獣の拘泥
生まれ変わったら女になっていた。
いや、正しくは生まれたら前世の記憶が残っていた、なのだろう。普通は生まれ変わりなんて多分、そう多分だけれどないのだから。普通にないことだからきっと物語になるのだし、きっと言ったら言ったで頭がアレな扱いをされるだろうから誰にも告げたことはなかった。そもそもこれが本当に前世の記憶とやらなのかも怪しいのだし、それこそ母親の肚の中にいる時分に何か聞かされた話をそのまま信じ込んでいるとかの方がまだ整合性が取れる。学校で習った歴史では土方歳三は確かに五稜郭で戦死していたし、アイヌの金塊を巡ってなんだかんだなんて話は表に出ないにしても、網走監獄が此処まで有名になっている以上あの大火災を隠し通すことは出来ないだろう。だと言うのに、そんなこと何処にも書いていなかった。辛うじて蝗害はあった、と分かったくらいだった。そうなればこれはやはり誰か母親の近くに創作好きの人間がいて、こんなことがあったら面白いだろう、と話したものだったのだろう。残念なことに母親は物心つく前に死んでしまっていたので、答え合わせをすることは出来なかったが。
そういうものだと思っていた、月島基という明治時代に軍曹をやって金塊争奪戦に加わっていたトンデモ人生の人間は何処にもいなかったのだと、その人生の悲惨さを思いながら思う。いや、勿論悲惨なことばかりではなかったが総合点としてマイナスだったしそれが全部空想であるのであれば悲しむ人間が少しだけ減るのだから、そっちの方が良いに決まっている。
と。
思っていたのに。
「―――月島軍曹?」
聞き間違いだと思った。振り返ってはいけない、と思う。
仕事帰りだった、花金だった。このまま土日に突入してついでに月曜は祝日で、一人家でぐーたらの限りを尽くそうと思っていたのに。
「どうして無視をするんですか」
後ろから腕を掴まれた。雑踏の中。背後の男の声だけがやけにはっきりと聞こえる。
「月島軍曹でしょう」
「…人、違い………いや、電波か?」
「アンタなんかより一層小さくなってないか?」
「だから、」
違う、と繰り返そうとした身体ごとぐるりと反転させられて、そのまま抱き締められた。繰り返すようだが此処は往来であってつまりひと目があって。でも他人に興味などないのか、どよめきのようなものが一瞬広がって、あとはテキトーな歓声が投げられるだけに終わった。お熱いねえ、なんてお前ら人の気も知らないで。
兎に角、逃げなくてはいけない、そう思ったのに声が、出ない。
尾形だ、尾形だった。紛うことなき尾形だった。それこそ月島軍曹≠フ記憶の中の、多分トップスリーには入っていた男。…月島軍曹≠抱きたいと言って、なし崩し的にその関係を続けていた男。
「………手を、」
どうして自分の喉がこんなにも掠れているのか、考えたくない。
「はな、せ」
「はは、ご冗談を」
今なら、その異常さが分かる。同性同士で、ということではない、尾形百之助という人間自体の異常さだった。記憶の中では結局月島もそう変わりはなくて、だからなんとかなっていたけれども、最早この現世に馴染んでしまった月島ではどうしようも出来ない類のものだった。尾形も尾形で現世に馴染んでいるかもしれなかったが、恐らく現世に馴染んでいる奴はこんな往来でこんな行動に出ない。
「アンタ、嫌ならちゃんと俺を止められるでしょう」
だって今までずっとそうだったじゃないですか、そう言いながらうち、一駅先なんですよ、と言って歩き出す尾形の、腕を結局振り払えないまま。真っ白になりそうな思考をなんとか繋ぎ止める。それでも、大した抵抗は出来ないで、そういうプレイにでも目覚めたんですか? なんてことしか言われないで。プレイじゃねえよ、全力だよ、と言ったところでまたまた、と流されるだけだった。
都会の一駅なんて大した距離はない。直ぐに家についてしまって、それでもなんとか時間を稼ごうと靴を脱がないでいると真逆アンタにそんな乙女思考が芽生えていたとは、と抱え上げられた。この頃には流石の馬鹿猫でも月島が女であることを理解していたようだったが、それでもまだ足りない。靴もそのままでベッドに放り投げられる。汚れるだろう、という反論は接吻けに飲まれた。記憶にある通りの接吻けだった。確かに月島軍曹≠ネらなあなあで受け入れていたかもしれないが、月島は月島であって月島軍曹ではなかった。やめろ、と必死で胸を叩いてもそれは決定的な抵抗には取ってもらえないし、そもそも月島は記憶があると明言もしていないのにこの男、と舌打ちをしたい気分だった。掴まれている腕に痣が出来ていることにこの男はまったくもって気付かないのか、それはそれで能天気すぎやしないか、とも思ったけれどもそもそも尾形にそんな情緒があることを期待する方が馬鹿だったのかもしれない。そんなにじゃれるの好きでしたっけ、と言いながら服が剥ぎ取られていく。全力なのに、本気なのに、何一つとして敵わない。通じない。
この男に。
急所を晒すような真似が出来ていたのは、それでも自分に優位性があったからなのだ。こうなって初めて気付く、気付いてしまう。癖のように鍛えていても所詮は男と女であり神様か何かがそう造ってしまったのでその身体には明確に差異があり、それは力の出力という部分にもよく出ていて。いや、力があったからと言ってそもそも元から意識が違うのだから多分それも理由なのだろう。月島軍曹には出来たことでも、月島には出来ないことがある。だって二人は違う人間なのだから。その出来ないことのうちの一つが、尾形の受け入れ、だった。許容、と言い換えても良いかもしれない。どう考えても頭の可笑しい人間に一番無防備になる瞬間を征服される、なんて。プライドだとかそういう問題ですらなかった、生命の危機だった。でも、尾形はそんなことは微塵も思っていない訳で、恐らくこのまま事は進むだろう。そう思ったら。
ぶつり、と。
何かの落ちる音がした。
「―――月島軍曹?」
声が遠く聞こえる。多分触れられているのにそれも分からない。ああ、でもきっと、こっちの方が良いのだ。どうせこれは犯罪で月島の意思なんてまったくもって無視されたものなのだから、いちいち反応してやるまでもない。人間の身体であるので最低限のものは反射のように出るだろうから、勝手にそれで満足していれば良い。すすり泣いてやれるほど可愛らしい性格をしていなかったことが、唯一の救いなのかもしれなかった。
何か喋っている、というのはぼんやりと分かっていた。でも内容まで精査出来ない。自分の状態がどうなっているのかも理解したくないのだから、精査なんて出来るはずがなかった。完全なまぐろになった相手に飽きて諦めてくれるような人間だったら良かったのに、というのが高望みであるというのがあまりに虚しい。早く終わらないだろうか、と思う。終わったら隙を見て逃げ出して、その足で退職届を出してバックレてそのまま田舎にでも逃げよう。万が一田舎まで追ってくるようなら海外に高跳びしてやる。まあ、流石にそんな執着は抱かれていないとは思うけれど。ヤバい妄想(妄想ではなく現実らしいことがこのすり合わせで証明されてしまったのだがもう妄想で良い)には合わせてやることが大事だと聞いた。話を合わせて自分の自由を確保したところで一気に離脱するのだ。それくらいは出来る―――ぼそぼそ、と喋っている言葉が耳に入ってくる。折角まぐわっているというのに軍曹殿が俺を見てくれないというのがこんなにも悲しいなんて思っていませんでしたなあどうしたらアンタは戻ってくれるんでしょうか気持ちよくしたら良いんでしょうかねそれならそれなりに自信があるのですが軍曹殿は以前も手管だけでどうにかしようとするなと言ってましたし残念ながら快楽に屈するアンタはついぞ見れませんでしたしそういえば女の身体の方が快感には従順であると聞いたのですが本当でしょうか是非比べて教えて欲しいものですがまずは俺のことをちゃんと見てくれないと話が始まらないのは分かっているんですよねさてどうしましょうどうしたら俺のことを見てくれますか俺はこんなにずっとアンタを求めていたというのにアンタは違うのですかでは俺が物心ついた頃からの話をしたいと思います所謂初恋というのは終わっていたようなものなのでというかアンタだったのでつまりアンタの代替として抱いてみた人間の話なのですが(あまりに脳が拒否したため中略)最終的に包丁で刺されかけましてまあ勿論それは避けたんですが事故が重なって右目にものが落ちて来まして今もこっちがわが見えづらいのですよ可笑しいでしょうまるで再現みたいでそのうちこの頬にも傷が出来たりするんでしょうかねアンタがつけてくれるんですかねまだ何も反応をくれないというのは想定外です俺はどうしたら良いんでしょうかああ軍曹殿が以前大事にしろと言ってくれたこの指を目の前で切り落としてみせれば何か反応らしい反応をくれるでしょうか。
ばちん、と。
その音が何だったかを理解するよりも先に感覚が戻ってくる。
「、―――ァっあ、ぅ、…が、ッ」
身体の中を引っ掻き回されるような感覚だった。否、実際に引っ掻き回されているのだろう。反射的に逃げようとしたのに掴まれた腰に指が食い込んで、それも叶わない。
「ああ、戻ってきてくれましたか。軍曹殿、良かった良かった」
ぐちゅぐちゅ、と音を立てたのはわざとなのだろう。突然電気が通ったように復活した感覚では処理が仕切れない。引き攣れた声が抜けていった。自分の声ではないようだった。なのに尾形は気にしないのか、気持ちが良いでしょう、と嘯いてみせる。
「アンタは否定したいようですが、残念ながらアンタは紛うことなき月島軍曹ですよ」
手のひらがじんじんと痺れて、どうやら先程の音は尾形の頬を打った音だったらしいと知る。
「そんなことで怒ってくださるのは軍曹殿しかいないんですよ」
月島はもう軍人ではなかった、軍曹ではなかった。だから尾形も狙撃手ではないはずで、だから指が切り落とされようとそれは月島の預かり知らぬことだっただろうに。刻み込まれたものが疼き出す。怒りのような、もの。どうしてお前はお前の価値を失わせようとするんだという、自己憐憫にも似たもの。
「遅まきながらやっと理解しましたよ、今のアンタには俺を止めるような力がないんですよね。其処は失念していた俺が悪かったと思います。でもまあ、どうせ俺がやっと見つけたアンタを手放してやることなんて出来る訳がないのでそういうものだったと諦めてくださいよ」
「…っだ、…ぬけ…ッ」
「やっと馴染んで来たのに抜く訳がないじゃないですか」
処女だったんですか、俺のためにとっておいてくれたんですか、という言葉にそんな訳あるかと返したいのに真面な言葉にすらならない。
「大丈夫ですよ、月島軍曹。今回の俺は流石に以前より人間味があるので責任も取りますし社会に適合した人間を演じることだって相応に出来ますしアンタが望むのなら子供をこさえても良いですし籍入れるのだって式だって何でもやってやりますよ、アンタが此処にいてくれるなら俺は今度こそ何だってやります。都合よく男と女なのですしその恩恵には最大限に預かりましょう、まあ社会情勢的にどうせどっちでも良かったとそんなことを言う日も来るのかもしれませんが今はその話は俺たちには関係がないので置いといてですね、」
まるで変わらないくろぐろとしたひらべったい瞳が、それでも熱を持って月島を、映して。
「まずは今回のアンタに俺を刷り込むところからのようなので、頑張りますね」
三日と少しあればきっと思い出してくれますよね、という言葉と共に更に深く挿し込まれる熱に、月島は判断を誤ったことを知ったがもう遅かった。
尾形のそれの名前は執着だった。
「愛してますよ、月島軍曹」
生まれ変わって愛なんて名前をつけられてしまった、どうしようもない執着だった。