兎の選択


 本当に丸々三日離されないとは思っていなかった。いやそれでも一応休憩やら何やらは挟んだには挟んだのだし、ついでに食材の買い出しだとかも行ったのだけれどもこっちはこっちでへとへとであるし、頭はうまく働いていないし、ずっと手を繋いだままの尾形があまりにも嬉しそうに見えて思考を奪われるしで散々だった。今思えば外に出た時に逃げたら良かったと思うのだけれども、人間疲れていると真面な判断など出来なくなる。それでも少し気力が戻ってくれば諸々考えることはする訳で、ない知恵を絞って途中、しおらしい演技だってやってみたし言いたくもないことも言ったと言うのに、尾形は一つとしてそれらに引っかかってはくれなかった。それどころか無理して嘘を吐かなくても良いですよ、なんて言ってくる始末だ。前は嘘を言おうが何しようが一つも気にしなかっただろうに、余計な知恵つけやがって。
「それはそれとして、本当にそう感じるようになったら言って欲しいというのはありますよ」
だからその時まで取っておいてくださいね、という言葉は本気で今後のことを考えているようで吐き気がしたが。
 それにしても行動は何処までも乱暴で独断独行極まりないこちらの言葉など聞いてるようで聞いちゃいないという酷い有様であるのにそれでも所作の一つひとつに優しさというか手加減らしきもの、丁寧さが見て取れるような気がしてしまって嫌になる。知っている、所謂これはDV的な現象だ、その他諸々が最悪だから少しの良いところが抜きん出ているように感じられるだけの話だった。騙されるな、と警告をなんとかひねり出すも、内側からつくりかえられるような感覚に数秒後には掻き消される。
「俺が下手になったのかと思っていましたよ。そうでないようで何よりです」
男も女も、練習しておいてよかった、という言葉は至極最低な発言であるはずなのに、握った端から思考が崩れ落ちる。
「やはり反応がある方が良いですね。アンタが突然何も言わなくなった時にはどうしようかと思いましたが、こうして戻ってきてくれて本当に良かった。反動ですかね、感覚拾いやすくなってるみたいですし、あまり身体に負荷をかけるなというのはアンタの言葉だったってのに、それにアンタ自身が飲まれてちゃ笑うことも出来ませんな。まあ、俺にとっては都合の良いことでしかないんですけど」
もとより人間とはそういうふうに出来てしまっているのだから感覚を拾いやすいなんて言われても仕方がない。腕の中で好き勝手揺すぶられながら、閉じるという機能を失ってしまったかのような口からこぼれる声を自分のものとする認識から逃れようと足掻く。
 足掻かなけれなならないと思った。このまま、快楽に隷属してしまったらそれこそ尾形の思う壺だった。いやそもそもそんな小難しいことを考えてないような気もするのだけれど、兎に角小難しいことを考えてしまっている月島には抗うことしか出来なかった。
 そうして休日が終わる日の昼、漸くその腕の中から解放された。
「まあアンタにも仕事があるのは分かっているので」
「…休みなんて言った覚えはないんだが」
「あれ、覚えてないんですか。言ってましたよ」
「は?」
「ああ、やっぱりトんでたんですね。随分素直に仕事のことを教えてくれるな、とは思ったんですが」
アンタそういうのちょっと分かりにくいですよね、と尾形が言う。まったくもって本当に記憶になかった。
「次の休みには引っ越し作業しましょう。此処、元々一人用じゃないですし。連絡先全部入れてあるので何か手が必要だったら手伝いますし」
確かに一人暮らしにしては広い部屋だとは思ったけれど。
「でもまあ、アンタのことです。どうせ今だって物が少ないんでしょう。なんだったら俺が空いてる時間使って箱詰めしにいっても良いですが」
「………いや、良い」
「そうですか。確かに俺は箱詰め得意じゃあないですしね。その方が良いですね」
そういう意味じゃあなくて家に来るなという意味だったのだが、どうやら伝わらなかったらしい。それはそれで良い、と思った。次の休みまで、まあ、一週間。それだけあれば充分だろう。荷物は尾形が整理してくれた。服も綺麗にされている。
 この扉から一人で、外に出たら。
 今度こそ、逃げられる。
 そう考えながら靴を履く月島を見透かしたように、とん、と後ろから扉に手が伸びてきた。
「月島軍曹」
自然、扉との間に閉じ込められるような状態になる。
「逃げないでくださいね」
首筋に息がかかった。それだけで、ぞく、と背筋を何かよくないものが奔っていく。
「真逆アンタがそんなことするとは思っていませんが、アンタに逃げられでもしたら俺は、一体何を為出かすか分かりません」
 ちゅ、ちゅ、と軽いリップ音と共に乗せられる言葉はどう考えても音とは裏腹に重かった。
「アンタのこと、傷付けたくないんですよ」
―――どの口が。
素直にそう思った。お前のしたことは強姦以外のなにものでもなくてそれは犯罪行為であって、つまるところもっと簡単に言うと加害行為であって傷付ける≠フ範囲に充分に入るものだと思うのだが。それを分かっていないというのはあまりに愚かだった。愚かで、仕方がなかった。やはり生まれ変わっても尾形は尾形だった。どうしようもない。でもきっと尾形の言う傷付ける≠ニいうのは物理的な意味なのだろう。此処で逃げたら腕の一本でももがれるかもしれない。いや、逃亡防止という意味では足の腱だろうか。
「では、」
こいつならやる、と思った。こいつならやれる、と思った。
 扉が開けられる。
 尾形の手によって。
「いってらっしゃい、月島軍曹」

 何も、考えなかった訳ではない。この一生で初めてこんなに頭を回したと思う。退職届だって書いた。手が震えて上手く書けなくて、何度も何度も書き直した。逃亡先だって幾つも考えたし費用もそれぞれ計算したし、そういうことが出来なかった訳ではないのに。
―――人間は。
 例え狭い選択肢の中でもそれが他人から提示されたものでも、自分で選んだ≠ニいう事実に重きを置いてしまうと言う。恐らく月島も例外ではないのだろう、残念ながら常識の枠組みから外れることの出来た前とは違って、今の月島にはそんな胆力はない。
 一週間ぶりの、その扉が開かれる。
「おかえりなさい、月島軍曹」
前では絶対にしなかったであろう何処か制御を失ったようなその表情を、幸せそうだと言うのだと、もう月島は知ってしまっていた。