしまさん、と呼ばれる。なんだかずっとそういう名前だったような気がしてくるから困ってしまう。いや、困ることなんてないと思うけれど。実際そういうふうに呼ばれていた記憶はあるのだし。
「アンタの名前、好きですよ。基って、男女兼用だと思いますし」
「男女兼用か? 漢字がゴツくないか?」
「全国の同じ漢字の基さんに謝ってもらえます? あとそれに、」
するり、と指が絡む。
「よりどころって意味もありますし」
それでああ、今は向き合っている状態なんだな、と思い出した。
「なあ、」
ぼやけない距離で、ひどく真剣な顔で言葉が紡がれる。
「俺≠フ、私≠フ、よりどころになってくれよ、月島さん=v
まるで、祈りのようにキスが落とされた。