おしえてお姫様
この呪いが貴方のとこしえの祝福でありますように!
おはようシンデレラ
事故だった、と言えばきっと誤魔化されてくれるだろうな、と思った。
衝動的な行動だった、思考が追いつくよりも先に身体が動いて。そうやって考えると避けられなかったことの方が不思議に思えるくらいに。
「………エイトさん」
「なに」
僅かな緊張。今でもこんなことをしてくれる、とそれだけで優越を感じていれば良かったのに。事故、そうだ、事故。衝動的なものだったとしても、それだって事故に入る。嘘にはならない。まあ、嘘だろうが何だろうが、今この状況から逃げたいエイトがそれを否定するとは思えなかったが。
―――否定、
当然のように浮かんできたそれに、じわり、と胸が痛んだ。
どうして。
これは、ただの、事故なのに。
事故でなくてはいけないのに。
「ええと、スリーくん」
「ちょっと黙っててください」
「いや、そうじゃなくてさ、」
「だから、黙っててくださいってば…」
顔は、近いまま。エイトの方はどうにか距離を作りたいようだったけれど、上手い躱し方が浮かばないのかもしれない。スリーの意図が読めずにいるからだろう、エイトにしては珍しい、と思うがそもそもスリーだって自分の思考に未だ追いつけていないのだから仕方ないのかもしれなかった。事故、衝動、と繰り返せば繰り返すほど、そういう言葉で片付けたくなくなっていく。
「………あのさ、」
「ボクは黙っててくださいと言ったはずなんですけど」
触れる。
こんな簡単でベタな口封じの方法があったのに、すぐに思いつかなかったのはやはり、混乱していたからだろうか。
「………スリー、くん」
「これで、」
ぺろり、と自分の唇を舐めてみたら、信じられない、とでも言うようにエイトが目を見開いた。本当に、珍しい。今まで、こういった欲を向けられたことがない訳でもないだろうに。
「事故じゃあなくなりましたね」
「………いや、あの、」
「ぐだぐだ言うなら続きしますけど」
「しないで」
「じゃあ黙っててくれますね」
「俺に発言権はないの」
「発言するくらいなら逃げた方が良いと思いますよ」
「………」
それもそうか、と思ったのか、ふわり、と身体が浮いた。
「便利ですね」
「そーね」
「これじゃあもう、エイトさんには近付けませんかね」
「………そんな顔されると、俺が悪いみたいじゃん」
スリーくんが悪いんだからね、と言われたけれど。
本当にこれは、悪いことなのだろうか。
そんな、こどもじみた反論だけが、頭に蔓延って仕方なかった。
*
重ねるだけ
作業BGM「ディスコネクトディスコ」いヴどっと(メドミア)
さよならアリス
避けられている、と感じるほどではなかった。
と言うのも、そもそもスリーとエイトではしている仕事も得意分野も何もかもが違うのだ。同じ組織に属している、その程度。組織内の細かな派閥は違うし、接点らしい接点なんて多分、作らないとないくらいだった。
だから、避けるほどでもなかったのだろうと思う。
「あ」
エイトにとってはきっと殆ど意識なんてしなくても良いことで、恐らくそうくるだろうと思ったスリーは行動した。もしこれに勝敗をつけるのであれば、スリーに旗が上がることだろうと思う。
「エイトさん」
「えーと、スリーくん。なんか用?」
「はい」
「何? 病院の人事とかは落ち着いてると思うし、キングくんの勝手も最近ないし、あ、シックスの薬の承認の話?」
「承認の話ならさっき通過しました」
「そう。じゃあ、用なくない?」
「ありますよ」
身長差があると面倒だな、と思う。残念なことに単純な力比べでも負けるだろうし。
じりじり、と歩を進めると、その分だけエイトも下がる。スリーが本当に仕事を持ってきている可能性を排除出来ないというのが、根底の部分が生真面目なんだろうな、と思わせた。いつも、あんなにふらふらとしてみせるのに、きっと、誰よりも地に足がついているのがエイトだった。
此処は本社の廊下、広いとは言え有限だ。そのうちにエイトは壁に行き当たって、そうっと横にズレようとしたのを腕をつくことで留める。
「あの、さあ」
「はい」
「なに、」
「今更聞きます?」
「普通聞くでしょ…」
「逃げなかったのはエイトさん、貴方ですよ」
「俺は本当に用あるのかなって思ってここまで我慢したんだけど」
ちゃんと用があるなら今からでも良いから言って、と目が逸らされる。そんな真似をして、つけ込まれないはずがないのに。
「っ、?」
「特に何かつけてるとかないんですね」
「え、なに、は?」
「用はこれです」
「………スリーくん、忙しくて疲れてんの?」
「そうだと言ったらもっとしても良いですか?」
「しないで………」
やっと、額を押されて距離が取られる。ここまでしないと拒絶されないのはどうなのだろうな、と思ってしまった。自分が起こしたこと、なのに。
「エイトさん」
唇に指で触れる。其処に感覚は残っていない。身長差の所為もあって、背伸びして舌を伸ばして触れるくらいしか出来なかったのだ。…まあ、そのおかげでリップクリームかバームか、使用しているのが無味無臭であることを知れた、と言えばそうだが。
「物足りないです」
「うるさいよ…」
「せめてこの間くらいのことはしてもよくないですか?」
「よくないよ」
用が終わったならもう帰って、と言うエイトは本当はスリーを殴るくらいのことをしても良いのに、どうしてそうはしないのか、もう暫く考えていたかった。
*
唇を舐める
作業BGM「乙女解剖」C_CROSS(DECO*27)
たすけてラプンツェル
ああ、これは死ぬ、な。
頭を過ぎったのはそんなありきたりな感想だった。こんな身体になって死ぬ、なんて言うのも言葉の安売りのように思えて仕方ないけれど、思ってしまったものは仕方ない。どうせ口に出せるほどの時間はないのだから、それくらい許して欲しかった。誰にともなく言い訳を連ねる、どうせ聞いてくれる人間なんていないのに。
―――本当に、
死ぬ訳じゃあない。
同じ場にエイトもいることを、スリーは分かっている。でも、別に一緒にいる訳ではない。スリーが死ぬまでに、エイトが助けに来てくれることなんて、ない。もしエイトが向こうの仕事を片付けてこちらへ向かっていたのだとしても、間に合うことはないだろう。別に良い、慣れている。だってマフィアなんてそんなものだから。死んで、死なれて、殺して、殺されて。その繰り返し、単純作業。少し他の人間と違うのはこの身体は特別性になってしまったことくらいで、そう簡単には後なんて追ってやれないこと、だろうか。
部下を。
一体何人失ったのか、もう数えるのもやめていた。裏切られた回数も同じことだ。息をするのと同じくらいに当然に起こることは、そのうちに日常になっていくはずだったのに。肺に溜まったらしい血を、なんとか吐き出す。それでも意識が揺らぐのは止められない。死に際の人間の胆力とは本当にすごいなあ、と思いながら目を閉じる。
音は、しなかった。
それでも死という安寧がスリーをまだ受け容れてはくれないことを、本当は知っていた。
僅かに揺れる心地で目を覚ます。重苦しい瞼を押し上げると、どうやら誰かに背負われているらしいことが分かった。誰だろう、とその背中に額を押し付けて、それから徐々に生き返った嗅覚が、働いて。
「―――」
ばっと顔を上げる。うわっ、と抗議でもするような声が聞こえたけれども気に出来なかった。だらん、と伸びていた腕をその首に巻きつけるようにして、そのまま後ろを向かせる。
「スリーくん、大人しくしててってば―――」
落としちゃう、とでも続けるつもりだったのだろうその、唇を。
塞いだのは、一体、何の衝動だったのだろう。
「………っ、う!?」
首をもとに戻そうとしたのだろう、その動きを髪を掴んで阻止する。ぶちぶち、と少しばかり嫌な音がしたが、知ったことではない。視界の端に蠢く影を見るに、周囲にはエイトの部下もいたのだろうが、それだって知ったことではなかった。どんな噂が立とうと別に、スリーが困ることはない。僅かに開いた隙間から舌をねじ込んで、そのまま口腔内を味わう。薄くなってはいるが、血の味がしていた。エイトもまた、ある程度の怪我をしたのだな、とぼんやり考える。
「す、りーっ、くん!」
息継ぎの間(ま)を狙って、掌が差し入れられた。流石にこうされてしまえば、この状態ではこれ以上をすることは叶わない。
戻ってきた視界でエイトを見やれば、驚いたような表情はあるものの、他の感情は見受けられなかった。周りの構成員たちは視線を逸らしたりなんだりと落ち着かない様子だったが。
「な、なに…」
誰かと間違えてんの、という明々後日の方向の言葉は無視することにした。その代わり、と言っては何だが、首に巻きつけた腕に力を込める。
「………うれしくて?」
「なにが?」
「エイトさん、ボクを見捨てなかったんだな、って…?」
「俺ってそんな薄情に見えてんの?」
もう前向いて良い? と疑問の体を取ってはいるが、多分決定事項のつもりで言ったのだろう。
「おねむのスリーくんに一応説明するけど、任務(ミッション)は無事完了。今俺たちは帰路の途中」
「報告は?」
「もう終わってるから、このまま直帰の予定。シックスには連絡入れてるから、とりあえず病院寄ろうって思ってたんだけど。家の方が良い?」
「病院で大丈夫です」
「そう」
帰路、とは言っても、ジェット機までの移動中、ということだろう。意識を失っていた時間はそう長い訳ではなかったらしい。
「エイトさん」
指に残っているエイトの髪を払ってしまうのがもったいなくて、握り込んだまま再び髪に触れる。
「一応聞くね? なに?」
「もう一回したいです」
「やだ」
「怪我人のわがままだと思って」
「スリーくんが勝手に突っ込んで怪我したんでしょ、俺知らないよ」
「勝手に突っ込んだ訳じゃあないです。仕事サボった警備員と鉢合わせしただけです」
「普通はそれくらい避けるんだよ」
「配管から出て来るようなサボり魔が予測出来る訳ないでしょう」
「そうは言っても、気配とかさあ、スリーくんだってマフィアでしょ」
「マフィアだからって切った張ったが得意な訳じゃあないんですよ」
「俺は隠密行動の話をしてんの」
まったくもって取り合ってくれないエイトに、抗議の意を込めて再び額を押し付ける。
いつもよりも掠れてしまってはいるけれど、よく知ったその香りがまた、眠りに導いてくれるようなそんな気がした。
*
舌を入れる
作業BGM「ヨイヤミ」初音ミク(一二三)
さがさないでヨリンデ
病院にエイトがやってくるのは珍しいな、と思いながら、対応するために部屋を空ける。この部屋をなんて呼んだら良いのだろうな、なんていうのは多分、現実逃避だった。応接室、と言うのはあまりに簡素だったし、仕事に関するものもほったらかしだ。でも、だからと言って執務室、というようなものでもなかった。資料倉庫、というにはものがなさすぎるし、やっぱり適切な言葉が思い浮かばない。
どうぞ、と勧めたソファに腰掛けたエイトは、真っ直ぐにこちらを見上げてくる。
―――いつだって、
その視線が曲げられることはなかったな、と思った。スリーの知らないところではそういうこともあるのだろうけれど、少なくともスリーはそういうものを受け取ったことはない。
「どうしたの」
それは、スリーの台詞なのだけれど。何か緊急事態でも起こったのかと思ったが、そうではないらしい。では、何故。エイトはこんなところにまでやってきたのだろう。普段ニューヨークにいるとは言え、いつもはこちらの領域になんて足を踏み込まないくせして。
「どうした、と言われても…」
「この間の傷でも痛むの」
「そういう訳じゃあありません」
どうにも真意が掴めない。スリーがそう感じているのを察したのだろう、はあ、とエイトがため息を吐く。
「シックスからヘルプコール来るって相当だと思ったんだけど」
「え、そんなことになってたんですか」
「あ、これ、本人に何も言ってないパターンか…」
この間の任務からこちら、会っていなかった、というのはある。それが物足りない、と思っていたのは事実だ。けれどももともとスリーとエイトの活動範囲がかぶることの方が少なく、更に病院が忙しいとなればスリーの方から足を運ぶことも当然減ってしまう。
エイトからスリーに会いに来る理由なんて、仕事でもない限りないのだから、このヤマが片付いたら、となんとか頭から追い出していた、というのはあるけれど。
「………スリーくんが、」
そんなに、自分の様子はおかしかっただろうか。首を傾げそうになる。シックスがどうにかして欲しいとエイトに助けを求めるほど、この焦燥は態度に出ていたのだろうか。
「不安なら、まあ、そんなに短い付き合いでもないし、手を貸そうかって、そういうことくらいは言えるけど」
と、そんなことを考えていたからか、その言葉への反応が遅れた。
「え、いと、さん?」
「なに」
「え、いや、だって」
手を貸す―――というのが、そのままの意味であるはずがない。
どくり、と胸が鳴ったのが他人事のように身体中に響き渡る。
「不安なの」
「不安………」
どう、なのだろう。これは不安からくる衝動なのだろうか。でも、そうだったとして、一体その不安は何処から生まれたもの? エイトに対して、ではないと思う。では、もっと漠然としたもの?
だけど、もし、そうなら。
エイトでなくても良かったのでないか。
「違うなら、別にいいけど」
「あ、よくないです」
「え」
「いえ、あの…不安かどうか、は分からないんですけど。どうしようもないな、と感じているのは事実なので、手を貸してもらえるのなら貸して欲しいです」
「………は?」
自分から言い出しておいてどうしてそんな反応をするのだろう。もしかして、断られるのを期待していたのだろうか。もしそうであれば、あまりにも杜撰だと言わざるを得ない。
「エイトさん」
座っていた対面から立ち上がって、エイトの方へと行く。どうせ、この部屋には誰も来ない。まあ、来たとしてももうやらかしたあとだ、今更誰に見られたとしても変わらないように思う。シックスだって何か聞いていたからこそ、エイトを呼んだのだろうし。
とん、とその肩に手をつく。
髪を巻き込むのが今回はもったいなく思えて避けたら、自然、指が肌に触れた。ゆるい襟首では、そうなるのも当然だと思うけれど。
「前言撤回しないでくださいね?」
「今すぐしたい」
そうは言うものの、最初のように能力で浮かされることもない。どういう心境の変化だろうな、と思った。それを問うには未だ、スリーの中で整理が何もついていない気がした。
「舌、出してください」
「やだ…」
「そう言わずに」
ねえ、と甘えるような声を出すと、う、と困ったように喉が鳴る。それから迷うように僅かに口が開けられて、ちろり、と舌先が顔を見せた。
その、一連の仕草に。
腹の底がどうしてか重くなるのを感じてから、同じように舌先を出して、ゆっくりと触れ合わせた。
*
舌先に触れる
作業BGM「エメの鉛筆」IA(清水コウ)
こんにちはドロシー
諦めたのか、奇行と割り切ったのか。一度許可を得てしまったら、それからはそこまで文句を言われることはなくなった。ひと目がある場所であったりすると止められたりはするけれど、その程度だ。まあもともと貞操観念なんてないような相手なのだ、キスくらいであれこれ言われる方が違和感がある。流石にそれをエイトに言えば、性別くらい選びたいと割り切りをやめられてしまいそうなので言ってはいなかったが。
―――性別が、
そんなに重要だろうか、と思う。
その先をする訳でもない、感情を置く訳でもない。ただ、戯れのように何かを埋めるように代替のように、繰り返すだけ。こどもの遊び、と言われてもスリーは受け容れるつもりだった。それがどんな侮蔑に満ちた言葉だったとしても。そういうことを、こんな年齢にもなってしている、そのくらいの自覚はあった。
その、相手が。
エイトになったことは、少し、自分でも驚きだったかもしれないが。でも考えてみたら結構長い付き合いではあるのだ、他には見せていない失態だって見せたことがある。それを特に口止めなんてしていないのに黙っていてくれたのはエイトだった…もしかしたら、言っていないふりをしているだけかもしれなかったけれど。
「ん」
小さく、喉が鳴る。この喉がまだそう出ていなかった頃を、スリーは知っているのに。結局特にエイト自身については知らないまま此処まで来てしまったな、と思った。
まあ、知りたいかと問われれば違うように思うのだったけれど。
そろ、と首筋を撫でてもあからさまな緊張はされない。それでも、最初から行き場のない指先が無駄にずるずるとソファをこすっていった。落ち着かないのだろう、スリーがこのまま力を込めたところでエイトはすぐにでも抜け出せるのに。
「………ん、」
あまり自分からは動いてくれない舌を捕まえて、ゆるゆると歯を立てる。その度にエイトの伏せられた睫毛が、ぴく、ぴく、と震えるのが心地好かった。何も反応してくれないのかと思っていたから、こんなかわいらしいと言えてしまう反応でも感じられると嬉しくなる。
そんなこと幾らか繰り返して、とりあえず満足して唇を離すと、ゆっくりと瞼が押し上げられた。
「………」
なんとも言えない視線が現れる。特におかしなことをしたつもりはないのだけれど。
「なんですか」
「いや…」
だから、素直に問うたと言うのに。
唇をそっと拭って、それからエイトはええと、と少しだけ言葉を濁した。
「スリーくんでも、こういうの出来たんだな…って思って…」
「は? 喧嘩売ってんですか?」
「いや、だって、…イメージなかったし」
「そりゃあ年がら年中遊び歩いてるエイトさんには敗けますけど」
「待って、俺だって年がら年中遊び歩いてる訳じゃない」
「ボクだってそれなりに経験値ありますからね」
「それは、もう分かったから」
「なんか腹立ったのでもう一回します」
「ええ…」
何が楽しいのか、と言いながらもエイトは其処から逃げようとはしない。スリーの身体も浮きはしない。
それがなんだか面白くなって、今度は唇に歯を立てるところから始めたら、噛み切らないでね…と小さな声で頼まれた。
本当にひとのことを何だと思ってるんだ、と思った。
*
唇(舌)を甘噛みする
作業BGM「メデ」月詠み
あまやかしてゲルダ
手練手管という観点から見たら、そりゃあエイトに敵うことはないと思う。思う、けれどもやっぱり侮られたままでいるのは何というか、沽券に関わると思った。何の沽券かと問われるとちょっと、よく分からないのだが。ろくな恋愛なんてしていないと自分で言い切ってしまうスリーでもそれなりに経験値はあるのだ、エイトにあんな態度を取られてしまえば次にする行動なんて決まったようなもので。
ふ、と上擦った息が漏れる。
それを聞いて、スリーがに、と笑ったのが分かったのだろう、エイトがすい、と横にずれた。それで、唇が離れてしまう。
「ええと、スリーくん」
「エイトさん、」
「うわっ」
横にずれられたのならばちょうど良い、と思って肩を強く押す。幾らソファの上とは言え、不安定な体勢になったエイトを押し倒すのにはその程度で充分だった。…まあ、能力のことを抜きにしてもされてくれた、と思うのが妥当ではあるだろうが。
「逃げないでください」
「まって、」
そのままちゅ、ちゅ、と音を立てていけば、行き場を探す腕がどうしよう、と縋るように伸びてきた。ここで突き飛ばすだとか、そういうことをしないのは一応、エイトの方から手を貸す≠ニ言ったからだろうか。別に、あれは一回だけで切り上げられてもおかしくなかったのに、どうしてかエイトはあれからずっとスリーの奇行に付き合ってくれている。
「ねえ、エイトさん」
唇を指でなぞる。手入れはされているものの、特にやわらかいだとかそういうことはない。薄くて、指先ではあまり唇に触れている感覚もない。
「逃げたくなるほどさっきの、きもちよかったですか?」
「は? んなわけ―――」
「なら逃げないでくださいよ」
「いや、あのさあ、これは、」
「逃げてますよね」
「…まあ、そう見えることもあるかな、とは思うけど」
よいしょ、と上に乗ってしまえば、スリーを突き飛ばしたり能力を使ったりしないエイトの逃げ道は、首を振ったり反らしたりするくらいになる。
「首、反らしても良いですけど」
すりすり、と爪の甲で首筋を辿ると、なんで、と言いたげな瞳が見上げてきた。いつもは目を閉じられてしまうから、こんな至近距離で見つめたことはないな、と思う。
「苦しいのはエイトさんですよ?」
―――これは、
今は、スリーだけのものなのだ、と思ったら。
なんだかひどく虚ろが満ちるような、そんな心地になった。
*
深く口付ける
作業BGM「偏食」戌亥とこ(香椎モイミ)
めをあけてターリア
本当にどうして付き合ってくれるのだろうな、と思った。まあ、それを言い出してしまえばそもそも、なんでキスなんてしたいと思ったか、ということになるだろうけれど。エイトだって分かっているはずだ、一番最初の事故≠セって本当に事故だった訳ではないことを。事故というのはもっと、双方意図しないところでぶつかり合ってしまうとか、そういう出会い頭的なものを言うのだ。決して衝動で動いたものを言うのではない。どういうものであれ其処に意図があったのであれば、それは事故ではなく魔が差した、だとかそういうものだ。
―――それでも、
事故にしようとしてくれたんだよな、と思うと、手を貸してもらうどころか手を煩わせている、というのが実感としてわいてくる。…わいた、ところで。別にそれが目的かと言うとそういう訳でもないのに。
ただ、スリーに煩わされているエイト、というのは少し、優越のようなものを与えてくれる、だけで。
それが主目的ではないのだ。
「っ、ぁ、」
喉が震える。せり出した骨を指先で弄られるのが慣れないらしく、こうしていると迷ったような息が行き場を失っていくことはもう、覚えた。その漏れ出でる息すら勿体なく思って貪り続けると、流石に苦しくなったのか胸の辺りが押された。それでも突き飛ばしたり、顔を遠ざけたりはしないのだな、と思うとやっぱり不思議に思えて仕方ない。
「っん、」
とりあえず、一旦離れた方が良いだろう。スリーだって相手のことを尊重出来るのだと、そういうところを見せておきたかった。
「………はは、」
スリーが身体を起こして唇を離すと、一体どんな状況になっているのかがよく見えた。つ、と口端から溢れた唾液がその頬を濡らしている。仰向けに近い状態でいるのも、この状況を作った一因だろうが。
「飲み込めませんでした?」
「っ、うるさいよ」
ごし、と袖で拭われるとそれはそれで何か違うような気がする。普段エイトはこんな、服が汚れるような真似はしないから、そうやって考えると未だスリーの方が主導権を持っている、ということになりそうだったが。
「まあ、エイトさんは飲み込ませる方だから仕方ないのかもしれませんね」
「はいはい、そーだよ。飲み込んでもらう方だし、勝手に飲む方だよ…」
「そんなに主導権が大事ですか?」
「大事でしょ、フツー」
「じゃあ、」
主導権が欲しいのだろうか。脳裏を過ぎった疑問への解えは一瞬に満たない時間で出た。
「どうぞ」
「………は?」
「エイトさんが言ったんでしょう」
身体起こしてください、と手を引くと、素直に従われる。その膝に乗り上げるようにしたら、ちょうど頭の高さが同じになった。最初からこうしていたら良かったかもしれない。
「主導権、あげます」
唇をなぞる動作はもう慣れたものだ。指の腹に薄い感覚、もし暫く離れることになっても、きっとこの感覚を忘れることはない。
「だから、ボクの唾液、飲んでくださいよ」
ぐ、と。眉間に皺が刻まれるのが見えた。
「………スリーくんて、」
「はい」
「やっぱどっか頭でも打った?」
「あなたがキスしてくれるならそういうことで良いですよ」
「え、待って、俺やるなんて言ってない」
雰囲気が足りないのだろうか、と思って首に腕を回してみると、違くない!? と掠れた声が上がる。
「主導権いらないんですか?」
「そもそも俺は、別にスリーくんとキスしたいとか思ってないんだけど」
「じゃあボクが主導権握ってて良いんですね」
「会話して」
「いらないって言ったのエイトさんですから」
「まっ―――」
言葉を封じるように唇を重ねる。
これはこれで悪くはなかったけれど、首筋にあまり触れることが出来ないのは嫌だな、なんて。そんなことを思った。
*
唾液を飲ませる
作業BGM「ヘラ」初音ミク(ぱっチ)
いかないでマリー
離れることになっても、なんて考えるべきじゃあなかった、と思う。前回会ってすぐにエイトは仕事が入って、その行き先は教えてもらえなかった。同じ組織にいるとは言え、細かい派閥は違うし、そもそも守秘義務というものは当然にある。それがスリーのような下位カード相手であるのならば余計、だ。情報が欲しいのであればもっと中枢に食い込まないといけなかったが、別にエイトがどうしているのか知りたいだけであって情報が欲しい、というのとは少し違う。それに、もしスリーが突然動いたとなれば、保守・中立層にも影響するだろう。そういうことを考えていたらまったくもって動けなかった。
「別に、それくらい聞けば良いじゃん」
「だから、教えてもらえなかったんですって」
「エイトさんに聞いたところで教えてもらえる訳ないでしょ。ジャックさんとか…キングにいちゃんにだよ」
「え」
シックスの当然とも言える指摘に、思わず口を開けてしまう。
「マジで思いついてなかったわけ?」
「い、いえっ、」
そうではない、情報として持っているのは分かっている。キングはさておき、ジャックは確実に知っているだろう。
―――でも。
それをスリーが問う理由が、何処にもなかった。
スリーがエイトに関わる、公然の理由は。何処にもなかった。
「何してるか知らないけどさあ」
じ、とシックスが観察するようにスリーを見遣る。
「エイトさんに迷惑かけるのだけはやめときなよ」
「…きみにだけは言われたくありませんが」
「確かに俺がヘルプコール出したからこんなふうになってんのかもしれないけどさあ、エイトさんって、なんとかして緩衝地帯を作ってくれるじゃん、いつも」
何を。
しているのかまではシックスには言っていなかった。ヘルプコール事件のあとも、どうにかなりそう? と問われたくらいで。でも、シックスには分かっていたのかもしれない。そもそも、噂だとかそういうものを聞いていたから、ヘルプコールを向ける先にエイトを選んだ。
「だから、ほんとは困らしちゃだめなんだよ」
「………そう言うわりには、」
ツーの件と言えば良いのか、ドヴァの件と言えば良いのか。事態が引っ掻き回される発端となったのはシックスだった。スリーは別段それを責めようとは思わないが、エイトにとったら違うだろう。
「きみはエイトさんを怒らせたように思うんですが…」
「ううん、怒ってももらえなかったから、俺は今そういうの以下」
「以下…」
自覚があるようで何より、と言うべきなのか。笑って言われたことに何か言うべきなのか。
「俺たちがさ、あんまり好き勝手すると、本当にキングにいちゃんが助けてもらえなくなるかもしれないから」
「それは…」
「だって、そうでしょ?」
シックスが、いやに真っ直ぐ、こちらを見つめてくる。
「エイトさんは、わりと、そういうのに弱いでしょ」
だから俺は当分はいいこにしてようと思うんだよね、と言うシックスに。
ヘルプコールなんてものを受け取ってもらえるのだから充分なのではないか、というのは言わないでおいた。
そんなことがあって、エイトが久しぶりに戻ってきて。
「はいこれお土産」
「…パリの有名店ですね」
「お土産買いに寄ってきた」
もう終わったのだから良いだろうと探りを入れたのに、関係ないでしょとばかりに躱された。いや、関係ないのはそうなのだけれど。
「セブンさんには何を買ってきたんですか」
「セヴィに? なんで?」
「なんとなく」
「なにそれ」
ひとのこと気にするなんて珍しいね、と言いながら紅茶だよ、と教えられる。
「紅茶」
「うん」
「マカロンじゃなくて?」
「セヴィは甘いもの嫌いじゃないけど、別に好きでもないよ」
「それ、は………」
まるで。
スリーのために、買ってきたようではないか。
「じゃ、ジャックさんには何買ったんですか」
「ジャックにはマドレーヌだよ。食べたいって言ってたから」
「じゃあっ、ええと、ツーには…?」
「俺もしかして、今回お土産買った人とその内容全部聞かれてるの?」
「えっ、あっ、そういう訳ではないんですが…」
どうして、マカロンだったのだろう。スリーは別に、食べたいとか言ったことはないと思うのだけれど。お菓子が嫌いという訳ではないが、だからと言って特別好きという訳でもない。エイトのことだ、何かが捻じ曲がって伝わった、というのもないだろう。
「…なんでお菓子なんか、って思ってる?」
「………なんか、とは思ってませんけど、他の人とは違うなら、理由を聞きたくなるものじゃあありませんか?」
「そう?」
美味しくない? と聞かれれば、そりゃあ美味しい、と返せるけれど。
「…嫌だったなら、次からは違うものにするよ」
「いえっ、だから、そういう訳ではなく…っ」
ああ、もう。どうやって言えば伝わるのだろう。
お土産をもらったのは嫌じゃあない。寧ろ嬉しい。今までだったらこんなことは思わなかった、それだって分かる。
さく、ときめ細かい砂糖が音を立てた。
「…美味しいですよ」
「なら良かった」
時々は甘いの食べた方が良いよ、なんて。別に、エイトが気にすることじゃあないのに。
「…エイトさん、」
「な―――」
に、というのは唇の間で消えていった。砂糖の味がふわふわとずっと口内から脳まで茹だるようで、落ち着かない。
「………美味しかったですか?」
「………味なんて分かんないんだけど」
「なんだ今日は積極的ですね」
「もう一回やれって言ったんじゃないよ」
マカロンはそうやって食べるものじゃないよ、と言われたけれど、この甘さを一人で抱えるのは絶対に無理だったから、あと数個は付き合ってもらおうと思った。
*
口移しをする
作業BGM「ビオトープ」いヴどっと(wotaku)
なかないでグレーテル
廊下を走る自分の足音が煩かった。すれ違う人、すれ違う人、スリーの方を見ている気がしたけれど、そんなこと気にしてられない。
「エイトさんっ!」
飛び込んだ部屋には確かにエイトがいた。
「えっ、スリーくん?」
ソファでうたた寝をしているところだったらしいその様子も気にせず、靴のまま乗り上げる。汚れちゃうよ、と言いかけたその唇に噛み付くようにしたら、もう、あとは言葉なんてなかった。息に集中していないといけないような執拗さは簡単に出て来る。腹の底が燃えるようだった。
「―――っ、う、」
「は、………」
どれくらいそうしていたのだろう、胸が押される力がどんどん弱まっていって、それがなんだか本当に死んでしまうようで。そんなことはないと分かっているのに。
今だって。
本当はエイトは、スリーをどうにだって出来るのに。
「エイトさんでも、キスで息上がること、あるんですね…」
ゆっくり、離れる。その気になられたらスリーを突き飛ばすのなんて簡単に出来るはずだ。なのに、エイトはただ弱々しく足掻いてみせるだけで、それ以上はしない。
「なに、なんで、」
混乱したような声はまだ揺れている。
「こないだからおかしいよ、スリーくん」
そのこないだ、というのは一体いつを指しているのだろう。事故でなくした事故だろうか、それとも手を貸すことについてだろうか。どっちでも良かった。
どっちでも、
「おかしい、」
同じだから。
「そう、かもしれませんね」
こんな抵抗にもならない抵抗を、してみせたのだろうか。ナノマシン能力なんてないような顔で、欲をぶつけられることを恐れているみたいな顔で。
「ねえ、エイトさん」
分かっている。エイトならそういうことだって出来る。ジャックに出会う前、よくない環境にいたことはうっすらと聞いていた。その日の食事もままならないような生活を繰り返していたのだと。そんな場所で育ったこどもが目にするのは、一体どんな世界だったのだろう。
―――時々は甘いものを食べた方が良い、なんて。
大人みたいなことを言ったくせ、に。
「させてませんよね?」
「だから、何が…ッ」
「とぼけるのは賢くないと思いますよ」
再び唇を重ねる。やっぱり大した抵抗はされない。傷付けるのを恐れているみたいで、気に食わなかった。誰にでもこうやってしまうのだろうか、そんなわけないと思っているのに、どうしても浮かぶ思考。
スリーだけが、
特別じゃあないなんてこと、ずっと前から知っていたのに。
「ローランドから聞きました」
「………何、を…」
「本当にとぼけるつもりなんですね」
ひく、と揺れる肩はきっと乱れた息の所為で、それ以外にはない。
「エイトさん、あなたは知っているでしょう。ボクが病院に入る前、何をしていたのか」
「…っスリーくん、」
「嫌ですよ、もう二度とやりたくないと思ってました。でも、出来ない訳じゃあないです」
―――エイトに、
スリーを恐れる理由は、一つだって、ないのに。
「何、したの」
「さあ、なんでしょうね」
どんな顔をしているのか分からなかった。取引をする上で、必要な表情は何処にもないことしか、分からない。
「エイトさんが答えてくれたら、ボクもちゃんと言います」
女性との付き合いがあることは知っている。それについて今更思うことはない。ブッキングだとか、そういう問題を起こす回数が減れば、と思うくらいで。自分には関係ないことだった。
「だから答えてください」
でも。
「ねえ、」
今回は違う。
「エイトさん、されてませんよね?」
「―――」
取引の最中、部下も全員下がらせて二人きりになりたい、だなんて。真面な神経の持ち主であれば言うはずがない。スリーから言わせてもらえば、そんなことを言われた時点で取引を中断しても良いはずだった。流石にそうはされなかったようだったが。それがエイトだけの判断なのか、それとも絶対に成功させなければいけない取引だったのか。情報に触れていないスリーには分からない。分からない、けれど。
もし、と思う。
こんなふうに誰かが触れたのだとしたら。熱は収まらない。エイトの部下から聞いた話では、カメラも何もない部屋に二人きりになることをエイトは了承したらしい。当然、エイト自身が録音機器を隠し持っているのはあっただろうけれど。その際に下世話な言葉も随分かけられたのだと言う。そんな―――話を、聞いて。
どうして、こんなに苛立つのだろう。
ぎゅう、と手首を抑える指に力を込めると、慌てたように声が上擦った。
「されて、ないっ」
怯えてなんていないくせに、寧ろ喧嘩を売ったようなものなのに。
どうして、突き放されないのだろう。
「なにも、なにもされてないからっ、触られてもない!」
「…それを、」
全身から力が抜ける。
「一番先に聞きたかったんですよ………」
そのままぼすん、とエイトの首筋に顔を埋めれば、困惑が肌から伝わるようだった。それはそうだろう。
「…なんで、」
別に、エイトはただ奇行に手を貸しているだけで。スリーだって、理由も何も言わなくて。否、実際には自分でもよく分からなかっただけなのだけれど。
「スリーくんが気にするの」
「気にしちゃいけませんか」
他の人間とはしないで欲しい、なんて。どの口でだって言えないのに。
「ローランドは、」
「聞いただけです」
「………は?」
「だから、」
退かされないのに甘えて、そのまま続ける。すり、と手首をなぞるのは、スリー程度の力でも痛いものは痛かったのではないか、と思ったからだった。そんな仕草くらいで、エイトが許してくれるとは思わなかったけれど。
「エイトさんが今回無茶をしたと思ったのなら、教えてください、と言っただけです。ボクが次から絶対にそんなことさせないようにしますから、っていうのも言いましたが。そうしたら快く教えてくれましたよ」
「え、えー………?」
「あ、ローランドに約束したのでもうそういうのやめてくださいね」
「いや、そもそもこういうのってテロリストみたいなもんなんだしさ、今回俺悪いわけじゃなくない…」
「ローランドの指がどうなっても良いんですか」
「………ローランドだってマフィアだよ。それくらい、覚悟してるでしょ」
「じゃあセネットが良いですか」
「スリーくん」
「ボクは別に誰でも良いんですよ。マクナマラでも、スレシンジャーでも、ボイエルでも」
そもそも。
エイトはスリーに対して、許している、なんて思ったことがあるのだろうか。分からない、分からないまま、こんな下手を打って。もう手だって貸さないと、言われやしないだろうか。
「指に持ち主はいても、別に好みがある訳じゃあないので」
「………そうやって、」
そんな不安を読み取ったかのように、手が取られた。
「自分で傷抉るの、どうかと思うよ」
「そう思うのなら、ボクのお願い聞いてくれますか」
「………気をつける、までしか言えないよ」
「………まあ、充分としましょう」
―――どうして、
手なんて握ってくれるのか。
聞けないのに、暫くエイトの上からは退けなかった。
*
無理矢理
作業BGM「過学習」Ado
おしまいだよナイチンゲール
ちゅ、ちゅ、と音をさせれば不可解だとでも言わんばかりにその眉が顰められる。けれども嫌だとは言わないんだな、と思った。
「なんですか?」
問うても別に嫌とは言われないだろう、と勝手に思ってちゃんと問うことにした。まあ、もし嫌だと言われてもスリーとしては何も嫌ではないのだから、その理論でどうにか押し通そうと思っていたが。
―――結構、
エイトは押しに、弱い。それが自分に不利益になるだとか、そういうことにはしっかり反応するのに。それ以外では割合、提案を受けてくれる。…その、結果が、今なのだろうけれど。
シックスがヘルプコールをした、それでスリーを宥めるために顔を出した。そこからまさかこんなふうに続くなんて、誰も思っていなかっただろうが。
「なんですか、って言われてもさあ…」
ちゅ、ちゅ、と繰り返すと自分が鳥にでもなったような心地になる。本当に鳥だったのなら、エイトがこうやって来るのを待つこともなく、空いた時間で飛んでいくことが出来ただろうのに。人間の身体は不便だな、と思う。ナノマシンなんてものを背負っていても大した能力でもないスリーは、テレポートなんかも使えない。まあ、本当にテレポートなんて能力を持っていたらきっと、こんな『3』の地位に甘んじていることも出来なかっただろうし、融通も効かなかっただろうから、それはさておき。他から見たらダイヤ所属というだけで使える設備は増えるのだから、それで充分だと言われるのかもしれなかったが。
「この間の、その…」
足りない、と思う。
「約束のことですか?」
「あー…うん、まあ、約束」
この言いようだと約束とは思っていなかったようだったけれど、今約束になったので良いだろう。…スリーとて、本当にあのお願いが聞き遂げられるとは思っていない。エイトが言ったように、あんなのはテロと同じで、事故と同じで、いつ自分に降りかかるか分からないもの。まだ元からそういう嗜好があるだとか、情報があればどうにかなるかもしれなかったけれど、人間にはどうしたって誘惑に屈する生き物だ。絶対、なんてことはあり得ない。
「したじゃん」
「しましたね」
「なら………」
ちゅ、ちゅ、とまだ音を立てて続けると、話してんだけど、と文句を言われた。だから邪魔しない程度にしてるでしょう、と返すと言葉に詰まられたが。エイトにしては珍しい。
「もう、よくない?」
「何が?」
「スリーくんの目的が最初からそうだったとか、そういうことは思わないけど…結構、あれですっきりはしたんじゃないの」
すっきり、とは。
一体何のことだろうか。
ちゅ、とまた音を立てるとスリーくん、と宥めるような声がする。怒ることはしないんだな、と思った。物分りの悪いこどもを相手にしているような、そんな音。
「なに、そんなに口寂しいの?」
「いえ、べつに」
ちゅ。
「じゃあ、なんで」
「したいからじゃあだめなんですか」
ちゅ。
「いや、だからそのしたいっていうのはさあ、」
「はい」
ちゅ、
「俺がなんか、こう、ふらふらしてるみたいな…」
「はい」
ちゅ、
「そういう…いらだちから、来てたんじゃないの」
「じゃないですね」
ちゅ。
というかそんなふうに思っていたのか。でも、それでもなんというか、納得出来ない。もしこの、スリーの行動がいらだち由来であってもエイトが付き合う理由にはならないと思うのだけれど、こうやって言うということはいらだちであろうと付き合ってくれる、ということなのだろう。
―――でも、
どうして? エイトが押しに弱いとは言え、それはおかしいだろう、と思う。エイトにとっての利がまったくないように思える。寧ろ、こんなふうに時折顔を出す羽目になって、時間のやりくりが面倒になったとすらスリーだって思うのに。
「なに、それ」
そうやって聞きたいのはスリーも一緒だ。本当に驚いたかのように、その目がまんまるに開かれる。光の具合でゆるやかに色を変えるその瞳は、何処か遠い昔を思わせるようで。
「じゃあ、えっと、他の理由?」
「理由…」
ちゅ。
「まさか、ないなんて言わないよね?」
「ない…ですね」
ちゅ。
「なら、なんでしてるの」
「だから、したいからです」
ちゅ、
「なんでしたいの」
「したいから、としか言いようがないです」
ちゅ、
「そんなの、」
ちゅ。
「だって、それじゃあまるでスリーくんが、俺のこと好きみたいじゃん」
時間が。
止まったような気がした。
「………好き」
「だから、今のスリーくんの行動って俺からしたらそれくらいあり得ないように見えるんだって」
「ああ、はい」
「でしょ? なら、今からでも何か理由探してよ」
「そうです」
「………うん? 今の、何にかかったそうです=H」
「一つしかないでしょう」
呆けたままのエイトの頬に、そっと両手を添える。
「………は?」
今まで肩についていた手だけれど、こっちの方がやりやすい。どうしてもっと早くに気付かなかったのか。
「エイトさん、」
しかし、と思う。
たった一つの感情に名前がついただけで、こうも世界が色とりどりに見えるものなのか。
「ボクはあなたのことが、好きだったんです」
「え………っと、」
「本当です」
「冗談だよね?」
「本当です」
本当なので、もう少しキスをさせてください。
戸惑ったような視線は返ってきたものの、拒絶されることはなかった。
それに免じて、今日はこの戯れのようなキスだけで済ましてやることにした。
*
啄むように
作業BGM「ネオネオン」初音ミク(DECO*27)
こんばんはトゥーランドット
告白―――で、良いのだろうか。けれども告白以外の何と言うことも出来ないだろう、だから告白、だ。
それを経ても、そこまでエイトの態度は変わらなかった。今までどおり顔を見せに来てはくれるし、キスは受け容れてもらえるし、何もなかった、と言われればきっと納得してしまうだろう。
「エイトさん」
じゅる、と唾液が音を立てるのを聞いている。こんな言い方をしてしまうと、主導権がこちらにないかのように聞こえるだろうが別にそういうことではない。は、と息の上がったような音が、本当に息が上がっている訳ではないことは分かっている。それでも、そこに興奮だとか、そういうものがあるのだと思ってしまうからか、やめてやることは出来なくて。
「ん、ぅ」
「好きです」
「んっ、………む、ぅ」
手練手管で敵うとは思っていない、だからこれはただ、してやられてくれているだけだ。つまり、エイトの選択だ。そうやって思ってしまえば、喜び以外の何を示せば良いだろう。
唇を離せばつう、と唾液が糸を引いた。よく唾液の粘度は興奮の指標、なんて言われるけれど、もしそれが本当だったとして、これはどちらの興奮なのだろう。
「………あのさあ、」
「なんですか? 下手だって言いたいんですか?」
「………うん」
「ですよね。反省しています」
「いや…別に良いけど…」
「まあどうせエイトさんで練習するのでそのうち上手くなりますけど」
「………は?」
舌を吸う、という遣り方自体は知っていたけれど、どうにも上手く行かない。どうせエイトは出来るのだから、教えるという名目でそっちからやってくれても良いのに。
「えーと………」
「なんですか」
「この間からさあ、なんか…違くない?」
「違うってことはないと思いますけど」
「だってさあ、」
「好きなんだから仕方ないじゃないですか」
完全に無視は出来ないのか、微妙な協力は得られえているような気はするけれど。だからと言ってしてもらっている訳ではないのだし。
「エイトさんが解えくれたんですよ」
「俺は、そんなことないって言われると思ってたんだよ…!」
「こういうのなんて言うんでしたっけ? バックファイア?」
まあそれでも休憩は必要だろう、と頬を包み直す。このてのひらはそこまで大きいとは言えなかったが、だからと言って指が届かない、ということもない。
「エイトさんが愛だって言ったんですよ」
「愛とまでは言ってない」
「じゃあ今言ってください」
「やだ………」
その指から逃れるとまではいかないが、ふい、と顔が逸らされる。
「だって、スリーくんねちっこそうだもん」
エイトでもこんな、可愛らしい仕草をするんだな―――と思っていたのが、完全に止まった。何を言われたのだろう。
「キスだってそうだし…」
「はあ?」
「いつまでもネチネチネチネチ…」
「ちょっと、聞き捨てならないことを言われてるような気がするんですけど!」
「ほんとのことだし…」
前言撤回だ。休憩なんてさせてやるものか。
「エイトさん」
「な、何」
ぐい、と頬の手に力を入れて顔の向きを戻す。
「喧嘩売ったんだから覚悟してくださいね?」
「だからほんとのこと言って何が悪いのっ」
それ以降の苦情は受け付けなかった。
*
舌を吸う
作業BGM「さっさかサレンダー」初音ミク(メドミア)
あきらめてアイーダ
改めて、言葉というものには飽和という概念がないのだな、なんて思う。たくさん重ねたらその分だけ擦り切れて、どうでも良いものになっていってしまうと思っていたのに。結局そんなことはなく、寧ろ、腹の底をぐらぐらと煮立たせるようなもので。
やっていられないな、と思った。
せめて、こんな感情になるのはエイトではないと思っていたはずなのに、こうやって繰り返していると最初からエイトしかいなかったような心地になってくる。運命、なんて口にしたら流石に嫌がられるのが分かっていたから言わないだけで、その類とすら思っていた。…エイトは。どう、思っているのだろう。最初は事故で、事故じゃあなくされて、鬱憤を晴らすような行為に付き合っているつもりで、きっといて。それが好き、だなんて言葉で彩られたのをどう思っているのだろう。嘘か、何かの勘違いか、そんなふうに思っているのだろうか。今まで、エイトから信用されるような行動をとった覚えはない。そもそも、派閥というのは考えたくはなかったけれど、対立してもおかしくはない立ち位置ではあるのだ、お互いに。だから、信用することも、信用されることもしなかった。そんなのは無駄だと、双方が分かっていたから。
ある程度の取引の出来る相手。
同じ組織に属しているという事実に対応するためだけのものしか、此処にはなくて、よかったはずなのに。
「エイトさん、」
離した唇からはつう、と唾液が引く。これがどちらの興奮か、と問われればもう、自分のものだろうとスリーは認めるしかない。エイトが好きで集めた手練手管にスリーは追いつけないし、そう慣れている訳でもない。それなりのことは出来るだろうが、今考えなくてはいけないすべてを放棄させるような、そんな馬鹿なものにはなれない。
「好きです」
べたべたになった口元を拭う暇くらい与えても、別にエイトが逃げないことはもう、分かっているはずなのに。
ひどく、貪欲になる。
何を求めているかも分からないくせして。
頬からするり、とのぼっていった指が耳にかかって、肩が僅かに揺れたのが見えた。怯えるなんてことをしてくれない人だと知っていた。そういうことをしなくて良いように、必要な強さをしっかりと身につけた人なのだと、知っていた。
―――知っていた、のに。
誰かに同じようにされているのを思い浮かべただけで、はらわたが煮えくり返るようで。
聞き飽きた、とでも言うような視線が寄越される。それに、いつものように笑うのは苦ではなかった。否定されることはない、否定するだけの材料がないだけなのかもしれなかったけれど、それがエイトの選択であるのならばそれで良い。
「エイトさんは言われ慣れてるんでしょうけど、ボクはそんなに言い慣れてないので」
練習がてら、とでも言うように言えば好きにすれば、と返ってくる。この先他の誰かにこんなふうにすることなんて、今は思い描けなかったけれど、エイトには思い描けているのだろうか。
スリーではない誰かが、こうしてエイトを求める未来が、容易に思い描ける、のだろうか。
「…出来たら、他の誰が言う言葉も聞かないで欲しいですが」
そのまま、耳に蓋をしてやる。こうするとキスの音が反響して気分が盛り上がる、というのは聞いたことがあった。
果たして、エイトが盛り上がってくれるのか、それは分からなかったけれど。
やらないよりマシだな、と思いながらキスを再開させる。
エイトは少しだけ顔を顰めただけで、何も言わなかった。
*
耳を塞ぎながら
作業BGM「おもんない」初音ミク(nogi)
かえろうよオフィーリア
好き、と。
名前がついただけで劇的に変わるものなんてないのだなあ、と思ったのは、どちらかと言えば喜びに近かった。もし気持ちが伴うことでエイトが何か、対策を打ち立てて来たりなどすれば、また違ったのかもしれないが。
見たところエイトは大して変わらなかった。もしかしたらまだスリーの勘違いだとでも思っているのかもしれない。そうだとしたらこれが本気だと知られてしまえば、逃げられたり、そういうことをされるのだろうか。断られたくらいでこの関係が崩れるとは思っていなかったけれど、どうせならこのままなあなあでいたかった。
―――どう、
したいのか。
それが、本当のところを言えばスリーの中にはない。エイトだってそれが分かっているから、何も言わないで好きにさせているのかもしれなかった。そのうちにスリーの気が済んで、エイトにまとわりつかなくなって、誰か他の人間にこんなことをして。そんな日が―――来る、と。エイトは思っているのだろうか。
スリーは。
エイトに、そう、思われたくないのだろうか。その答えすら出せないのに、無駄に頭を捻るのは徒労にしか思えなかった。
半眼の視線にももう慣れた。どうにも怪訝さが消えないのは、やっぱり相手がスリーだからなのだろう。きっと、これが女性であったならエイトはこんな顔をしなかった。そうやって自分を顔も知らない女性と並べ立てても特に腹立たしくはならないのに、エイトが他の誰かにこうやってするかもしれない、というのは妙に気にかかる。どうしてだろうな、と思いながら、そっと、手のひらをその目に押し当てた。
「スリーくん」
「はい」
「見えない」
「見えなくしてますから」
「なんで」
「なんとなく…」
「なんとなくで俺は目隠しされてんの?」
「ええと、ほら。見えないと感覚が研ぎ澄まされるって言うじゃないですか」
「うん…まあ、言うけど…」
「エイトさんがちょっとくらい気持ちよくなってくれるかなって」
「俺はそんなこと頼んでない」
「ボクがしたいんです」
会話はいつも一方通行だ。スリーがそういう遣り方しか知らない、とも言えてしまったけれど。エイトのような遣り方は出来なかった。いつだって言いたいことを必死に伝えて、それが精一杯で。これがただの取引だったらプログラミングされるように出来るのに、どうやってそれを組んだのか思い出せない。ろくな思い出ではないと、それはきっと、そうだったけれど。
エイト、だって。
ろくでもない思い出はたくさん、あるだろうのに。
スリーはその一つだって、共有することはない。これまでも、そして、これからも。カードなんて立場がなんとなく合わさっているように見えるだけで、その実他人とそう変わらない距離であることは理解するよりももっと深く、思考に根付いている。
「…エイトさんがカードじゃなかったら、って考えることがあります」
「………は?」
「いえ、そうしたらまずボクたちは出会ってないんでしょうけど」
掌の下で、眼球が動くのが分かった。閉じることはしないんだな、とやわらかな睫毛の動きをじっと感じている。
「でも、もしエイトさんがカードじゃなかったら、」
それは、どうしようもないもしも、だ。ある訳のない過去、未来。現在で手一杯のスリーが思うようなことではない、手に負えない、その感性はひどく、正しい。
「きっと、誰にも会わないように、見せないように、見ないように…出来たんだろう、な、って…」
それでも、思わずにはいられなかった。
必要とされる手の数々をスリーが蹴り上げて、遮断して。そういうことが出来たら、どんなに落ち着くだろう。真っ暗な部屋の真ん中で、座って待っているエイトのことを思ったら、どうしてそういうことが出来ないのか、と叫びだしたくなってしまうほど。
「………スリーくん」
苦々しい声が上がって、なんだろう、と思う。
「なんですか」
「なんで俺は今監禁願望を聞かされたの」
「そうしたいからです」
「嫌だけど」
「ボクだって無理だってことくらい分かってます」
「無理か無理じゃないかってはなしじゃなくて嫌なんだよ」
そんな声を出すほど嫌なものだろうか、嫌だろうな、と一人勝手に結論づけて、けれどもそんな声を出しても結局スリーを退かすことをしないエイトが、分からなくて。
「―――このまま、」
ひっそりと、呟く。
「貴方が誰も見なければいいのに」
「そ、れで言うと…スリーくんのことも見えなくなると思うんだけど」
「………」
それは思い至らなかった。
でも、言われてすぐに離すのもそれを認めているようで、そのままキスをして誤魔化した。
誤魔化せた、ことにした。
*
目を隠しながら
作業BGM「心臓」TOOBOE
おやすみオデット
好奇心、と言ったらそうなのかもしれなかった。なんだかんだ言ってスリーの好きなようにさせてくれているエイトが、一体何処までなら許してくれるのか。そんなふうに、思ったからかもしれない。理由もない試し行為、そんなのはただただ迷惑なだけだと知っているのに。
「―――っ、」
指の、掌の、下で。
昔はそこまで目立っていなかったやわらかな骨がぐりぐりと動くのが分かる。肩が、胸が、スリーの体重だけで押し込められてくれているようなそれが、跳ねて。酸素を欲するように口が開かれて、其処から舌を好き勝手弄ぶ。
「………あっ、」
「苦しいですか?」
目が見開かれて、でも、其処に涙の気配はない。指が行き場を失ったように背後の、何もない空間を掻いたのが分かった。そんなことをしてみせるくらいなら、この背中に爪を立ててくれても良かったのに。僅かに唇を離すと、その隙を逃してなるものか、とばかりに喉が震える。ひゅ、と嫌な音がする。
それ、でも。
エイトはスリーを睨まない。涙の気配すら、させてくれない。
視線が、苦しさを滲ませてはいるのに。応えられることもない。キスの合間に出来るだけ呼吸を確保しようと必死になるその仕草は、スリーの舌を巻き込んで。エイトの方から求められているような心地になる。そんなことは、ないのに。
「す、り…っく、」
「―――」
ごう、と。
唾液が喉の奥で妙な音を立てた。だめだ、これ以上はだめだ―――そう思いながらも、もう少し、と思う。唾液を吸い上げて、飲み込んで、少しでもエイトがこの状態でいてくれるように。戦慄く指が、耐えきれないというように背中に回された。
「………ぁ、」
ぼう、と瞳から光が消えていくような、気がして。あと少し、あと少し―――そう思っているかたわらで、身体が熱くなるのを感じていた。興奮、している。これが生きているということだ、とでも知らしめるような喉の動きが、気持ちよくてたまらない。
「っ、あ、」
「………え?」
不意に力の抜けた手の下で、げほ、と空気を取り込んだエイトが跳ねた。
それに乗じるようにさっと離れても、特にエイトから何かを言われることはなかった。言う余裕がなかった、というのもあるだろうが。喉を整えているエイトの視界に自分の身体が入らないようにしても、やっぱり何も言われない。謝る、のは何か違うと思った。大丈夫かどうか聞くのも、違うような気がした。
「な、に?」
「あ、いえ、何でもありません!!」
反射のように返してから、ええと、と言葉を探す。
「苦しい、ですよね」
「………うん」
「もうしない、とは言えません」
「…次はちゃんと手、外すからいい」
「そ、う…ですか」
そうだ、エイトはそういうことが出来る。
それを、スリーは知っているはずだた。
なのに。
「なに、どし…たの」
「それはボクの台詞だと思うんですが」
「なんか、変、じゃん」
「いえ、変じゃあないです」
絶対嘘だ、という視線が投げられたけれど、今はちょっとその視線に応える術を持たない。
「ええと、エイトさん」
「何」
「ボク、ちょっと急用が出来たので戻ります」
「………あっそ」
引き止めることはしないようだった。動かないエイトに、苦しかったら誰か呼んでください、とだけ言い残して部屋を飛び出す。廊下に誰もいなくてよかった、誰ともすれ違わなくてよかった。
こんなもたもたした動きでトイレに駆け込むのを、誰にも見られていなくてよかった。
「………うそ、」
冷たい、清潔な壁にずるずると背を預ける。
「勃ってる………」
この、熱が。
エイトによって齎されたということからは、もう、目を背けられなかった。
背けたく、なかった。
*
首を絞めながら
作業BGM「暴徒」Eve
はなしてジュリエット
マフィアなんてものをやっているのだから、生命の危機なんて幾らでもある。生憎この身体はそう易々と死んでやるようには出来ていなかったが、それは単に回復している≠セけであって、一度死んだのと同等の痛みがあることには変わりないのだ。
―――そういう、
実感があるから、だろうか。いつにもまして、足取りが重い。前はこうではなかった、同じ、何かあった≠ニ聞いた状態であるのは同じはずなのに。駆けることが可能だった、なかなか辿りつかないという焦燥はあったがそれは単純な距離の問題であって、感じ方の問題ではない。同じ、距離だ。使った路線も同じ、なんなら運が良かったのか、信号なんてほとんど引っかからなかった。…それでも、時間が、無駄に過ぎていくような、気がして。
その後姿を見つける。
呼びかけるよりも先に利き足が地面を蹴って、そのまま首筋に手を掛けて、振り向かせた。
「―――」
気配で分かっていたくせに。眼鏡の向こうで目を見開いてみせるのはどうしてだろう。ちりちりと自分ではどうにも出来なかった焦燥がそのまま流れ込めばいいのに。そんなことを思いながら、合わせた唇をずらして、舌を差し込もうとして。
「っ、ちょっと、」
横から入ってきた掌に阻まれた。
「…これ以上はしません」
「当たり前!!」
これより先をしようとしていたのだって分かっているくせに、まるで聞き分けのないこどもを叱るかのようにそうやって言うのは、一体、どうして? スリーが、エイトの役に立っているとは思わなかった。エイトは勝手にひとを有用に扱うけれど、それを加味しても、今はスリーが好き勝手やっているところが多すぎる。
組織のための利益、と。
自分のための利益、と。それをごちゃまぜにしてくれるようなひとではないと分かっているから、余計に。エイトが、このスリーの行動をただの消費と捉えて、いつか断れないような条件を突き付けてくれるのであれば、その方が楽だった。気が、かもしれない。エイトがこの行動に何も思っていないのは嫌なのに、何も思っていてくれなかった方がなあなあにされるよりマシだなんて、そんなことだって思う。思考があちこち行ったり来たりで、何ひとつ落ち着かない。ほら、と首に縋り付いた手をほどかれて、それでも地団駄を踏みたいような、そういう面倒な心持ちは消えなくて。
「………キスしたい」
「そう」
なんとか吐き出した言葉も、特別でもなんでもない我が侭のように受け流される。この場所を動いてなるものか、と床を見つめていると、エイトが他の人間に指示を出すのが影で分かった。どうやら、一緒にいた部下は他の仕事へと向かわせるらしい。
「エイトさん」
「何」
「キスがしたいんです」
「だから、そう、って答えたよ」
「じゃあひと目につかないところに行こうとか、そういうのはないんですか」
「なんで俺がそんなこと言わなくちゃいけないの…」
視界に、何も持っていない手がぶらり、と揺れている。
この手が空いていたことなど、なかったように思えた。最初に見たときはジャック、その次にはセブン、更にその次には新しい部下たち、そしてツー。普段はきっと、ころころと変わる女性たちのためにこの手はいっぱいになっていて、そうでないときはきっと、大抵がジャックに向けられていて。それを嫌、と思うのは何かが違った。嫌だと思っているわけではない、エイトは最初からそういう立ち位置だったし、最早そういう生き物≠ニ言っても差し支えなかった。だって、それを嫌だと思うのはジャックより優先して欲しいものがあるとき、くらいだ。別に、スリーはエイトに対してそんなことを思ったことはない。エイトは自分を犠牲にしてまでジャックに尽くしているようには思わないし、キングのことだって、キングとジャックでエイトがジャックをとることが、そう不思議には思えなかった。
―――なら、
一体、何を思っているのだろう。
「まあエイトさんがどう思っていても、周りの人間はボクたちが付き合ってると思ってると思いますけどね」
「それはないでしょ」
「思いますけどね」
「ないでしょ」
空いたままの手がふわり、と持ち上がって、話するなら座ってけば、と扉が指されたのに、ひと目につかない場所ですね、と言うことが出来なかった。
どうせスリーが走ってきた理由なんて分かっているだろうに。紅茶で良い? なんて言葉に緩慢に頷いて、エイトが戻ってくるのを待つ。
「ミルク入れる?」
「いえ、要らないです」
「砂糖は? 角砂糖」
「…では、一個、入れてください」
「じゃあ二個入れてあげるね」
「なんでですか?」
「おまけ」
何がおまけなんだろう、とエイトのカップを見遣る。スリーのものと違ってミルク入り砂糖なしのそれは、ゆるやかな動きとともに渦をなくしていく。
「………怪我、を」
「あー…うん。したけど、別に死ぬようなやつじゃないよ」
「…どうして、ボクはまだ何も聞いていないのに」
「スリーくんってそういうこと気にするじゃん」
きみのことが分からない、と。
本当は、言って欲しかった。理解したような顔をしないで欲しかった、それはスリーの欲しいものじゃあない。エイトだって、全部理解したとは思っていないくせに、自分に必要なところさえ分かればそれで良い、と言うように。否、実際そうだったのだろう。エイトには把握しておきたい相手の反応があって、スリーは面白みもなくその知識欲を満たしてしまった。そうしたら、もう、エイトは無駄に関わってきてはくれないと分かって、いたのに。
「…それこそ、昔から」
「…そうでしたっけ」
「そうだったよ」
でも、そんなレベルの高い演技などスリーには出来ない。きっと、あの頃に気付いていたとしても、今と同じ結果になっただろう。
「だから、顔顰めなくてもやれる仕事出来るようになって、良かったね、って思ってるよ」
「…エイトさんからしたら、拷問官のボクの方が有用だったんじゃあないですか」
「さあね。どうだろう」
「そうやって、答えない」
昔から、なんて言うけれど、それを言ったらエイトだって昔から変わらない。もうスリーに対して、あなたはどんな人間?≠ニ身構えてみせることはしなくて良いのに、あの頃と同じように問いかける。仕草の一つひとつで、反応の一つひとつで、そして、それが伝わると思っている。
買いかぶりだ、と思った。
でも、エイトが間違っていると言い切るのも、違うように思えた。
「………そういえばなんですけど、」
空いている、と分かっていてもその手は握れない。スリーからはその手を、取れない。息を、吐く。
「なに」
「エイトさん」
「だからなに」
スリーが出来ないのなら、エイトにしてもらえば良い。
「ボクのこと好きになってくれません?」
「―――は?」
再び見開かれた目が、あまりにもまんまるで。エイトらしくないと言えばエイトらしくなくて、笑ってしまった。
*
不意打ち
作業BGM「空室」水槽
ころしてジゼル
これだけアピールしているのにな、と思う。
好き、と言った。好きになって欲しいと言った。なら、流石に何か反応があっても良いような気がしたのだけれど。どうにもエイトは今までとさして変わらないように見えたし、キスだって、ひと目のあるところでなければ許してくれるし。よく分からない、と思う。
く、と仰け反ろうとするのを、後頭部を押さえて抱き込んで、舌を差し込んでキスを続ける。自分でそうやって動いたくせに苦しいのか、胸が上下するのが、やけにゆっくりになって。
「すり、…く、ん」
唇の隙間から声が漏れる。掠れた、声。唾液を必死に分離しようとしているのか、喉の奥から押しつぶされたように出てくる声は、普通にしていたら聞くことはなかっただろう。
「くる、し………」
酸素が足りないのを無理に欲すれば余計に苦しくなる、それを分かっているからこその反応。そうやって、確かな答えを出せるのに、愚直な身体は違うように受け取ってしまう。
「エイトさん」
「………なに」
「黙っているのもフェアじゃあないので、言いますが。ボクはエイトさんで勃ちました」
「………は?」
後頭部に添えた手は離さない。驚いた衝撃でか、首が僅かに前方に戻ってきて、それで呼吸は改善されたようだった。
当然、その分顔と顔の距離は近付くのだったけれど、もうキスをしているのだから今更なはなしなのだろう。
「いえ、まだ抜いたりとかはしてないんですけど、多分そのうちすると思うので…その、言っておこうと思って」
「な、なんで俺は今そんな………は?」
なんで、と問われたらそれは、エイトは反応らしい反応をしてくれないから、になるような気がした。流石に責任転嫁の過ぎる言葉だと自分でも分かったから、言いはしないが。
「まさかボクもエイトさんをオカズにする日が来るとは思ってなかったんですけど」
「何言ってんの?」
何、と言われても。事実をそのまま告げたに過ぎない。
好き、と言った。好きになって欲しいと言った。それに答えがないのは、その好き≠ニいうのがどういうものなのか、伝わっていないからではないのか。何の進展も後転もない現状に嫌気が差したのかと問われれば、それは違うけれど。スリーだけが意識しているのに、エイトはそうでもないのはやっぱり、不公平だと思った。
「ていうか、ぶっちゃけると抱きたいです」
「は?」
「挿れたいです」
「聞き返したんじゃないよ」
だから、言葉にした。これで離れられたとしても、それはそれで。何の反応もしてもらえないよりマシだ。離れたいわけではないけれど、それはきっと、まったくもって意識されていないのとでは違う。
―――エイトは、
こういうことが、嫌い、だ。スリーは、それを知っている。だからエイトはこれをいつかの条件にはしてくれない。もしエイトが同じようになったとき―――エイトにスリーがそうやって見えていたように、エイトが不安で仕方なくなって、その不安をスリーが解消出来るような日が来たら。流石に条件、として取引が出来るだろうけれど、そもそもの話、エイトはそんな自分をきっと、スリーには見せない。
自分を、そうやって消費出来るなにかであるように扱うことも、他人がそうやって扱われるのも、嫌いだ。それくらいは、分かっている。
「了承もらえるまではこれ以上しませんが」
「そ、そもそも俺はキスだって了承した覚えはないよ」
「でも止めないじゃないですか」
手を貸す、という言葉を了承と見做すのはまあ、流石に無理があるだろう。だから止めない、と言葉にした。言葉にしたからと言って、エイトがじゃあ止める、となるようには思えなかったから。
キスは、
もう、今日は出来ないな、と思った。
「ボクは、」
その代わりにじっと、目を見る。あまりまっすぐには見たことのない瞳。エイトは、いつだってそうやって見てくれていたのに、スリーはそれが嫌で、怖くて、顔ごと逸らした。…そういう、関係、だった。一方的に不安や不満、そういうものを抱いて爆発させるような、そんな関係では決してなかった。
「本気であなたのことが好きですよ」
でも、昔がどうであっても、現在が変わってくれるかというとそんなことはないのだ。
絶句したエイトが、それでも言葉を取り戻そうとして、視線をうろうろとさせる。まばたきがされるたびに睫毛が触れそうで、その感覚がくすぐったいように思えて。
「す、すきだとか、そういうのと、勃つか勃たないかってのは、別じゃないっ!?」
「別の場合もあるとは思いますが、まあ、好きですし勃ってるので」
「えっ、まって、現在進行形で言った…!?」
「はい」
「まってまってまって」
「はい、待ちますよ」
「いやっ、待たれてもなんもないけどね!?」
「どっちですか」
やっと表情を変えてくれた、という安堵は恐らく、手酷い抵抗を受けないと分かったからだったのだろう。未だ退かされないままなのは、別にそう出来ることを忘れているわけではないのだと思う。
「エイトさん」
そうだ、エイトはいつだって―――スリーを、排除出来る。
その事実だけが、ひどく、スリーに安寧を齎す。
「…流石に、手を貸す、にはこれは入れてくれませんよね」
「―――」
ひく、と。口角がいやなふうに揺れた。
「い、いや、あの、さあ…」
「はい」
「常識でものを、考えて、よ…」
「常識なんて言ったらキスも出来なくなりそうなので嫌です」
「………」
それもそうだ、と言いたげに眉が寄せられる。でも、それだけだった。聞いてみても良いかな、と少し甘えるように近付いたら、鼻と鼻が微かに触れた。
「………嫌ですか?」
「………なにが」
「一応、今ボク、エイトさんに当てないように体勢調節してるんですが」
「ああ、うん、俺も見ないように頑張ってるよ」
「見るのも嫌ですか?」
「………そういうんじゃない」
ばっさり切られないだろうとは思ったが、だからと言って否定されるとは思っていなかった。
あれ、と思う。
スリーだってこれが消費、だとは思わないし、エイトだってそうやっては受け取らないと思う。けれど、今までそうやって思ってきていたものを、こんなすぐに納得まで落とし込めるだろうか。はあ、とエイトが息を吐く。その息だって、スリーにかからないように、向きを調整されているのが分かるのに。
「…お互い、なかったことにした方がいいことなんて、山ほどあるだろ? 今更、それが一つ増えただけだよ」
目が逸らされる。
「スリーくん」
「はい」
「すぐに、忘れるよ」
「…そんなこと、」
「疲れてるだけだよ」
だから大丈夫、と言ったエイトに、それ以上は何も言えなくて。
―――それでも、
好きと言ったスリーに、勘違いだとか嘘だとか、そういうことは言わないんだな、と思ったら。
しばらく落ち着くまで動けなかった。
*
後頭部を押さえて
作業BGM「エイプリル」菅原圭
はなさないでヴィオレッタ
そんなに珍しいモンでも見える?
じ、とそれこそ穴の空きそうなほど見つめていたら、流石に苦言を呈された。別に、見つめていたところで何が減るわけでもないし、エイトだってそんなもの気にせずに自分のことをするのは得意だろうに。
「どうやったら口説き落とせるんだろうなあ、と」
けれど、聞かれたからには答えるべきだろう。そう思って返すと、またそれ? と言われた。また、と言われてもスリーからしたら始まったばかりのことだったし、また、と言われるほど続けていないように思えたが。それに、エイトが心底嫌がるのならばまだ、考えようもあったけれど、どうにもそういうことをしようとはしていないみたいだったし。
これからどうするのが正しいのだろうなあ、と思う。エイトはもしかしたら、スリーがそのうちに飽きることを待っているのかもしれなかったけれど、残念ながらまだまだ飽きる自分は思い描けなかった。
「でも、絆されてはくれてるみたいですし…まあ、ゆっくり頑張ります」
「頑張らなくていいよ」
「それはもうボクが好きということですか?」
「そうじゃねーよ」
まったく何言い出すんだか、と端末を落とす仕草を見て、一通りやることは終わったのだと察する。今まで大人しく座っていたソファから、エイトが座っているひとりがけの椅子へと向かう。
「本当に?」
身長差があるとは言え、流石にエイトの方が座っていたら、立っているスリーからは見下ろすような形になる。珍しい光景だな、と思いながら頬をすくい上げるように包んで、いつものようにキスをする前に問うてみた。
「エイトさん」
「なに」
「照れてます?」
「…んなわけ、」
「耳、紅くなってますけど」
「俺がそんなミスするはずないでしょ」
こちらを見上げる瞳はブレない。いつもの、表情。スリーの行動を奇行と割り切ったような、そんな、顔。いつもだったらそのまま騙されていたかもしれない。
けれど、今。
「………ミスってことは、」
見落としたくない単語が、あった。
「やっぱり照れてるんですか?」
「………は?」
「エイトさん」
ぱちり、とまばたきがされる。よどみない動き。その成否を、スリーは分からない。分からないと思った上でエイトがこうしてくるなら、スリーはスリーで愚直に問うだけだ。
「ボクのこと、好きですか?」
エイトは。
決して、そういうことから逃げはしないのだと。
そういう願いをずっと、持っていたから。もう一度呼びたいのをこらえる、キスをしてしまいたいのもこらえる。視線が強くならないように、頬を包む手にも力が行かないように、調整するのは結構難しかった。こういう細かな気遣いを、エイトであればそれこそ造作もなくやってしまうのだと思ったら、ひどく得難いように思えて、やめられなかったけれど。
「………すきだよ」
しばらくして、やっとその唇が震える。耳を澄ませていなければ聞き落としていたかもしれないその声に、震えが走って、それは嬉しいからで。なんとか言葉を探して、返そうとしたのに。
「ああ、もう、うるさいな。これで満足?」
遮られる。
「ていうか俺だって、嫌いな相手にキスとか、させないし」
「嫌いじゃないと好きの間にはこう、すごい溝があるじゃないですか」
「それはそうかもしんないけど、スリーくんなら、俺が好きでもない相手にキスなんて許すわけないって分かってると思ってた!」
「そ…っれは流石に今考えたやつでしょう!」
舌打ち。
「…なんでこういうときだけ、そういう、勘がいいわけ…? 腹立つ…」
「………」
何故こんなことを言われているのだろう、とは思ったけれど、ここまで振り回した自覚もあるので強く言えない。
しかし、と考える。確かにそうだ、此処は裏社会で、当然のように人間は消費され得るものとして扱われることが多くて。カーボナード・バリューなのだから余計、だろう。その中で、エイトは消費のことをあまり、快く思ってはいない。自分にそういった目が向けられるのも、他者がそういうふうに扱われるのも。好きだ、と言った。好きになって欲しいと言った。それが受け入れられたとして、エイトが納得していたとして。今後不必要な憶測を呼びかねないスリーを、許したのは何故なのだろう。
「どうして、」
思考は、そのまま言葉としてこぼれ落ちた。
「ボク、なんか」
「は、ああ!?」
その瞬間、カッとその目が見開かれた。流石に分かる、これは驚愕などではなく、怒りだ。もっと言うなら呆れを含んだ怒りだ。
「こ、このっ、ガキみたいなところかまわずのアピールに付き合って、今告白了承までしたのに言うことが、それっ!?」
「が、ガキみたいって…」
「じゃあスリーくん、今まで俺にやってきたことでこれぞ大人の愛情表現っていうの、あった?」
「………キス」
「キス一つで大人になれるならティーンエイジャーは全員大人だよ」
「ひっ、一つじゃありませんしっ」
「数の問題じゃないよ。そこはただの表現だよ」
「う」
ちょっと、弁明の余地がない。というか、エイトを相手にしてそんな、アピールの質をどうこう、というのは無駄なのではないだろうか。魚に泳ぎ方を教えようとしているのでもあるまいし、そこで競っても仕方ないように思う。
もし、エイトがスリーにそういうことを望むのであれば、それはエイト自身が教えてくれれば良いと思う。好き、というのはそういうことじゃあないだろうか。それに、エイトならばして欲しいことはして欲しいと、ちゃんと言葉にしてくれそうだったし。
エイトさん、と呼ぶ。何、と返される。
「もう一度、」
手が熱いのか、それともエイトの頬が熱いのか、よく分からなかった。もし願いが叶うなら、後者がいいと思った。
「キスをしてもいいですか?」
む、と拗ねたような視線が見上げてくる。なんだこれ。いや、エイトが時折そういう仕草をするのは知っていたけれど、スリーに対しては一度だって使われたことのないもの、だったのに。
「だめって言ったってするくせに」
「…しません」
くらくらする頭で、それでもちゃんと、言葉を待つ。
「………しませんから、いいよ、って。言ってください」
「…それって、俺の根負け待ちってだけでたいして変わってないと思うんだけど」
「だって、したいので」
「開き直らないで」
「開き直るくらい許してくださいよ。これが夢じゃないって、どうやったら証明出来るのかも分からない、のに…」
「夢じゃないよ」
「本当に現実ですか?」
「現実だよ」
だから、と言葉が落ちる。
「………いいよ」
しても、いいよ。
その、言葉が。
あまりにもやさしくて。
だからそれに返すキスは、今までした中でいちばんにやさしくなれば良い、と思った。
*
頬に手を添えて
作業BGM
「陽はまた昇るから」緑黄色社会
「ジャンキー」フレデリック
あいしてピルリパータ
どさ、と音がした。
キスをすることを許されて、それが嬉しくて。やさしくしようと思っていたのに、それがどんどん我慢が効かなくなって。ちょっと待って、とエイトが椅子からどうにか抜け出して逃げたのをいいことにそれを追う。エイトの想定では逃げた時点で一旦スリーが止まると思っていたのだろう、だからソファへと逃げた。スリーが少し前まで座っていた場所。当然それなりの大きさがあるわけだから、二人で隣合って座ってもお釣りが来る。そこまで読めていたけれど―――残念ながら、止まれなかった。
「っ、ちょ、」
文句を言おうとしたのだろう、その上からキスをして、怯んだ隙に腹へと乗り上げる。流石に伸びてきた手はそのまま取って、指を絡めてソファへと縫い付けた。
「、っん」
―――こんなの、
だって。
エイトは軽くいなしてしまえるはずだった、どれだけ自分より大きい相手でも、力のある相手でも、逃げることは簡単のはずだった。スリーは、エイトよりも大きいわけでも、力があるわけでもない。だから、簡単であるはずのそれをされないのは、ある意味の許可のようで。いや、勿論分かっているのだけれど、そんな理論が通用したらきっとこの世界に被害者なんてものはいない。簡単に出来ることが、ただ、想いひとつで出来なくなってしまうことだって、頭では理解していた。していた、が、止まれなかった。寧ろ能力でも使って止めてくれたら、冷静になれるのに、とすら思う。
もう真面に考えていられなかった。逃げる舌を追って、唾液を混ぜ合わせて。息継ぎの度にそれが口端からこぼれて肌をよごしていく。
「ま、」
ぷは、と色気も何もない呼吸音に気を取られていたら、さっと掌を差し入れられた。スリーの手ごとだったので、そのまま自分の手の甲にキスする羽目になった。そういう趣味はないのだけれど。
「待ってってば!」
「………退けてください」
「目が怖い」
「怖くないです」
「一回鏡見なよ」
「鏡見てる時間がもったいないです」
「もったいないとか言わないでさあ、」
エイトの手は退けられなくても、自分の手ならある程度自由だ。だから、絡ませていた指をほどいて首筋に添わせる。そのまま、つう、と鎖骨を辿って脇腹まで滑らせたら、うわわ、と声がした。未だ手で口がガードされているから、思っていたよりもくぐもった声だった。
「キスだけって言ったじゃん!!」
「だけとは言ってません。だけとは」
「そ、ういうのなんて言うか知ってる!? 屁理屈って言うんだよ!」
「別に屁理屈でも良いじゃないですか」
「開き直らないで!」
とは言っても、このまま無理強いをするのはだめだ、という警告はちゃんとスリーの脳内でも明滅していた。そのラインを間違えれば流石のエイトでも能力を行使してでも逃げるだろう。それは、なんというか、嫌だった。逃げられること自体が、というよりかは、逃げさせるようなことを自分がする、と思われるのが嫌だった。
でも、息を吐いてみたところで何がおさまるわけでもない。手をそれ以上動かすのはぐっと耐えたけれど、多分短時間しか保たない。諦めが早いというのは切り替えが早いということでもあり、つまり視点を変えれば美徳である。胸の内で一人頷いて、少し身体をずらして耳元で囁く。
「我慢しろって方が無理ですよ」
「だから、って、!」
体温が高いように感じるのは、単に密着しているからだろうか。それとも、この先の行為を想像して上がっているのだろうか。後者であればいいな、なんて思う。
少しでも。
エイトに、同じことを思って欲しかった。
「あ〜………無理、ほんと無理」
「こわい」
「ボクだって今、必死でこらえてるんですよ…」
「そのままこらえて忘れちゃった方がよくない? こう、いろんなことが」
「よくないです」
好きと言った、好きになって欲しいと言った、好きだと言ってもらえた。それだけで一旦満足しておくべきなのに、どうにも心がうまく動いてくれなくて。
「今すぐブチ込みたいのを我慢してるので褒められてもよくないですか?」
「スリーくんは知らないかもしれないけど、普通、そういうのは双方の合意があって初めて成立するものなんだよ」
「マフィアが何言ってんですか」
「マフィアだからこそ言うんだよ!!」
しかし、この状況でも身体が完全に密着しないようにだろう、間に折り曲げた膝があるのがにくたらしいな、と思う。そういう余裕はあるくせに、抵抗は口先だけで。そりゃあ、エイトからしたら能力を使ってまで、というのは最終手段だろうが。
「あ〜…うっわ、クソ………」
「耳元が治安悪いんだけど」
「ボクこれでもマフィアなんですよ…」
「知ってるよ。でもだからって俺の耳元でそんな声出さないで」
「いやそうじゃなくて…」
「じゃあなに」
「性欲のコントロールってそれなりに出来るつもりだったんですよ」
「あー…うん」
「今無理になりました」
「頑張って思い出して」
―――本当は、
ここで必死になって思い出して、それでまた今度日を改めて、とすべきだった。きっとエイトは約束してくれるだろう、それをエイトの意志で違(たが)えるようなことはしないだろう。それは、分かっている。分かって、いるけれど。
「エイトさん、」
そういうふうに、必死になりたくなかった。
「したい」
そうしたところでこの現実が消えてなくなるわけでもないのに、夢が醒めてしまうわけでもないのに。今すぐ実感らしい実感が、もしかしたら既成事実という名の人質が、欲しくてほしくてたまらなかった。
「いいよって言ってください。お願いします」
ああ、と思う。
一体、何処まで強欲になれるのだろう。
自分が欲しいだけで、こどものように駄々をこねて、我が侭を通してもらおうと乞うている。多分、こんなのは愛じゃあなかった。こんな一方的に満たしてもらおうとするのが、愛であってほしくなかった。
「おねがい…」
いっときでも。
エイトが何処そこで振りまくような、そういう、ちゃんと天秤に乗れるようなものがそうだと頭では思っていても、胸に穴が空いたみたいに欲求が留まることを知らない。
「………はあ、」
大きく、ため息が吐かれる。
「ほんと、こういうのサイテーだと思うからね」
「…はい」
「痛いのとかナシだからね」
「はい」
「次からはちゃんと予定確認してよ」
「はい」
「………なら、あー…もう、」
いいよ、と。
その言葉が嬉しくて、今日は予定は大丈夫なんですか、というのを聞くのを忘れた。
*
顎まで唾液が伝うくらい
作業BGM「足りない」DUSTCELL
わすれないでコゼット
多分、散々だった。
そりゃあそうだろう、とは思う。準備もなしの突発的行動、場所も作業用プライベートルームであってベッドもなければシャワーもない、ものも足りないから鞄に入っていたものでどうにか代用…もうここまででも散々だ。よく途中で止められなかったな、とすら。当然スキンも持っていなかったのでそのまましようとしたら、流石に馬鹿じゃないの、と罵られた。確かに罵りだった。別にいいけれど。でも、マナーでしょ、と何処からともなくスキンを出されたのには何か、こう、言いたいことがあったような気がする。言葉にならなかったからそのまま放置になったが。
「………うー…、」
「大丈夫ですか?」
と、まあそんなふうに散々だったわけだけれども、片や医療従事者、片や遊び人、どうにかなるものだ。無理、もう無理、と弱音を吐くエイトに知識くらいあるでしょう、と言葉をかけて、結果、女性相手ではあるが使ったことがある、という言葉を引き出した。そのときを思い出して、と言ったのはちょっと無理があったかもしれないが。流石に挿れる方と挿れられる方を一緒にしたらいけないことくらい、スリーだって分かっている。ただ、分かっていても今更おあずけなど勘弁して欲しかっただけで。
「大丈夫に見える?」
「さっきよりはマシに見えます」
「………まあ、うん、それは否定しないけど…」
動いてないからだよ、と言われると確かにそうなのだろう。圧迫感の所為か、引いていた血の気が徐々に戻ってきているように思う。馴染む、というのはこういうことを言うのだな、と思いながら、そっと、キスを落とした。腰を上げてもらているおかげで、この身長差でもちゃんと唇に届く。ん、ん、と鼻に抜ける音を聞きながら、まだ動けはしないな、と判断する。
でも。
「…ふふ、」
「………なに」
「いえ。キスするとちょっとは力抜いてもいいかなって思ってくれるんだな、と思って」
それでも、少しずつ緊張が緩められていくのが嬉しかった。どうしたって、どうやって意識したって、身体の内側なんてものを弄られて普段どおりにするのは無理だ。とくべつ快楽に弱いというわけでもないから、他で手っ取り早く誤魔化すことも出来ない。
だからこそ、嬉しかった。
スリーが内側にいることを、エイトの無意識の領域が許してくれるようで。
「いつもの感覚を思い出しますか?」
「いつも、って言われても…」
呆れたようにその目が細められる。そんな視線をもらうようなことを言った覚えはないのだけれど。
「スリーくんが、俺の都合考えてくれたこと、なくない」
「そうですか?」
「そもそも、これだって…俺の都合、ガン無視じゃん…」
「それは…そうかもしれませんが」
「もう、マジで、こういうの、ナシね」
「もっとうまくなります」
「それ、以前の問題、だから」
「…そういえば、」
確かにスリーが悪いとは言え、延々責められてはいたくない。だから、話題を逸らそうと思った。エイトだって、そういうのにはちゃんとノッてくれると思ったし。
「今日は予定、大丈夫だったんですか」
「………今更?」
「さっき言ってたな、って思い出して」
「聞かなかったじゃん」
「だから、思い出したんです。聞かなかったな、って」
想定どおりノッてきてはくれたものの、何か歯切れが悪いような気がする。
「エイトさん?」
「うん? あー…うん」
「今度からはちゃんと予定聞くので」
「うん………」
「そしたら、都合合わせてくれますか?」
「…まあ、うん。無理なときもあるかもだけど」
「デートとかも、してくれますか」
「え? あー…まあ、うん、いいよ」
続々と肯定と了承をもらっているのに、やっぱり歯切れの悪さが拭えない。どうしたのだろう、と思って会話を思い返す。そして、一つ、予想が立った。
出来れば当たっていてほしくない予想が。
「………エイトさん」
「なに? あ、まだうごかないでよ…」
「いえ、それはちゃんと大人しくしてますけど。あの、」
「うん?」
「もしかして、」
喉が渇く。嫌な汗が出ているような気がした。
「今日、予定、大丈夫じゃなかったですか…?」
「あー………」
気付いたか、とでも言いたげに眉間に皺が寄って、ややあってからうん、と頷かれる。
「え………えっ!?」
「もー…いいよ、俺がいいって言ったんだし」
「待ってください! それ、どっかから怒られるやつですか!?」
「あー…まあ、うん…」
「う、うそ、ですよね…?」
「ほんとほんと」
「軽くないですかっ!?」
「今更言ったって、無駄でしょ」
それに、と指が伸びてくる。
それは、スリーの唇をむに、と押して。
「言ったところで我慢出来るなら、最初から、退いてくれたでしょ」
「―――」
確かに、そうだけれど。それはそれ、これはこれ、じゃあないのか。あれだけ言っておいて考えておいてなんだけれど、能力を使ってでもスリーを退かしてしまった方が良かったのではないか。
「それとも、我慢出来た?」
「………それ、は………無理ですが…!」
「無理なら仕方ないじゃん、俺もいいって言ったし」
「それはなんか…っそうなんですけど、違うっていうか!」
「まああとで、怒られればいいだけだし…」
「ぼ、ボクの所為なのに!?」
「別にいーよ、怒られ慣れてるし」
そういう問題じゃあない気がする。でも、誰に怒られる案件であっても流石に、セックスしてて行けませんでした、相手はスリーです、というのは言わない方がいいとは思った。本当に、相手が、誰であっても。
「それに、」
むに、むに、と遊ぶ指がなんとも言えない心地にさせてきて、ぱくり、と口に含んだら笑われた。
「こんな話してるのに、萎えてないじゃん」
「う、」
「ていうか寧ろ、なんか…興奮してない…?」
「そりゃあするでしょうよ!」
これで興奮しない方がおかしいと思う。そんな思考が伝わったのか、まだうごかないでね、と念押しされた。そんなに信用がないだろうか、ないと思う。
「ああ、もう…」
唾液に塗れた指を取って、またキスを落とす。
「出来る範囲で、その、補填はするので…」
「スリーくんに出来るようなものじゃないからいいよ」
「そんなばっさり切らないでください!」
「だって、ほんとのことだし…」
「そこはっ、」
―――もっと、
この関係をいいように使うとか、してくれてもいいのに。
押し切られたとは言え、エイトにはその権利があるはずなのに。
「嘘でもお願い、とか言ってくれていいんですよ」
「ええ?」
何言ってんの、とばかりに呆れた視線が寄越されるから。
「スリーくん、嘘嫌いじゃん」
「………いや、その」
「だから、そういう必要のない嘘は吐かないよ」
それは。
必要のある嘘なら、これからも吐く、ということだったけれど。
「………勘弁してください…」
「なに」
「このままめちゃくちゃにしたい」
「しないで」
終わったら謝りに行かないとだから、と言われたら、なけなしの理性をどうにか捕まえているしかなかった。
これが、いつか思ったみたいに本当に悪いことであっても。
ただエイトだけには、許されていたかった。
それを享受しているだけの愚かさを、持ち合わせていたかった。
*
情事中
作業BGM「星が泳ぐ」マカロニえんぴつ
*
by @gimpthshs