なんでもない
何を食べてるんですか、という言葉に、とうとうスリーさんは目の前のものが何か分からないほど疲れているのかあ、という感想を抱いたわたしは別に悪くないと思う。
「何って、ヌガーですけど」
「そうでしょうね」
どうやら分かってはいるらしい。なら、何か文句でも言いたいということだろうか。面倒だなあ、と何度思ったか知れないことを思いながら、わたしはそのままヌガーを貪り続けた。だってこれはわたしの貴重な昼食だ。まあ、今はもう夜だが。
「普通食べ続けます?」
「お腹空いてるので」
「だからってこんな糖分の塊みたいなもの…虫歯になりますよ」
「歯磨きちゃんとしてるので大丈夫です」
「本当ですか?」
「こんなことで嘘吐いて何になるんですか」
そこまで信用がないだろうか。
わたしが無視して二本目を開けると、はあ、とため息が落とされた。流石にわたしが何を食べようとわたしの勝手だろうし、そこまで口を出されるいわれはないはずだ。ない、はずだ。うん。でもそういうところで口を出してくるのがスリーさんだともうわたしだって分かっているのだが。
「…やめたらどうです、それ」
「どうして。美味しいのに」
「美味しい…?」
「そんな信じられない声出さないでもらえますか」
「そんなベタつくだけのもの、何が良いんです」
「スリーさん、アメリカ在住の人間の八割敵に回して何がしたいんですか?」
つかつか、とスリーさんが近付いてきて、わたしの手ごとヌガーを掴む。
そして、そのまま残りを飲み込んだ。
「え」
「………美味しくない…」
「それは個人の好みでしょう! っていうかそれ、わたしの昼食だったんですよ」
「…昼食くらい奢ります」
「は?」
「ていうか、もう夕食ですよ。きみの時間はどうなってるんですか」
「そうですね。誰かさんの所為で昼食逃しただけなんですけど、まあスリーさんに関係ありませんよね」
スリーさんのミスの後始末の所為なのだが、別にわたしは良い部下なのでそんないちいち細かいことを言わないのだ。
「………奢ります」
「別に、上司にタカるほどお金に困ってませんよ」
「奢らせてください」
「嫌です」
とは言ってもヌガーは食べられてしまったし、わたしはまだお腹が空いているし、時間はあるし。スリーさんは言い出したら聞かないし。
せいぜい高いものでもせびろうか、と考えて、やっぱりわたしにはそういうの向かないんだよなあ、とため息を吐いた。
駆け出せ恋する乙女!
運命だと思った。
今までそんなものを信じていた訳ではない、ロマンチックな恋なんてものは裏社会に足を踏み入れた時点で大抵が窒息死する。私も、例に違わずそのうちの一人だった。平凡で、どうしようもなくて、きっと消えても誰も気付いてくれない。卑下ではなく、裏社会というのがそういう場所だと私は知っている。
―――だから、
夢なんて、見ない、はずだった。
「落としましたよ」
「え?」
後ろからした声に振り返る。視界に、淡い薄紅の髪がふわり、風に吹かれて。
その瞬間、私は恋に落ちたのだ。
彼女が差し出していたのはキーホルダーだった。ただなんとなく買ってみただけで、思い入れも何もないもの。それが、彼女に拾ってもらったことで世界で一つだけのたからものになったのだ。
「あ、ありがとうございます…」
「どういたしまして」
分厚く丸いレンズの向こうで、髪と似た色をした瞳がやわらぐ。胸が、どきどきと高鳴って仕方ない。
彼女が私を見て笑ってくれた。この奇跡を一体、どうやって言い表したら良いのだろう!
「本当に、ありがとうございましたっ」
「お礼ならもう聞きましたよ」
「と、とても大事なものだったので!」
「そうですか」
なら拾えて良かった、と彼女が言う。それにどうやって返そうかと考えていたら、向こうで誰かが彼女を呼んだ。あれは、部長だっただろうか。私とは働いているフロアが違うから、実は偉い人の顔なんて分からない。
「呼ばれているので。では」
分からないけれど、今の私では彼女を引き止めることは出来なかった。彼女は、きっと、もっと私と話したいと思ってくれたに違いないのに。
中途半端に上がった手が降りる。
宙を掻くことも出来なかった、手が。
「―――よし」
その手をぐっと握って、私は踵を返す。彼女が、私のところに来られないと言うのであれば、私から彼女のもとに出向けば良い。
まずは手始めに、この長くてうざったらしい髪を切ろうと思った。そうして、今度こそ真っ直ぐに彼女の目を正面から見つめて、愛の言葉を囁いてもらうのだ。
ブルー・ブルー
プレゼントです、と自分の口から出した言葉をひどく苦々しく思う。受け取ったスリーさんはきょとんとした顔をしているし、わたしだって好き好んでスリーさんにプレゼントなんてものをしている訳ではないのだ。いろいろと―――本当にいろいろとのっぴきならない事情があって、しなくてはいけないところまで追い詰められた、というだけで。
「要らないならそう言ってください」
「要らないなんて言ってません」
まあ、追い詰めた一番の原因はいつもの如くスリーさんであるので、これは茶番の中の茶番でしかなかったのだけれど。
しかし、自分から仕掛けておいてそんなに驚いたような顔をしないで欲しい。どうやって育ったら、どうやらサプライズでプレゼントを用意してくれているようだ、楽しみだ―――なんてぬけぬけと嘘が言えるようになるのだろう。看護師じゃなくて結婚詐欺師でもやったらどうだろうか。
箱を開けたスリーさんがふむ、と言う。人にプレゼントの圧をかけておいて検分するな。
「葉っぱがハートの形でかわいらしいですね」
「そうですか。スリーさんがそういったものをかわいらしいと思う心をお持ちとは知りませんでした」
「特に意図はなかったと?」
「葉の形成についての論文ならゴス辺りが詳しかったと思うので聞いてみては?」
「きみはこれをハート型とは思っていないということですね」
「そうですね、先端が尖っている、というふうに受け取りますね」
「ふうん」
どうせ明日からハート型の植物をもらったと言いふらすつもりだろう。分かっている。でも、わたしだって分かっていてやられっぱなしでいる訳ではないのだ。
「これが説明書です」
落ち着いて見えるように注意して、一緒に入っていた本を渡す。スリーさんは一応受け取ったけれど、見るつもりはないようだ。まあ、わたしとしてはその方が助かるが。
「植物でしょう。日当たりや水はけに気をつけていれば良いのでは」
「まあ、スリーさんがそう思うのならわたしはそれで構いませんが。わたしは贈った植物を枯らされたところで特に文句は言いませんので」
「………まるで、ボクが枯らすのが決定しているような言い方ですね」
「まさか。でもスリーさんは忙しいでしょう、もし植物が枯れても仕方ないとは思っていますし、わたしもそれを嘆いたりはしないということですよ」
にっこり。マリモの件を根に持っている訳ではないけれど、言えるときに言っておくのは大事だろう。
そんなわたしの様子に、何かが可笑しい、とやっとスリーさんは気付いたらしい。
「ちなみにこれはなんて名前なんですか」
説明書見ろよ、と思ったけれどもまあ、別にこれくらいは良いだろう。
「アジアンタムと言います」
流石のスリーさんでも聞き覚えがあったのか、その視線がさっと説明書に向く。
その隙にわたしは仕事が残っているので、と逃走することに成功した。
「これでちょっとは気が逸れるでしょ」
贈ったアジアンタムには申し訳ないが、スリーさんがそれを枯らそうが枯らすまいがわたしには興味のないことだったので、そのまま脳から消した。
感情の裂傷に何と名をつけよう
今度は一体どういうことだろう。
スリーさんがわたしに嫌がらせを仕掛けてくるのは―――まあ、これ自体も本気でどうかと思うのだけれど―――今に始まったことではない。けれどもスリーさんは一応あんなでも幹部であるし、病院でも仮にも看護師長であるのだ。暇ではないはずだ、うん、ないはずなのだ。わたしは何も間違っていない。わたしはわたしで表のシフトが入っていれば救急棟に出ずっぱりだし、表が何もなければ死体相手に地下に潜る日々だ。これでも一応定時ないし労働基準という概念は知っているので、誰かに迷惑のかからないようにちゃんと調整している。調整した上でわたしの事業に利益が出るようにやっている。わたしはそういうところはちゃんとしているので(本当に自分で言うのもなんだが)、余暇という単語が辞書に載っていないスリーさんとは違うのだ。わたしの辞書はそれなりにちゃんとしているので余暇という単語くらい載っているし、その使い方の凡例だって載っている。馬鹿にしないで欲しい。
と、思考を巡らせたところで地下に潜ろうとしたわたしをなんやかんや理由をつけて引き止められている事実に変わりはないのだったが。ひどい話である、どうして上司に仕事を邪魔されないといけないのであろう。これがまだただの無能なら諦めもついたが、残念なことにわたしはスリーさんが決して無能ではないことを知っている。しかもそれがただポンコツになるだとかそういうものでもなく、意図的にポンコツになってみせるのだから本当にやっていられない!
「それで」
ここで先に折れるのは戦略的によくないように思えるが、わたしにだって仕事がある。それを邪魔されるのは本当にたとえスリーさんであろうと―――というか、上司であろうと、許せるものではない。スリーさんだって知っているだろうに、地下に一番必要なのは鮮度だ、そこは幾らシックスが保存液を都合してくれたからと言って変わるものではない。もう出来るだけ話を逸らしたいから言うが、わたしたちの使っている臓器保存用の液はシックスは発明したものだ。これで大分、他の組織に差をつけることが出来ているのは間違いない。シックスの保存液目当てに来るスパイだって少なくないのだ。本当にすごいものを作ってくれたと思う。
…まあ、どれだけ現実逃避をしたところでスリーさんがついて回ってくる現実は変わらないのであったが。このまま地下に戻っても良かったけれど、そうするときっとスリーさんはついてくるだろうので、それだけは阻止したかった。病院で使っているわたしの部屋だって結構勝手にスリーさんに使われているのだから、仕事場というか地下という聖域だけは絶対に死守したかった。
「何の用でしょう、スリーさん」
「ええと、何という訳ではないのですが」
「ならもう戻っても良いでしょうか?」
にっこり、と笑う。言外に仕事の邪魔をするな、と言ったし、絶対にスリーさんは理解したはずなのにまだ粘る。何なんだ、本当に。どうして今日に限ってこんなにつきまとってくるんだ。今日は何かあっただろうか、来訪の予定はなかったはずだし、新人が入っただとかもない。もっと言えば誰かの誕生日でもないはずだった。あれ、やっぱりわたしがつきまとわれる理由はないのでは?
「きみはいつも忙しいですもんね…」
「………」
なんだそのしおらしいです、みたいな顔。気持ち悪い。
勝手に目を伏せたスリーさんに、いつの間にか出来ていたギャラリーがああ、みたいな声を漏らした。もしかしてギャラリーが出来るまで待っていたのか? もしそうだとしたら確実に面倒なことになるからさっさと逃げるに限る。
「申し訳ないですけど、仕事は待ってくれないので。では、これで」
くるり、と回ってスリーさんから離れる。本当はダッシュで逃げたかったけれどもこうもギャラリーがいてはそれも出来ない。困ったように眉だって下げたんだからこれで勘弁して欲しい。まあ、わたしにもっと演技力というか羞恥心という概念がなかったら、ここで本当は離れたくないけど仕事があるので! みたいな顔が出来たのだろうが、それは流石に心が死にそうなので却下した。いや、出来るとは思うが。これ以上スリーさんを応援する会みたいなやつを盛り上げてたまるか。わたしはスター・アトラクションではないのだ。守りたいものくらいある。今ひどくギリギリになっている矜持だとか。
「待ってください、」
これで終わりだ! と思ったのにあろうことかスリーさんはついてきた。ついてくるな。本当に何なんだ。うっかり目に入れた星座占いで嫌いな相手に嫌がらせすると金運が上がるとでも言われていたんだろうか。そんな雑誌廃刊にしろ。
「あの、これくらいは」
する、と手が取られる。
「いつもありがとうございます」
ちゅ、と音がした。何処、と言われると手の甲辺りで、なのだけれどもわたしはちょっとこれを言語化すると吐きそうなのであとはすべて想像に任せたい。
鳥肌が立った。しかしながら、わたしだってマフィアだ、咄嗟の反応をなかったことにすべく普段どおり$Uる舞うことが出来る。
「―――」
許されるのならこのまま手を振り払って後ろに飛び退きたいものだが、残念ながら此処は衆人環視のもとだ。そんな場所でそんなことをすればわたしの評価が崩れかねない。ていうか、それを分かっていて絶対この手を選んだだろ、と思う。本当、その頭を嫌がらせ以外で使ってくれないだろうか。これ、そんなに難しい願いだろうか。
そんなことを思っても、結局わたしが外部に対して見せておきたい顔というのは決まっている訳で、そしてそれをスリーさんただ一人のために放棄するのはあまりにもデメリットが大きすぎるのも分かっている訳で。
「こちらこそ、どういたしまして」
ひくつく口角を押し留めて、外面百点満点の顔でそう言ってのけたわたしは、誰かに褒められて然るべきだと思った。
*
妻の日
作業BGM「ルマ」博衣こより(かいりきベア)
それは春の訪れに似て、
あ、と思った。
「なんです」
「………いえ」
「何もないって顔じゃあなかったでしょう。ボクが気付かないとでも? なんですか。何かまたミスでも発見しましたか」
「………」
これは油断なのだろうか、と思う。まあ、書類のミスを発見して報告のついでに言うことなんて今までもやってきたことなのだし、上司のミスを直すのも部下の仕事と言えば仕事なのだろう、と思う。今までと違うことと言えばちまちまと書類確認をしているこの空間にスリーさんがいることくらいで、まあ、だから反応を少しくらい隠しておいた方が良かったかもしれない、というのは勿論あるのだけれど。もしかしてわたしが部下としてやるべきだろう、と思ってやってきたことがスリーさんにとっては嫌がらせに感じられていた、とかなのだろうか。本当に今更だが。そうだったら嫌すぎるのだけれど、わたしは問う術も持たない。ので今現在の面倒くさそうな会話に戻る。
「…いえ、本当に、ミスってほどでもないので。こっちで直しておきます」
「何処ですか」
「いえ本当に大丈夫なので、スリーさんの手を煩わせるほどのものではないので」
「直すって言ってるんですよ」
「いやどっちかって言うと動いて欲しいのはスリーさんじゃあなくてシックスの方なので」
だから本当に良いです、と。
言い切って次の書類に進んだら、じゃあ直してもらって来ます、とスリーさんが立ち上がる。
「だから、良いですってば!!」
流石に仮にも上司をそんな顎で使うような真似は出来ないので、わたしは諸々の事柄を天秤にかけて、泣く泣くスリーさんの袖を掴んだのだった。