どうか世界が追いつくまでは
病院での休憩時間にだらけていたら、ふっと窓から差し込む光が急に陰った。なんだろう、と思ってそちらを向くと、エイトが浮いていた。
「………え?」
「あ、開けて」
「何やってんの」
「何って用事あったから来ただけだよ」
それ以外にないでしょ、と言われるとそれはそうなのだけれど。少しだけ別のことを想像してしまった自分が嫌になる。そんなこと―――ある訳がないのに。
何の、用もなく。
エイトが、会いにくる、なんて。
「お前に依頼してた仕事あるじゃん」
「あるね」
本題に入られたからおざなりに返事をしたのだけれど、みなまで言わずとも分かってしまう。
「え、だって期限」
「うん」
「書類ミス?」
「状況変わっただけ」
エイトが本格的にすまなそうな顔になって、それで深刻度合いが分かってしまう。そんなふうに判断していればいつか、それを逆手に取られるようなことがあってもおかしくはないのに、エイトはそんなことをしてはこないと、そうやって願ってしまう。
そうだった、これは、願いだ。いつ切られて仕方ない関係を勝手に構築して、それでも尚、手を振り払わないでいられることがどうしたって嬉しかったから。
「…明後日までにどうにかなんない?」
「明後日、って………」
頭の中で計算する。明後日っていつだっけ、みたいや現実逃避が駆け抜けていった。残念ながらそんなことをしても期限は変わらない。明後日、明後日、と脳内でスケジュールをやりくりしながらとりえあずもう一度確認する。
「マジで言ってる?」
「他の仕事は止めてやれる」
「いや、ええ…出来るとは思うけど、実験の時間取れないから精度落ちるよ」
「背に腹はかえられねーから…」
他の仕事を止めてもらえるのは有難い。ので、素直に受け取ることにする。
背に腹は代えられないとは言っても、エイトだって理由があってこの仕事を持ってきたはずだ。必要だから、シックスにはこれが求められた。それを、本人都合とは言え、精度を落としたまま渡すのは困るのではないのか。そんなことを思ってしまう。そう、思ったところで待ってくれる案件ならば、エイトがこうやって来ることもなかっただろうに。
その思案時間を別の意味に取ったのか、エイトがあー…と小さく呟いた。
「流石に埋め合わせはするよ。こっちの都合だし」
「埋め合わせ」
「何、俺ってそんな横暴だと思われてんの」
「えっ、いや、そうじゃなくてね、」
埋め合わせ。その文字が脳裏でくるくると回りだした。自分のことながらこんな安くて良いのだろうか、と思ってしまう。こんなに安くて、いつか―――いつか、本当に。
「それって、個人的なお願いでも良いやつ?」
「は?」
思考を塗りつぶすようにして急いて言葉にすれば、怪訝な視線が直に突き刺さる。でも、これがエイトの視線というだけで、正直嬉しいと思ってしまうシックスは、もう何処か壊れてしまっているのだろうか。
「エイトさんが公私混同するなって言うなら何も聞かなかったことにしてくれて良いけど」
個人的なお願い、というのを咀嚼していたらしいエイトがややあって、あー…と呟いた。シックスが言うのも何だが、こんな何も考えていなかったふうな音を出されるとそれはそれで心配になる。エイトはそれこそ、シックスなんかよりずっと、誰かの恨みを買うようなことをしていて、それが、いつか、性的暴行だとか、そういうものになって返ってきても可笑しくないだろうと思うのに。ナノマシン能力でどうにかするとしても、ナノマシンだって絶対ではない。エイトが暴走したところは見たことはなかったけれど、あれだけ高負荷の能力を使っていてそういう場面を見せない方が本当は可笑しいのだ。
―――見せないように、
努力している。その努力が、一体どれほどのものか、暴走するまで能力を使うことはそんなにないシックスには分からない、けれど。
「マフィアが公、ってのも変だろ…」
「じゃあ聞いてくれる?」
「条件次第」
「薬飲んで欲しい」
「………お前、マジで言ってる?」
「大マジだよ。エイトさんだって前より効きにくくなってると思うし、そんな悪い条件じゃないと思うけど」
さっき理解したからこそ、面倒そうな声を出したのではなかったのか。分からないな、と思う。エイトの胸中なんて、読めることはこの先ないのかもしれないし、エイトだって『8』としてそんな無様な真似はしてくれないだろうとも思った。
―――どれだけ、
駆けても。エイトには追いつけないのだ。だから、どんなに少ない時間でも、この腕の中に捕まえた心地になっていたい、そんな、ふうに。
「エイトさん、」
「なに」
「ごめんね」
「何が」
「ほんとは俺の交渉力とか見たかったんでしょ」
問題を起こしたあとだった、これはもしかしたらシックスの今後を決める指標になるのかもしれなかった。それを、自分で潰してしまうのは、馬鹿のやることだと分かっていたけれど。
「ちょっと余裕ないから、見せてあげらんないや」
「何の余裕?」
「なんか…全体的な?」
まだ、エイトは良いとは言わない。言わないけれど、このままキスでもすれば、きっとエイトは押し切られてくれる。未だ、この関係が誰も知らないもの≠ナあるということは、そういうことでもあった。
「他の人にはなんて言えば良い?」
「………秘密の切り札使ったとでも言っておくよ」
「はは、まあ、秘密、だもんね」
誰かに。
知られたら。
「秘密、かあ…」
エイトはきっと、遠くへと行ってしまう。今度こそ、シックスの手の届かない場所へと、行ってしまう。
「まあ、分かった。明後日ね」
どんな言葉を尽くしても、その終わりだけは、決まっている。
「調整だけならどうにかなるし、実験自体は誰かにやってもらって良いし…」
それを悲しいと思うことはしなかった、寧ろ、今のこの状態を拒絶されていないことを喜ぶべきだった。シックスではエイトの、何か≠ノなれない。彼を引き止めることも、彼に縋ることも、許されてはいない。
それを、それくらいは。
間違えないでいたかった。
「エイトさん」
「何」
「今って時間あるよね」
「………お前、」
「今が良い」
舌打ちが聞こえて、それから多分、時計が見られる。静かな心音が、心地好い。ずっと、こうしていられればよかったのに。時間は待ってくれない。
「仕事は」
「休憩時間だから」
「………」
暫くエイトはどうしたものか、と悩んでいたようだったけれど、渋々と言ったように分かった、とだけ呟いた。
薬の効き目が表れるのを待つことなく行為を進めたのは、休憩時間といえども呼び出しがかかるかもしれなかったからだ。それ以外の理由はない―――ということに、しておきたかった。忙しくて最近は顔をあわせることも稀で、だから触れてなんて、当然いなくて。
「やっぱ、熱くて苦しい?」
ソファの上で、跨がらせたエイトの視線がいまいち何処を見ているのか分からなくなったのを見計らって問う。緩慢な動きは首肯だろうか、分からないな、と思った。背筋が丸まるように腹に手をつかれると、はやく終われと願われているようで落ち着かない。
「ね、」
ゆるゆる、と接合部をなぞってやるとうう、といううめき声が漏れた。嬌声と呼ぶには遠い。遠い、けれどもいつもの行為と比べたら声を出してくれているような気がしなくもない。
「自分で動いてみせてよ」
その言葉に従うように、ゆら、ゆら、と拙く腰が動き始める。腰の動かし方なんて挿れる方でも挿れられる方でもそう大差ないだろうに、躊躇ってみせるのは、やっぱり身体の中を暴かせていると、そういう自覚があるからか。
誰にも触れられたくない場所を踏み荒らされていると、そういう自覚があるからか。
「いー眺め」
ぼんやりと浮かんだ薄暗い思考を避けるように、その動きに意識を集中させる。自分から動いてくれる、なんて。それこそこんなふうに薬でも使わないとしてもらえない。
「やっぱりあんまり顔に出ないんだね」
あと効いて二回、くらいだろうか。流石にあと三回は効かないだろう。まあ、それも効力が落ちるだろうから本当に耐毒性に優れているんだな、と思う。
しかし。
本当に顔に出ない。よく見れば目がいつもと違ってとろん、としているのは分かるけれどそれだけだ。それだって、普段のエイトを知らなければ分からない違い。
「―――もし、」
崩せないことを喜ぶべきだった、シックス以外の誰がどんなことを思っても、この人は絶対に落ちたりしないのだと、いつだって軽々とその身を翻して何処かへ行くことが出来るのだと、そう、信じていたかった。それが、どんな我が侭だとしても、口から出さなければ伝わることはない。
「こんなとこ誰かに見られたら、エイトさんが素面で俺のこと襲ってるって見えんのかなあ…」
「………、」
緊張したように、肩に力が入るのが分かった。それと連動するように、なかもきゅう、と締まる。前も思ったけれど、意外とこういうのに弱いのだろうか。
「誰かに見られるの想像した?」
「………て、ない、」
「そう?」
否定の言葉が紡がれるわりには、身体は素直に興奮を返してくるが。それが緊張によるものだけなのか、シックスには分からない。
「誰を想像したの?」
「…して、ない」
分からないけれど、否定を重ねられればそれを崩したくなるのは仕方ないだろう、と思う。
「―――スリーにいちゃんとか?」
違う、と言って欲しかった。どうして兄の名を出したのか、自分でもよく分からない。でも、今いちばん此処にくる確率が高いのはスリーだった、だから、口に出した。それだけ、の、はずだ。そんなことない、と、いつもの顔には程遠くても、何を馬鹿なことを、といつもと同じことを言ってくれるのだと、そう思ったからだ。
なの、に。
「………そ、れは、」
びくり、と肩が揺れる。それと一緒に、なかは今まででいちばんの反応を示した。
「それは、ない、」
「………嘘じゃん」
「…ち、が………」
「自分で聞いておいて何だけど、その反応は流石に傷付く」
腰を抱えあげ、一度抜いてからソファに押し倒してもう一度挿れる。長いソファで良かった。クッションもあるから、肘掛けに背中が当たって痛いだとか、そういうこともないだろう。
「今、エイトさんのこと抱いてんの、誰?」
「…っ、あ、………ッ、」
そんな、ことは。
考えられるのに。
「ねえ、言えるでしょ」
「………し、」
唇が逃げたがるように戦慄いた。
「し、っくす、」
名前を呼ばれた、エイトは正解を叩き出した。分かっているのに、もやもやと嫌なものが胸から身体中に広まっていくようで。
「スリーにいちゃんが良かった?」
「………な、に、」
「スリーにいちゃんに抱かれたかった?」
目が、見開かれた、のだと思う。すぐさまそれは律動に飲み込まれて消えてしまったが。
「なに、ばかなこと、」
「―――じゃあ、」
もう無理だ、と身体が訴えている。このあと戻らないといけないから、とゴムをしたのがもったいなく思えるくらいに求められている。涙がどうして落ちないのかが不思議だった、この場面を誰が見咎めるわけでもないのに、エイトはいつだってそういうことをしてくれない。
「俺が良い?」
「…さっきから、」
この手が、シックスに縋ってくれることなんて、ない。
「そう、いってる………」
分かっていても、薬に浮かされてそれらしいことをしてくれるエイトのことを、きっと忘れたりは出来ないのだろう、と思った。
*
作業BGM
「琥珀色の街、上海蟹の朝」くるり
「マトリョシカ」めいちゃん・Gero(ハチ)
「彷徨い」花譜
境界線
何を馬鹿なこと。
それは、どういう意味の言葉だったのだろうか。そんなことを思ってしまう。あのとき、兄の名前を出したのは単に今現れるとしたらの確率が高いからだと思っていたのに、どうにもそうではない、ようだったから。自己分析なんて好きじゃあない、いや、好きだという人間がいるのか、とすら思う。だって、誰だって―――人間は。
自分のことを知らないままで生きていきたい、そういう狡い、生き物だと思っているから。
「スリーにいちゃんてさあ、」
声をあげたのは、結局それが頭に残って仕方ないからだった。仕方ないから、何か聞いてしまいたかった。
「何ですか」
「エイトさんのことどれくらい知ってる?」
「は?」
それが、求めるものじゃあなくとも。
どう考えたって、スリーもエイトもシックスよりもカーボナード・バリューのマフィアとしてやってきている時間は長いのだ。少し前はカードだって少なかったから、同年代の二人が顔を合わせるくらいはしていた、というのは知っている。でも、それくらいだ。そんなふうに関係を築いていたのか、とか、そういうことは知らない。
―――特に、
シックスはエイトの生徒にはなれなかったから。それを口にしてしまうと、キングの弟子になったことが嫌なのか、と言われそうだからそうはしなかったけれど。だって、キングの弟子になれたことも、なれるだけの才能が自分の中に眠っていたことも、嬉しかったのだ。それは間違いない。
そんなシックスの思考など分からないスリーは、器用に片眉だけを上げてみせた。
「また何か、面倒ごとでも起こすつもりですか」
「ええーそうじゃないよ」
俺のこと何だと思ってんの、と言ったら渋面を向けられる。流石に以前のように不利益のタネを無視することはやめたらしい。そう仕向けたのはシックスだったけれど、まさかここまで興味のあるふりを続けてくれるとは思わなかった。
―――この、
掛け違いが、一生正されることなんてない、と思っている。きっとそれは、いろんな人々の間にあるもので、もっと言うのならば、シックスとエイトの間にあるのも、そうで。
「なんかさ、」
なんでも出来る大人、に見えていた。そんなことはないと分かっていても、エイトがシックスに見せる姿は意図してそういうふうになっているように感じていた。でも、そう感じたからと言ってじゃあそういうふうじゃあない姿を見たいのか、と問われると違う。
「あんま…知らないなって思って」
「はあ」
「何その返事」
「シックスでも他人に興味持つんですね」
「ええー何その言い方」
大人のままでいい、だって、もうエイトはこどもには戻ってくれないから。なら、シックスが大人になってしまえばいい。
エイトと、
同じ壇上に、上がってしまえばいい。
それならきっと、少しはこの齟齬も埋まる、だろうから。そうやって思っていると、まあでも、とスリーが息を吐く。
「エイトさんのことは昔から気にしてましたか」
「えっ」
「あれ、自覚なかったんですか? エイトさんに会った日に顔合わせると、比較的喋ってたじゃないですか。マシンガントークとまではいきませんでしたけど」
「そうだっけ…?」
自覚がないわけでも、記憶にないわけでもなかった。でも、スリーがそうやって覚えているとは思わなかった。喋りすぎたな、と思ったときは他の話題も混ぜ込むようにしていたし、エイトだけの話題として受け取られているとは思わなかった。
「そうですね」
浮き上がってきた焦りじみたものを飲み込んでいるうちに、スリーは話を続ける。
「むかし…にはなりますけど、警戒心が強くてやりにくいなあ…とよく思ってました」
「そうなの?」
「当時はまだ…ボクら二人ともこどもでしたし。大人になってから顔合わせたんだったら、また違った印象にもなったんでしょうけど」
こんな話が聞けるとは思わなかった。エイトが、シックスには見せてくれない部分…こどもの、部分。それが確かにあったのだと、スリーの話はその証明のようで。
「育った環境の所為なのか、にこにこしてみせる割には絶対に警戒心を解かれなくて…そんなにボクが信用出来ないのか、と言い争いになったこともありますよ」
「へー。スリーにいちゃんでも手懐けられないこどもっていたんだ」
「………その言い方はどうかと思いますが」
これできみの質問には答えたことにはなりましたか? なんて聞かれても、こんな話を聞いてしまっては、求めていた内容と違うと思っても首を横に振れるわけがない。
「今は?」
「今? 今は見ての通りですよ」
「見ての通りって?」
「敵でも味方でもないけれど、何か一つでも状況が変わればどっちにもなる、というふうに思っています」
「ふうん」
だから。
エイトは、スリーを気にしてみせるのだろうか。シックスにするよりも、ずっと好意に近く見えるそれは、彼らが同じ壇上に立っているから、なのか、一つだって解決はしていない、いないのに―――笑って、頷いてしまう。
「そうなんだ、…そうだよね」
シックスには許されない時間がどうやったら許されるようになるか。きっと、それは設問からして間違っているもの、なのだろう。
*
作業BGM「Habit」Sou(SEKAI NO OWARI)