夢の憂戚


 指輪が日常に馴染んできてしまった日のことだった。
 いつもどおり嫌だと言った言葉が受け入れられることはなく始まった加害行為に重ねて何か言うのも馬鹿らしく、自分の諦めの悪さにも辟易としてしまって大した抵抗をしなかったのが間違いだったように思う。いや、そもそも言葉というのは意思疎通のためにあるので、言葉によってそれが成されていない時点で問題なのだしそれを理解したあとも加害行為がいつもどおり¢アいているというのも問題なのであって、ていうか出来ることなら入籍の話が出た時に戻りたい。尾形が婚姻届を取ってきてこれみよがしに机に上に置いて話を切り出してくるまでに結構な時間はあったはずだし、その隙に捨てておけば良かった、と思う。法的拘束なんざくそくらえという話ではあるし入籍なんてしたからと言って今後絶対逃げられないと決まった訳でもないが。結局のところまたこちらの反応を窺って遊んでいるだけなのだろうと思って放置してしまったので、膝に抱えられて書くまで離しませんというような我慢比べを強いられる羽目になって、当たり前のようだが前のあれやこれやを含めても我慢比べなんてそんなものは尾形に軍配が上がるので―――非常に、非常に言いたくはないがこれは―――月島の敗けだった。完全敗北だった。
 と、そんなことを思い出している中で急に尾形がはた、と動きを止める。どうした? と聞いてやるのも億劫でそのまま放置する。
「…最初に月島軍曹が言ってたこと思い出したんですけど、」
最初に言っていたこととは何だろうか。
「ああ、ええと、なんて言ってましたっけ」
思い出したと言ったくせに考えるような動作を挟むのは、何故なのだろう。その方がそれっぽいからという以外に考えられないのだが。
「ええと…俺と種付け妊娠セックスがしたいんでしたっけ」
「そこまでは言ってないだろ!!」
思わず大声が出た。
 言った、確かにそのようなことは言ったが流石にそこまでの言葉は使ってないし、そもそもあれは逃げ出すための演技であって実際のところそんなことは微塵も思ったことがない。証拠確保に充分役に立つだろうとか気の緩みを狙えるかもしれないとか思ったのはあるけれども月島自身はそんなこと望んでいないし、今それを引っ張り出されたことに嫌な予感しかしない。慌てて抜け出そうとするも今までにそんなことが成功したことはなく、嘲笑うかのように腰を押さえつけられただけで終わった。でも似たようなことを言ったとは覚えているんですなあ、と笑う尾形が心底楽しそうで、身体が端から冷えていくような心地だった。こいつの楽しい≠ェ真っ当だったことなんて一度もないような気がする。
「まあほら、俺たちもこうして入籍を済ませてなんやかんや生活も落ち着いてきたことですし、そういうことを考えても良いかなと思った次第で」
「嫌だ。考えなくて良い」
「今のご時世なんやかんや言われるものですし、というか今日言われまして、それで月島軍曹がそういうことを言っていたなあ、と思い出したんですよ」
「思い出すな」
「あの時、本当にそう思うようになったら言ってください、と言ったと思うんですが覚えてます?」
「知らん」
「流石軍曹殿記憶力が良いですね」
せめて会話をしてくれ、と思う。足蹴にしようにも角度が悪い。それを考えて言ったのだとしたらあまりに最低だ。はは、と尾形が笑う。
「分かりますか、月島軍曹。俺がこの話題出してから、アンタの中の反応変わってんですよ」
「変わってない」
「ほら、此処、こんなに俺を締め付けてる」
 とん、と指を置かれた腹の中が一体どのような様子になっているのか、自分の身体なので分からないことはない。だが、絶対に肯定などしたくはなかった。ぞわぞわとした嫌悪感が快楽に変換されていくのは自分の身を守るための防衛機能で、尾形とてそれくらい分かっているような発言をするにはするのだが。
「まあ人間ってそういうものですし、女性の方が性感に対しての幅が広いというのはそういう、つまり、受精のための準備を整えるためであって、だから今そういう話を出したことで軍曹殿の身体がそうやって本能に従って動くのはそう可笑しくない事実なんですけどね」
「急に理論的な人間を装うな」
「あれも嫌だこれも嫌だで、結構我が侭になりましたよね」
「否定させているのはお前だ」
「まあ、そういう考え方もありますか」
 ふむ、と言いながら一旦尾形が身を引いた。まさか本当に外すつもりじゃなかろうな、と身構えたがどうやらそのつもりはないらしい。
「では、」
ひょい、と持ち上げられる。
「イったら月島軍曹もそうしたいということで」
 前言撤回、より悪かった。月島が暴れる暇もなかった。軍曹殿これ好きですよね、と言われてそんな訳あるか、と返したいのにその小さな余裕すら奪われて。
「全部把握しているの知ってると思うんですけど、特に互いの身体に問題がないのであれば今日したらほぼほぼ確実なんじゃないですか?」
快楽を刷り込まれた身体が制御を離れていく。最初から勝ちしか見えていないゲームを提示してくるのはあまりにも最低なのではないか、と思うけれどもそれを言うことすら出来ない。なんとか胸を叩いてもおざなりな爪を立てても、大した阻害になりはしない。
「まあそれだけじゃあ月島軍曹に不利すぎるので、イく前に俺を納得させてくれたら良いですよ」
ね? と小首を傾げてみせる尾形に、こいつまた選択肢を狭めやがって、という毒すら吐けない。
 この上なく嫌だった。
 この上なく嫌だったけれども背に腹は代えられない。目の前の尾形の首に手を伸ばして縋り付く。縋り付く、というかこっちは首を絞める勢いでやっているのにまったくもってそんなふうになっている様子がない。前であれば絶対に首が絞まっていたはずなのに。
「…ッゃだ、ぉねが…っ、おが、たっ」
こんな状態でも真面な判断が下せてしまうこの脳が憎い。
「お願いですか?」
「そ、…ぅ」
「何して欲しいですか」
「…や、め」
「でも軍曹殿の身体は悦んでいるようですが」
「ちが、ぅ、…からッ」
「違うようには感じませんが」
貴様分かっているくせによくもそんなことが言えたな―――と腹の底から叫ぶほどの余裕は本当になかった。導火線がみるみるうちに縮まっていくが如く、時間が積もるにつれて崖に追い詰められていく。
「ふ、ふたりが、ぃ、い」
「二人?」
「ぉ…れ、と、おが、…た、と…ふ、たり、」
閉じた目の裏がばちばちと五月蝿い。
「だか、ら、ぃ…かせ、ん、な…っ」
 シン、と動きが止まる。成功したか、とそろそろと開けた。尾形の表情は変わらない。
「―――はい」
でも、その答えだけがやけにはっきりと聞こえて。
 「何処にも行かせません」
 ぱちん、と音がした。目の裏で星が弾けたような音だった。
「―――ッっだ、ぃ、やだ…! やめ、」
律動が再開される。失敗したのか。絶望にも似た感情の中でそれでもなんとか言葉を捻り出す。
「すき、すきだから、やめ、やだ、」
おがた、と呼ぶのに返事はない。何が正解なのかもう分からなかった。今まで黙りこくっていたことなんてないくせに、黙れと言っても黙ったことなんてないくせに、どうして今黙るんだ。
「…ッだ、やだ、」
足をばたつかせたところで毒にも薬にもならない。
「な、あ…っおまえ、と、ふたり、が…ッぃい、から、」
言葉が届いているかも分からなかったが、もう月島にはこれが最後の手段だった。縋り付いて繰り返す。壊れたように甘い言葉を重ねて、重ねて。
「もう、ゃめ―――ッ」
 腕が、震えて。
 力が抜けそうになる。ずるり、と弛緩しかける身体に鞭打って、それでも縋り直す。
「…ィ…ッてな、い、…てない! ぉ、がた、おまえの、ことっ、すき、だからっイ、………ってな、い、からぁ!」
「へえ」
やっと、尾形が言葉を発した。
「じゃあとりあえずイくまで続けても良いってことですよね」
何も良くない、とは思ったものの白く閃く思考の中ではそんなもの、すぐに塵芥と化していった。

 手が、どうやら頭を撫でているらしい。意識を手放していたのか、気付いたら解放されたあとだった。特に腹に違和感はないけれど、そういうものは分かるものなのだろうか、とぼんやり考える。
「………ああ、気付きましたか」
「…ん」
「スポドリ飲みますか?」
「ん」
口移し、なんて最初はやっていられるかと思ったけれども、この状態では起き上がるのも億劫だった。大体全部尾形の所為なのでもう好きなようにやらせている。しかし何か視界が悪い。
「もうちょっと飲みますか」
「…いい」
「そうですか。いやしかし、勘違いしたまま思ってもいないことを必死に言う月島軍曹、すごく可愛かったです」
「………は?」
今、勘違い、と言ったか。
 見上げるのも億劫だった。それを察したのか尾形が回り込んでくる。
「俺、納得したじゃないですか」
「………う、ん?」
「しましたよ。でも続けないとは言ってなかったですよね?」
俺嘘吐きました? と首を傾げる尾形に、そういえばこいつは嘘を吐くのがこの上なく下手だったな、と思い出す。今もそうなのだろうか、そういえば嘘を吐かれたようなことがなかったから判断出来なかった。
「あと、そういう言葉に過剰に反応して滅多に泣かないアンタが泣いてるのもなかなか良いですけど」
指が目元を拭っていく。視界が悪いのは涙が出ていた所為らしい。もう、それすら分からないほど疲弊しているようだった。
「俺ももう暫く二人だけが良いので、まあ、そういうことにしましょうか」
再び歪んだ視界の中で多分尾形はあの見たこともないような顔を晒しているのだろうが、どうでも良かったので寝る、とだけ言った。あとは全部尾形がやるべきだった。