夜の庭と金の鍵


貴方のいる美しい世界が、たとえわたしに牙を剥くのだとしても。



お前の夢は夜の裾


 下手を打ったわけではない、と思う。ここ最近また何処かの組織か何かが不穏な動きを見せていた、だから普段はあまり仕事では組むことのない、エイトと組むことになったのだ。
「う………」
最後の記憶は何処でのものだっただろう、うっすら浮き上がる意識の中でそんなことを考える。雑踏の中で視線を感じた、それを撒くために裏路地に足を踏み入れて、抜けたところまでは覚えているけれど。待ち伏せでもされていたのだろうか。魔術の名残か、軽い頭痛があったけれど、少し頭を振ればそれも治った。
 特に、拘束はされていない。ゆっくりと起き上がりながら身体が動くかどうかを確認する。問題はなさそうだった。トラップ用の魔術も発動した痕跡がないところを見ると、人質扱いにでもしたいのだろうか。まあ、自分とエイトならそれなりの交渉が出来るとは思うが。
 しかし、と思う。
 エイトと組んで、良かったことなんて一度だってない。
 それは別に、個人的に思うことがあるだとか、エイトに問題があるだとかではなく、単に相性の問題なのだ。それを上はちゃんと分かっているはずなのに、今回仕事として組ませたということは、そのデメリットを補ってあまりあるものがある、と考えて良いのだろう。人手不足だったらその旨が伝えられるはずだ。それがなかった、ということは面倒で厄介な仕事の中でも群を抜いているのだと考えるのが妥当だろう。
 さて、と思う。可動域には問題はない。なら、一緒にいたエイトはどうしたのだろう。流石にエイトだって、人を放って何処かに行ったりはしないだろう。ただ気絶させられていただけだろうし、起こして一緒に行動した方がいろいろと面倒が少ない。なら、同じ場所にはいないのだろうか。向こうも向こうで起きているのであれば、行動がしやすいのだけれど―――そんなことを思ってから、やっと、足元に視線がいった。
 見知った背中。
 夜に広がる絨毯のような、服の裾。
「エイトさん…?」
呼びかけても、何も答えがない。背中も真面に上下していないように見えたから、慌ててひっくり返して胸に耳を当てる。
 とくとく、と人間と同じように音がした。
「エイトさん、エイトさん?」
「………」
弱い、音。まるで弱りきったものの、ような。
「何が…ッ」
は、とその手首が目に入る。何か、巻きついていた。触れてみたら、バチッと音を立てて弾かれた。けれどもこれは拒絶されただけだ、何か吸われた感覚もない。
 エイトだけを狙う、というのは効率が悪い。ならばきっと、その効果範囲が違うのだろう。じ、と室内に目を凝らす。いつもは少しくらいはいる善き隣人≠スちの姿はまったくもって見えなかった。
「…これ、妖精を封じる術式ですか…?」
幾ら自分が特別∴、されない体質であっても、常に視界には隣人たちが見えていた。エイトが近くにいるときなどは特に。それが、ない、というのは。
「クソ、」
ぎゅむ、と縄状のそれを掴む。バチバチと音は大きいけれど、反発もあるけれど―――それだけ、と言ったらそれだけだった。組まれたパズルの、その継ぎ目を探すように、術式へと潜っていく。
 こういう。
 同族に嫌われるような術が得意だった。己で研鑽し探求し磨き上げた神秘を、他人の手によって解体されることは屈辱だろう、それくらいは分かるが。結局、そういうことが向いていたのだから仕方ない。
「ッ、ボクの魔術でも、少しなら、干渉くらい…!!」
一瞬、縄が緩んだように見えた。
「エイトさん、エイトさん!」
でも、指を入れる間もなくまた結ばれる。
「………す、りー…くん、」
それでも出来た綻びだ、と思って肩を揺すぶれば、思惑どおりその瞼が開けられた。
「これっ、なんなんです!」
「わか、んな………で、も、…まりょ、く、…すわれ………」
「はあ!?」
「………ちから、はいんな…ぃ、」
 意識が浮上したからなのか、それを戒めるように縄がきつく絡みつく。それに呼応するように、また、瞼が落ちていく。
「…ごめ、………も、ぃしき、が」
「エイトさん!」
「………、」
胸の音の大きさは、変わらない。
 干渉を、繰り返して。意識を途切れ途切れでも浮上させていれば。それはそれで術式の妨害にはなるだろう。でも、と思う。
 エイトは魔力を吸われている、と言った。術式の先は隠匿されているのか辿ることは出来ない。本当は、この手の術は術者を叩く方が早い、そんなことは分かっている。
―――干渉だけでは、
足りない。
 そんなちまちましたことをしていたら、救助だって間に合わないだろう。
「………エイトさん」
掴んだままだった肩を、そっと降ろしてやる。倉庫なのか、部屋を見回すとクッションがあった。それを引っ張ってきて場を作る。
「怒らないでくださいね」
少し迷って、唇に触れるのはやめておいた。
 力のない首が自分の好きなように反らされるのは、ひどく、見ていて落ち着かなかった。

 意識がなくて良かったのか、悪かったのか。薬を使うまでもなかった自分自身に嫌気が差す暇もない。時間との勝負、そんな言葉を使うのはいつだってそうだったけれど。敵が多すぎるのだ、と思う。それに、今更文句をつけることはしないけれど。
「………」
時折、違和感があるのか唇が戦慄いて、それでも真面に息にもならずに消えていく。
 ずる、と擦り付ける熱がどうしてこんなにもしっかりしているのか、自分でも分からない。最低限の準備は済ませた、妖精にまで効く薬はなかったから、ほとんど素の反応だろう。人間ほど緻密に内臓があるわけではないと思うから、そこまで怪我の心配をしなくても良いとは思うが。
「………ん、」
流石に眠ったままではいられなかったのか、瞼が震えて、それからゆっくりと押し開かれた。
「ぁ、なに、す、りー…くん…?」
「寝てて大丈夫ですよ」
つらいだろうに、と思って手を伸ばす。その手が振り払われることはない。そういえば今までも、伸ばした手を振り払われたことはなかったな、と思い出す。こんなときに、とも思ったけれど。
―――いつだって、
その手が取られることはなかった、けれど。
 瞼を撫でる。
 閉じようとされて、でもそんなことをしている場合ではないとでも思ったのか、また開かれる。それだって、焦点が合っていないのに。
「起きたら、全部忘れて良いですから」
「な、に…ぅ、あっ」
「そうそう、ちゃんと飲み込んで」
「ひ、ぁ、………ッ」
腰を掴む手に、無駄に力が入らないように。ゆっくり、押し込んでいく。縛られたままの手が、縋るようにシャツを掴もうとして、失敗して落ちていった。
「―――、」
はく、と唇が震える。からからになった大地が水を受け容れるように、腰が浮き上がるのが分かった。それを宥めるように、また、瞼を撫でて。
「遣り方、分かるでしょう?」
「ぁ、」
「そう、吸って」
「ん、ぁ、…っ」
「自分のものにして」
 魔力の吸われる感覚と、吐精の感覚。混ざり合う感覚の中で、電池が切れるようにその瞼が閉じられるのをただ、見ていた。



作業BGM「水夏透」mino(アオトケイ)



問う嘴は誰のもの


 救出が来るまでにそう時間はかからなかった。
 乱れた衣服を戻して、片付けをして。それと並行しながら術式の阻害に勤しむ。一度内側に蓄石のようなものを入れてしまえば、阻害は簡単だった。大抵の魔術がそうであるように、これも内側からの攻撃には弱いのだろう。こんなふうに放置しているのだ、術者が邪魔立てを止めにくるとは思えなかった。まあ、来たら来たでそれを返り討ちにしたら良いだけなので、その方が楽だとすら思ったが。
 使ったクッションは元の場所に戻して、ある程度家探しをしたように偽装して。これで充分なはずだ。これは組めることを外では言っていない術式だったから、出来ることなら秘匿したままにしておきたかったし。まあ、飛び込んできたジャックが杖の一振りで術式を破壊したときには、その速度に少し、笑ってしまったが。
「スリー」
「すみません、ドジを、踏みました」
「違うわよ! アンタ、真っ青よ」
「………蓄石代わりをしたので…」
支えられると、それまで張っていた気が急に緩むのを感じた。このままだと、こっちまで意識を失ってしまう。エイトがセブンに抱え起こされているのを見ながら、ジャックに急いで言う。
「すみません、エイトさんを早いところ、魔力の回復しやすい場所へ…。魔力を、吸われてたみたい、です。ボクじゃあ、応急処置、しか出来なくて…エイトさんが、元に戻れば、ボクから吸ってる分は、そのうち途切れる…ので、」
「…大体把握したわ」
ジャックが再び杖を振ると、少しだけその頬に色が戻ってくる。これで、当面は安心だろう。魔法使いというのが魔力を提供出来る存在で良かった、と思う。
「セブン、エイトを運んで」
「はい。…スリーは良いんですか」
「エイトとスリーじゃ合っている¥齒鰍ェ違うわ。スリーはこっちに任せなさい」
「分かりました」
確かにそうだろう。
 何処までいっても人間である自分は、家《ホーム》で療養するのが一番だ。あまりひどいようなら培養槽に浸かっても良いだろうが、流石に今回必要なのは眠りくらいだろう。まあ、その眠りがどの程度になるのかは分からないが。何せ、初めてやることをしたのだ、しかも、想定した対象以上のものを巻き込んで。その代償がどれほどのものになるのか、流石に未知数だ。
「スリー…くん…?」
セブンの肩で、エイトが目を開けるのが見えた。術式が解除されたからと言って、ちゃんとした魔力を提供されたからと言って、それで失われた魔力がすぐに戻ってくる訳でもないだろうに。
「寝てて、良いんですよ」
―――どうして、
エイトは、気にするのだろう。…気にして、くれるのだろう。
 自分は、特別愛されない≠烽フであるのに?
「おやすみなさい」
その言葉を紡ぎながら、いつもとは逆だな、とだけ思った。



作業BGM「おはよう、僕の歌姫」Fukase・IA(傘村トータ)



夜の帳にいざや問う


 一ヶ月動けなかった。
 妖精への魔力提供なんて金輪際するものか。魔法使いでもないのに、ただの魔術師なのに。分不相応、という単語が頭の中をぐるぐると回っている。そもそもこの魔術は対人間用に編んだものであって人間以外のものに使うようなものではないのだ。しかも、相手は人間よりもずっと、魔力というものに馴染みのあるものだったのだし。無理に奪い取られたものを補完しよう、なんて思ったら当然、それは際限なしに求められることになる。分かっていてやったことだ、と言えばそうだったけれど。金輪際しない、というのはそれはそれ、これはこれ、という話だった。家《ホーム》では埒が明かないという話になって、結局自身の工房に隠る羽目になったし、悪いことは何もしていないのに追い立てられた気分だ。まあ、別にシックスに追い出された訳でもないし、工房の方が療養には良い、というのは事実なので何も言いはしなかったが。
 そして、やっと普通に動けるようになってきた日のこと。
「えーと、久しぶり?」
「………」
エイトがやってきた。
「…エイトさん、此処の場所知ってましたっけ」
「知ってたよ」
「………そうですか」
「え、あ、やっぱ来ない方が良かった? やっと調子戻ってきたって聞いたんだけど」
「何か用ですか」
「いや、普通にお見舞い…」
「お見舞い?」
くらり、と目眩のような心地がする。
「エイトさんが?」
「え、あ、嫌なら帰るけど…」
「いえ、そんなことはありませんが」
「そ、う。あっ、これ、果物」
「どうも。………入ってきたらどうですか」
「あ、うん。お邪魔します」
別に。
 招き入れられなければ入れない、なんてことはないのに。エイトはそういった、古の風習を守ろうとする。それを律儀、と言うべきか、それとも無駄足を呼ぶべきか、分からなかったけれど。
「えーっと、この間のことなんだけどさ」
「はあ」
「覚えてはいないんだけど、なんかスリーくんがどうにかしてくれたんだよね?」
魔術師にとってもそうだが、魔力、というのは生命に近い力だ。あのとき、エイトをそのままにしていたら存在の消滅だってあり得ただろう。そんな危機に陥っているときに、周囲で何が起こっているのか理解する力が残っているとは思わない。
「どうやったのか、って聞いても良いやつ?」
思わなかったからこそ記憶の操作はしなかったし、実際エイトは覚えている訳ではないだろう。ジャックやセブンが何か言ったとも思えない、ならば、これはエイトが自力で辿りついた答えだ。
―――こういうところが、
嫌になる。
「あ、ほら、俺はスリーくんのお願い聞けないからさ、いや聞けないっていうと嘘になるな、聞きたくないからさ、その、言いたくないって言うんならそれでも良いんだけど」
「エイトさん」
「何?」
「今日此処に来ること、誰かに言いました?」
「え? 言ってないけど―――」
聞けない、聞きたくない。どっちだって嘘ではない。そこにあるのは悪意ではなく、ただ、エイトをはじめとした存在≠ェスリーをそうやって扱う、というだけの話。
「スリーくん?」
来客用のソファに座られていれば、見下ろすのは容易い。その襟首を掴むことだって。
―――あの時、
触れなかった唇は思っていたよりもやわらかかった。
「こういうことの、」
 ぱちり、と瞬きの音がする。
「続きをしました」
「………え、」
「医療行為です。医療行為でした。ボクの魔術の一つです。それは断言出来ます」
「まっ、まって、」
「でも、ずっと、」
誰にも言っていないなんて好都合だ、そんな声が頭の奥でする。好都合、なんて。何も知らないエイトがそこまで考えているはずがないのに。自分よりずっと弱い存在の人間に、警戒なんてするものではないと、それくらい分かっているのに。
 魔術師としてだってそう、強い訳ではない。特殊な研究を成功させた訳でもなければ、特別な血統の出でもない。ある意味特殊な体質はあったが、善き隣人たちからは絶対に手を差し伸べられることはないというのはプラスには働くことはないだろう。こんな―――ことを、しても。
 エイトが我に返ればすぐにでも。
「忘れられなかった」
魔法だって良い、単純な力でもエイトの方が強いはずだ。この身体は大きくはならなかったし、肉も真面についていない。護り手を雇った方が良いのでは、と言われたことだってある。
「もう一度、今度は、医療行為じゃあないものを、してみたくて」
ソファに片膝を乗り上げる。襟首から、首に手が移って、その体温が伝わってくる。あたたか、かった。もしかしたら自分の手が冷たくなっているだけかもしれないけれど。
「…全部、忘れてくれてたら良かったのに」
「な、に? スリーくん、なに、」
「忘れてくれてたら、こんな、こと」
「スリーくん、」
そのまま、頬に上がるまでそう時間はかからなかった。レンズ越しにでも、その目がきらきらとしているのがよく、分かって。
「まって、」
 その声に。
 すぐに返事を出来たのは奇跡だと思った。
「はい」
「えっ、あれっ、えっと、…待つの?」
「魔法とかで吹っ飛ばされたいわけじゃあないので」
「あ、そういう…」
考えていなかった、とでも言いたげな音だったことは気にしないことにした。
「…でも、」
このままではいられない、けれども離したくはない。そう、どっちつかずの思考のまま、頭を下げる。肩口に埋めるはずだったのに、距離が足りなくて胸の辺りに額が落ちた。
「吹っ飛ばしてくれても良いですよ。そしたらボクだって目が覚めるかもしれませんし………」
言いかけて、止まる。耳をつけているわけでもないのに、その、音が。
 この前は、今にも消えそうなほど弱かった、その音が。
「………すごい音」
「うるさい」
「それ、ボクの台詞ですけど」
「うるさいと思うのなら、どいてよ」
「それは………嫌です」
「嫌、って」
「エイトさん」
どうして、とは聞けなかった。ただ、今は。こんなにも脈打つ音が聞こえるのが、奇跡みたいで。
「はなしたくない」
「………なに、それ」
抱き締めているわけではないから、抱き締め返されるわけもない。そもそも、エイトの方からそんなことをしてくれるわけがないのだ。今だって、押しのけられていないのが不思議なくらいで。
「えー…と、スリーくん」
「…はい」
「その、………いや、何から聞いたら良いのか…」
「………ちゃんと待てるだけの理性はあるので、聞きたいこと聞いてくれて良いですよ。答えられるかどうか分かりませんけど」
「そういうときの人間って、大体大した答えを持ち合わせてないことの方が多いじゃん…」
押しのけられないのは、単に重症人と思われているからだろうか。確かに、まだ本調子とは言えなかったけれど。
「じゃあ、」
 そのやわらかさにつけ込むみたいだ、と思いながらもやっぱり、手を離すことは出来なかった。
「何か話をしてください」
「話?」
「その方が、いろいろと………保つと思うので」
「そんな追い詰められたような声でもの言わないでよ…」
何か聞きたいことでもあるの、と言われたので、少し、考えてから今、一番気になっていることをそのまま問うことにした。
「妖精って性欲とかあるんですか」
「え?」
瞬きの音を聞く度に、腹の底に蟠った熱が首を擡げるような気がする。
「…ないわけじゃない、程度、かな。ある程度人間の中に混じってたら発露の仕方が分かる、ってだけで娯楽以上のものにはならないよ。番とか…そういうので殖えるときは、人間がするセックス、ってより交わり≠チて感じだから」
「ふうん」
「ほら、古より人間と共にあるものたちはその娯楽との付き合い方が分かっているけれど…俺たちはまだ、…自分で言うのもなんだけど、若いから」
「それこそ、御伽話の時代ですか?」
「そうだね」
「シェイクスピアとか」
「あれはー…うーん…議論が生じるから置いといて」
「会ったことあります?」
「本人にはないよ。でも、幸運にも枝に触れていただいたことはある」
「………へえ」
 ちり、と。胸に宿ったのが何だったのか、名前をつけたくない。そんな―――御伽話になるような、手の届かない相手に対して。夢を語るような声を出されたことに、嫉妬、した、なんて。そんなことは、ないはずだった。それは流石に、度を過ぎた感情だ。
「………妖精の國って、全部同じ場所なんですか?」
だから、という訳ではないけれど。話を少し、変えることにする。
「え? えーと…多分スリーくんの想像とは違うと思うけど…。人間の世界から一枚潜った場所にあるのが妖精の國、でまあ良いとは思うよ」
「たとえば、アメリカとイギリスでは違う國がある、って感じではないんですか?」
「あー明確に区切られてるわけではないけど、人間の感覚に合わせたらそう、表現出来なくもないかな?」
首を傾げたのだろう、さら、と髪の先が頬をくすぐっていった。もう、胸の音は落ち着いている。それでも、顔を上げられない。
「すごく雑に言うと、何処にだって土地のボスがいるんだよ。まあ、ボスって言い方はちょっと、人間に寄り過ぎてるとは思うけど…。そのボスはその土地土地の理を体現したようなもので…ルールが違うんだ、だから、違う場所で妖精の國に入ろうとすると、まず入り口が見つからなかったりする」
「エイトさんでも?」
「俺はわりと…あちこち巡ってたから。それなりに渡りをつけることは出来ると思うよ。入り口を自力で探さないとりいけないって決まりはないし、そういうときは入り口を知ってるやつを探せば良い。妖精でも、人間でもね。アメリカなんかは…まだ混沌としてるから、上の方とかはニューヨークほどガバガバじゃないよ」
「ええ、此処ガバガバなんですか…」
「わりと」
何だか知らなくて良いことまで聞いてしまったような気がするが、まあ、別に悪いことではないだろう。
 魔術師とは知識を乗せた舟、それを守るにはやはり、知識を以てして波を風を読み切るのが一番なのだ。
「でも流石に、本場の森に入ろうとは思わないな〜用事あるとか、招かれたとかならまだしも」
「招かれる予定あるんですか?」
「ないよ!」
そのきっぱりとした言葉に、安心している自分を感じて嫌になった。幾らエイトが無類の女性好きであろうと、流石に神にも近い存在に働く無礼は持ち合わせていないだろうに。
「忘れてるかもしんないけど、俺って敢えてランク付けするなら結構な低級扱いだからね。末っ子って言い換えても良いけど」
「…これで、低級」
「まあ、ランク付けなんて基本されないけど」
それこそ偉い何か≠ノ会うときくらいだよ、気にするの。物語るような言葉にどうにも安心出来ないものを抱えながら、そういえば、と思う。
「エイトさんは妖精じゃないですか」
「うん」
「しかも、わりと精霊よりの」
「えー…うん…まあ、うん」
「実際性別ってあるんですか」
「ないこともないから今男≠竄チてるところあると思うんだけど」
「へえ」
「………ねえ、さっきから微妙に不穏な質問ばっかしてない?」
「別に不穏でもなんでもないでしょう。セックスしたらこどもが出来るかどうか確かめてるだけなので」
「こ………ッ!? で、出来ないよ!? 出来ないよな!?」
「この前のは仮にも魔術だったので、リソースは残ってないから大丈夫だとは思いますが」
「まって、それ以上は聞きたくない」
嘘でしょ…と喉が震えるのが分かったが、そういう術なのだから仕方ない。これでもいろいろと代替を探したのだ、でもやっぱり、媒介として一番真面に機能するのが精液だった。それだけのはなし。そもそも、錬金術の媒介にだってよく使用されるのだから、歴史的にも結果が伴ってきているのだ。妖精の中にだってそういうものをエネルギーにするものはいるだろうし、つまりエネルギーになるだけの素質がある、ということでもあって。
「いや、そもそも…こうやって触れてはいるけど、肉を持ってるわけじゃあないから…」
「だから余計に心配してるんじゃないですか。ある程度の魔力の塊が胎内に入ったら…こう…ビックバン的な…」
「体内! 体内!! 不穏な言い方しないで!!」
「そういえばこの間も驚いたんですけど、エイトさんの身体の構造ってとりあえずは人間と同じようになってるんですね」
「取り替えの子《チェンジリング》だもん…消化器官もその他の内臓もちゃんと配置はされてるよ…されてるだけとも言うけど…」
「使ってはいないんですか?」
「まあ…。取り替えの子《チェンジリング》って分かる前は多分使ってたとは思うんだけど、自分が妖精って知らされてからは…そうだね、ないね」
「だからきれいだったんですね」
「………あっ、これセクハラ!?」
「はい」
「さ、さいてい…」
 でもまあ、確かに医療の発達した現代では、見てくれだけを取り繕うのではすぐに看破されてしまうだろう。妖精が何を思って取り替えの子《チェンジリング》なんていう伝統を続けているのかは分からないが、相応の対処はされているはずだ。そうでなければもっと、資料として残っていても良いだろうと思うし。資料として残っていない、ということは目くらましでもなんでも、ちゃんとしている、ということだ。
「食べたものはどうなるんですか」
「全部魔力になるよ」
「消化してるわけではなく?」
「人間がするような、そういう機能はないね」
「分解の方が近いですか?」
「あ、そうかも」
「便利…」
「まあ、便利だけどね?」
少しだけ肩に力が入ったのが分かって、でもそれを宥めるような資格は自分にはないから。
「…今日は、何もしません」
「そ、う」
「吹っ飛ばされないみたいですし」
「うん…」
「正直勃ってるのでどうにかして欲しいですけど」
「むり…」
 腰はちゃんと引いているから、押し付けるようなことにはなっていないけれど。どうせエイトにはそういう動きはバレているだろうから。
「スリーくん」
「なんですか」
「疲れてるだけだよ」
まだ本調子じゃないんだしさ、とエイトが続ける。
「人間て、そういうことあるんでしょ?」
「………ありますけど」
―――本当は、
ここで、甘言に乗ってしまえば良かった。あります、で切ってしまえばそれは嘘にはならない。ただ、事実を述べただけに留まったのに。その続きを、言わないことは出来なくて。
「これは別だと思います」
「ええー…」
「だからもうちょっとこのままでいます」
「もうちょっとってどれくらい」
「収まるまで」
「えっ、マジでどれくらい?」
「エイトさんが静かにしててくれると早く済むと思います」
「はい………」
そう、言ってはみたものの。
 静かにしてもらったところで時間が本当に短くなるのか、それは賭けだな、と思った。



作業BGM「カクテルガール」初音ミク(匙星)



朝が来るまでに此処までおいで


 それから何があったか、と問われると何もなかった、と答えるのが正しいのだろう。ちゃんと宣言どおり放っておいたら収まったし、エイトからだって離れることが出来た。本社に行けば顔を合わせることはあるし、会話だってするがそれはそれだけの関係で。仕事で顔を合わせることもないから、もしエイトがこちらを避けたいと思ったのならそれは可能だった。なので、というのは簡単だろうが、まあ。なので。それがされていない時点でそう、変化はなかった、と言い切ってしまうことは出来た。
―――でも、
それは、こちらがわから見た事実、なのであって。
「スリーくん」
 はあ、とため息を吐きながらエイトが呟く。
「目が怖い」
「常時発情してるような目よりマシでは?」
「今俺はどっちもどっちという言葉をどう説明すべきか考えてる」
「それくらいボクでも知ってます」
流石にそこまでではないだろう、とは思うが、こういうのは受け取った側の問題だ、受け取らせる側が何を言っても解決には至らないだろう。
「えーと…」
「言及するなら責任取ってもらいますが」
「それだと俺がにっちもさっちもいかないじゃん!!」
確かに、それもそうだ。
 意を決して振り返る。真面に見てしまえばまた、いろいろとわきあがる感情がありそうで、最近は目の端に留める程度にしていたのだけれど。
「…気になりますか」
「まあ、それなりに」
視線がうるさい、って感覚分かる? と言われると、多分、それは出来ていなかったのだろうなあ、と思う。申し訳ない、という気持ちはあるにはあるが、それを罪悪感にまで昇華出来るかと問われたらそれは無理だった。無理なものは無理だ、妖精相手でなくとも、もともとそう、大言壮語する趣味はない。それなりに分相応に生きよう、という気持ちはある。魔術師が何を、と言われるだろうから、魔術師のラインで、という注釈は入るが。
「―――じゃあ、」
しかし、ここまで言われて、というか言わせて、何もしないのも据わりが悪い。
「泊まりにでも来ます?」
「は?」
思わず、というようにエイトが振り返った。その勢いに笑いそうになって、流石に今笑うのは、と思ってなんとかとどめる。
「エイトさんが疲れてるんじゃないかって言ったんじゃないですか」
「うん、言ったね」
「だからとりあえず、その疑問が取り除ければ、と」
「俺にメリットなくない?」
「疑問が取り除けます」
「スリーくんが譲るっていうのはないわけね…」
「少なくとも今は無理ですし、どうするにしたって、まずはエイトさんがそれについては諦めてもらわないと」
「これって諦めとかの問題だっけ?」
―――この、
欲情、で良いのだろうか。そう片付けてしまうにはまだ、何か説明不足、なようにも思えるけれど。どうやって処理するにせよ、もうあるものをない、と定義するには相応の力が必要だ。ならば、エイトにはもう、諦めてもらった方が良い。それで断られるでも嫌がられるでも、―――受け容れる、でも。それはエイトの自由であるのだし。
 そんなことを思いながら、エイトが受け容れる、なんて、ないだろうに、と自嘲する。それは、無理だ。エイトがどう、とかの問題ではないのだ、そういうふうに出来ている。だから、無理。散々言われた、散々嫌な顔だってさせた。それでも尚、一縷の望みがあるようなふうに言うのは、悪癖だ、と自分でも分かる。
「ていうかシックスは………あー…」
「アメリカの学院《カレッジ》荒らしに行ってますよ」
「荒らしにって言っちゃった…」
「先に荒らされたのはこっちなので」
「それはそうかもしれないけど〜…」
影響範囲が近いからなのか、よくアメリカの学院とはぶつかることが多い。互助組織を名乗っているものが笑えるものだ、他者を攻撃する互助組織があってどうする、と思う。そんなのは、在籍している学生にも悪影響だろうに。それとも、危険の排除として教えてでもいるのだろうか。…まあ、そんなのは結局大人の事情であるので、恐らく学生には秘匿されているのは分かっているが。
 けれど、実際シックスが今、家にいないのは本当で、それは言い換えるならば都合が良いことこの上なくて。
「じゃあ、エイトさんに言い訳をあげます」
「言い訳?」
「これ」
ポケットからすぐに出て来るのは、何かあったときの切り札に使おうと思っていたからだ。
―――彼らは、
どうしたって力を貸すのを躊躇うけれど、嫌うけれど。其処に正当な対価があれば、真っ当に仕事≠ヘしてくれる。決して愛してはくれないけれど、その程度の線引きは必ず守るのだ。彼らの、プライドとしても。
 きらめく金貨。
 古い時代のそれが、彼ら≠ノとってどれだけ価値のあるものか、知らないでいられるほど愚鈍ではない。
「えっ、えっ!?」
「何処で手に入れたか知りたくありませんか?」
「待って、待って………」
「話聞いてくれたらあげますよ」
「う、待って、それは流石に破格すぎる!」
「ボクにとってはいつか使おうと思っていた切り札をこうやってちらつかせるくらいに大事な用事なんです」
「いやいやいやおかしいでしょ!? バランスが取れないよ!?」
「ボクは取れると思ってます」
「さ、流石に…だって、そんな…」
右へ左へ、手のひらで遊ばせていると視線がついてくる。普段見るの出来ないその仕草に、もう暫く遊んでいても良いような気もしたけれど。
「エイトさん」
 誰か来てはたまらない。金貨を手のひらで包み込むと、あ、と残念そうな声が上がる。
「泊まるだけですよ」
ふわふわと宙を泳いでいた手のひらに、金貨を握った拳を乗せれば喉が鳴るのが聞こえた。
「何もしません―――というか、エイトさんなら何かされそうになったら逃げられるでしょう」
「そ、れはそうだけど………っ」
 バランスが、と唸っていたエイトが、陥落するまで十五分とかからなかった。



作業BGM「最底辺の嫌がらせ」可不(100回嘔吐)



その名を識る子らよ


 こつこつ、と靴の裏が立てる音を聞いている。魔法を使っているときみたいだ、と思った。妖精であるエイトが杖を使うことは珍しいけれど、その先が特に石畳を叩くときの音を、まるで足音のようだと思っていたから。
 どうして、妖精であるエイトが杖を持っているのか、それは知らない。けれどもジャックの作るものが好きなようだったから、その仕上げを好んで人間の真似事をした、と言われても納得出来た。まあ、要するにそこまで聞きたい訳ではないのだ。…今は、という但し書きはつくけれど。とは言っても、エイトのことをこれ以上知る必要があるだろうか、とも思うには思うが。
「そういえばスリーくんの家来るのって久しぶりだね?」
「ボクの家として来たことはないんじゃないですか」
「あー…そうかも」
シックスとはそれなりに個人でも交流があるようだったから、何度か来ているのは知っていたが。
 仕事のこともそうだけれど、そもそも交流がある方ではないのだ。本社に顔を出したときに言葉を交わす、くらいで。用事があれば当然足を運ぶことはするけれど、それだけと言ったらそれだけだった。相性のことは上だって知っていることだ、だから基本的には仕事の範囲だってかぶらないようにされている。誰だって、要らぬ反感を買いたがらないのだ。それが世界そのもの、に近いがわのことであるのならば尚のこと。
「………」
そんなふうに思いながらも、なんだか、自分の家にエイトがいるのがひどく、落ち着かない光景のように思えてしまって。
「エイトさん」
「なに」
「ん」
ネクタイを引いてみたら存外素直に身をかがめられた。ずっとこうであったらな、と思う。そのまま触れるだけのキスをして、それから笑ってみせる。笑うことは、出来たと思う。
「ようこそ、ボクの家へ」
「あ、はい、どうも…」
 ぽかん、としたままのエイトが言われるままに家へと入って、その後ろで扉が閉まって。その音で我に返るように、その頭が跳ね上げられる。
「あっ!? あっ、えっと、そうだ!」
「なんですか」
「なんか今普通にしたけどそれって親密じゃないとしないやつでしょ!?」
「………待ってください」
 今何かおかしな言葉が聞こえた気がした。
「え? 待ってください」
「二回言わなくても良いよ」
「エイトさん、いつも女性侍らせてるじゃないですか」
「侍らせてるって言い方やめてくんない? 基本的には食事行くくらいだよ」
「………食事だけですか?」
「俺、別に吸血とかするタイプじゃないし」
「えーと………」
「精気とかも食べるタイプじゃないよ?」
「そういうことが聞きたいんじゃなくてですね」
いやそういうことだった気がするが。当然のように女性と連れ立って歩いている姿を見ていたし、夜に予定を入れているのも知っていたから、てっきりそういう遊び方をしているのだと思っていたが。よくよく考えたら真面に交わって≠オまえばいろいろな不都合があるのかもしれない。もし―――もしも、妖精と人間の子など出来てしまえば、それは魔術師や魔法使いから見たらひどく垂涎ものでもあるだろうし。否、今までだっていたのかもしれない。ただ、多くが妖精の國の方へと引き取られたり、親もまたその境を跨いだかで記録に残っていないだけな気がする。
「………知識はあるんですよね?」
「えっと、………どれを指して言ってる?」
「じゃあ、人間がどんなふうに…その、繁殖するだとか………」
「この間は普通に性欲って言ってたじゃん」
「ああ、良かった…そこから知らなかったらどうしようかと…」
「ねえ、さっきから俺のこと馬鹿にしてない?」
「心配になるようなこと言ったのエイトさんですけどね」
 とりあえずどうぞ、とリビングルームに通す。
 お茶を出そうかと思っていたのだけれど、とりあえず水の方が良いかもしれない。そう思って冷蔵庫から瓶を出してきた。ソファの配置を変えておくべきだった、と思ったけれど、今日さっき決まったことなのだから仕方ない。隣にしか座れないけれど、それくらいで過剰反応されるようなこともないだろう。そんなことを思ったくせに、音を立てないようにソファに座る自分に頭を抱えたかった。いや別に、静かに座ったところで困ることは何もないが。エイトは何も変なこと言ってないと思うけど、と水を少し飲む。瓶の底に沈んでいた炭酸が、ぱちぱちと弾けてその喉に消えていくのが本当に不思議な出来事のようで。
「でもキスは親密じゃないとしないやつなんでしょ?」
「………ええと。今まで、女性の方々とはどうしてたんです」
「え? あ、あー…? そういうこと!? でもそれはこう、仕事的なところとか娯楽的なところとか、そういうのがあるからするやつで、親密じゃなくてもして良いけど、別に仕事でも娯楽でもないスリーくんとは………」
「じゃあ、」
ぐ、と身を乗り出す。
 正直、何も考えていなかった。この欲をどうやって解消するべきなのか、このまま誰かに忘れさせてもらった方が良いのか、自分だけでは抱えきれるものではない、分かっているのはそれだけで。でも―――でも、その方法≠ェ提示されるのであれば。
 それは。
「親密になったらしてくれるんですか?」
「―――………」
さっきの思考はすべて、放り投げられる。興味を持つ、理由が出来た、出来てしまった。手を差し伸べたつもりはないだろう、彼らはそういうことをしない。理由も教えてはもらえないがこの匂いは、どうしたって彼らの助力を拒むものだそうだから。それでも、彼らの恩恵がゼロ、ということはない。魔術師として生きているからと言って、この世界の魔法に携わる部分に触れないことはないのだから。人間が息をし、水を飲むように。その神秘は絶えずこの身体に息づいている。
「いやいやいや!?」
まんまるになった瞳が、それからきゅっと距離に気付いたように瞬かれて。慌てて身が引かれる。でも、所詮ソファの上だ。そう距離が取れる訳でもない。
「違うよね!?」
「今ボクはその手があったか、と思っています」
「違うでしょ!?」
「わりと悪くない手では?」
「悪いとか悪くないとかじゃなくて…っ」
 だからと言って、そこまで距離を詰めるつもりはなかったけれど。これ以上身を乗り出せば、エイトは後ろに倒れるだろうし、そうなったら肘置きだけでは心許ない。
「エイトさんは、」
なので、そうはならないように気をつけながら言葉を選ぶ。
「嫌ですか?」
これ以上、エイトが逃げたくならないように。けれど、すべてをなかったことにはしないように。
「ボクと親密≠ノなるの」
「―――」
震えるみたいに喉が上下した。それが怯えでないことを願いながら、返事を待つ。
「だ、だって、」
「だって?」
「俺たち≠ヘ、」
「エイトさん」
人間、相手だったら。
 きっとこんなとき、手を伸ばすのだろう。手を取って、指を絡めて、心臓の音を聞かせたって良い。あの日、エイトにそうしたように。今度はエイトがこの心臓の音を聞けば良かった。
「ボクは、貴方≠ノ聞いています」
それは、出来ない。決して向こうから手を伸ばしてくることはないと分かっていても―――手を伸ばして欲しいと、どうしようもないことを願ってしまうのが自分だった。
「錆びた匂いのするボクとは、親密になりたくありませんか?」
「………そ、」
「そ?」
髪の間から見える耳が、いつもの、人間のようなまるいかたちでないことにようやく気付く。いつもは、まぼろしを使っているはずなのに。
 そんな。
 日常的にやっていることのリソースですら、割けないようになっていることに。
「そういう言い方は、狡い…」
優越を抱いてしまったのは、別に人間が愚かしいいきものだから、という訳ではないのだろう。



作業BGM「ブラウニー」和ぬか



朝が遠いうちに帳を縫って


 寄り添うようにした身体はあたたかかった。掴んで引いた手も、また。
 手を、伸ばして欲しい、なんて。そんなことを思っていたのが遠い昔のようだ。ぱちりと弾ける気泡のように、この目に映る姿を変えていく。水の中から大気へと、あるがままの場所へかえっていく、廻っていく。魔法も魔術も、根源というものは同じであったと思い出すのは、やはり、その神秘がすぐそばにあるからかもしれない。
「―――だ、」
睫毛が揺れるのも、唇が震えるのも。喉が上下するさまだって、この目には美しくてたまらないのに。
「だからってこれは即物的だと思うなあ!?」
「ボクはだいぶ我慢してたので」
「そういう問題かなあ!?」
「そういう問題です」
とは言うものの、手を引かれていたとは言え、ベッドルームにそのまま入ってきたのだからある程度の予想はしていたものだと思っていたが。まあ、向こうが嫌がることを推し進めるつもりはない。流石にそんなことをすれば今はそう寄ってはこない隣人たちから総攻撃を受けかねないのだし。
 それに。
 その実、そこまで嫌がられはしないのではないか、とも思ったのだし。それが所謂憐れみ≠ナあっても特に問題はないと思った。きっかけなんてものは何処にだって転がっている。エイトの憐れみ≠ェこれから先、色を変えることをしなくとも。
―――錆の、
匂い、と。
 彼らにはどうしたって嫌われるそんな人間が、こうして触れていることがどれだけの奇跡なのか、表す言葉を持たない。知識もない。魔術師はその長い歴史を一部失っているし、魔法使いとの交流の復活とて、ここ百年にも満たないものだ。彼らの言う、その真実の意味を知るものなどいないのだ。いるのであれば―――それこそ、彼らの王だとか、そういった存在になるのだろう。それは、大抵が人間からしたら神にも近い存在だ、まみえることすらないに違いない。…と、ズレ始めた思考を手繰り寄せて、安心させるつもりで笑ってみせる。
「流石に全部とは言いませんよ」
「そ、そもそも俺はまだ何も答えてない」
「だからお試しみたいなものじゃないですか」
「お試しって…お試しってこういう感じだっけ!?」
「だってキスは出来るじゃないですか。エイトさんだって嫌じゃないみたいですし」
「う、え、それは…」
確認するようにまた、触れるだけのキスをするけれど、やっぱり避けられることはない。少し調子に乗っても良いだろうか、と小さく音を立てながら続けてみたけれど、それだって止められることはなかった。
 彼らにとって、そんなものは挨拶にも入らないだろうとは思うけれど。やはり、エイトが見せる一面は、ひどく人間に合わせたものになっていたようにも思えるから。
「………それは、」
「それは?」
「いやまって、分かんない、分かんないから答え急かそうとしないで」
「ボクが老いる前にお願いします」
「そんなの瞬きの間じゃん…!」
そんな会話をしながら身体を膝の間に滑り込ませる。背中を預けて背もたれのようにしても文句は言われなかった。
「手を借りますね」
「さっきから、スリーくんこっちの許可とるようなこと聞くくせに、俺の返事全然待たないじゃん…」
「貴方は良いよ、とは言えないでしょう」
「それはそうだけど!!」
「だから、貴方が嫌だと言うまではそこそこ勝手にします」
「………」
「何か?」
特に黙られるようなことは言っていないはずだけれど。返事を待つ間に、指を絡めてみる。今からこの手に触れてもらうのだと思うと、心臓が小鳥のように跳ねて留まることを知らない。
「…俺が、」
 ぴくり、と。
 指先が跳ねて。
「嫌だって言ったら、スリーくん、傷付かない?」
「………」
その爪がくろぐろと染まっているのが、よく見えた。間接照明の緩やかな灯りが、ちらりちらりと反射して。
「別に大丈夫ですよ」
まるで、其処に小さな夜が灯っているみたい、だ。
「今は、とはつきますが」
「今は=v
「だって、これ以上をしたいですから」
「…もうしたんじゃないの。俺は全然覚えてないけど」
「だから、ちゃんと覚えてる状態でしたいんです」
「なんが言ってること変わってない!?」
「同じです」
医療行為でないものを、相手の意識のはっきりしている状態で。言葉を尽くさなかったのはこちらだけれど、嘘ではないから許して欲しい。
「エイトさん」
 呼ぶ。
 自分の声がこんなにもとろり、とした色を纏うことを今まで知りもしなかった。
「嫌ですか?」
「………」
「嫌じゃないなら、続けますけど」
「…分かんない、から、すぐ止められるようにしておいて」
「………流石にそれは生殺しが過ぎるのでは?」
「スリーくんが言ったんじゃん!!」
態度を決めかねているようではあるが、今すぐ拒絶するほどでもないらしい。そんな曖昧なもので良いのか、とは思うが、エイトだって他に対してこんな態度をとることもないだろう。
 自分、だから。
 そうやって思うと、ひどくくすぐったい心地になるけれど。それを誤魔化すようにベルトに手をかけると、背後で驚いたような気配があった。
「え、」
「なんですか」
気にせず続けると、それが慌てたような気配に変わる。
「いや、普通、服の上からとか始めるもんじゃないの」
「そういうのもアリですけど、嫌だって言われる前に出来るだけ進めておきたいというか」
多少強引でも慣れさせてしまえば嫌がられない気がした、という打算もあるにはあるが。
―――今は、
とにかく触れて欲しかった。取り出したものに手を導くと、一瞬、熱さに驚いたように指が跳ねる。
 でも、それだけだった。
 ゆるく、上から握り込むのを跳ね除けられることはしない。
「う………」
「嫌ですか?」
「そう、じゃない、けど…」
「けど?」
「スリーくんに、こう、何かしてる≠チて状態がもう、落ち着かない」
「やらされてる≠フで、エイトさんの意思は関係ないでしょう」
「そ、れはそうだけどさあ…!」
「動かさなくて良いですよ」
思っていたよりも、手のひらがやわらかい。まだ、世界にとって若芽のようなものだからかもしれなかった。…それが、大樹のようになるときを、見ることは出来ないと分かっていても。
「ボクが勝手に動かすので」
「ひとの手だと思って…」
「エイトさんの手じゃなきゃ取ってませんけどね」
「いつもそんなこと言わないじゃん!?」
「親密ってそういうことでしょう」
う、と呻き声のようなものが上がる。
「本当に嫌なら止めますよ」
「そう、じゃ…ない、けど…」
「けど?」
「なんか…なに、…」
「何か気になるところでも?」
「な、生々しい………」
「エイトさんだってやろうと思えばこうなるんじゃないですか?」
「それは、そう、だけど…根本が違うじゃん!? スリーくんの場合はマジで血液が流れてえっと、なんだっけ…」
「…まあ、はい。人間なんてこんなものですよ。AVとか見たことないんですか?」
「モザイクの後ろ看破出来る特技があるから、見てない」
「嫌なものですか? それ」
「なんか…必要あるときなら、良いけど…必要ないときに隠されたものを暴き立てるっていうのは…」
「はあ、そういうものですか」
理解も想像も出来なかった。
 けれど、他の妖精がどうかまでは知らないが、エイトに関しては嘘が見抜けるような素振りを見せるから。それが本人の意図に反して勝手に発動する類のもので、隠匿の看破もそれに類するのなら、まあ、疲れるだろうな、という感想くらいは抱けた。
―――いつか、
聞いたら、答えてくれるのだろうか。それともいつものように、内緒、と返されるのだろうか。これから―――何処まで。踏み込むことを許されるのだろうか。そんなことを考えていたら、思わず手に力が入った。
「………は、」
「…スリーくん? いたい? だいじょうぶ?」
「痛くないです。大丈夫です」
「そう…」
「…エイトさん、手が大きいというか、指が長いですよね」
「うん? そう?」
その指が自身に今、絡んでいるのだと思うと。脳髄が沸騰するような興奮に見舞われる。あのときは本当にただ、医療行為で、決してそれ以外にはなくて。だから当然、こんなこともしてはいなくて。
―――今は、ただ。
この感覚に身を委ねていよう、と思う。
 エイトさん、と呼んだのが声になったかは怪しかった。
 離れたがるかのように指が跳ねたのを上から押さえ込んでしまったけれど、逃げたかったのではなく、大丈夫かどうか確認したかったのであれば良い、とそんなことを思った。

 くた、と寄りかかる。
 まだ、手を離すことは出来なかった。
「………う、わぁ…」
「そんなヒいた声出さないでください」
「マジでこうなるの? こう…えっ…うわ…人間ヒく…」
「傷付きますよ」
「非効率すぎない…?」
「…非効率さにヒいてるんですか?」
「え? うん………あっ、えっと!」
「そうですかそうですか、ボクが貴方で欲情出来る事実にも貴方の手で射精した事実にも別にヒいてないと」
「まってまってまって」
「もう一回してもらっても良いですか?」
「な、なんで?」
「気持ちよかったので」
「………へ?」
吐精後の冷静さは何処へやら。まだ脳髄が沸騰するような名残があって、素直なもので、それはすべて下半身へと流れていって。
 首を捻って見上げたエイトが、不思議そうな顔をしている。
「俺、何もしてなかったと思うんだけど…」
「そうですが」
指が、逃げることはまだ、ない。これはもう一回≠許された、ということで良いのだろうか。
「エイトさんが触ってくれているというだけで、今、ボクは大特価なので」
「す、」
 ぱちり、と。
 瞬きを眺めていられるのだって、こんなにも嬉しい。
「スリーくんがこわい…」
「人間の愛なんてそんなものですよ」
「待って、愛とか聞いてないんだけど」
「親密、ってそういうことでしょう」
「結論早くない!? お試しは!?」
「ボクの分はもう終わりました。本施行です」
「もうちょっと迷いなよ!? 人間でしょ!?」
「生命が短いのでやれることはさっさとやっておくんですよ」
また触れるだけのキスをして、首の方向をもとに戻す。寄りかかるかたちが、ずっと昔からやっていたみたいに馴染んでいく。
「あと、人間がこんな早いんだと思われるのも困るので」
「そんなこと思ってないよ!」
「さっきのはだいぶお預けされた分なので、今度はそうじゃないのを証明しますから」
「そんな証明しなくて良いってば!」
逃げない指を絡め直したら、本気? と問われたので、本気じゃなかったら言いません、とだけ返しておいた。
 分かってはいたが、二回目もものすごく、気持ちよかった。



星々と導き、杖の先


 魔術が航路であるなら、魔法は足跡(そくせき)だ。そんなふうに思うことがある。それはこの目が少しばかり特別なように出来ているからかもしれない、同じような目を持たずとも似たような感想を抱くかもしれない。どちらの可能性もあったが、言葉にして会話をしてコミュニケーションを取らなければ結局、そういった確認も出来ない。
―――そういうものは、
煩わしい、と思っていた。魔術師なんてものは大抵が排他的なものであって、その感性のままでいても困ることはなかっただろうけれど。少しは、そういうことを考えた方が良いのだろうか、なんて思った矢先のことだった。いや、考えたい、と思った矢先のことだった。
 首輪、なんていうものが苦しかった訳ではない。
 でも、いつかこんなものがなくても、と言ってみたくなった。そういう心地、だったのだろう、と思う。
「あれ?」
だから、口に出した。
「エイトさん来た?」
「はい」
「へ〜珍しいね」
「そうですね」
その足跡(そくせき)は魔法の中でもひときわ目立つ。否、実際は本当に目立っている訳ではない、自分の中のアンテナだとか、そういうものが彼をよく拾うというだけの話だ。昔、かけてもらったらしいまじないのことだってあるし、一般的な言葉に押し込めるのであれば相性が良かっただとか、それだけの話。
 きらきら、と。本当に光っている訳ではないが、その魔力の名残は星のように、どんな暗闇でもこの目には浮き上がってみえる。それは強い光ではなく、ただ静かに燃えるような何処か遠いものであるのに。一度だって見逃したことはない。それが、自分のいない間に家《ホーム》に現れる、というのは言ったとおり、本当に珍しかった。
 何か仕事でもあったのだろうか、此処を離れていた間の連絡を思い返してみる。特に、何もなかったはずだが。アメリカの学院《カレッジ》から入った杜撰な横槍の後始末をつけにいったのは、兄の体調が良くなったから、というのもあるのだし。そう急ぐものでもないからゆっくりやったら良いのに、というのはジャックの言葉だったが、やはり、血の繋がりはないとは言え自らの兄を危険に晒されて、黙っていられるほど大人にもなれなかった。学院《カレッジ》が大々的にやり返された、という話はまことしやかに伝わっていて、だから表立っても裏でも大きな事件は、なくて。兄の体調だって悪くなったということはないだろうし、もしそうであってもエイトは別に医療向きではないから寄越されるようなことはないだろう。
 はて、と思う。
 ならば、何があったのだろう。首を傾げながら、まあ、聞いたら良いだろう、と思って―――その顔をもう一度見たら。口から転がり出た言葉は少し、違ったものになった。
「………なんか良いことあった?」
「良いこと?」
「顔色良い」
いつもは紙の色と近いようなその頬が、今日は少し、明るい。思わず手を伸ばして熱を測ってしまったが平熱だった。医療魔術を得意とするくせに、自分のことは二の次になる兄のことだから、また何かやらかしたのかと思ったけれど。そうではないらしい。
「何ですか」
「熱あるのかと思って」
「顔色良いって言ったくせに?」
「あんま、顔色良いスリーにいちゃんとか見慣れてないし」
「そんなことないでしょう」
「そんなことあるよ」
自覚がないのは分かっていたが、こうやって真正面から肯定されるとどう言って良いか分からなくなる。
 言い切られた兄は少し悩むようにしてから、小さく、息を吐いた。それがどうにも不思議な色をしていて、こんな仕草をする人だっただろうか、と思ってしまう。
「………まあ、そうですね」
まるで―――夢でも見るような。そうやって、何かを言うひとを、知っている気がした。
「良いこと、かもしれません」
同じ夢を見せてくれそうなそのひとの名前を、よく、知っている気がした。
「ふうん?」
その表情を見ながら。
 これは見る方向によっては悪いことかもしれないな、とだけ思った。



作業BGM「記憶の怪物」可不(薬草うにょ)



いつか、遠くない未来のはなしを


 ふいに、時間というものが気になった。彼らにとっては瞬きの間のいきもの、それが人間。それは一般常識だ、こちらがたとえ一生を費やしたところでそれは彼らにとって何千分の一にも満たない時間であるし、そのうち記憶の中に埋没していくものでもあるかもしれない。それを今更悲しいと思えるかと言えばそこまで彼らと交流があったわけではない、ない、けれど。
 触れることが多くなって、会うことも多くなって。手を差し伸べるようなことをされないのは、未だに変わらないし、きっとこれからも変わらない。それだって悲しくなんて思えなかった。…まあ、己の強欲さについてはそれなりに自覚があったので、追々対策を考えようとは思っていたが。いつか嫉妬になるかもしれないものだって、きっと上手く包まれてしまうのだろう、と思うと、それを疑える自分のことはうまく、想像が出来なかった。でも、想像出来ないからと言って何もしなくて良い訳ではないのだ。
―――特に、
絶対、なんて言葉が軽々しく使われてしまう世界において。自分も、相手も。守れる術があるのならば先に算出しておいた方が良いに決まっている。
 そんなことを考えながら本社の仮眠室に足を向けたのは、なんとなくいるような気がしたからだった。確証なんてなくて、でも今はセブンが別行動をしていると分かっていたから。それならエイトはわざわざ家《ホーム》に戻ることもしないだろうと思った。エイトが今の家《ホーム》を家《ホーム》としているのには、セブンの帰る場所を作る、という意味合いの方が多いような気がしたから。
―――それなら、
胸に棘のようなものが生える。でも、それを抜く術もその後誰かに突き刺す術も、此処にはないから。
「………いた」
想像通り、見慣れた背中を仮眠室に見つけて嬉しいような、ため息を吐きたいような、綯い交ぜの心地になった。けれどもそれはしないで息は吸い込んで、さっさとそのベッドに近寄る。
 りん、と。
 誰かが近付いてきたら気配を伝えるためのものだろう、魔法が音を立てる。それに呼ばれるようにして、エイトの瞼がゆるり、と持ち上げられた。
「………スリーくん?」
「はい」
「なに…?」
「寝にきました」
「そう…?」
そのまま布団を半分剥いで潜り込んだけれど、何も言われなかった。あれから一緒に眠ったことは何度かあったし、それを思い出して別に良いか、と思われたのかもしれない。仮眠とは言え、眠いからこそ此処にいるのだろうし。意識が覚醒する前に、とすぐ寝ますから、と言うと、うん、と返された。瞼がまた、ゆるり、と閉じられる。
「………」
心臓の音はゆっくりだった。眠る、ときの音。これもきっと見せかけなのだろう、この世界で生きることが出来るように、彼の親がかけたまぼろし。それがそのままになっているのは、どうしてなのか。解かないのか、解けないのか、はたまた解いてもらえなかったのか―――エイトのことを、何も知らない、と思う。それは聞いてこなかったから、というのもあるし、単に彼に秘密が多いから、というのもあるだろう。聞いたところで答えてくれるとも限らない。彼らは嘘を嫌うが、だからと言って真実を言わねばならない縛りを課されている訳ではないのだから。
―――内緒、
やわらかなその言葉が、拒絶ではないことを知っている。それで、充分だと言えたら良かったのに。
 唇を噛み締めるようなことはしない、しない、けれども。
 それはしても意味がないからだとか、そういうことではなく、それを咎めてくれるような相手ではないから、というのが正しいような気がしていた。

 すぐ横で気配が動いたのを感じて瞼を持ち上げる。眠れないかと思ったけれど、そんなことはなかったな、と。まあ前だってちゃんと眠れていただろう、と言われればそうだと返すしかないが、やっぱり場所が違うのだし。
「………」
「おはようございます」
「うん…おはよう…」
「帰れって言わなかったの、エイトさんですよ」
「………うん、それは否定しない…。でもこっちが寝惚けてるときに来るのは反則じゃない?」
「寝惚けてようが、嫌なものは嫌と言えるでしょう」
「そうだけどね、」
誰かに見られたらどうするつもりだったの、と呟かれたけれど、それはそれで、と思うだけだ。その誰かが勝手に勘違いでもしてくれれば、いろいろな手間が省けるし。外堀というか、エイトにそんなものあるのかは不明だったが、そういうものが埋められるのであればそれに越したことはない。
「前から思ってたんですけど、」
「うん」
「別に、ボクに触れるのは大丈夫なんですね」
「え?」
するり、とその前髪を梳(と)くように指を伸ばしてもそれが退けられることはない。
「ああ、うん…力を絶対に貸したくないだけで…。別におしゃべりだって普通にするでしょ。他のやつらだって一緒だよ。おすすめはしないけど、あとで食べられても良いなら無理矢理隷属させることだって出来なくはないと思うし…」
「………食べられるのは、」
 思っていたよりもさわり心地が良いな、と思う。今度からもっと触れてみよう、とも。出来ることなら、触れていない場所などないようになってしまいたかったが―――それはまだ、保留であるので、置いておいて。
「エイトさんにとっておきたいので別の方法を考えます」
「………は?」
本当に呆けたような音が聞こえて、それから急激に眠気が襲ってきた。それに抗うことなく目を閉じる。
「スリーくん?」
夢の帳の向こうで、エイトが呼ぶけれど、もう、目を開けることは出来なかった。
「ねえ、不穏なこと言い残して寝ないで………」
 ただ、それを聞きながら。
 何ひとつ不穏ではなかっただろうと、そんなことだけはちゃんと、思考に残った。



作業BGM「エンドレスシグマ」可不(師子)



知識の舟よ、楽園の果実に手を伸ばせ


 この世界には善き隣人というものがいる。ただの人間の目に見えないそれらはいつしか物語のように伝わって、今では妖精や精霊と呼ばれることもある。旧大陸《オールド・ランド》ならまだしも、この新大陸では科学の発展の方が目覚ましい時期が長かったからか、多くの人間はこれを本当にただの物語≠ニ捉えているが。
―――この目に、
きらきらと映る彼らのことを、どうやって物語≠ネんてものに出来るだろう。そんなことは、よく、思う。ただの人間には見えていないのだから仕方ないと、そうやって片付けるには難しいものだった。…勿論、きれいなだけのものばかりを見てきた訳でもないけれど。
「あれ、シックスじゃん」
「エイトさん」
そんな世界にふいに指を入れて、整理整頓でもするようにしてくれたのがこのひとだったな、と。それは思い出すまでもない出来事だ。エイトからしたらそんなお礼を言われるようなことではないらしいが、お礼自体は言われて嬉しいものなのは人間と同じだそうなので思い出したように言っている。
「何、どしたの? 本社行かないわけ」
「うーん、ちょっと考え事中」
「ふうん?」
まあ、その考え事の内容は目の前のひと、に関することなのだけれど。
 ひと気のない路地、廃屋の階段に。
 勝手に居座っているのは適度な雑音が欲しかったからだ。
「時間大丈夫なの」
「大丈夫だよ。別に呼び出されてる訳じゃないから」
「ふうん?」
「ジャックさんに話したいことあったけど、まだ帰ってきてないでしょ」
「ああ、なんだっけ、お前、ジャックが帰ってきたら鳴く鶏作ったんだっけ」
「正確には、ジャックさんが帰ってきたら鳴くようになる薬作った、だから鶏じゃないやつも鳴かせられるよ」
「鶏の他に何鳴かすんだよ」
「キリンとか?」
「ラスベガスのど真ん中にキリンいないだろ」
「そこはこう、連れてくるとかさあ」
「飼育費の方で怒られるわ」
 どうやら、エイトの時間にも余裕があるらしい。隣に降りられたのは、単に彼の距離の取り方がそういうものだから、だろうけれど。
「エイトさんさあ、」
それなら良いかな、と思う。
「スリーにいちゃんとなんかあったよね?」
ちら、と横目で見られる、その仕草にはバレた、というようすは見られなかった。というより、どうせ兄の行動で分かられるのだろう、という諦めにも見えた。
「あー…まあ、うん」
「契約とかはしてないんだよね?」
「してないよ」
「前みたいに約束とかも?」
「あれはもうほんとにしない、絶対しない。身体幾らあっても足りないよ、あんなの」
「そんなに?」
あの時の悪寒を思い出したのか、エイトが腕をさする。特に今は何もなっていない腕だけれど、あの時は鳥肌ですごいことになっていた。大抵いつもポーカーフェイスも何もかも、うまくこなしてしまうエイトだったから、抑えきれないほどの反応、だったというのがよく分かった。
 そんなにだよ、と首を振るエイトに、そういえば、と少し、横道に逸れることにする。どうせ今は時間もあるのだし、おしゃべりくらい許されるだろう。
「スリーにいちゃんみたいな人って、多いの?」
「うーん…多くもないけど、少なくもない、って感じかな…?」
「ふーん」
「あと、そもそも魔術師だって減ってるし、俺たちに助力を願うものの分母が減ってる、ってところもあるのかも」
「助けてって言われなきゃ分かんないってこと?」
「そうじゃないとは思うけど、基本的には助力を願われなければ助けるか助けないか、なんて考えないから」
「ああ、なるほど」
言われてみれば確かにそうだ。常日頃魔法使いや多少なりとも素質のある人間に接している隣人たちならともかく、その好む場所から出てこないものだって多い。それとは正反対ではあるが、人間の中で人間のように暮らしているエイトにとっては、すれ違う人間がどんな性質を持っているか、なんて考える暇もないだろう。いちいちそんなことをしていたら、幾ら妖精でも疲れてしまう。
「めちゃくちゃ嫌なだけ?」
「まあ、うん。言葉を選ばないなら」
「もしエイトさんがのっぴきならないことがあって、スリーにいちゃんを助けたりとかしても、呪いを受けるとか、そういうデメリットはないってこと?」
「物理的なダメージがあるか、っていうことなら、まあ、ないよ。毒、って感じでもないから、しゃべったり、一緒にいたりは問題ない。でも本能からの拒絶に近いから…すごく、嫌、なんだよね。これは本当にどうしようもない。あと、同胞からめちゃくちゃに小言言われる」
「俺は言われたことないけど」
「それはお前が人間だからだよ。流石に隣人の交友関係に口出すほど野暮じゃないって」
そう言われれば、なるほど、と思わなくもないけれど。使い魔《ファミリア》だとかならまた変わってくるのかもしれない、なんて思う。何と言っても、家族《ファミリア》なんて呼ぶのだし。さまざまな妖精にその申し出を受けることがあっても其処を埋めることをしなかったのは、その言葉に囚われているからかもしれなかった。
―――家族。
その、言葉を。
 人間相手にも真面に使ったことがないのに、人外のものとどうやってなれると言うのだろう。欲しいラインも分からないのに、どうやって取引を成立させれば良いのか。これはそういう話だった。
「契約でも、約束でもないのか〜」
ひりついた思考を振り払うように本題へと戻る。
「じゃあ、」
次の言葉を選んだのは、きっと、趣味が悪いと言われるだろう。でも、きっと直球の方が欲しい答えをくれるのだろう、というのくらい、分かっていたから。
「付き合うことにでもなった?」
「な、」
―――兄が、
魔法の残り香を纏わせていることは珍しくはなかった。事あるごとに魔法をせびっていたのは知っていたし、なんだかんだでエイトも出来る範囲ではあるが、応えていたのを知っている。
 ただ。
 最近はそれがあまりにも多いのだ。以前ならそれだけ面倒な案件に巻き込まれたのかと思っただろうが、隠しもされない兄の表情を見ていればそうではないことは一発で分かる。それに、同じ残り香でも、以前とは違った。大抵は鍵を開ける魔法を見せている、と聞いていたから、使う魔法が変わった、と言われれば納得したかもしれないけれど。
 魔法、というには弱い。香りも強くはない、と思う。
 けれども、残り香自体は前よりもずっと、多い。
 ならばつまり、魔法を使って見せている、というよりも、魔法の根源のような―――この場合はエイトの、そばにいる時間が増えた、と考えるのが妥当だろう。ついでに言えば、距離も縮まった可能性が高い。
 と、そういう訳で発した言葉ではあったのだ。
「いや、それはないでしょ、それはない…」
「まあ、そっか」
勿論、否定されることは分かっていたが。
 さっき確認したように、兄はどうやったって彼らに好かれることはない。それはどうしようもないこと、持って生まれた性質、ある意味では才能と言ってしまっても良かった。本人に向けては流石に言わないが。
「困ったね」
そんな前提があるのに、付き合う、なんてこと。無理難題にも程があるのだ。ロミオとジュリエットが笑い話になるくらいには無理だ。
「どの言葉を選んでも、エイトさんの答え≠ノはならないじゃん」
「そーだね」
「スリーにいちゃんのこと、別にもともと嫌いな訳じゃないし、だからと言って好きにはなれないし、当然、愛することも出来ない」
「…うん」
「助けを求めて手を伸ばされても、それに応えることも出来ない」
「………シックス、怒ってる?」
「怒ってないよ。仕方ないものなんでしょ」
「そーだけど…」
 困ったように、本当に困ったように頬を掻く姿は多分、何処からどう見ても人間にしか見えないだろう。自分だって言われなければ気付かなかったかもしれない。それくらいに、エイトは人間≠ェ上手い。…そんなことを思うのは、人間≠ェ下手な自覚があるからかもしれなかった。
「人間って、家族が助けてもらえないときって、怒るんじゃないの」
―――まるで、
考えを見透かされたみたいだ、と思った。
「………かぞく」
 何もかもほどいてしまうような声で放たれた単語は、この胸の中にわだかまって停滞しているものとはまったく違う言語みたいで、妙に、頭がくらくらして。
「エイトさんは、そうやって言うんだ」
「え? だってお前がそうやって呼んでるんじゃん」
「血の繋がりはないでしょ」
「何、気にしてんの?」
「………分かんない」
路地を抜けた先、其処から漏れてくるひとびとの生活音、その中に幾ら、ただの人間には感知できない音が組み込まれているのだろう。そんなふうに思うことがある。隣にいるそのひとが当然のように、欲しい言葉をくれることを、一体どれほどの人間が知らないまま死んでいくのだろう、と。それを幸福と思うか不幸と思うか、人それぞれだと知っているはずなのに。
「そういう、確実なものがないから、不安に思うのかもしれない」
「そういうもの?」
「でも、血の繋がりがあったって、うまくいかないときはうまくいかないんだって、本当は分かってるんだよ…」
「ああ、いろいろあるよね」
エイトにだって親≠ニいうものはいるだろうに、その話を聞いたことがないのは何故なのか。妖精は人間ほどこどもという存在に気をかけないものなのだろう、とは思っていたけれど、だからと言ってこういうふうに人間ばかりのコミュニティの中にいれば、自然、話題に出てもおかしくないのではないだろうか。
「エイトさんは、」
だから、と言う訳ではないけれど。
 聞いてはいけないような気がした。
 以前、彼の中で見たものを秘密にしたままにしている、自分たちには特に。
「結構他のお隣さんたちより、俺たちに理解を示してくれるように思えるけど」
「馴染むのに必要だっただけだよ」
「馴染む必要がなくなったら忘れちゃうってこと?」
「考えたことはないけど、そうかもしれないね」
「妖精の國に帰ることって、考えたことないの?」
「今のところはね。いつか、選択肢としてアリだとは思ってるけど」
「ふうん」
ならきっと、それは人間の寿命なんかでは追いつけないほど遠い未来のはなし、になるのだろう。自分のいなくなった先の未来に、一体どんな世界が広がっているのか、まったくもって想像が出来なかったが。
―――お前は魔法使いにだってなれるんだよ。
ふいに、その言葉を思い出したのは、魔法使いが永く生きるものだと知っているからだろうか。人間の世界の、その先を―――見てみたい、なんて思ったのだろうか。自分のことなのに、全然分からない。
「そんな、それなりに人間へと理解を示すエイトさんはさ、」
 さり、と砂埃を積もらせた手すりを払う。
「何を迷ってるの」
その指先をふう、と吹いてみたら少し先で、風の精霊《エアリエル》がきゃっきゃと戯れるのが見えた。どうやら話をしているのを邪魔しないでいてくれるらしい。いつもならお話しましょう、と寄ってくる彼らは、結構エイトが横にいると彼に譲りましょう、と言ってくれる。前に聞いてみたら、こどもに話し相手譲ってるんだよ、と返された。まあ、確かにいつからいるか分からないような彼らと比べたら、人間と同じ程度しかまだ生きていないエイトは、こども、なのだろうが。
「断るのなら、もっとうまくやるよね?」
そうだ、断るのならばエイトはもっとうまくやる。兄が何を言ったかは知れないが、兄だって自分の体質もエイトのどうしようもない反応も、分かっているはずだ。そこで拗れるようなことはない、と信じたい。
「なら、別のこと?」
「…かも、しれない」
「まあ、エイトさんはわりと前からスリーにいちゃんのこと気にしてたよね」
「………気にしてた?」
「本能で嫌って思うくらいどうしようもない相手なのに、仕事以外でも普通に話してたし。手を回したことだって少なくないでしょ?」
「…別に、話すくらいは出来るんだよ。手を回したのだって…それが、スリーくんのためだって言うには無理があるから、もっと…他が助かるから、だと思うよ。たとえば、お前とか、エースとか、ツーとか…」
「エイトさんとしては気にしてたつもりはないの?」
「………ない、ね」
「そうなんだ」
彼らは嘘を嫌う、だから、こうして問うて答えてもらったことは疑わなくて良い。
 自分は。
 それを、エイトから教わったように、思う。覚えていないけれど、だから勝手にそうであったら良い、と願っているだけかもしれないけれど。真実がどうであっても、このまま問わなければ夢のままにしておける。エイトが時折くれる正解のことを、まだしばらくは理由をつけないでいたかった。
「まあ、エイトさんがどう思っていようと、一人の人間である俺からはそう見えてたんだけど」
「………マジかよ…」
「マジだよ」
「つまりそれ、スリーくんからもそう見えてたってこと?」
「同じように見えてたかは分かんないけど、スリーにいちゃんのことだからもっと都合よく受け取ってたかもね」
「マジかよ………」
完全に想定外だったらしい。まあ、こう見えても人間ではないのだから、その価値観が人間とは違っても、別に驚きはしないし、傷付きもしないけれど。
「エイトさんは、どうしたいの」
今回の、エイトのように。
 予期せぬものをやさしさ、みたいに受け取られている、というのは。ひどく、据わりが悪いのかもしれなかった。
―――何も、
していないのに。
 そうやって思っても、解決するわけでもないのに。
「少なからず、応えたいと思ってるの」
「…俺にそれは出来ないよ」
「出来るか出来ないかは置いておいて、思ってるか思ってないか」
「………わかんねー…」
「分かんないなら今考えてみてよ」
「無茶苦茶言うなあ! お前」
「だって、かぞくのことだから」
「さっきはちょっと躊躇ったくせに」
「エイトさんが言ったんじゃん」
難しいこと? と問えば、そうだね、と返される。
「だって、人間は瞬きの間にいなくなってしまうものだから」
誤魔化すことは出来るはずだ。だって、誤魔化しは嘘ではない。
「そんなこと、考えたこともなかった」
―――それなのに、
エイトがちゃんと、答えてくれるのはどうしてなのだろう。
「ジャックやセヴィは、もしかしたら同じだけの時を共有するかもって思ってたけど、それは…今、スリーくんが言うようなものじゃあ、ないし。正直、俺はまだ…こっちの世界ではこどももいいところだから、娯楽程度で困ってなかったし」
 ちゃんと向き合おうとしてくれるのは、どうしてなのだろう。
「それが、瞬きの間にいなくなるような、存在と、っていうのは………」
人間の価値観に合わせて言うなら、添い遂げるだとか、そういうものを想定されていることは明らかだった。エイトの方からそんなことを言い出すとは思えないから、きっと兄が言い出したのだろうが。
 そうは言っても。
 添い遂げる、なんてことが出来るのは人間の方だけだろう。生きる時間が違いすぎるのだ、たとえ兄が死ぬまでエイトにつきまとったとしても、エイトはその先も生きていく。
「瞬きの間ならさ、」
だから―――これは、本当なら残酷な提案だった。でもどうせ、兄だって同じことを考えている。一緒に暮らしているとどうしたって似たり寄ったりの思考が生まれるのだ、それはもう、諦めていた。
「人間の茶番に付き合う、って遣り方もあるんじゃないの」
「………茶番」
「それともそれもだめ?」
「多分、俺たちの方からは出来ない」
「スリーにいちゃんがぐいぐい行くならアリってこと?」
「ぐ、ぐいぐい…」
「実際今そんな感じでしょ?」
「それは………うーん…」
「別にこんなところで取り繕わなくても。見てれば分かるし」
「それもどうなの?」
「ていうか、多分だけど、スリーにいちゃんはそういう遣り方しか出来ないよ」
「ねえ、それ、本当にどうなの?」
「スリーにいちゃんだって」
唇を湿らせなくても、ころころと言葉が出ていく。
「流石に、愛してくれとは言わないでしょ」
 ゆっくり、と。
 エイトが此方を見遣るのが見えた。その微かに髪が揺れるのだって、多分、このひとはきれいなのだ、と思う。それはこのひとが人間ではないからで、世界の神秘だとか、そういうものがすべて、込められたような存在だからで。
「………だから、じゃないの」
自分がずっと―――恐れていたもの、だからで。
「瞬きの間の恋人…もう面倒だから恋人って言うけど本当にそういうのじゃないからね!? 話をスムーズにすすめるために便宜上そう呼ぶだけで本当にそういう訳じゃないからね!?」
「はいはい」
「………瞬きの間の恋人を持つ同胞は、まあ、いるよ。そう珍しくもない。でも………彼らの中にはちゃんと、愛がある」
人間と人外の交わりはそう、珍しいものではない。そりゃあ触れている世界が世界なのだ、同じように動いて心を持って触れ合って―――と繰り返していたら、其処に愛なんてものが生まれるのも必然なのかもしれない。最近では影の茨《ソーン》と呪いを抱く夜の愛し仔《スレイ・ベガ》、パリの女王と空色の画家、など。強大な力を持つ人外が伴侶を見つけるというようなこともあったことだし、戦争で失われた繋がりがまた、戻ってきていると言っても過言ではないのかもしれなかった。
「人間のそれと、同胞のそれが一致することはなくとも、それでも確かにそう呼べるものがあるんだ。彼らの中で交換の出来る感情がある。だから違ういきものでも寄り添える」
勿論、うまくいかないことだってあるだろう。すべての関係がうまく行かないのと同じように。同じ人間であるはずなのに、要らないとばかりに川に捨て置かれた自分のように。
「………でも、」
けれど、エイトがどちらか―――と問われれば。
 それは前者だろう、と思うのだ。己を人外のものと認識しながら、人間の愛というものに応える。エイトにはそれが出来ると思っていた。…たとえ、それが兄、相手であっても。
「俺はスリーくんにそういうものは与えられない」
彼の言葉を疑っている訳ではない。隣人たちは嘘を嫌うのだから尚のこと、だから―――エイトは俺たちの方からは≠ニちゃんと限定したのだ。
「人間の短い一生を、そんなふうに受け取るのは…こう…バランスが悪い、と思う」
「別にバランス悪くても良いけどなあ。古今東西、人外との交わりなんてそんなもんでしょ」
「それは…まあ、そうなんだけど。それでも互いにそれが最善である≠ニ思った結果だったりする訳じゃん」
「最善ではないことが嫌い?」
「そうじゃ、ないけどさあ…」
どう言ったら良いのか、と。言葉を探すようにくしゃり、と髪が掴まれる。
「見過ごす、のは違うと思う」
指と指の間からその髪がさらさらと逃げていって、ああ、きっと触れたら気持ちが良いのだろうな、なんてことを思った。隣人たちの身体は人間のように肉を纏っている訳ではないと聞いていたけれど、感触はどうなのだろう。そういえば気にして触れたことはなかった。
「分かっていて、引っかかっていて。それを無視するのは………少なくとも、俺にとっては、嘘と同等なことだよ」
他のやつらはまた違ったことを言うのかもしれないね、とエイトは付け足したけれど、エイトだってきっと、見知らぬ人間相手であれば最善ではない手だとしても飲むだろう、それが交渉として成り立つのであれば。それでその相手が後々ツケを支払うことになったのだとしても、気にしないはずだ。
―――兄、相手だから。
否、そうやって言い切ってしまうのは少し違うだろうが。きっと自分や、他の面々相手でもこうやって考えてくれるだろうから。
 それでも、
 今は。
 兄の話をしているのだから、その言葉の対象は兄であるのだと、信じていたかった。
「………エイトさんは、」
「うん」
「魔法のことを言うんだと思ってた」
「スリーくんが魔法をずっと見ていたいがためにこんなこと言い出したって?」
「うん」
「………それは、」
迷うように視線が階下に落ちた。大通りに向かって、こどもたちが走っていく。
「スリーくんが言ったら、考えるやつであって…」
「でも考えてない訳じゃないでしょ?」
「だからって俺から突っ込んで良い話題でもないでしょ」
「じゃあ俺から言っても良い?」
「は?」
「よしきめた」
立ち上がる。
 エイトは不思議そうにこちらを見ている。
「今からスリーにいちゃんのとこ行こ?」
「………は?」
その目がまるく、見開かれるのを見て、多分兄はこういうところを手放し難いと知ってしまったのだろうな、と思った。



作業BGM「リユニオン」初音ミク(シノ)



祈りの綴りは知識の蔵に


 あんまり感触は変わらないんだな、と縋られる―――というか、掴まれる肩をそのままに歩き続ける。端から見たら何をやっているのだろう、と思われることだろうが、此処、本社に来るまでは目くらましの術をかけて空を来たのだから、素質のあるものの目にしか留まっていないはずだった。いやエイトからしたらそういう問題じゃあないのは分かっているが、別にそういうことは言われなかったので良いのだろう。他の問題に必死になっているだけ、というのは当然理解しているが、ここまで来たらやっぱり多少強行になってもやるべきだと思った。
「シックス、待て、考え直せって…!」
「人の恋路に首突っ込む以上に面白いことないでしょ!」
「誰の教育だよこれ!!」
「ボクへの文句ですか?」
「あっ、スリーにいちゃん!」
「なんでいるんだよ!?」
「は? 喧嘩なら買いますが」
「喧嘩で良いから今は買ってくんない!?」
「スリーにいちゃん、買わないでね」
「はあ」
今なら本社にいると思ってきたのはあるけれど、ちゃんといてくれて良かった。日本のことわざには思い立ったが吉日、というものがあるらしいし。またどうしたんです、と首を傾げる兄には少し―――ほんの少し悪いとは思うが、この停滞を放置しておくのも何か、据わりが悪いのだし。
 息を吸う。
 もう、本社にいる全員を巻き込むつもりで大きな声を出す。
「ねえあのさ! スリーにいちゃんはエイトさんのことが好きなの?」
「うわーっ!!」
「どうしたんですか、シックス。急に」
「スリーくんも普通に話進めないでよ、俺が馬鹿みたいじゃん」
「急でもなんでもないよ。っていうか、みんな思ってるって」
「ガン無視…? マジで…?」
思いの外ショックなのか、エイトの手が肩から離れていく。そういえば強引に会話を進めたことはあっても、無視したのはこれが初めてだ。多分。エイトもエイトで隣人として§bしかけたときに無視される、という経験は少ないのかもしれない。普段から人間の世界に溶け込んでいれば、相手は人間と接するようにしてくることの方が多いだろう。特に、エイトは言われなければ分からないほどの擬態をこなしているのだから、余計。そうやって考えると、ひどいことをしているかもな、とは思ったが。
 目の前の問題に比べたら些細なこと、と言えてしまうかもしれなかったのだし、まあ、良いだろう。
 同じように兄もまた、エイトを無視してわざとらしく首を傾げてみせたのだし。
「そうですか? 言われたことありませんけど」
「それは遠慮してるんだって」
「誰に」
「それはひとそれぞれだと思うけど。あとお隣さんたちはエイトさんの方に行ってると思うよ」
俺のところにも愚痴言いにくるくらいだもん、と言えばええ…というエイトの声が聞こえた。そのまま続ける。
「スリーにいちゃんがエイトさんにちょっかい出すのはよくあることだったけどさ、最近はその頻度が特にひどいって」
「ひどい………」
「エアリエルとかにも言われないの?」
「黙秘権を行使する」
「言われてるんだ。ついでに小言とかももらってるんじゃない?」
「それも黙秘する!」
「こどもじゃないんだから」
「こどもじゃないから俺が何してようとある程度自由だろ!」
「じゃあ俺もこどもじゃないから自由だよね」
「お前はもうちょっと不自由というものを覚えろ」
それはそれなりに覚えている最中なので今は置いておいて欲しい。首輪をつけられるようなことがあって、まあ、反省はしていないけれど。これでも思うことくらいはあったのだ、いろいろと。
 じ、と。
 律儀に次の言葉を待っている兄に、今は続きを投げる方が先決だ。
「スリーにいちゃんがさ、エイトさんのそばにいたいって思うのは、ほんとに愛とか、そういうもの?」
「シックス、」
「ごめんね、エイトさん。俺今、スリーにいちゃんに聞いてる」
見上げてみせると、う、と呻くようにしてエイトが固まった。
 この目には、どうやら人外のものを縛る力があるらしい。まあ正しくは違うし、別にエイトだって縛られてくれる訳ではないのだけれど。それでも少し違った効果があるのか、少し酔ったようになるのだと言っていた。だから緊急時なんかは絶対に目を合わせないようにしろ、とまで言われている。話が逸れた。
「エイトさんは俺のこと、本気で止められないもんね?」
「お前、なあ…」
「でも一応保険のために手、繋がせてね」
「やだ…」
「って言っても振り払えないもんね」
「お前ほんとやだ、腹立つ、むかつく」
「はは、エイトさんが俺のこと美味しそうって思わないのほんと不思議」
「発酵前の蜂蜜に興味がないやつの方が世界には多いの!」
「でも蜂蜜ではあるんだ」
「ちっちゃい蜂蜜《ハニー》は黙っててよ、もう」
「もうちっちゃくないし、もともと喋るために此処に来たんだよ」
「ああ言えばこう言う!」
触れることも、そうだ。彼は決して美味しそうなどとは言ってこないし、思いもしないのだとは聞いていたが、それはそれとして本能的に惹かれる部分はあるらしい。だから特別助けてくれる。
―――お前が好きなわけじゃないよ。
昔、エイトはそう言った。
―――ただ、お前を愛するように世界が出来ている、それだけだ。
 その言葉は、今でもこの胸に残っている。隣人をむやみやたらに恐れなくなったのはその頃からだな、と思い出した。隣人たちも、自分も。この世界にぽい、と放り出されたただの欠片なのだと。そんなふうに思ったからかもしれない。
「………何が聞きたいんですか」
「そんな怒らないでよ。手、繋いでるだけじゃん」
ワントーン下がった声に、これは本当に急に進んだなあ、と思う。エイトが他の魔術師に絡まれていたりすると、率先して割って入るのが兄だった。でもそれは魔法を見せてくれる相手に対して借りを返している、程度のものだったし、こんな独占欲のようなものではなかったはずだ。
―――一度も、
手にしたことがないはずなのに。一体、このふたりの間に何があったのか。聞きたいような、聞きたくないような。まあ何にせよ、今は他に聞くべきことがある。
「まあ、恋に落ちるのはいつだって突然、とも言うし? スリーにいちゃんがそうだって言うなら、俺だって何も言わないけどさ。相手がエイトさん、ってなると、こう、いろいろ考えちゃうんだよね」
「何を」
「本当に、欲しいのはエイトさんなのかな? って」
その先の言葉を止めるように、繋がれている手に力がこもった。それを目敏く認めたのか、また、兄の表情にくもりが浮かぶ。まったく、こういうところばかり鋭くて、本当に嫌になってしまう。
 こんな、ことで。
 機嫌を悪くするくらいなら、最初からこんなこと、問う隙を作らないで欲しい。
「エイトさんを介して、魔法を手に入れた気分になりたいだけじゃないの?」
「―――」
息が、飲まれる。でもそれはふりだ、と思った。嘘は好まれない、嫌われるもの。それは魔法も魔術も混在するこの裏の世界では、どちらであろうと注意せよと言われるもの。人間の裏≠まとめ上げている時点で、そんな縛りは非常に難しいものになると言うのに。まあ、やれと言われたらやるけれど。其処でしか生きられなかったものには、生きられる場所に沿うてやる義理がある。しかし、嘘でないのなら―――仕草であるとか、芝居らしいものを打つだとか、それは別にそこまで言われるようなものではないのだ。行動には言葉が、その力がつきまとうが、仕草には解釈の余地が生まれやすいからかもしれない。
「そうだと、したら?」
「流石に見過ごせないかな、って思って」
「どうして」
「そりゃあ、エイトさんが善き隣人だからだよ。スリーにいちゃんだって、俺がどれだけお隣さん≠ノ助けられてるのか、知ってるでしょ?」
「その分害も受けていると思いますが」
ここで言葉に詰まらないのは、きっと想定していたからだろう。…つまり、この話題を引っ張り出してくるのであれば、それはエイトではない、と分かっていた、ということだ。ジャックはあれで放任だ、そもそもエイトの保護者でも何でもない。セブンは恐らく、そういうことを思いつかないだろう。エースは気にかけることはするだろうが、流石に兄には言ってはこない。エイトに大丈夫かと聞くくらいだ。ツーだって思いつくだろうが、兄に問うには一歩が踏み出せないと思う。此方も聞くとしたらエイトの方に行く。キングなら或いは―――と思ったけれど、彼はそこまで隣人の言葉に普段から耳を貸している訳ではないし、今だってあちこちを飛び回っていて此処にはいない。そうやって考えると、なるほど、残るのは自分だけ、という訳だ。
 は、と嘲笑すら漏れそうになる。
「―――それでも、」
改めてこうやって思考を組み立てると、逃げるつもりでいたんじゃないかと、そんなふうに思ってしまうほど。
「エイトさんから害を受けたことはない」
自分が言い出さなかったら、一生黙っていたのではないかと、そんなふうに疑ってしまうのだ。
「彼らの親切が祝福と呪い表裏一体でも、ちゃんと祝福として受け取れるようにしてくれたうちのひとりが、エイトさんなんだよ」
自分の兄だけれど―――自分の兄だから、こそ。
「人間は、平気で人間ではないものにひどいことが出来るよ」
そういうことが出来る人間だと、知ってしまっているから、こそ。
「その逆もまた然りだけど」
疑いの芽はいとも簡単に芽吹く、それがこの先、何を連れてくるとも知れないで。
「俺は、スリーにいちゃんにそういうものになって欲しくない」
この人に。
 立ち向かうのは、本当は少し、恐ろしかった。それを感じていたからだろう、エイトが止めようとしたのはきっと、それもある。でも、いつまでも怖がったままではいられないのだ。
「………どうして、」
どんな、鳥も。
 いつか、巣から飛び立たねばならないのだから。
「ボクだけに言うんですか」
「エイトさんには言う必要ないでしょ」
本当は、分かっている。別に其処で死にたいのならそれでも良いことを。それでも、願った。巣の外の、その広い世界にある美しいものを、知って。
 この人に見せたいと、そう、願った。
 この人が兄なんてものをやってくれていたからこそ、そんなふうに、願った。
「別に、エイトさんはスリーにいちゃんがそう思ったところで、憐れんで≠ュれると思うよ。ていうか、どう思ったところで、が正解かな? 人間なんて、刹那のいきものなんだから。それでスリーにいちゃんが満たされるなら、まあ、理解は出来なくても良いかなって言ってくれると思う。俺は、それが悪いとは言わない。瞬きの間の恋人って、そういう…なんていうの? ある程度の不理解があってこそのものだとも思う。これはスリーにいちゃんの問題ではあるし、スリーにいちゃんが報われない恋をしてるだけなんだったら、多分、俺は止めない。エイトさんなら合わせて≠ュれるだろうし、弁えて≠「ればそれなりの…幸福? …とか、そういうものをくれる、とは思う」
そうだ、エイトがなんと言おうと結局これなのだ。幸福なようすが、うまく行っているさまが、瞼の裏に描けすぎる=B
 その相手が兄で、彼らにとってはひどく、手を差し伸べることを忌避したいものであっても。今までしてきたように大丈夫なラインを探りながら、兄の求めるものに応えてしまうのだろうと、そういう想像があまりにも簡単に出来てしまうのだ。
「だから、これは俺のわがままだよ」
その場合にエイトがするであろう苦労を、想像は出来ない。理解も出来ない。けれどもエイトであればそうしてくれるだろうと、そんなことを思っている。それは、隣人に対する過度な信頼であると、分かっているにも関わらず。
「スリーにいちゃんだから、」
この手を、振り払われないことこそ、解えとしてしまいたいから。
「善きひとびとを、そうやってくもらせないで欲しい」
 兄のまっすぐな視線を、受け止めることに今更震えることはしない。
「たとえ、それが瞬きの間のことでも」
自由を願うなら、不自由を知ったのなら。ちゃんと、兄に向き合わねばならないのだと、本当はずっと、知っていたから。
「………ボクだって、」
そんな気持ちを知ってか知らずか、拗ねたように視線が足下へと落とされる。
「仕事以外で親密でもない相手にはキスなんてしませんよ」
「え」
「あ」
 自分の間抜けな声はさておいて、隣からこぼれた何とも言えない声に振り返るのは仕方ないと思った。
「えっ? アプローチされてただけじゃなくて? もうそこまで?」
「まってまってまって」
「ふふ、どうでしょうね」
「エイトさん、ほんと?」
「シックス、近い近い近い! あとそれ答える訳ないだろ!」
「そうですよ、避けられたかもしれないんですから」
「もうスリーくんは余計なこと言わないで…!」
「あ、」
やっと、気付く。まあ、今まではエイトを視界から退けてしまっていたから気付かなくても仕方ない、とは思うけれど。
「エイトさん、耳出てる」
「―――〜〜〜ッ」
指摘をしたら、すぐにしゅる、とまぼろしが構築された。いつ見てもしっかりしてるな、と思う。触った感覚も、ちゃんと人間のような丸い耳にしか思えないのだし。
「シックス、うるさい!」
「あれ? もしかして思ってた以上に脈アリだったのこれ?」
「そうだと嬉しいんですが」
「エイトさんの方はまあ、置いておいてもさあ」
「置いとくのかよ」
「いじっていいの?」
「無理」
「じゃあ置いておいて。スリーにいちゃんの答えまだちゃんと聞いてないんだけど」
 そろそろ手を離してやるべきかな、と思いながら、どうにも兄の反応が気になってそれが出来ない。兄に出来るのは勝手に手を伸ばすことで、エイトから握り返されるようなことはそれこそ天地がひっくり返ってもないのだろうけれど。
「………今のエイトさん見てて、」
じ、と暫く考えていた兄が呟く。
「うん」
「キスしてないの褒められると思いません?」
「誤魔化さないで答えてよ」
「だ、だから正直に言ったじゃないですか!!」
「………あれ? マジで言ってる?」
「だから、正直に答えてますよ」
「エイトさん?」
「俺に聞かないで…」
まあ、確かに本人に問うようなことではないだろう。納得したので手を離してやる。それでやっと一息つけたのか、はあーっ、と長く、ながく、息が吐かれて。
「…シックス、」
 呼ばれる。
「なに」
「さっき言ってたことだけど、過大評価だよ」
「何処? 幸福のあたり?」
「………うん、まあ、全体的にだけど特にそれ」
「別に、エイトさんがどう思ってようと、そうなったら絶対スリーにいちゃんは勝手に幸福になるからあってると思うけど」
「なんでそうお前ら身も蓋もないの!? もっと人間って夢とか見るもんじゃないの!?」
「個人差ってやつだよ、多分!」
「そんな個人差嫌すぎる」
でも、人間というのはそういうものだ。いろいろなものがいて、此処にはきっと、特別癖の強いものが揃ってしまっていて。
 じ、とエイトの手を見つめる兄に呼びかける。
「スリーにいちゃんは、」
「はい」
「エイトさんのことが好き?」
「………そうですね、」
思っていたよりも簡単に、その顔は上げられて。その瞳の中に自分が映っているのが見えた。
「多分、こういうのを愛している、と言うんじゃないかと、最近思い始めました」
「こ、っれは…」
暫くエイトの方しか見られないのではないかと思っていたが、どうやらそう上手くはいってくれないらしい。思わず叫ぶ。
「想定以上!」
「もうシックスもスリーくんも黙ってて」
「エイトさんエイトさん! これ諦めた方がいいかも! 絶対スリーにいちゃん、死ぬまでつきまとってくるよ!」
「シックス、言い方を考えてください」
「だってそうじゃん!」
「もっとこう、良い言い方があるでしょう、なんか。こう。寄り添う…とか」
「スリーにいちゃんが一番出来ないことじゃん」
「なんてこと言うんですか!?」
 なんてことも何も、事実だと思うが。そんなやわらかな言葉で済むような人間ではないことを、未だ自覚していないはずがないと思っていたが、どうなのだろう。何にせよ、そんな言葉で済むような精神性があったなら、この首に首輪なんてものはついていなかった。
「ていうか、スリーにいちゃんの体質的にもエイトさんから何かしてもらうっていうの無理だし、まあ、プラトニックなのもアリだとは思うけど、さっきの聞いてる限りなんかしたいみたいだし。寄り添うとかじゃ…こう…嘘になるじゃん。やっぱりつきまとう、のが正しいって」
「プラトニック…?」
「ハテナつけないでよ、そんな外国語聞いたみたいな」
これはいよいよ面白くなってきた。
「ていうかお前はまず、なんていうの、それで良いの…? 普通こういうときってスリーくんを止めたり、俺にいろいろ突っかかってきたりするもんじゃないの?」
「え? なんで? 俺は別にエイトさんが身内になっても構わないかな? って思ってるよ」
「身内…」
「何、スリーにいちゃん考えたことなかったの? 正直此処で何かあったら大事件だから、すぐに地球の裏まで届くと思うよ。金の夜《ノクス・リュラ》に番が出来た! って。まあ、もう番が出来るかも! って噂になってるかもだけど」
「………お前俺の二つ名知ってたんだな…」
「そういえばセブンさんにはないの、二つ名」
「あいつ魔法使いの真似事はしてないから…。あ、でも鏡の君とは呼ばれてたかな」
「ふうん?」
もうこれ以上この話題に触れるのはやめよう、と決めたらしいエイトと、身内、と考え込んでしまった兄と。もう少し眺めていたかったのが本音だったけれど。
「俺、もう行くね」
 鶏が鳴いたので、ここらが潮時だった。
 ついでにジャックに報告しておこう、と思った自分は悪くないはずだ。



作業BGM「神殺し」flower(イチ)



君の告げるものは黎明か終焉か


 あの鶏ってずっとああなの? と聞かれたから、薬が切れたら元に戻るよ、と返して、他の動物が良いなら変えるけど、と提案する。キリンとか、とエイトにしたように言ってみせたら、飼育費の方が馬鹿にならない、と返された。こういうところが似ているのは、エイトが人間≠フお手本にジャックを置いたからだろうか。
「っていうことがあってさ」
必要なことを伝えてしまえばあとは自由なおしゃべりタイムだ。ジャックが出してくれたお土産に手を伸ばしながら、どう思う? と問うてみる。まあ、ジャックであればエイトの変化くらいもっと早く掴んでいただろうけれど。本当に、一体いつからあんなことになっていたのだろう。学院《カレッジ》荒らしに行くより前だっただろう、ということしか分からない。その前に彼らが一緒にした仕事では兄が体調を崩していたから、それ関連、なのだろうか。
「はあ、スリーちゃんが」
 と、まあ、それなりにわくわくして問うたのだったが。ジャックから返ってきたのはそんな言葉だった。
「あれ? スリーにいちゃんの方なんだ?」
「まあね」
このクッキー美味しいわね、と自画自賛するジャックにそうだね、と同意しながら、その続きの言葉を待つ。
「これでもそれなりに長いこと人間見てきてるもの。鈍麻していくものもいるけれど…やっぱり、感情なんてものは魔法の源だから、ね」
「スリーにいちゃんがエイトさんのこと好き、って知ってたってこと?」
「それは少し違うけど」
喉を鳴らしてみせるさまは、何処か猫に似ている、と思う。ジャックが基本、群れることをしないのだと聞いていたからかもしれない。今此処にいるのは本当に気まぐれのようなもので、ランスキーと出会わなければもっと田舎で悠々自適に暮らしていた、なんていうのは何処まで本気だったのか。都会に適応しきっているジャックを見ると、どうにも想像はつかないが、そこはながく生きる魔法使いだ、そういう術を知っている、というだけなのかもしれない。
「そうねえ…起こり得るかもしれないこと≠ニして、考えてなかった訳ではない、程度かしら」
「その中でも可能性低いやつだったってこと?」
「うーん…そうね、そんな感じ」
「もうちょっと詳しく」
「詳しく、って言ってもただの勘だもの。まあ、言葉を選ぶなら…スリーちゃんがスイッチを押すようなことはないと思ってた、かしら?」
「スイッチ」
「好きになるか、ならないか、っていう選択が生まれるスイッチ」
 誰でも持っているものだけれど、とジャックが手元のクッキーを割ってみせる。一度押したら選択は絶対しなくてはいけないもの、と半分を渡されて、なんとなくは理解した。兄の持っていたクッキーは割れてしまった、そして兄は好きになる≠ニいう方を選択した。それが今、ということなのだろう。
「正直、アンタとエイトの組み合わせの方がなんかあってもおかしくないと思ってたわ」
「あ〜…自分で言うのもなんだけど、スリーにいちゃんより納得出来る」
「………本人に肯定されると、それはそれで微妙な気分になるものね」
「でも、分かるもん。俺の中には好きになるか、ならないか、のスイッチがあって、それはスリーにいちゃんのものよりずっと手の届きやすいところにある、って。…まあ、今回の件でもうスイッチごと吹っ飛んだけどね!」
「でしょうね」
自分の持っていたクッキーはきっと、エイトが丁寧に包んでくれていて、だから割ろう、なんて考えなくても良くて。そうやって今まで来たのだろうな、なんてことも。
「俺さ、」
―――エイトの、ことは。
 好き、なのだ。
 勿論、隣人として、であって、それ以上の意味はないけれど。大切な仲間、だと思っている。人間ではない、隣人であることを考慮しても、ひどく丁寧に接してきてくれると思っているし、価値観だって合わせてくれている。他の隣人たちではこうは行かないことも、ちゃんと、分かっているのだ。そんなエイトの対応が、どれほどに人間にとって価値のあるものか、ということも。
「スリーにいちゃんのこと、応援しても良いかな」
「好きにしたら良いんじゃないの」
「エイトさん、困らないかな」
「困ったとして、」
だから、本当は困らせたくはない。困った、と声を上げれば必ず手を差し伸べてくれる、そんな相手をどうやたっら困らせたい、なんて思うだろう。自分がそこまで真面という自覚はなかったけれど、流石に越えたくないライン、くらいはちゃんと持っていた。
「アンタが知ってるエイトは、それでアンタを嫌うような隣人なの?」
「………ジャックさんさあ、」
 いたずらっぽくきらめく瞳に、もう、笑うしかなくなって。
「そういうとこ、狡いよ!」
渡された半分のクッキーを、口に放り込んだ。
 とても優しい味がして、また食べたいな、とだけ思った。



作業BGM「ノンセンスライフ」初音ミク(マロン)



鶏は金の卵を生む


 シックスが去っていって、エイトがはあ、とため息を吐いたのが見えた。あそこでじゃあ俺もこれで、と立ち去れるような身軽さはあるはずなのに、それが今、発揮されないのはどうしてだろうな、なんて思う。発揮、して欲しい訳じゃあないけれど。だから、その服の裾を摘んでみせる。
「スリーくん?」
まだまだあいつもこどもだよね、だとか、でもいろいろ考えてるんだね、だとか。そんなふうに言っていた瞳が、やっと、こちらを向いて。
―――それに、
満たされるような心地がするのは、もう、勘違いでも何でもないと思う。
 この、感覚の落とし所に困っていた。欲情と言って良いものなのか、そんなものから始まって。親密、なんて手段を教えられてしまって、それに手を出して。レールですらない場所を走っている、それが人生だと言われてしまえばそれで終わり、だっただろうけれど。
「どうしたの?」
「………流石に、」
何も考えられていないのは分かっていた、そもそも、何も考えるような相手ではない、ということも。だから、まずは、と思った。あちこち手を伸ばしていたらそれこそ足元が疎かになってしまう。こんな場所で、そんなことをしていたら生き残れるものも生き残れない。そう、思ったから。目下の目標を一つに絞った。
 親密、と。
 それが、外からもそう見えるものになれば良いと、そんなふうに思ったから。
「あんな反応をされると、期待するんですけど」
でも、だからと言って絶対にそれだけを追っていなければいけない、ということもないはずだ。時折こうして、思い出してもらうことくらいしてもらったって、ばちは当たらないと思った。…ばちを当ててくるような、そんな存在を信じている訳でもないのに。聖書は読んだことはあるし、恐らく有名どころであれば説教だってこなせるだろうが、理解していることがそのまま信仰になるのであれば信徒はもっと多くて良いはずだろう。
「期待って、何が…」
「ボク、言いましたよね」
魔法より、もっと範囲を絞っても魔術より、遅くに生まれたものを信仰するには、恐らく自分には我慢や寛容さというものが足りなかった。
「医療行為でないものを、もう一度してみたい、って」
「………」
ぱち、り。
 記憶を探る仕草だ、と思う。
 それが分かる程度には、エイトに近付けたのだと、少しくらいは思っていたかった。
「え、あれ本気だったの!?」
「本気ですよ」
「いやいやいやだって、」
「今更何言ってるんですか」
「だって、あれから何も言われなかったから、気の迷いとかだったんだと…」
「親密になる方に費やしてただけです」
忘れられているだろうな、とは思っていたし、ちょうど良かったのだと思うことにする。…まあ、シックスだって邪魔をするつもりで来た訳ではないだろう。言われた言葉がすべて本音だとは思わないし、まだ言っていないこともあるはずだが、シックスがシックスなりにエイトに懐いていることくらい、理解していた。いっそのことエイトにシックスの使い魔《ファミリア》になって欲しい、なんて言ったことがあるくらいだ。其処の距離感をそう、厭うてはいなかったはずなのに。
「さっきだって、」
困ったな、と思う。
「キスするのを我慢してるみたいなことを言いましたけど、本当はもっといろいろしたいと思ってました」
その先を、望んでいるのは最初から分かっていたはずだった。でも、エイトが触れてくれることが、否、触れさせることを拒絶しないでいてくれることが、どれくらい奇跡じみているのか、それだって分かっていたはずだった。
 ある程度で満足していたい。
 それは、恐らく保身だったけれど。
「エイトさんなら、これが嘘かどうか、分かりますよね?」
「………、」
欲をうずめて、燻ぶらせて。エイトが問うてこないのなら、誰かに問われることがないのなら。言葉に、しないのなら。
「いや、」
 それは、嘘にはなり得ないから。
 それでも良いと、思っていたはずなのに。
「まって………」
「はい」
嘘を吐きたくない、というのは彼らのためではない、エイトに嫌われたくないからではない。真実の方が厭われることだってある、それくらい分かっている。でも―――それでも、この欲をなかったことにはして欲しくなかった。厭うのであれば、嫌われるのであれば、ちゃんと、真正面から嫌われてしまいたかった。
「待ちますよ」
ちゃんと、
「でも親密になる努力は続けるので」
「そ、れは…まあ、勝手にして…」
 傷付けて、欲しかった。
「………エイトさん」
「なに」
「さっき、シックスが言ったことですが。ちゃんと答えが出そうになったら、聞いてもらえますか」
「………うん」
「ボクにも、ちゃんと考える時間が欲しいので」
「…別に、考えたくないなら考えなくても良いんだよ」
「―――それは、」
人間は、停滞してはいられない生き物だ。どうしたって、生きているのであればその場から走り出してしまう。それがどれほどにゆっくりなものであっても、長いながい、彼らの目から見たらやっぱり、停滞であるとしか言われなくとも。
「甘言ですか?」
「まあ、そうかもね」
「なら、それには乗りません」
エイトが自分に対して、甘言を用いる必要なんて何処にもないと分かっているから、ちゃんと笑えた。
「エイトさんにはボクの言葉を聞いて欲しいから。貴方の甘言には乗りません」
「………かわいくねー人間…」
「褒め言葉ですね」
 キスして良いですか、と問うたら、今はやだ、と拗ねた音で返された。



作業BGM「イドフロイデ」初音ミク(Zekkai)



夜の花の中で夢の糸は紡がれる


 あれだけ言ったし言われたのに、結局この距離は変わらないのだな、と思う。別に脇が甘いだとか、そういうことではないのが分かっているから何も言わないが。構成員の中でも噂になり始めたらしい、というのは聞いていたし、そういう情報を得るのはエイトの方が早いだろう。それでも何を言われることもないのは、もうそれで良いと思われているのか。隣人たちから小言をもらっているのであればその文句くらい聞くのに、と思いながら結局言葉にしていない自分を思って、何を言う資格もないだろうな、とキスを落とす。
 最初に唇にしてしまったからか、他の場所にキスを落としてもあまり、何も言われなかった。流石に服を脱がせようとしたら何か言われるだろうし、痕を残しても何か言われるだろうが。…というか、エイトの身体に痕を残すことは可能なのだろうか。怪我の類をしない訳ではないというのは分かっているが、痕だったら程度としては軽いも軽いものだ、すぐに治ってしまう、と言われても驚かない。まあ、何にせよ、今はそんなことをしたら聞いてないだの何も言われてないだの言われそうだったし、それなりに順調に進んでいる親密な関係≠ノ自分の方から罅を入れよう、なんて思えなかった。
 しかし、順調に進んでいるとは言え、限界はあるもので。
「………なに」
思考の気配を感じたのか、睫毛が震えるのが見える。閉じられていた瞼が押し上げられて、彼らの好む金貨と似た色をした瞳に自分が映るのが見えた。
「…ちょっと、考え事をしていて」
「ふうん?」
「嫌じゃないんですか?」
「別に。スリーくんだって、考え事くらいするでしょ」
「そうではなく」
普通、キスをしている最中に別のことを考えられていたら少しは気に食わない、と思うものではないのだろうか。それとも、彼らから見たら人間なんていうのは本当に刹那のいきものであるから、目の前の自分に意識が割かれていなくともそこまで気にならないのだろうか。分からない、聞けば良いのかもしれないが、どうにも聞く気もわかなかったし。
「…聞かないんですか」
「何を? 考え事の内容?」
「はい」
「うーん…でも、スリーくんは必要だったら自分で言うんじゃないの?」
「………まあ、そうですけどね」
仕方ない、と思って居住まいを正す。仕事のはなしだろうか、なんて首を傾げたエイトのことはもう、そこまで慮らないことにした。いや、今まで慮っていたかと言うとそんなことはないように思えるが。
「エイトさん」
「なに?」
「舌入れたいんですけど」
「………は?」
「五秒待つので嫌だったら嫌とか待ってとか言ってください」
「えっ、ちょ、」
 頬に手を添えるのはいつものことだ、けれどもそれに力を込めたことはない。それはエイトが逃げないから、というのもあった、けれど。流石にこれは逃げられるかな、と思いながら目を瞑って五秒待つ。
「………」
「………」
「エイトさん」
「な、なに…」
「五秒経ちましたけど」
「………うん」
エイトが動いた気配はない。手は、そのまま。
「ほんとにしますけど」
「………」
 ゆっくり、目を開ける。
 目を閉じる前と変わらないエイトが、其処には座っていた。
「俺から、は」
困ったように視線が泳ぐ。その仕草を見て、あれ、と思った。
―――だって、
エイトが困るようなことが、此処にあるとは、思えなかった、のに。
「良いよ、って言えない、から」
「…そうでしたね」
返された言葉に信じられない気持ちを隠せず、声が震える。それを察したのだろう、視線が戻ってきて、スリーくん? と問うた。それに大丈夫です、と聞かれてもいないのに答えて、頬に手を添え直す。
「嫌になったら膝とか叩いて教えてください」
「………うん」
「ちゃんと守るので」
「そこは疑ってないよ」
それはもっと、疑っても良いと思うのだが。
 いきものとしての性質だとか、そういうものもあるだろうから、何も言葉にはしないことにした。
 ゆっくりと、唇を合わせる。いつものように数回触れて、それから静かに、空いた隙間から舌を挿し込んでいく。キスと同じで応えられるようなことはなかったけれど、それでも普段であれば触れることのない場所に触れている、と思ったら、途端に身体の奥で燻っていた熱が首を擡げるようで。口腔内をなぞる程度にしようと思っていたのに、唾液の味を追うように身体が傾く。舌を吸って、歯を立てて、唾液を飲み込んで。息すらも奪ってしまえと、興奮が駆け巡った。
「ん、ッ、」
エイトが後ろに反って逃げようとしたのを、すかさず追う。後頭部を捕まえて、空いている手で首に縋るようにして。
「…っんぅ、」
抗議でもするような声すらも、飲み込んで。もっと―――もっと、と。このまま、ベッドに沈んでしまいたいと、そんなことを思って。
「んんっ、」
膝が叩かれて、は、と我に返った。
 唇が離れて、エイトがすかさず距離を取って。
 さあ、と血の気の引く音がする。
「………嫌、でしたか」
「………」
げほ、と大きく喉が整えられるのを聞いていた。ここまでそれなりに上手くやっていたはずなのに、と思う。これでもう、終わりになってしまうのだろうか。いや、最初からいつかこんな日が来るのだろう、とは思っていたが。だからって、いっときの興奮に押し流されて、というのはあまりに後悔が浮かぶ。けれど、もうやってしまったものは仕方がない。そう思って、エイトの言葉を待っていたといのに。
「ねちっこい!!」
「え」
「な、なに、普通、もっとこう、もっとこうさあ!? 段階っていうか…ないの!?」
間抜けな声が出てしまったのも無理からぬことだと思う。まあ、エイトはエイトでそんな反応のことは気にしていられなかったようだったが。
「ええと…」
「なに、なんか言い訳でもあるの」
「…今までお預けされた分です」
「だ、からって…」
あんまりだよ! とまだ違和感があるのか、喉をさするエイトを眺める。だって、これでは、まるで―――よぎった思考にそんな都合の良すぎる、と思ったが、結局他の考えは浮かばなくて。
 エイトが落ち着くのを待つ。
 これは、これだけは。言葉にして問わなければ、と思った。
「あの、」
「なに」
「嫌じゃなかった、と捉えても?」
「………さっきみたいなのはやだ」
「それは…ええと、努力します」
心臓が。
 また、大きく跳ねる。
 まさか―――まさか! だって、こんなこと、予想してはいなかった。夢みたいに、思うことはあってもそれは夢であって、本当の本当に拒絶されないなんてこと、思ってもいなくて。
「妖精って、酸素とかで呼吸をしてるんじゃあないですよね」
「うん、まあ、そーだけどね。それで死んだりはしないけどね、苦しいは苦しいから」
「………すみません」
ともすれば涙がこぼれそうになるのを、ずくずくと際限を知らない欲で打ち消す。それもどうかと思う、と自分でも思ったが、きっとエイトは目の前で涙される方が困るだろう。そんな言い訳を身に纏って。
「ところで、」
「うん?」
もう一度、その頬に手を添える。…振り払われない、手を添える。
「休めましたよね?」
「え?」
「まだ足りないので」
「………」
黙ってしまったエイトが何を考えているかなんて、そう察しのよくない自分でも分かった。
「さっきみたいに苦しくはしません」
「ほんとに?」
「気をつけます」
「…ほんとに?」
「どれだけ信用ないんですか?」
「それくらい苦しかったんだよ」
「それは…本当にすみません………」
嫌、とは言われない。逃げられる、こともない。それでは少し不安になったから、せめて、と思って言葉を付け足した。
「…魔力、ちょっとなら持っていってもいいので」
「………スリーくんの魔力なんておやつにもならないよ」
馬鹿じゃないの、と言った唇を、塞ぐようにキスをする。
 今度は苦しくならないように、丁寧に、を心掛けた。
 決して応えてはくれない舌が、それでも自分と触れ合ってくれていることが、本当に泣き出したいくらいに嬉しかった。



作業BGM「君の望み、君の願い」CIEL



歩いたところが道になる


 兄が行き先を告げずに出掛けるようになって、どれくらい経つだろうか。まあ、追おうと思えばそう出来るものを、していないのだからそれに文句を言うようなことはしなかった。大抵そういう夜にはおしゃべりな隣人たちがやってきて、愚痴を言っていくことが増えたのだし、持て余すような暇がない、と言い換えることも出来た。
「もう! あの坊や、馬鹿なことばっかりするんだから!」
この反応がぷりぷり、なんてかわいらしいもので済んでいるように見えるのは、彼らがそうやって見せてくれている≠ゥらなのか、正直なところ、見分けはつかない。そうやって扱われていてもショックを受けるようなことはもうないだろうが。そもそも、もともとあったのか、と問われると微妙、としか返せないだろうし、あまり覚えてもいない昔のことを必死になって思い出そうとするほど、この人生に余裕はないように思えた。
「やっぱり、」
その美しい髪を梳いてやりながら、問う。
「きみたちにとって、スリーにいちゃんは嫌な存在?」
「そうね…嫌、というと語弊があるけれど」
「語弊?」
「嫌いなわけじゃないのよ! ただ、絶対に手を貸したくないだけ」
「でも、古い金貨とか、代価があるなら手を貸すでしょう?」
「それは代価がそのにおいを雪げるからよ」
におい、というものが。
 一体どういうものなのか、理解することはきっとない。ただ、彼らにとってどうしようもなく受け付けないものである、その事実しか、この胸に落ちるものはないのだ。
―――それが、
隔絶、というものだった。まったくもって違ういきものである、という隔絶。嘘のことだってそうだ、彼らがどうしてそこまでして嘘を嫌うのか、生態として知ってはいても其処に理解はないのだ。
「ねえ」
「なあに?」
「そういう相手を、好きになることって、あるのかな」
「愛する、ではなくて?」
「きみたちの愛って、俺たちのと少し違うでしょ。だから、好きになる=v
価値観の違う相手だからと言って、少し甘やかな言葉にしてしまったかな、と思った。好きになる、その言葉が出たのはジャックとの会話が最初、だった気がするけれど。
―――愛してあげる。
彼らがそうやって言うのを耳にしてきたからかもしれない、彼らにとって、愛≠ニいうものが人間のそれよりもずっと身近にあるものだと、それなりに理解していたから、かもしれない。だから、甘やかな言葉にしかなれなかった。彼らと価値観をすり合わせるには、そういう手段しか思いつかなかった。
「そうねえ…」
ぱちり、と。
 琥珀をそのままうずめたような瞳が瞬(しばたた)かれる。彼らの瞳は渇くことはないだろうから、きっとこれも人間に合わせた仕草なのだろう、と思うと、ひどく不思議に思えたけれど。
「あり得ない、と言い切りたいけれど。その、好きになる≠チて感覚がよく掴めないから、難しいわ。好きなものを愛するのは普通ではないの? 貴方が切り離して言う意味が、私には理解出来ないの」
「…そっか」
「人間にとっては違うの?」
「少なくとも俺にとっては違うよ」
だから聞いてみたんだ、と言えばそうよね、と返された。…何処か、突き放したような音。不理解は、ずっと此処にある。それを彼らからの嘲りと受け取るか、それとも単なる隔絶と受け取るか、それは自由に選んで良いのだと、それを教えてくれたひとを脳裏に思い描いて。
「じゃあエイトさんも、そうなのかな」
「どうかしらね」
「あれ、断言しないんだ」
「だって、あの坊やはまだ、人間と同じ程度にしか生きていないから…」
 ふう、と吐かれた息が憐れみに染まっていることに、今更怒ることもしない。
「本当は、このまま私たちの末の子が人間に染まるのは嫌なのよ」
「これからを生きるのに困るから?」
「そう!」
ぴ! とその小さな指が立てられる。この小さな指にも爪があって、それが黒く彩られているのを見ると、エイトも最初からああだったのだろうか、と思った。
―――人間の、
かたち。
 それを、エイトは最初から保っているけれど。それがもともとであるのか、取り替えの子《チェンジリング》としてこちらの世界に放り出されたときに作られたものなのか。流石にその辺りは踏み荒らしてはいけない箇所だと、この本能は知っているから。
「貴方の兄は、どうやっても國には入れない」
彼らにとって、人間なんて生き物は本当にはかないものだ。瞬きの刹那に消えてしまうもの。だから、憐れみが消えない。それは一度、理解してしまえばそう、気にならないものだった。その憐れみに一生付き合わされるのはこちらだけれど、それはある意味平等に齎されるものでもあったから。
「それは、どう足掻いてもあの子と共にあり続けることは出来ない、ということでもあるのよ」
だから、彼らが兄を拒絶しても、決して手を差し伸べなくても、何も思うことはしなかった。
「―――貴方と、違って」
「………國に入るつもりはないよ」
「そっちじゃないわよ」
しなかった―――のに。
 エイトはぐらぐらと、その境界線を彷徨うから。彼らの憂いが、想像出来なくもないな、と思うのだ。
「若芽にもならない魔法使い、私たちの迷い子。いつか貴方がその素敵な選択をするなら、私たちは歓迎するわ」
小さな指先がするり、と頬を滑っていく。親愛を示すキスは、いつものとおりだ。彼らにとってはいつものこと、人間が息をするようなもの。何も特別ではない、世界がそうやって出来ているだけのはなし。
「家族《ファミリア》になってあげてもよくってよ?」
「うーん、それは…保留かな」
「あら! 前向き!」
「ちょっとだけね」
魔法使い、というのがどうして長命であるのか、知るものはいないのだと言う。その理由を求めて彷徨うことを繰り返し、いつしか賢者となっていった…そういう話だって聞いている。
 ただ、一つ。
 今の自分にも分かることがあるとすれば。
「きみは、」
「なあに?」
「エイトさんとは昔からの知り合いなの?」
「そうねえ…」
魔法使いの道を選べば、少なからず見れなかったはずの未来を垣間見ることくらいは出来るだろう、ということだった。…当然、それと引き換えに、数多の生命を見送る、ということでもあったけれど。
「あの子が人間界に放り出されたときから見てるわ」
「いつも?」
「貴方の感覚ではいつもではないわね、きっと。私の感覚ではいつも、だけれど。風が一箇所に留まりたがらないのを貴方は知っているでしょう?」
「そうだね。…きみたちは、他のお隣さんより俺に寄った答えをくれるように思うけど、それも甘言?」
「さあ? それは貴方の受け取り方次第。私たちはあの子がするように、真似てからかっているだけよ」
かわいいものだから、というその言葉に悪辣さは見受けられない。真似てからかっている、と言ったくせに。人間が使う言葉と同じものを使っているはずなのに、その定義がどうしたって一致しない。
「どうして、見ていたの?」
「それは―――」
 ふふ、と美しい笑みが向けられる。
 その大きな瞳が、ぱちん、と片方だけ閉じられて。
「家族《ファミリア》になったときにでもまた、おはなししましょ? 家族のことは、家族にしか話したくないの」
「…そうだね」
その答え方に、思わず笑ってしまったのは仕方ないことだと思う。
「俺も、そうだもん」
「あら。なら、お揃いね」
 いつか、おはなし出来る日が来ると良いわね―――そんな言葉には、どうだろうね、とだけ返しておいた。



作業BGM「背景を断つ」初音ミク(BCNO)



お前の錠前はとうの昔にあいている


 キスを重ねて、息を交換するような真似事をして。それで満ちるものなら良かった。でも現実はそんな簡単には行かず、この頭にも心にもひどく強欲なものが居座っている。最初は嫌がられた少々乱暴なそれも、事前に言えばそこまで嫌がられなくなっても来ていたし。
―――これで、
期待をするな、なんて。残酷すぎる、とは思う。でも、本来なら自分はそんな残酷さを感じることだって出来なかったはずで、一体この関係が何処まで許されるものであるのか、エイトが同胞たちから拒絶されたり、怒りを買ったりすることがないのか、どうしたって自分には分からないから。
 言葉にしなくてはいけない、と思う。触れることが出来る、それだけで充分であるのだと。…でも、それを言うにはまだ、自分を騙し切れていなかった。今、そんなものを言葉にしても嘘にしかならない。それは、嫌だった。
 だから、言えない。
 エイトは人間ではないから。人間相手には使えるような、優しい嘘ですら意味を持たない。…意味を、持ったところで。それが使えるだろうか、というのはさておくとして。
 と。
 そんな考え事をしていたからだろうか。
「わ、」
「あ、」
体重のかけ方を見誤って、そのままエイトが後ろにひっくり返る。ベッドの真ん中辺りにいたのもあって、頭を何処かにぶつけるだとか、そういうことはなかったけれど。
「す、すみません」
キスは嫌がられていない、触れることだって、抜いてもらうことだって、まだ嫌がられることはない。ない、し、本当のところを言えば今だって勃っているけれど。
―――流石に、
この体勢はだめだろう、と思った。エイトが体勢くらいで抵抗が出来なくなるなんて思ってはいないが、やはりなんというか、逃げ場のなさ、が浮き彫りになるのだし。そんなものなくても、すべて吹っ飛ばしていけると知っているのに、どうしてか気になってしまうのだから仕方ない。
「今、退きます」
「スリーくん」
「は、はい」
「まって」
「分かってます、すぐに………え?」
ぱちり、と。
 自分のまばたきの音が聞こえた、気がした。腕の下には相変わらずエイトがいて、まっすぐに見上げられている。
 今。
 待って、と言われた、だろうか。この、体勢で? エイトの逃げ道を塞ぐような、ベッドに閉じ込めるような、そんな体勢であるのに? 混乱がぐるぐると頭を占めて、何か言わなくては、と思うのに何も言えない。
「………待って」
「えっ…と、このままで、ですか?」
「うん」
「ほ、んとうに?」
「うん」
僅かな頷きだって、目の奥に刺さるようだった。
 エイトの、方から。手を伸ばしてくることはしない。反射のように、止めるように、この手が掴まれることはあったけれど、それは彼らにとって差し伸べる≠ノならないからであって。
―――今、だって。
引き止められるようなことは、ない。退いてしまうのは簡単だった、何言ってるんですか、そんなふうに言いながら、この身を退いてしまえばこれまでと同じように満足していられた、のだと思う。でも―――でも、退けなかった。
 拗ねたような思考ばかり浮かんで来るのに、結局、この仕草がエイトにとっての引き止める、だとか、袖をつまんでみせるだとか、そういうものに該当してしまうのだと、痛いほどに分かっていたから。
「………」
何を言ったら良いのか分からなくて、そのまま待つ。注意していないと生唾を飲み込む音が伝わってしまいそうだった。感覚が、分からない。唾液が幾らでも溢れてくるような、でもその実喉が渇いているような。分からない、ただ、出来るのはエイトの出方を待つことくらいで。
 すう、と。
 その喉が息を吸うように上下する。
「…正直、」
「はい」
「気の所為、っていうか、勘違いなんじゃないかって、今でも思ってるよ」
「…はい」
「思い込んでるなら、それは嘘にならないから」
その理論は、分かる。彼らが嫌うのはあくまでも嘘≠ナあって、無知≠ナはない。それ故に事実と反することを言われたとしても、相当の潔癖でもない限り嘘#サ定にはならないのだと。そして、そんな相当な潔癖はもう、こんな人間にまみれた世界からは去って、緩やかにときを過ごしている、のだとも。…本当は、そんな知識は必要なかった。世界の理を表したような彼らの力を借りずともやっていけるように、魔術というのは発展してきた節もあるのだ。魔術師である自分は、そんなことを考えなくても良かった。存在を知っているくらいで充分だった。彼らの方から厭うてくるのであれば、特に。
 魔法使いの素質がある訳でもないのに。
 不必要な知識をかき集めていたのまではただの妄執だったと言えた。けれど、エイトとこう≠ネってからは。同じベッドで、まるで寝物語のように語られるそれらは。
 本当に妄執として片付けて良いのだろうか?
「スリーくん」
エイトの目が、まっすぐにこちらを見てくる。不安も怯えもない其処には、それでも言い訳の出来ない憐れみがあった。…誰に対する言い訳なのか、よく、分からなかったけれど。
「俺は、やっぱり、…スリーくんみたいな人間に、こうやって時間を費やして欲しくない」
エイトはそれが憐れみであることを隠さない、自らがそういうものであることを知っているから。どれだけ人間に近く生きていても、エイトはちゃんと、そういうことを忘れない。
「それでなくても、人間の時間は有限も有限だから」
ならば、自分、だろうか。
 誰か、他のものから見た視線で。
 この関係に言い訳≠ェ欲しい、と思っているのだろうか。
「だから、」
まっすぐな視線は変わらない。この視線に応えられるようなことを、今まで自分はしてきただろうか。どうせこの性質はどうしようも出来ないものなのだから、と、人間の一生など短いのだから、と。諦めてはいなかっただろうか。
「気が済むなら…それで、スリーくんの思い込みが解けるなら。それも、一つの手だと思う」
心臓、が。
 急に、熱を持ったように思えた。それと同時に、からから、と。唇から水分が消えていく心地もした。憐れみだろうが、代案のようなものだろうが、今、こうして手を伸ばす余地をもらって。それに手を伸ばさないでいられるほど、手を伸ばすのに理由を、言い訳を。探さないといけないほど―――悠長でいられる、だろうか?
 そんなに。
「…エイトさん、は、」
「うん」
「それで、こう…怒られたり、しないんですか」
「…まあ、文句は言われるかも」
「すごくえらいものの怒りを買ったり、だとかは?」
「………それは、別にスリーくんが原因じゃなくても起こるかもしれないことだし」
「そう、なんですか?」
「前に土地土地でボスがいる、って話したような気がするんだけど、」
「あ、はい。聞きました」
「そのボスが何に怒るかって、結局会ってみないと分からなかったりするし」
「…まあ、知らない人の地雷って分かりませんしね」
「そういうこと」
 自分は、欲のない人間だった、だろうか?
「…ま、こういうことしたら、しばらくは國に入れないとは思うけどね。俺はそこまで界(さかい)を利用して移動したりはしないし、そう困ることもないよ。ここのところ平穏ではあるし」
確かに、学院《カレッジ》に大々的にやり返してからは、表面上静かにはなっている。ここ最近の事件をもう一度思い返そうとして、結局、やめた。どれを並べてそれらしい理由が出来て、今≠断ったとして。後悔しない自分が、思い描けなかった。
「―――ボクは、」
 だから。
「強欲なので、」
せめても、と思って手を移動させる。触れて、持ち上げた手に抵抗はない。
「エイトさんがそんなふうに言っても、期待には添えないかもしれませんよ」
「きっと、気が済むよ」
「…そう、思っててくれても良いですけどね」
 その、くろぐろと染まった爪の先に一つ、キスを落として。
「前言撤回するなら今ですけど」
「…流石に、そんなことはしないよ」
スリーくんって普通に卑屈だよね、と言われたので、今更ですか? と返しておいた。



作業BGM「誰もいない絵で」ヰ世界情緒



この小さな翼でも


 長い手足が力を入れられることなく、だらん、と放り出されている。けれどもそれは、最初に見た光景とはまったく違っていて。
「………スリーくん?」
「あ、はい」
不審そうに呼びかけられて現実に戻ってくる。見惚れていた、なんて言ったらエイトはどんな顔をするのだろう。想像がつかなすぎる。だから、とりあえずばくばくとうるさい心臓の自己申告を先にすることにした。
「すみません、急に緊張してきて…」
「緊張?」
「だって、ずっと触りたかったものに触って良いって言われたようなものですよ。今、心臓すごい音立ててます」
「そうなの?」
 ゆるり、と。繋いでいない方の指先が持ち上がって。
 とん、とこの胸に触れた瞬間、世界から音が消えたような気がした。
「…ほんとだ」
「う、そじゃないか、なんて、触らなくても分かるじゃないですか…」
「それはそうだけど、やっぱり触れてみると本当だな〜って経験で分かるじゃん」
本当にこれから、何をするのか分かっているのだろうか。不安にすらなる。
―――こんな、
今までしてこなかった仕草を少しされただけで、もう、どうしようもないほどになっているのに。
「………お願いですから、」
「うん?」
「あんまり煽らないでください…」
「え………え?」
「エイトさんが思ってる以上に今ボク、爆発しそうなんですよ…」
彼らにとって、人間のするセックスなんてものが娯楽以上の意味を持たないのだとしても、貞操観念なんてものがそこまで重視されるものではないのだとしても。興奮するものは興奮するのだ、言い出したからにはそれくらい、念頭に置いておいて欲しい。
 言いたいことが分かったのか、分かっていないのか、うーん、とエイトが唸る。
「多少力任せでも、なんとかなるんじゃないの? 知らないけど」
なんてことを言うんだ、と思った。いや、確かにそうかもしれないけれど、そういうことじゃあないのだ。
「それはそうかもしれませんが、こう、それはこう、プライド的に嫌なんですよ。なんていうか…下手くそだとか独り善がりだとか、そういうレッテル貼られたくないので…」
「別にそんなことしないのに」
「ボクが気にするんです」
いろいろ言おうと思えば言えたはずだ、エイトさんだってするときは相手のことを慮るでしょう、だとか―――でも途中で、それは霧散した。下手だとか、独り善がりだとか、それは何かと比較しないと出て来ない感想だ。けれど、多分、これは多少の希望的観測も入っていたが―――エイトはそういうことを、しない。ただ、今は目の前にいる自分だけを見て、これからどうするか、を思って、くれた言葉だったはずだ。
「ボクが、」
 それに、ちゃんと答えないのは狡い、と思った。
「エイトさんを、大事に扱いたいんです」
「………そう?」
「だから、大事に扱わせてください」
「スリーくんが良いならそれで良いけど…」
面白いこと出来ないよ? なんて少しとぼけたことを言うエイトに、そんなことを望んでいるんじゃないので、と言うのは思っていたよりも、簡単なことだった。

 キスをして、少しずつ服を剥いでいって。触れていない場所なんてない、くらいに。丁寧、だったのかどうかはもう、よく分からなかったけれど。最初の、ただ事務的なだけの行為と比べたら、不思議そうな反応でもないよりずっと良かった。
「苦しく、ないですか」
「だいじょぶ」
「なら、良かった」
その目が自分を映していて、言葉をかけたら言葉を返してくれて。たったそれだけ、と言ったらそれだけだったし、人間のように単純な快楽が得られる訳でもないようだったし。独り善がり、というのはどうしようもなさそうだな、と思いながら膝をまるく、なぞってみる。くすぐったいよ、とだけ言うエイトは、さっきの言葉のとおり苦しそうには見えない。
「感想、とか聞いても?」
「感想…って言われても………」
時間をかけて挿入する自分に、何度かエイトは声をかけようとしたらしかったが、結局何も言われなかったな、と思い出す。多分、そんなに丁寧にしなくて良いだとか、そういうことを言おうとしてやめたのだろう、とは思う。
―――大事に、扱いたい。
それだって独り善がりなものだろうにな、と思いながらエイトが僅かに首を傾げるのを見ている。
「不思議な感じ?」
「そうですか…」
「というか、ほんとにはいるんだね?」
「そこは先人の知恵ってやつです」
「知識としてはあったけど、やっぱり人間のセックスってよく分かんないや。だってこれ、いろいろ準備とか、大変なんじゃないの?」
「大変でもしたいんですよ」
「そういうもの?」
「少なくともボクはそうです」
とは言っても。エイトの場合、そんな準備だとかが必要だった訳でもないのだけれど。肉を持たない故にある程度の融通が効く、というのは今の自分にとっては喜ばしいことでしかなかったが。
 そんなふうに、余裕そうですらあったから何も心配は要らないかと、でも流石にすぐに動くのは、と思って。髪を掬ったり、キスをしたり、馴染むのを待っていたら、徐々にエイトの様子が変わってきた。
「…エイトさん?」
「―――ぁ、」
くん、と喉が反らされる。なんだそれは、と思った。まるで―――気持ちがいい、みたいだ。
「…ッ、」
何かを訴えるように手が宙を掻く。それを反射のように捕まえたら、そのままぎゅう、と握られた。
「すりー、く、それ、ゃだ………っ」
「え? うん? どれ、ですか? 今全然動いてないんですけど」
「まりょ、く、はいっ…ぁ、や、やだ、っだめ、」
「え? あ、………ちょっと、まっててください」
「ぅ、あ、はゃ、く…ッ」
「………ちょっとだけ黙っててください」
「………ん、っ、んん、ぐ、」
仕方のないことだとは言え、理性を手繰り寄せて原因を探っている最中にあんな声を出されては逆効果だ。なんとか耐えた己を褒めたい。
 魔力が入って、と言っただろうか。あのときとは違うのだ、体内に蓄石擬きをぶち込むようなことはしなくて良い。だから、術式も何も組んでいない。…はず、だったのだが。
「エイトさん、もう少し待っててくださいね」
「ん、…っん、」
こくこく、と小さく首が振られる。それを見ながら、阻害の術式を呼び出す。
 うっすらと、だったけれど。
 魔力がエイトの方へと流れ出していた。このまま続けていたらものの一時間程度で文字通り精魂尽きた状態になれたことだろう。寧ろ、エイトの方がよく気付いたな、と思うほど。
「楽になりました?」
「ん………」
ほ、と息を吐かれるその様子に、自覚はないんだろうな、とだけ思う。
「吸われてるの全然気付きませんでした」
「なに、それ。俺がわるい、みたい…」
「原因はどっちかって言うとエイトさんの方にあると思いますよ」
「………え、?」
ぱち、とまばたきの音が聞こえた。それを見ながら、結構睫毛が長いんだよなあ、と改めて実感する。この近さで顔を見るのは初めてでもないのに、ずっと、知っていたことだろうに。
「まあ、妖精抱くんですから、それくらい考えておかなきゃいけなかった、っていうのはありますが…」
「なに、」
「元々そうなのか、それとも最初がそうだったからなのかは分かりませんが、今は多分確実に、エイトさんの中ではセックスは魔力吸う行為になってると思います」
「………ぇ」
「流れを、少し…遮断、まではしませんでしたけど…」
しかしこれで、最初のとき、エイトにまったくもって負担がなさそうだった理由が分かった。単に魔力が枯渇していたのが理由の大半だろうが、二割くらいはこれだってあったのだろう、と思う。
「でも、」
 人間相手であれば、遣りようは幾らでもあっただろうけれど。ただまぼろしのように内臓が配置されているだけのエイトに、どうやって気持ちよくなってもらうか、というのが目下の課題だったわけだが。これで解決してしまった。
「魔力いっぱい流した方が気持ちいいんでしょうね」
「…っンなこと、したら、」
「分かってます。だから、するときは準備をしてからにしましょう」
「じゅんび、なんて…」
「一回急場しのぎの蓄石でなんとかなってますし、ちゃんと準備したらいろいろ出来ますよ」
流石にもう、一ヶ月寝込むのは嫌だった。仕事にも影響が出るし、何より―――その一ヶ月、エイトには会えなくなってしまうから。自分が原因で寝込むことになったら、きっとエイトは会いに来てはくれない。それは罪悪感などではないだろうが、自分の言葉で相手が変わらないのであれば距離を取る方を選ぶだろうと、それくらいは分かっていた。分かっているつもりに、なっていたかった。
 どう答えたら良いのかと迷っているようなエイトに、とりえあえず動いてみても良いですか、と問う。
 あれだけ大事に、だとか何だとか言ったくせに、結局こうなってしまったら、何処まで我慢が続くか怪しかった。だから、とりあえずちゃんと理性を掴んでいられる間に、事を進めてしまいたかった。

 は、は、と上がっていく息を、喰らい尽くしてしまえたら、と思う。キスをして、手を握って。とろ、と何処か蕩けるような色を湛えた瞳に、持っていかれそうになる理性をなんとか引き止めて。
―――こんなふうになるなんて、
予想していなかった。拗ねたような思考が、楽天的に考えられなかった弊害が、まさかこんな形で立ちはだかるなんて誰が思うだろう。
 どうしようも、ないものだ。
 そう思っていたし、それは間違いではないはずだ。この身に蔓延るにおいというものは洗って消せるようなものではないし、そうやって生まれついたのだと、折り合いをつけていくしかない。そう、折り合いは必要だった。それは間違いない。けれど、恐らく―――折り合い以上の卑屈さが、この胸の中にはずっと、居座っていて。
「は、………ぁ、っ」
「エイトさん、」
「な、に、…すり、…く、」
「もう出そうです」
「…ん、」
言葉遊びのようなもの、でも。
 相手の、エイトの意志が伴うセックスなんて、出来ないと諦めていた―――つもり、だった。あれはたった一度だけの奇跡だったのだと、そう、自分に言い聞かせるくらいなら、親密≠ネんて目指さなければ良かったのだ。あの日、何があったのかぶちまけてしまったあの日、それかエイトに視線がうるさいと指摘された日でも良い、頼み込んででも忘れさせてもらえば良かった。それが出来なかったのは、結局その先を夢見ていたからで、諦めきれなかったからで。なのに、卑屈な思考でそれを埋め立てて、エイトがどうやって向き合ってくれるか、なんて考えもしないで。
―――どうせ、
忘れられてしまうものだと思ったのもある。エイトの生はこれから先も、永くながく続いていくのだから、その中で最初に妙なことを言ってきた人間のことなんて忘れてしまうのだろう、と。
 エイトだって。
 ちゃんと、今を生きているのに。それを蔑ろにしていた。それなのに、どうしてエイトはこんなことを許してくれたのだろう、それとも、蔑ろにしているのが分かっていたからこそ、なのだろうか。
「ッ、」
慣れ親しんだ吐精感がせり上がって、そのままエイトを抱き締める。ぎゅう、と音が出そうなほどに、強く。絶対にこのときだけは離れていかないで欲しい、とそんなことを思いながら。
「は、ぁ………っ」
「―――………、」
びく、と余韻に浸るように膝が揺れる。唾液ではおやつにもならないと言われたが、流石に精液ならおやつ程度にはなるらしい。まあ、これは自分だからある程度上乗せが出来るものであって、他人がエイトに同じようにしたところでこう≠ヘならないだろうが。
 幾らか腰をこすりつけるようにして、すべて、中で出し切って。それからそうっと腰を引く。その感覚にか、また膝が揺れたのになんとか理性をかき集め、エイトさん、と呼んだ。
 ゆっくり、と。
 閉じられていた瞼が押し上げられる。さっきまで開いていたのに、抱き締めたのが痛かったのだろうか、なんて思いながら未だ蕩けた色を載せる頬を撫でる。
「…気は、済んだ?」
「全然」
「………え?」
というか、そういう話からこうなったのだったな、と今思い出したくらいだ。あの言い方からして、エイトは本気で次≠ネんてないだろうと思っていたのだろう。なら、今はまず、自分の要望を伝えることが先決だろうか。
「またしたいです」
「えっ?」
手を伸ばす、ことはもう怖くはなかった。
「エイトさん」
寝転がったままのエイトの横に身体を滑り込ませて、さっきみたいに強くならないように気をつけながら抱き締める。エイトはまだ驚いているのか、されるがままだ。まあ、でも今までの反応を見るに今更嫌がられるようなことはない気もしたが。
「ちゃんと準備もしますから」
「………え? あ、いや!? そういうことは…っ」
「ボクがしたいのでします」
「いや、あのさあ!」
「準備したら寝込むことはないと思うので」
「そ、ういうことじゃあなくてね!?」
 すり、と首筋に顔を埋めるようにしたら、いよいよもって動揺が伝わってきた。
「というか、貴方相手でも一ヶ月で済んだの、すごいと思いません?」
「………思う」
「なら、信じてください」
特別何かにおいがすることもないし、汗だとかそういうものだって彼らにとったら無縁のものだろうけれど。
「………やだ」
「どうして?」
行為の名残が、其処にはあるような気がして。
「………絶対なんて、ないから」
その、言葉には。絶対≠押し付けてくるがわにしか立てないエイトが、それを言うのか、とも思ってしまったけれど。
 ぐっとこらえて次の言葉を探す。
「…今日程度だったら、嫌じゃないですか?」
「………まあ、うん」
「なら、また≠ェあっても怒りませんか?」
「………」
しばらく、悩んでいるような間が、あって。
「………時間とか、場所とかに、よる…」
「仕事のない夜に、またこうやって。美味しいご飯を食べて、良い部屋で、とかは?」
「…美味しいご飯と良い部屋、のところ削ったらすごく怒るから」
「分かりました」
 貴方を怒らせないように努力します、とキスをしたら、やっぱりスリーくん怖い、と言われた。



作業BGM「アブセンティー」flower(晴いちばん)



りんりんと、幸福の音がする


 この関係をどう呼べば良いのだろうな、と思うことは、ある。
 付き合っている、と言えば嘘になるし、嘘は彼らの最も嫌うものだ。率先して使おうとは思わない、それに、別に自分が嘘を吐くのが好きな方、だとは思わなかったし。では、セックスフレンド、というのがいちばん近いのだろうか。しかし、それにしてはこちらがわからだけ、とは言え感情が伴っているし、というか伴いすぎているし、そもそもエイトだって仕事以外では最近は遊んでもいないようだったし。難しいな、とだけ思う。彼らのよく使う言葉を借りるのであれば番≠セとかでも良かったのかもしれないが、自分で使う言葉として置いてみると、やはり、時間が少なすぎるように思うのだ。
―――もっと、
そんなことを思う。
 もっと、生きる時間が永いものであったなら。
 その言葉を受け容れることが出来ていただろうか。…どうせ、この関係に名前があったところで不安はつきまとうのに。そんな思考を打ち消して、いつものように大丈夫ですか、と声をかけようとして。
「…エイトさん」
「ん、なに」
「勃ってる」
「………へ?」
間の抜けたような声と共に、エイトが飛び起きる。それを慌てて支えるようにしたら、勢いで額同士が当たった。
「い、痛い…」
「すみません…。でもボクも痛いので…」
「うん…こっちこそごめん…」
痛みを誤魔化すためか、まばたきの多くなったエイトを眺めながらこれは触れて良いものなのだろうか、と思案する。聞いてみれば良いのだろうけれど、とりあえずはエイトの反応を待つことにした。
 エイトは額をさすりながら視線を自らのものに投げて、それからあれ…? と呟く。
「え? いつもは、意識しないとならないのに…?」
どうやら、意識外の反応らしい。その言い方に聞いたことがなかったな、と思い出して問うてみることにした。
「そういえばエイトさん、射精ってするんですか」
「それっぽいことは出来るけど…」
「精液が出るわけじゃあないってことです?」
「うん、まあ、魔力がそれっぽくなるだけ」
つまり、今、此処にたまっているのは魔力、ということになる。いろんな推論が頭の中を駆け巡ってから―――そのすべてがとりあえずの好奇心に負けた。
「エイトさん」
「なに?」
「咥えて良いですか?」
「………は?」
 ぱち、ぱち、と。
 まばたきの音がする。睫毛が長いからそう聞こえるだけだ、とは分かっているのだけれど。
「な、なんで?」
「せっかく勃ってるので…?」
「せっかく≠ナ!?」
「嫌なら、まあ、やめますけど」
「う」
「嫌じゃないならしたいです」
説得するつもりなら、もしかしたら魔力を還元させることが出来るかもしれないから、だとか。いろいろ言えることはあったはずなのだけれど。人間と似たような反応をしてみせたエイトを見て、同じように気持ちよくさせることが出来るのでは、という希望を試さないでいることは出来なかった。
「ほ、ほんとにするの?」
「だから、嫌ならやめますって」
「………そうじゃ、」
ないけど、という言葉は飲み込まれたらしかった。慌てて口元を押さえたのを見るに、舐められるのはそこまで嫌ではないらしい。
「ぅ、」
「感覚って人間に近いんですか?」
「し、らないよ、そんなの…!」
「…それもそうですね。こういうの、どうですか?」
「あ、…っ、」
「大丈夫そうですね」
 当然、やるのなんて初めてだったけれど。女性にしてもらったことはあるし、何が気持ちいいのか、くらいは覚えている。このままの体勢だとやりにくいから、と腰を掴んでベッドの端の方へと引っ張ったら、思っていたより簡単に移動してくれた。
「そういえば女性とはどうしてたんです」
「…相手の思考を幾らか読んで、最適な動きしてたけど」
「なるほど」
「あっ、全部読んでた訳じゃないからね!? 流石に娯楽でそこまでやったら、こう、悪いかなって思う気持ちは…」
「別に責めてませんよ」
「でも今、なんか考え事してるみたいな顔したじゃん」
ほんとにするの? と尚も聞いてくるエイトに、これ以上聞くな、という意味も含めてまた舌を這わせてやると、意図は伝わったのか黙られる。
「…エイトさんは、」
意外と抵抗がないものだな、というのは自分とエイト、双方に思ったものだった。気持ちのいいところが人間と同じなのか、ゆっくり確かめるようにするそれの、主導権が自分にあることが分かっている、からかもしれなかった、けれど。
「ボクの思考は読まないんだな、と思っただけです」
「…え?」
「読んで欲しいわけじゃあないですよ」
「うん…?」
 やり場がなくなったのか、宙に浮いている手はそのままにすることにする。もっと余裕があれば頭に添えさせるだとか、いろいろとあったかもしれないが、そんな余裕はなかったのだし。
「貴方にとって、これは仕事でも娯楽でもないんだ、というのを改めて感じて、こう…ちょっと優越感を抱きました」
「………そう…?」
「まあ、理解はしなくても良いです。ボクの感情なので」
あ、と口を開けてみる。入りきるかどうか微妙だったが、まあどうにかなるだろう、とそのまま言葉を待たずに咥えてみせた。
「ぅ、」
「ひやれす?」
「何言ってるか、分かんないって…!」
「ひやははいはらひいんえすへど」
「だからっ、分かんないってば…!」
見ていられない、というように目がつぶられてしまったが、別に嫌ではないようだ。…吸って、舐めて、頬の内側にこすりつけて。流石に喉の方へと導くのは怒られそうで、今日のところはやめておく。
「………ふ、…っ」
それに、少しの動きでも腰が揺れるから、これ以上するのは後々の楽しみを奪うことのようにも感じた。
「………ッ、あ、」
 逃げるように腰が引かれたのを、片手で捕まえて。
「すり、く………っ」
それ以上離れていかないようにしてから、ぐり、と舌先で先端を抉るように刺激する。
「、ぁ―――、」
人間と同じように、と言うべきか、それともしっかり真似られて、というべきか。一度こらえるように息が詰まってから、促されるように吐き出される。同時に口の中に何かが広がって、勿体なかったのでそのまま飲み込んだ。
 ごくん、と。
 喉の音で我に返ったのだろう、エイトが目を見開く。
「な、うわ、の………いや大丈夫!?」
「別に初めてでもないでしょう」
「そ、れはそうだけど! 今みたいにコントロール真面にしてないことないから!!」
「………へえ」
言っていたとおり精液ではないんだな、と思いながら残りを掃除するように吸い上げる。そこまでしなくても! と半ば悲鳴のような声を上げるエイトの手がどうして良いのか迷っているのを良いことに、そのまま続けた。やりたいからやったのだから、別に、エイトにそんな声を出される謂れはないのだが。
「あー…どうしよう」
もう良いだろう、と思って顔を上げると、エイトは不安そうな顔をしていた。まあ、さっきもコントロールがどうのと言っていたし、さっさと説明してしまった方が良いだろう。
「何が?」
「クセになりそうです、これ」
「は?」
「多分なんですけど、セックスでエイトさんが吸ったボクの魔力が圧縮されてついでに色つけられた感じだと思うので…気力も体力も戻ってきましたし、これ、上手くいけば一晩中してられます」
「………」
「ていうかエイトさんが言ってたとおり精液ではないですし、なんていうか、飲みやすいです」
「………」
「美味しいって思うのは、やっぱりある程度魔力が抜けてるからだと思いますけど…あ、いえ、本当に味があるとかではないですし、こう、消化されるようなものでもないと思うんですが。喉抜けたらすぐに吸収されてるんですかね? これ。詳しいことはわかりませんが…えーと、はい、そうですね、やっぱり一晩中してられそうです」
エイトが何も言わなくなってしまったので、とりあえず今一番重要なことを繰り返してみたのだけれど。
「…エイトさん?」
「………ああ、うん、聞いてた。体調とか、大丈夫なの」
「今のところ。大丈夫どころかみなぎってるって感じなので、一晩中出来そうですけど」
「なんでそれ繰り返すの」
「なんでって、一晩中してたいな、とは思ったことがあるので…?」
「………」
再び、しばらくの沈黙が流れて。
「一晩中は、むり…」
恐ろしいことを聞いてしまった、とばかりのその返答にそうですか、と返してから、とりあえず、もう一回だけは良いですか? と訊ねた。
 断られはしないだろうとは思っていても、やっぱり訊ねるのには勇気が要った。



作業BGM「わたしのアール」ましろ(くらげP)



星の夢をぼくらは見ている


 自分が強欲な人間だと、分かってはいたはずだけれども。
 流石に此処までとは思わなかった、というのが正直なところだった。エイトとの関係に名前がつかないまま、触れ合ったりセックスをしたり、そういう時間が増えて。変化した部分、というのが分かるような、そんな余裕が出て来たからかもしれなかった。最初の頃はほとんど反応がなかったエイトも、慣れてきたのか、それとも感化でもされたのか―――キスをしたときの反応も少しずつ変わってきていた。意識的に応えてくれるようなことはないけれど、無意識で舌が浮くようなことはよく、あって。だけれどもそれを指摘したらきっとエイトは直してしまうだろうから、何も言わずにいたけれど。
「う、ぁ、」
「嫌ですか?」
「嫌じゃ、ないけど…」
落ち着かない、という言葉には、そうだろうな、と思った。
 今日はいつもと違う体勢でしてみたいんですけど―――思いつきのように言ってみせたその言葉は拒絶されることなく、今、エイトは枕に顔を押し付けている。腰だけを上げたその状態は、不安定と言ったら不安定だろう。それに、特にこちらから腰を支えるようなことはしていないのだし、体勢を維持しているのはエイトだ。時折力が散逸するのか、ゆら、と腰が揺れるのが自分で言い出しておいてなんだけれど、目に毒だ。
「なんか…」
「はい」
「腰のあたりが、そわそわ、する」
指をそっと入れて、ゆっくりと掻き回して。この作業が必要なのか、と今も思っているのだろう、というか、言われたことも何度かあるのだし。確かにこんなことをしなくても、エイトの身体は傷付かないのかもしれなかった。でもやっぱり、こちらとしてはワンセットと思っている部分もあるので、やりたい、というのが本音だ。
「そのそわそわが、気持ちいい、だったら良いんですけどね」
「気持ち、いい…?」
「エイトさんが魔力吸ってるときみたいな」
「いや、それは言われなくても分かるけど…」
分かってはいるけれど、理解はしていない。最初から分かっている、言い聞かせるまでもない。ならばやっぱり、こうして底意地の悪い心地になるのは、強欲だから、という言葉で片付けて良いはずだ。
 すり、と。
 もう準備の出来たそこに、自身を擦り付ける。でも、それだけにした。あとは挿れるだけなのに、もう今すぐにでも挿れたいのに、ぎりぎりと音を立てる理性をそのまま掴んで。
「すりー、くん?」
「なんですか?」
「それ、俺の台詞…」
じりじりと動かすと、無意識なのだろう、それを追うようにまた、腰が揺れる。そんな訳がないのに。こんなのは三つの点を見て人の顔だ、と言っているようなものだ。本当にそうである訳ではない、ただ、偶然のものがそうやって見えるだけのこと。
「ど、したの」
うつ伏せではこちらを見上げることも難しいだろうに、エイトはそれでも首をゆるり、と回してこちらを見遣る。もともと肉を纏っていない、というのもあるけれど、ある程度の柔軟性があるのだよな、と思った。人間では無理な体勢、とまでは言わないが、人間であれば痛みだとかを感じていてもおかしくないのではないか。そんな感想を抱きながらも、やわらかいんですね、なんて言葉で打ち消したりせず、エイトの言葉を待つことにした。
「体調とか、悪いなら…別に、今日じゃ、なくても」
「…体調は悪くないですよ」
「なら、気分が、乗らない?」
「乗らなかったら先に言ってます」
「………そう?」
「はい」
 期待を、していた訳ではない、ない、はずだった。だけれども、この状況で本当にそうだと断言出来るのだろうか。言葉にしてみて、その真贋を判定してもらうことは簡単だったけれど、そこまでするべきものだろうか、と思ってため息を吐く。
「あー…もう、」
「なに…」
「そわそわ、まだしてますか」
「する、けど…」
何処かいつもより細く聞こえる声に、じわり、と腹の底からまた、意地の悪さが湧き出てくるような気がして、頭を振る。もう、こんな無駄な思考は追い出してしまうべきだった。
「………なら、いいか」
「………?」
分かっていないエイトの腰を掴んで、そのまま一気に挿入する。流石にそれには反応せざるを得なかったのか、びくり、と腰が逃げるようにのたうった。それを留めるように上から抑えて、奥をぐりぐりと刺激する。
「…っ、あ、ぅ、…なに…っ?」
「………は、きもちいい…」
「ぅ、あ、…ッすり、く、ぁ、」
「エイトさん」
「な、に…なに、これっ、あっあ、ぅ、んんっ」
「魔力欲しくて、いつもよりきゅうってなってるの、分かりますか?」
「ぇ、っ? ぁ、…ッひ、あ、…っ」
「おなか、きゅんってなってません?」
「なに、な、…ぁ、なっ、て…る、なに、」
いつもと違う感覚に戸惑ったのか、枕がぎゅう、と抱き締められるのが見えた。それを見て、自分は絶対にああはされないのだろうな、と胸にささくれだったものが集まってくる。
―――そんなこと、
分かっていたはずだった、分かっていた、でも心というものは何処までも強欲で、とどまることを知らなくて。
 嘘を吐かないことと事実を語らないことは違う。
 そんな言葉を思い出す。それは魔法というものと付き合う人間に対してよく口にされる言葉であって、その上滑りする正直さのようなものを嘲る言葉、だったはずだけれど。使ったことはない、魔法というのはすぐそばにあったから、たとえそれに拒絶されていてもそんなふうに嘲ることをするつもりはなかった。でも、正直なところ、そう言いたくなる気持ちは理解していたのだ。
 でも、と思う。
 それは、どうしたって必要なものなのだ、と。身を以て知ることになるなんて。
 セックスというもので魔力を得られると覚えてしまった身体が、エイトの意識の外で喚いているようだった。もっと―――もっと、と。それがエイトの声であったら、と思う。摂理だとかそういうもので説明出来てしまうものではなく、もっと単純に、エイトがそうして欲しいからであったら、と。
―――でも、
流石に、それは高望みだ。
 撚たような思考はやめよう、と反省はしたけれど、やっぱりそのラインは間違ってはいけない。それを間違えば、きっと取り返しがつかないくらいにエイトを傷付けるだろうから。
「エイトさんにおねだりされてるみたいで、悪くないです」
「っ、ふ、ぅ…、ぁっ、」
「腰、揺れてる…」
「ぁ、あぅ、すり、く、だめ、」
「大丈夫です、魔力の制御、ちゃんとしてますから」
「ぅ、あ、…な、なら、…だ、めじゃ、ない…?」
「だめじゃないですよ、だから、好きなだけ吸ってください」
一定以上魔力が抜けたら、ちゃんとアラートが鳴るような術式を組んである。だから、本当に心配は要らなかった。
「…っ、あ、んんっ、すりー、く、」
「エイトさん」
「………な、にっ」
「気持ちいいですか?」
「…う、っん、…」
とろ、と。
 星の灯りを溶かしたような瞳が、スリーを見上げてくる。
「きも、ちい…」
「………なら、良かった」
―――あれだけ、
考えていたのに。
 結局この一言で今日は良いか、と思えてしまうのだから、多分、もうしばらくは今のままで良いのだろう。



作業BGM「お茶ガール」初音ミク(清水コウ)



明日、貴方が泣かないように


 卑屈と優越を、冷静と満足を、行ったり来たりして。そんなふうにときを重ねていくのがそう、苦しくなくなるまで時間がかからなかったように思える。今までの自分の思考からは考えつかないほど何処か浮ついたそれは、きっと、エイトがそういうことを感じさせる暇もないほど応えてくれるから、というのもあるのだろうが。
―――他の、ものだったら。
こんなふうに思うことが出来ただろうか。
 そんな余裕すら掬い上げることが出来るのは、エイトだったからではないのか。キスをしながら、喉から上がる掠れた音を拾って、それから静かに手を伸ばす。
「ぁ、…な、に」
根本を抑えるようにして、それで留まってくれるのか分からなかったけれど。大体人間と同じつくりをしているのだ、これも効くだろう、と思った。
「このままだと出ちゃいそうだったので」
「ぅ、ん?」
「せっかくなので飲みたいですし、我慢しててください」
「ぇ、あ、うん…」
そういえば飲むことについては何も言われなくなったな、と思い出す。もっと何か言われるかと思っていたが、単純に魔力が循環しているのだと判断したのだろうか。嫌がられることもなかったし。まあ、こちらとしては気持ちがいいことは増えてくれたら良い、と思っているのもあるし、あまり触れない方が良いか、とそのままにしていた。これで嫌がっても良いのだと思われでもしたらたまらない。
「ぁ―――、」
「エイトさん」
「ひ、ぁ、なに、あっ、ぁ、………ッ」
「いつもより、締めてきて気持ちいい…」
「ふ、ぁ…っ、あ、ぅ、んっ…」
 留められた魔力が快楽となって身体をめぐるのか、その仕組みはよく分からなかった。でも、気持ちがいいのなら分からずとも良いかな、と思う。これが放っておくと爆発する、だとかなら考えなくてはいけないだろうが、そういう訳でもなさそうだったし。
「このまま中に出しますね」
「ん、ンッ、ぁ、」
足が、震えて。
 まるで引き寄せるように、腰の辺りに傾けられる。それだけでひどく興奮してやまないのに、万が一にも絡められるようなことがあったら、どうなってしまうのだろうな、なんて他人事のように思う。
「ん………」
「ぅ、…ふ、ぅ………っ」
いつものように出し切ってから、少々乱暴なくらいに引き抜く。それで起こった震えは今は無視して、抑えていた指を解いて飛びつくようにして口の中へと引き込んだ。
「ひゃ、ッ」
「ひもひいれふか?」
「ぇ、あ、あぅ、んんっ、あ、」
留められていたからか、少しの刺激でも腰が浮くようだった。それを押さえつけて、せっつくように吸ってやる。
「ぁ―――、」
 いつもよりも早く出されたそれをきれいに飲みきっても、何も言われなかった。何を言える状態ではないのかもしれなかったけれど。
「ん………」
くた、とベッドに身を投げ出す、そんな姿はもう数え切れないほど見てきたはずなのに。
「なに、? ァ、…っ、すり、く…」
 力の入らないままの足をまた持ち上げて、充てがって。
「―――っ」
何を聞くよりも先に再び埋めて、揺すぶる。ぐずぐずになったなかが歓喜するように震えて、その感覚から逃げるようにか、エイトが首を振った。
「ぁ、まっ………」
「………ふふ、」
「ん、っあ、さっき、おわっ、た、のに、」
「エイトさんの飲んだらもう一回したくなったので」
「だ、からっ、て…」
文句を言いたそうにむずがる唇に、キスを落とす。それを数回繰り返せば、ゆるり、と口の端が緩んだ。
「あと、一回だけ、」
「ぅ、あ、」
そこから舌をさしいれて、機嫌を取るように上顎をこする。此処が好きなことくらい、流石に分かっていた。舌が行き場を失ったように浮くのを追って、甘く噛んだりするのを繰り返して。
「…さっき、出したのが、」
 エイトの瞳から、文句の色が消えたのを確認する。快楽に屈した、というよりかは諦められた、という方が近いのは分かっていたけれど。
「中でぐちゃぐちゃ言ってるの、聞こえます?」
「―――」
それでも、快楽を拾ってくれているのは確かなはずだったから。
「吸収するまで、ちょっとタイムラグあるんですね」
「なに、…っいつもは、そんなこと、言わないっ…のに、」
「今日は言いたくなったんです」
「………へん、なの…ッ」
「でも、時々は変なのも悪くないでしょう?」
「………うん」
変だけどね、と繰り返すエイトに変でも気持ちいいでしょう、と重ねながら行為を続ける。
 あと一回だけ、と言ったのだからそれを違えるつもりはなかったが。
 一回で気が済むだろうか、とは正直、思った。



作業BGM「迷子」上野優華



天を仰ぎ見るのはいつだって人間の仕草だ


 窓がそっと開いたとき、そこから入ってくるんだな、と思った。まあ、兄のことを考えれば合鍵を渡すだとか、そういうことには気が回らないんじゃないか、というのは想像に難くなかったけれど。それに、エイトだってそういうものを欲しがったりはしないだろうし。鍵がなくて困るようなときが来たら、それは魔法で開けてしまえば良い、という話で。
「いらっしゃい」
そんなことを思いながら、片手を上げてみせる。
「………おー…」
「俺がいないと思ってた?」
「出掛けるって聞いてた」
「出掛けて戻ってきたんだよ。そんなに長い用事じゃなかったし。まあ、スリーにいちゃんが勘違いしてるの放置したのは俺だけど」
そんな会話をしながら、エイトが抱えている兄を見遣る。すうすう、と寝息を立てているところを見るにそう大ごとではないのだろう。
 しかし、と思う。
 エイトがこうやって、両腕で兄を抱えるとは思わなかった。流石に顔に出したりはしないが、正直驚いた。言葉に当て嵌めづらい関係が始まってから、エイトがそれなりに兄を気にかけていることは分かっていたが、こうして大切なものを扱うような手つきを見ると、やっぱり新鮮に驚くものだ。まあ、エイトからしたらそんなつもりはないのだろうが。
「どうだった?」
「どうって、何が」
「そっち寄りのセックスしたんでしょ?」
「………いや、」
「スリーにいちゃんすぐ顔に出るもん。あといつもはしない清めの儀式めちゃくちゃやってたし。そういうことなんだろうなって」
正直、清めの儀式なんかでどうにかなるのであれば、こんないろいろと手探りも手探りになっていないように思えるが。未だに隣人たちからの愚痴はやまないし、あとからの努力でどうにかなるような問題ではないと、分かっているだろうに。
 それでも―――少し、でも。負担が減るなら、と思ったのか。正直、それなりに努力をする兄の姿は、意味がないと分かっていてもエイトへの愛だとかを保証しているような気がして、そこまで嫌いなわけではないのだけれど。
 流石に、それをエイトに言える訳もないから。
 いつまでも窓にいさせる訳にもいかないので、どうぞ、と言う。どうも、と言ってエイトが音も立てず入ってきたのを見ながら、別に招かれなくても入れるくせにな、と思った。
 どうして、エイトが古のしきたりのようなものを守るのかは分からない。そもそも、招かなければ入って来れないなんて妖ものの類であって、精霊や妖精なんかは好き勝手に入ってくるものだ。エイトは後者で間違いないのに、どうして気にするのか。その理由は、なんとなく、想像がついていたけれど。
 さて、と思う。
「どうだった?」
「………もうスリーくんとは絶対しない。金貨積まれてもしない」
答えてくれるらしい。兄の行動で筒抜けだったことを悟ったのか、黙っていても無駄だと察したのか。まあ、別に何も答えないでいてくれてもそれはエイトの自由ではあったのだけれど。
「だめだったんだ」
「ていうか、この昏倒して動かないの見たら分かるだろ」
「幸せそうな顔してるから、スリーにいちゃんは満足したのかなって」
幸せそうな顔、と呟いたエイトの表情は優れない。
 とりあえずソファに転がしといてよ、と言ったらそれで良いのか、という顔をされた。でも、それは言葉にされることなく言葉どおりにソファに転がされる。…その、行動だって。ひどく丁寧なものだったから、とりあえずは上手くいっているのだろうな、なんて思った。
「そっちのセックス…交わり、って言った方が良い? …って、どんななの?」
「どんな、って」
用は終わった、とばかりに窓へと戻っていったエイトを、引き止めるように聞く。
「聞かれたくないことなら別に良いけど」
「あー…そういう訳じゃないけど」
「説明しづらいやつ?」
「まあ、うん。結構感覚的にやるやつだから」
どう言ったら良いのかな、と頬が掻かれる。
「こう…相手と、自分で一つの美しいすがた≠作る儀式、みたいな…」
「在るがまま、だっけ?」
「そう。調律が取れてる、そういう状態をふたり、で作る」
「なんか聞いてるだけだと大変そう」
「俺たちにとってはそう大変なことでもないの!」
「人間相手だと大変なんだ?」
 僅かに。
 その瞼が震えたのが見えた、気がした。
「いや、多分、大変じゃないことの方が多いんじゃないかな…」
「スリーにいちゃんだからだめってこと?」
「………多分」
やったことないから多分だけど、そんなに間違ってないと思う。そうやって言うエイトはやっぱり、兄がこうして追い縋るまで、人間相手にどうこう、なんて考えたことはなかったのだろうな、と思う。彼らの場合、恋をする、という段階を飛ばして愛する、まで一飛びであることが多いように思えるし、そもそもその愛≠セって人間のそれとは大分違う。エイトは違うようだったけれど、愛して与えて、その代わりに生命のエネルギーを持っていく、そういうものだって少なくはない。それを悪、と断ずることは出来なかった。そういうもの、として生まれた彼らには彼らの愛があって、それがただ、人間が思うものとは一致しないというだけのこと。
「それは…お疲れ様?」
「別に疲れてはないけどね」
はあ、とエイトがため息を吐く。それはもうこの話は終わり、とでも言いたげな音をしている。
「…お前からもきつく言っておいて」
「スリーにいちゃんが俺の言うこと聞くわけないじゃん」
「少しはこたえるだろ」
まあ、確かに少しくらいは効き目はあるかもしれないが。それには言い方を考えないといけないし、やはり兄のこの報われない恋のことを応援したい気持ちもあったし。
 だから、問う。
「エイトさんはこたえて欲しいの?」
「うん」
思ったよりも答えは簡素なものだった。
「…そんなに嫌だった?」
「………」
視線が、こちらに向けられることはない。じっ、と。何処でもない場所に向けられる視線は、硬いものでも厳しいものでもなかったけれど。
「全部じゃないけど、」
 何か、言葉にならないものが含まれているのは、流石に分かったから。
「嫌だった」
「…そっか」
その言い方で、なんとなく察せた気がした。だから、それ以上追求することをやめて聞いた方が良いだろうことを聞いておくことにする。
「ていうかこれ、いつ起きるの?」
「分かんない」
「え」
「だから、起きたらきつく言っておいて」
言い逃げするつもりはないのか、エイトは未だ窓辺に留まってくれていた。
「これ、どういう状態?」
「…調律の感覚に…多分、ついていけなくて、回路が自己防衛で閉じた…んだと思う」
「気持ちよすぎて失神したってこと?」
「身も蓋もない言い方しないで」
「でもそういうことでしょ?」
そういうことかもしんないけど、と呟いたエイトが、誤魔化すように普通に休ませてれば問題はないはずだから、と付け足す。蓄石だとかでどうにかなる分野の話じゃないから、アレだったら点滴とか打って単純に身体の方の回復をさせて、と。それを全部聞き遂げて、うん、分かった、と返してから。
「エイトさん」
 呼ぶ。
「何」
「聞くか分かんないけど、言うだけ言ってみるよ」
「そうして」
ふっ、と。
 窓から落下するように姿を消したエイトは、あまり長く此処にいたくはなかったのだろうなあ、と思って、その理由に勝手に思いを馳せて。
「スリーにいちゃんの、へたくそ」
幸せそうな顔で眠ったままの兄の、頬を一度、つねっておいた。



作業BGM「美食家」初音ミク(かしこ。)



言葉の先にあるものを


 他人の幸福をどうこう言う趣味はないし、その他人に当てはまるのが兄なのであれば、それはそれで祝福したいとすら思う。思う、けれども。
 エイトのあんな反応を見たあとでは、ため息を吐きたくなるのも仕方ないだろう、と思った。幾ら兄を応援したい気持ちがあっても、これは流石に、と思う。まあ、恋は盲目とも言うし、事実がどうであれ兄がそう思っているのならば余計に処理が偏っても分かる………と言わなければいけない、のかもしれないが。
「ご機嫌だね」
「はい」
「………」
厭味のつもりだったのだけれど、普通に受け取られてしまったらしい。前々からそういうところはある、と思っていたが、今回の件についてはそれが今までよりもひどく感じられる。それが、単に自分の感覚であるのか、エイトが関係しているからそんなことを思うのではないか、誰とも答え合わせは出来なかったけれど。
「一週間起きなかったくせに」
「寝込んだ分のものは得られました」
「………あのさあ、」
未だ起きて歩き回ることも出来ないくせに、よくそんな顔が出来るな、と思う。いや、自分は兄にこれまでこれ以上の迷惑をかけていることだし、この程度の世話が苦痛だとか、そういうことはない。
―――でも、
あれから一度も顔を出さないエイトのことを思う。意識が戻ったときに連絡は入れたが、既読がついただけで返信はなかった。…それだけ、気にしているということだろう。兄だって同じような反応だっただろうに、忙しいのかもしれませんね、なんて感想はちょっと、惚けすぎだとも思うのだ。
「スリーにいちゃん、エイトさんのことなんにも考えてないでしょ」
「これでも考えてるつもりですよ」
「何処が」
冷たく聞こえるように切り捨ててみたら、本当に戸惑ったような表情が返ってきた。本気で考えてるつもりだったらしい。まあ、そんなところだろう、とは思っていたが。改めて事実として突き付けられると、ため息の一つや二つや三つや四つくらい出るものだ。
「シックス?」
「マジで考えてるつもりだったんだ…」
「え、何が気にかかりますか」
「何って。じゃあ、なんで妖精の遣り方でセックスしようなんて言い出した訳?」
「………ボクから言い出したとは限らないじゃないですか」
「限るでしょ」
何を言い出すのか。そんなところで足掻いてみせないで欲しい。
 あれだけいろんなものを気にしてみせるエイトが、自分から言い出すはずがないのだ。といか、もしエイトから言い出したのであったら、金貨積まれても≠ネんていう発言はなかったことだろう。まあ、兄はこの会話のことを知らないから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
 しばらくじ、と見つめていると諦めたのか、そうですけど、と答えられる。
「エイトさんからしたら、慣れ親しんだ…というか本能に刻まれてる方法の方が楽だと思ったんですが」
「あー…そういう…」
本当に一応考えているつもりだったらしい。いつもエイトに合わせてもらっているから、今度は自分の方から合わせてみようとした。なるほど、そこまで可笑しい理論ではない。でも、それはきっと、同じいきものだとか、違ういきものだとしてもせめて強度が同じ程度ではないと通用しない理論だ。
 人間と、妖精の間で。
 適応されうるべき理論ではない。
「…これはただの俺の推測だし、エイトさんに確かめたわけじゃないけどね」
見ていないから、会話をしていないから、仕方ない、で済ませられるようなことではない。だって、これまでの累計がなかったとしても、新しい関係を築くのであればそれは、ちゃんと会話だとか、そういうものを怠らないようにすべきだ。…本当に、自分が言うのはどうかと思うけれど。
「エイトさんは、一瞬スリーにいちゃんが死んだかもって思ったと思うよ」
 息が、
 止まる音がした。
「彼ら≠ゥらしたら、俺たちはすぐ死んじゃういきものなんだからね」
「―――………」
当然のことを言っただけなのに、忘れていたはずなんてないのに。こんなことで息を止めないで欲しい―――そう思いながら手を伸ばす。
「いひゃい!」
「ねえ、にやにやしてないで話ちゃんと聞いて」
思い切り引っ張った頬を想像よりも伸びた。肉付きが悪い方だと思っていたから意外だった。そういえばこうやって、頬をつまんで引っ張るようなことはやったことがなかったな、と思い出す。
「う、だって、」
「今更エイトさんに死んだら嫌かなって思われてることでにやにやしないで」
「し、仕方ないじゃないですか…!」
痛いです、と外された指先で、追うようなことはしない。
「きみたちと違って、ボクはどうしたって嫌がられてしまうんですから。…それを越えて、そう思ってくれるんだな、というのは………奇跡、みたいなものですよ」
その頬が。
 赤いのは、引っ張ったからだけではないはずだ。未だ、そんな反応をするくらいなら、もっと考えてくれれば良いのに、と思う。
―――きっと、
エイトは。こんなふうに考えさせるようなことは、望んでいないだろうに。自分にも、兄にも。彼ら、とくくって良いのかは分からないが、今までされてきた対応というのはそういうもの、だったのだし。
「スリーにいちゃん」
ふと見遣ったら水差しはからに近かった。取り替えてこよう、と思って手を伸ばす。
「俺は、」
 ほんの少しだけ残っていた水が底の方で揺れて、それから浮かべておいたゴジベリーの香りがした。これはあとで取り出してジュースにでもして飲ませよう。
「前に言ったこと、撤回するつもりはないからね」
「………分かってますよ」
窓から入ってきた光がや硝子に反射して、カーテンにちらちらと当たる。それが、カーテンを揺らしているようで、どうしてもそちらを見てしまう。もうしばらく、其処から来客があることなんてないだろうに。
「ちゃんと、自分で答えを出してエイトさんに言います」
「…そう」
ありがとうございます、なんて言われたから、お礼言われるようなことじゃないよ、とだけ返しておいた。



作業BGM「怠惰な微熱」初音ミク(香椎モイミ)



いつかきみが忘れる日まで


 視線を感じた。
 そこまで無理をさせている訳でもないから、そうやって見られることは可能だろうけれど。いつもはそう、見られているなんて感じないものだったから、不思議に思いながら嚥下する。
「どうかしました?」
唇を拭う仕草は多分必要なかったけれど、これは癖のようなものだ。どうしても嚥下しているという感覚がついてくる以上、ワンセットになってしまっている、癖。
「えー…と、」
「はい」
少し、眉を寄せてこちらを見ながら、エイトは言葉を選んでいるようだった。たとえば、これが嫌になった、とかならば、エイトはもっとはっきり言うと思う。その方がこの関係が続くことをエイトだって分かっているだろうし、自分が意外と傷付かないでいられることも分かっている…のだと、思う。これは、願いかもしれなかったが。
「いや、スリーくん、よくそれするよな…って思って」
「嫌ですか?」
「………そうじゃ、ないけど」
やはり、答えは予想していたものと同じだった。
 では、一体何が気になるのだろう。どう言ったら良いのか、と視線が泳いでいるのをしばらく眺めてから。
 あ、と思う。でも、それは流石に期待しすぎじゃあないだろうか。
「エイトさん」
「う、うん」
「もしかして、してくれます?」
「………それは、」
「ある程度ボクが勝手に押し込んで良いなら、こう、大丈夫だとは思いますけど」
以前、エイトは自分相手に何かしている状態≠ニいうのがもう落ち着かないのだと言っていた。ならば、逆に言えばこちらから何かするのであればその落ち着かない≠ニいうのは払拭出来る、ということでもあるだろう。
「それは、そうかもしれない、けど…」
「抵抗あります?」
「う」
「抵抗あるならやめますが」
「え、いや、えーと………」
正直なところ、してもらえるのならばしてもらいたいが。まあ、無理強いになればいろいろと問題が起こるだろうので、その辺りはエイトに任せるしかない。
「その、」
 エイトもそれは分かっているのだろう、なんとか言葉を探して、口を開く。
「いつもスリーくん、するじゃん」
「はい」
「だから、その、ええと…興味が、出た、というか」
「どういう感じなのかな、みたいな?」
「ああ、うん、そういうの…」
だから、と声が小さくなる。
「出来るかどうかは、ちょっと、分かんない」
「まあ、したことないでしょうしね」
「スリーくんはしたことあったの?」
「ないですよ。貴方が初めてです」
「う、そう言われるとなんか悪いことしてる気分になってくる」
「しようと思ったのも貴方が初めてです」
「重ねなくて良いよ!!」
とは言うものの、これまでを鑑みると、多分そう嫌がられはしないと思う。それを言ってしまえば結構悩んだらしいエイトに悪いから、言わないけれど。
「じゃあ、ちょっと挑戦してみても?」
「…だめ、でも拗ねないでよ」
「拗ねませんよ」
体勢を変えてもらって、動きやすいように調整する。エイトの方が背が高いのもあって、やっぱりこうやって見下ろす形になると何か―――エイトの言葉を借りるなら、悪いこと≠しているような気分になってくる。
 すり、と擦り付けたそれは正直なもので、この話題が出たときからゆるり、と硬度を取り戻していた。現金なものだな、とは思うがああ言われて興奮しない方が可笑しいと思うのでそれは置いておく。
「口、開けたくないですか?」
「………」
「まあ、これはこれで、と思うので…今日はこのまましますね。嫌だったらちゃんと逃げてください」
もしかしたら開けさせないと違和感が取り払えないのかもしれなかったけれど、それならそれで何か言われると思った。だから、エイトが何も言わずにいるのならば、そういうことで良いのだろう。
「大丈夫ですか?」
「………ん、」
身が反らされるようなことはない。口は流石に開けられないが、受け答えらしいものもある。このまま続けて良いのだな、と思ったらぞく、と背中が震えた。
 唇だけではなく、頬も使って、全体的に沿わせていく。呼吸は其処にないはずなのに、僅かに息がかかるような気がして。気の所為だ、と分かっているのに興奮に拍車がかかる。
「エイトさん、」
「う?」
「目、瞑って」
眼鏡をしてもらえば良かったな、と思ったのが遅かった。いや、眼鏡をしていても目は瞑っていてもらった方が良かったと思うけれど。
 言われたとおりにエイトが目を閉じたのを確認してから、緩めていた力を再び込めた。
「―――ぁ、」
びゅる、と。
 効果音をつけるのなら、そんな感じかな、と思う。まあ、もう既に一度出していることを思えば、よくこの勢いを保っていたな、というのが正直な感想だったが。そんな個人的なものよりまずは、謝らないといけないだろう。多分、これはやるのなら先に言っておいた方が良いものだった、というのは流石に分かる。
「………すみません」
目の近くを指で拭ってやると、もう大丈夫か、と言わんばかりにそっと、その目が開かれる。
「いや、うん…ちょっとヒいてるけど…」
「エイトさん、結構精液にヒきますよね」
「だって俺、こうはならないもん」
「確かに」
何度も飲んではいる―――飲むという表現を使ってはいるし、実際に嚥下もしてはいるが。実体があるわけでもないし、恐らく口の中で出させなければそのまま霧散して消えるのだろう。べたつくこともなければ特別においがある訳でもないのだし。
 エイトが何もしないからいたたまれなくなって、シーツを引っ張ってきて顔を拭う。自分が座ったからか、エイトは大人しく拭かれていた。
「拭いてよかったの、それ」
「………そう、言われると…微妙な気分になるんですけど」
「微妙な気分?」
「正直もうちょっと見てたい気持ちはありました」
「そう…」
そういうのはやっぱりちょっと分かんないや、と言われるが、分かられたら分かられたで微妙な気分になることは必至だったので、それ以上は何も言わないことにした。説明しないで済むことは黙っている、自分から白状するようなことは少なくて良い。そう、分かっているのに上手く行かないのは、何処か無知につけ込んでいるような気分になるからだろうか。別にそういうことはないだろうに、どうにもエイトの態度にそれが伴っているように見えない、からか。
―――ただ、
価値観が違うだけ。それだけの話、なのに。
「べたべたする…」
「そういうものです」
あとでシャワー浴びましょう、と言えばうん、とだけ返ってきた。その言葉に、そう、怒っていないのを確認して。
「あともう一つ謝らないといけないことがあるんですけど」
 息を、吸う。
「なに?」
「興奮したのでさっさと続きに戻りたいです」
流石に想定外だったのか、押し黙られた。
「…ええと、」
「はい」
「………二回出したよね?」
「今日は三回目が行けます」
「………なんて?」
「三回目が行けます」
「繰り返せって言った訳じゃないよ」
いつもしても二回じゃん、体力ないくせに! と言われたが、それはエイトも同じだ。というか、体格はエイトの方が良いのだけれど、その実体力は同じくらいなんじゃないか、と思っている。
「エイトさん」
 手を握って、そっと導く。その先の熱さに冗談ではないと分かったのか、また、視線が泳ぐ。
「身体、つらいならこのままシャワー行きましょう」
「う、いや、」
「いつもよりずっとやさしくしますから」
「………スリーくんは、」
諦めたように、その手から力が抜かれて。
「別に、いつも、やさしいじゃん」
「…エイトさん、」
「何」
「ここで煽るようなこと言うのは本当に狡いですよ」
「言ってないよ!?」
ぎりぎりと引き攣った音を立てる理性をなんとか掴み直しながら、それでも一度は言ったことだから、とやさしく、その身体をベッドに沈めた。



作業BGM「夢の恋人」可不(ズーカラデル)



古の物語になりませんように


 特に疲れたような顔はしないんだよなあ、と思いながらその顔を眺めていたら、どうかしたの、と問われる。
「どうかした訳じゃあないんだけどさ」
「そう?」
昨晩兄は行き先も告げず早く寝るようにだけ言って出ていった。だからきっと、エイトのところに行ったのだと思っていたけれど。
―――まるで、
何もなかったかのような顔をするから、いや、それは理由ではないが。いつだって同じような顔をしているのを見てしまえば、何か隠されていたときにきっと、分からないだろう、とそんなふうに思ってしまうのだ。
 心配、だとか。
 そんな言葉に当て嵌めるのは少し、違うように思える。というか、人間よりずっと頑強であるはずの隣人に対して、そんなことを思うのはやっぱり、的外れのように思えるから。
「ねえ、エイトさん」
「なに?」
「踏み込んだことを聞くんだけどさ、」
「お前がそんな前置きするの、嫌な予感しかしないんだけど」
一気に顔を曇らせてみたのも、きっと、そうする方が円滑だから≠ネのだろう。本当にそう思っている訳ではない、なんて言ってしまえばそれは間違いにしかならないが、本気でそこまで気にしている訳でもないのだ。
 答えたくないことには答えなくても良い。エイトは、その誤魔化し方を知っている。拒絶の仕方を知っている。…とは言っても、そこまで決定的な拒絶をされたことがないというのは、彼らが自分のことを蜂蜜《ハニー》と呼ぶことに関わりがあるのだろうか。それとも、単に目についたから目をかけているだけで、理由なんてないに等しいのだろうか。…どうせ、理由があったとしてもなかったとしても、あまり関係ないのだと分かっているのに、そんなことばかりが脳裏を走る。
「スリーにいちゃんとするの、無理強いとかになってない?」
きゅ、と喉が締まる音がして、ああ、想定外の質問だったんだな、と思う。エイトにしては珍しい、でもこれはきっと、家での兄を知らないからだ。流石にあの兄だって、所構わずあんなふうに気を抜いている訳ではないだろうし。
 こほ、と整えるように咳払いがされるけれど、こんなのは本当に仕草でしかないことを知っている。その喉に整えられるようなものは一つもないのだと、そっと教えてくれたのはエイトの様子を見ているらしい隣人たちだった。
―――あの子、人間の真似ばかり上手くなっていくわ。
―――でも、確かにあの子のようにすると、人間はいつもより余計にわたしたちを大切にしようと頑張るの。
―――それって、とっても、不思議ね?
エイトは。
 大切に、されたかったのだろうか。
 それを問うのは自分ではないと分かっていても、疑問は浮かぶには浮かぶ。口に出されることはなくとも、仕草なんて必要ないくらい、奥底に押し込めてしまっても。なかったことにはならないのだから。
「な、何言い出す…」
「面白がってるわけじゃなくて、一応真面目に聞いてるからね」
「………真面目、でも。聞くことか? それ」
「真面目だからこそ聞いとかなきゃ、って思うやつだよ」
そうだ、真面目でもなければこんなことは聞かない。適当に上手くやっているのだろうな、と思うから。そして、それは自分には関係のないことだと、そう言い切れてしまうだろうから。
 でも、今回は。
 その相手は兄なのだ。兄から言った、エイトは恐らく押し切られた形になるだろうから、余計に聞いておかなくては、と思ってしまう。これがただの下世話な興味だけだったらどんなに良かったか。自分の恋愛ですら真面に悩んだことがないのに、どうして他人のそれで先に悩む羽目になっているのか。本当に、よく、分からない。
「ていうかアレでしょ、いれるとこまでしてるんでしょ」
「おっ、ま、」
「役割、って言ったら情緒がないけど、まあ、役割…固定で」
「いや、」
「無理強いはまあ、まずだめなんだけどさ、それはそれとして…やばさが増す感じあるじゃん? なんていうの? 被害感?」
「ひ、被害って、何が」
「スリーにいちゃんが抱く方なんでしょ?」
「………」
ここでの沈黙は肯定と同義、だと思うのだが。
「………なんで、そう思うわけ」
「スリーにいちゃんが下手なりに相手のこと慮ろうとしてるから、そうなんだろうなって」
他にも、まあ、いろいろあったにはあったが。あの兄の性質では抱いてもらうことなど不可能に近かっただろうし、主導権が兄の方にあるだろうことは窺えたし。というか、言葉を弄してエイトに主導権を与えていたのだとしたら、きっと最初から向こう寄りのセックスになったんじゃあないだろうか。エイトだってこれまで人間の女の子と遊んでいるのは知っていたが、同性と、というのは知識でしかなかっただろうし。主導権があったのであればきっと、よく分からないから分かる方法でしよう、となる方が納得出来る。
 と、こんな思考をすべて開示するつもりはなかったが。
「…シックス、」
手すりに、エイトが項垂れる。すぐ其処に机があるのだから、座ってしまえば良いのに。今日はそういう気分ではないのだろうか。
「何?」
「沈黙は金なり、って言葉知ってる?」
「俺、それ結構端金だと思ってるよ」
「そう…」
エイトさんだってそう思ってるくせに、と付け足すと、それはそうだけど、と言いにくそうに返された。周囲に人がいないのを一度、確認したのか。魔法がぶわり、と広がるのを感じながら答えを待つ。
「…無理強いを、するほどスリーくんだって馬鹿じゃないよ」
「そう」
「まあ、もうちょっと落ち着いて欲しいかな…とは思うけど…」
「そんなエイトさんに悲報なんだけど」
「聞きたくない…」
誰もいないならば良いか、と思って続けた。
「スリーにいちゃん、拘束プレイ系一生懸命調べてたよ。まあ、本当にエイトさんを拘束するつもりはないと思うんだけど、ああいうのって相手側に何もさせないプレイ、とも言えるし、参考にしたいんじゃないかな?」
「俺、聞きたくないって言った…」
「でも知ってた方が良いでしょ?」
「別に、さっきも言ったけど無理強いされてる訳じゃないし、俺だって納得はしてるし…嫌だって言ったらやめてくれるし。そういうの聞かなくても困らないよ」
「へえ、そうなんだ」
「そうだよ」
だから今後はそういうの良いよ、と言われる。
「検索履歴とか知りたくないの?」
「知りたかったら自分で調べられるし」
「それは…そうかもしれないけど」
「ていうかお前にそうやって突っつかれる方が、こう、ダメージあるからほんとにやめて…」
「そんなに?」
「そんなに」
 よく分からないが、まあ、本人がそう言うのならやめておこう。嫌われたい訳ではないのだし。
「…でも、興味あるからもうちょっとだけ答えてもらって良い?」
「………なんでだよ」
「なんとなく」
「…答えたくないのには答えないからな」
この時間は大体が出払っているのか、人は来ない。エイトの魔法に引っかかることもない。だから得られた許可のような気がして、とりあえず気になっていたことを問うてみる。
「人間のセックスって、どう?」
「…非効率的だなって思う」
「女の子とはしたことあったんでしょ?」
「女の子は…こう、この言い方どうかな、とは思うけどさ、そもそもが受け入れる側じゃん。妊娠っていうのの存在は知ってても、自分が当事者になることはなかったし。いや、やろうと思えば当事者にはなれるだろうけど、当事者っていうか、こども…産ませることは出来るだろうけど、そこまで興味があった訳でもないし。やっぱり、娯楽は娯楽だったし」
「あれ? もしかしてエイトさんたちって射精ないの?」
「そもそも人間みたく精子と卵子がどうのこうので生まれる訳じゃないから…」
「え、じゃあ今までどうしてたの」
「なんとなく魔力でそれっぽいやつして、あとはまぼろし」
「出さなくても気持ちいいもの?」
「他のやつがどうかは知らないけど、俺は触れてるのが楽しかったから。主目的が違うの」
はあ〜…と長く、ため息が吐かれる。
「スムーズな受け入れのために分泌液が出るのは、なるほどな〜って感じだったけど………」
確かに女の子の身体は大抵そのように出来ているのは分かるが、改めてそんな表現をされるとなんだか、学校の授業でも受けているような気分になった。エイトはどちらかと言えば教える方なのに。
「何がそんなに気になるの?」
「何、って言われると全部…って感じだけど」
「主にだよ。射精?」
「っていうか精液っていう存在がなんか、もう、非効率的すぎる」
「それを女の子側に対して思わないのはエイトさんだからなのかなあ」
「女の子に精液はないでしょ」
「でも妊娠ってお腹の中で起こることだよ」
「それは、そうだけど…妊娠自体は伝承にもよく残ってるし、そこまで…少なくとも俺にとっては、不思議な出来事でも不可解なものでもない。非効率かもしれないけど、不思議とも不可解とも思わないから、そこまで辿りつかない…の方が正しいのかな?」
「うーん、なんとなく、分かったような、分からないような」
不思議で、不可解で。
 そして、ひどく非効率的だと思っていても。
 エイトは兄を拒絶することはないのだ、と思ったら、とりあえずまだ暫くは様子を見ていても大丈夫かな、なんて思った。



作業BGM「ファムファタル」flower(ケダルイ)



貴方が呉れる銀の夢


 ふわり、と風が吹く。
 その風に思うことがあって足を止めると、隣を歩いていたエイトもまた、どうしたの、と足を止める。今日は別に仕事じゃあない、単なる買い出しだった。そんな雑務に仮にも幹部が二人も雁首揃えて、とは思うけれど、疲れ切ったジャックに言いつけられてしまえばそんな理由で断るのもなんだか、悪いような気がした。ジャックが疲れ切っている原因がキングにあると知っているのだから、余計に。
 この組織が大きくなって、仮にも人間≠フ裏社会の金庫番なんてものを担うようになって。その多くの功績がキングのものであると、否定するものは誰もいない。だからジャックだって文句を言いつつ後処理なんて面倒なものを引き受けているのだろうし。
「スリーくん?」
「あ、ええと…」
「何、考え事?」
「まあ、そんなようなところです」
答えないでいたのはあまり褒められた行為ではないな、とだけ思う。
 もともと、そんなに友好的に接していた訳ではない。エイトだってそうだろう、だから、親密でもないのに、なんてことを言ったのだ。…結果、それが今の関係の基盤となってしまったことを思うと、何が作用するか分からないな、とは思うが。
 におい、のことは。
 ある仕事がきっかけで、伝えられていて。それを悲しいと思うようなことは、本当はなかったはずで。どうして思ったのだろう、そのとき説明したエイトがひどく、申し訳なさそうに見えたからだろうか。謝る必要なんて何処にもないのに、謝っていたからだろうか。一つ確かなのは、その日から魔法というものに興味が出て、エイトに何処までなら、と問うようになって。魔法を、見せてもらうようになって。
 それを、エイトは八つ当たりのようなもの、と受け取っていたのかもしれない。
 問われなかったから、答えなかった。答えられるものなんてきっと、なかったから。問われないならそれで良い、と思った。もし分からないと言って、エイトがそれを嘘だと断じてしまったら。それが怖かった―――というのもある。
 いつか。
 シックスに問われたことは未だ胸の奥に居座っていた。
―――魔法、
それは、自分が決して手にすることの出来ない領域。厭われてしまう聖域。けれどもエイトは魔法そのもののような存在で、厭うているはずなのに自分にも分け隔てなく―――と言うと、きっと、嘘になるのだろうけれど。それでも、自分の感覚ではそう、拒絶らしい拒絶をされないまま、ここまで来て。
 本当は、最初は。時折魔法を見せてくれるだけで満足だった。
 エイトの魔法はとても美しかったし、見ていて卑屈さを一瞬でも忘れられるようなもので。この世界にはこんなに美しいものがあるのだと、そうやって教えてくれる、ひと。そうやって思っていたのかもしれない。もっと、他の誰かでも良かったのではないか、と問われるとそうだろうな、とは思うが。
 魔法、そのもの、のようなエイトではなくとも。魔法使いはいる。自分を厭う存在にではなくとも、頼むことは出来るはずだった。魔法使いだって自分で魔力を生産することが出来ない訳じゃあない。いつだって隣人たちの力を借りている訳ではなく、貯蔵だってしているはずだ。その貯蔵をどうやって使うかはきっと魔法使いに委ねられるもので、そちらをアテにするのなら、今のように小言を言われる、というようなことはなかったはずだ。
 でも、エイトだった。
 それは年の頃が近かかったからかもしれないし、さっき言ったとおり申し訳なさそうに見えたからかもしれない。丁寧に自分の質問に答えてくれて、助力は出来ないけれど仲間だとは思っているし、出来るラインを探っていこうよ―――そんな甘やかなことを言われたからかもしれない。今にして思えばあれは甘言以外のなにものでもなかった、のに。
 その甘言に乗らなければ、今のこの関係なんてなかった。
「…今日は、」
ひょい、とエイトが袋を一つ奪っていく。
「随分、長いね」
「………寂しかったですか?」
「そういう訳じゃあないけど」
そんなに難しいこと考えてるのかな、って。そうやって笑ってみせるエイトは、別にこちらを心配している訳ではない。この組織全体のことだとか、心配するのであればそっち、だった。自分は決して主体にはならない………なれない。
 心配して欲しい訳ではないのに気になるのは、やっぱり目の前にいるのに他のことを考えられているこの状況に、文句の一つも言ってくれないからだろうか。
「袋、返してください」
「重かったんじゃないの?」
「重いは重いですけど、自分で持てますよ」
「そんな細い腕してるのに?」
「貴方にだけは言われたくないんですが?」
「俺、スリーくんよりちゃんとしてるじゃん」
「肉纏ってる訳でもないひとが何言ってるんですか。まやかしみたいなものでしょう」
「それ言われたらそうだけどさあ…」
また、風が吹いて。
 は、と見上げる。
 違う、これは―――何かが、違う。
 ぴりぴり、と肌に突き刺さるような感覚に思わず立ち止まると、エイトがぐい、と腕を引く。その行動にエイトさん、と呼ぼうとして、それは風に攫われた。
―――まるで、
今は呼ぶな、とでも言うように。
 それと入れ違いになるように、ふわり、と黒い翼が見える。
「わたしたちの末の子」
「…姉様方」
姉様方、ということは女性、としてみた方が良いのだろうか。隣人たちの中で性別、というのが何処まで重要なのかはよく分からなかったが、エイトがそう呼ぶのならばその区切りに沿うた方が良いのだろう、とは思う。
「元気そうで良かったわ」
「泣き虫さんは卒業してしまったのね」
「貴方が泣くのなら何処にでも飛んでいくのに」
「いつの間にか、こんなに大きくなって」
「姉様方もお元気そうで」
「わたしたちは風があれば何処にでも行くもの」
「元気、という概念は貴方のためにあるものでしょう?」
「鉄のにおいは増えたけれどね」
「雲の上にも充満してきているわ」
「人間って、本当に何処までも行きたがるのね」
「それでもこの世界は面白いから、旅をするけれど」
一つが見えたら、あとは折り重なるように現れた。今やってきたのか、ずっと其処にいたのか、かけられた言葉を発端にして見えるようになっただけなのか、それは分からない。いつだって魔法のチャンネルに合わせている訳でもないし、自分が特別にぶい&である自覚はあった。
 でも、と思う。
 今はそんなことを言っていられないだろう、というのも分かった。もう見えてしまったから、見させられてしまったから、聞こえてしまっているから。お前は逃さないと、首筋に鋭いものを突き付けられたようで。きり、と喉が絞まる、音がする。彼らの目は、別段こちらへと向いていないのに。愛おしいものを見るように、エイトに戯れているだけ、それだけなのに。見る必要もない、と言わんばかりだ。
「貴方は、」
美しい笑みが、エイトに向けられる。
「まだそんなものをそばに置いているの」
胸、が。
 どくり、と嫌な音を立てた。
―――そんなもの、
直接、こんな棘のある言い方をされたことはない。でもきっと、それは今まではエイトが間に入ってくれていたからだ。彼らがエイトの何なのか、なんて分からないけれど、間に入らせて駄々を聞く時間は終わった、とでも言うのか。
「そんな錆のにおいより、珍しいものはこの世界に幾らでもあるわ」
その言葉に、思わずエイトの手を握ってしまう。さっき、袋を奪われていて良かった、と思う。手が空いていなかったら、こんなすぐに手を握ることは出来なかった。彼らはそれに何か言いたかったようだけれど、それよりもエイトが口を開く方が早かった。
「俺は、彼のにおいを珍しがってるんじゃあ、ないですよ」
「あら、そうなの?」
「でも、他に珍しいものがあって?」
「貴方だって面白いものの方が好きでしょう?」
「この世界には、もっと珍しくて面白いものがあるのに」
「あの、紛い物の蜂蜜酒《ロビン》を國に連れていく方がきっと、貴方にとっても良いでしょう」
「蜂蜜《ハニー》でもよくってよ?」
「貴方は何だって選べるのに、どうしてそんなもので満足したふりをするの」
「眉を顰める必要はない、甘美なわたしたちの花」
「それを貴方は導けるのに?」
エイトから、手を握り返してくることは、ない。
 それでもやっぱり、手が振り払われることだってなかった。その行動と笑みに、言いたいことを察したのか、もう、とひとりが呟いた。どうやら彼女がこの一群のリーダーらしい。妖精や精霊にそういった階級があるのかは不明だったが、最初に話しかけてきたのだって彼女であるのだし。
「馬鹿な子」
ふう、とため息が吐かれる。
 その目には明らかな呆れがあった。憐れみ、ですらない。理解出来ない、そう直球に訴える視線。夜の空に浮かぶ星々のような、強い、旧い焔を思わせる瞳。
「貴方がこれに出来ることなど、ないのに」
「それは、」
「あ、あります!!」
思わず叫んでしまった。
 ここで、こんなアウェイとも言える場所で。発言権なんてないに等しい場で。叫ぶことが本当に正しいのかどうか、分からなかったけれど。何も言わないのも違う、と思った。ぎゅう、とエイトの手をまた、握る。
「いえ、正しくはないんでしょうが、ボクが勝手に受け取っているだけなんでしょうが! それでもボクは、彼から、何もしてもらってない、とは思ってません!!」
それが、握り返されることは永劫ないと分かっている。でも、それがどうした、と言えてしまうくらいには、自分の感情の置き場をもう、見つけていた。
「それが、その、貴方たちには、ひどく…避けたい、行為だというのも、承知しています」
理解し合う日はこの先も来ないだろう、不理解を不理解のまま置いて、それを認めて、そうやって歩いていくしかない。でも、その何処がいけないと言うのだろう。何処が不幸だと言うのだろう。
 この、短い生が、彼らにとってはひどく、毒のようなものでも。
「誰にも、どうしようもないことなのだと、それも、理解している…つもり、です」
「それでも選ぶの?」
「人間なら多くいるのに」
「どうして彼を選ぶの?」
「錆のにおいを纏わせないように、この子がどれだけ苦労していると思っていて?」
「姉様方、そのあたりで」
―――きっと。
黙らせるための言葉だったのだろう、でも、と思う。逆効果だ、どうしたって逃れられない運命(さだめ)なのだと諦めることはせずに、ちゃんと考えてくれていた。それを言ったら気にするだろうと思っていたのか、黙っていられたのは少し、文句を言いたいけれど。
「それでも、」
 エイトにとって、切り離すのが簡単なのはどう考えたって自分の方だった。終わりにしよう、と一言言えばきっと追い縋ることはしなかった。ちゃんと断って、嫌ってくれたら、それで傷付いて、全部終わりに出来るはずだった。
「ボクは、」
でも、エイトはそれをしない。しない道を選んだ。
「その苦労をしてくれる、彼を離したくありません」
それが―――何よりも、今は嬉しい。
 この奇跡みたいなエイトの感情を、紛い物だろうが優しさめいたそれを、決して手放したくない。
「人間は、いつもそう」
「忘れることをしないの」
「傲慢なくせに、ちっぽけで、何もできない子たち」
「同じ道をぐるぐる、飽きもせずに過去を振り返る」
「忘れてしまえば楽なのに」
「忘れてしまえば何もなかったことになるのに」
くるくる、と彼らが回りだす。風は未だぴりぴりと肌を刺激し続け、彼らが自分という存在を認めていないことがよく分かった。エイトの隣にいるのに相応しくはないと、そう思っているのがよく、分かった。
「この子のそれはやさしさではないわ」
「人間の真似事が上手なだけ」
「だから平等にする、贔屓をしない」
「人間たちの真ん中で、どうやって生きれば傷付かないのか知っているから」
「お前が勝手にやさしさと呼ぶものは、ただの、この子の努力」
「お前だけを拒絶しきってしまえば、あの蜂蜜《ハニー》は悲しむでしょう」
「だからしない」
「それだけ」
彼らの言葉はいつだってやわらかい、そして、優しい。だから甘言、なんて言われるのだ。その中で育たなかったエイトにもまた、その価値観はちゃんと備わっている、から。
「忘れてしまいなさい、錆の子」
「他にやさしくしてくれる人間を探しなさい」
「人間にも甘言は言えてよ」
「忘れて―――この子を解放してやりなさい」
分かっている、ちゃんと理解している―――でも、でも!
「…貴方がたの、」
 この手が振り払われないことが、今も、これからも、手に出来るすべてだと分かっていても!
「言葉には、それなりに歴史も意味もあるのでしょう。ですが、ボクはやっぱり、彼を離したくはありません」
胸がどくどくと痛いほどに脈打っている。血液がどうやって身体を循環しているのか、示し始めるように。理の側に立っている彼らの言葉の方がきっと、正しいのだとは理解している。エイトは以前、言った。厭うているだけであって、わざわざ嫌がらせをされるようなものではないのだと。助力を乞うたときに拒絶されるだけで、ただ、それだけなのだと。だから、今与えれている言葉たちはそういうものではない、エイトのことを思ったものなのだろう。エイトのためには、自分の存在はない方が良い、単なる付き合いがあるだけならまだしも、親密≠ノなるのはやめた方が良い。…優しい、言葉だ。本当に、優しい言葉だった。ここで引き下がっても、自分の非は一切ないだろう。でも、もう、非だのなんだのと言ってる段階はとうに過ぎたのだ。
 助力を拒絶する隣人たち。可哀想に、と憐れんでくる彼ら。シックスに寄ってくるよくないもの=Bその、すべてを。見えているだけ、そうやって割り切ってしまえたらまた違った未来もあっただろう、でも、そうは出来なかった。
「彼が、ボクに向けるものが何であっても、ボクは彼のことを愛しています。この愛を捨てるのは、もう、無理です。知ってしまったものを捨てることは、ボクには、無理です」
エイトの魔法が―――エイトが。
 美しいことを、痛いほどに知ってしまったから。
「許して欲しいとは言えませんし、言いません。貴方がたに認められなくても良い。これは―――ボクの、感情なんです。そして、それを彼が拒絶まではしないと言うのであれば、ボクはそのチャンスを掴んで離したくない」
彼が許さないというその日まで、どんなことがあってもまとわりついてやろうと思った。決してこの道の先が同じ場所ではなくとも、自分を置いて、エイトが行ってしまうのであっても。
 この手を。
 離したくない、と思った。
 ふう、と再びため息が吐かれる。もう、風は収まっていた。
「末の子」
「はい」
「それが貴方を害したのなら、すぐにわたしたちを呼びなさい」
「切り裂いてあげるわ」
「失くしてあげるわ」
「悪夢そのものにしてあげる」
「人間に生まれたことを後悔する、そんなかたちにしてあげる」
「だからいつでも泣きなさい」
「いつでも立ち止まりなさい」
「わたしたちは、貴方をいつだって、見ているのだから―――愛しい子」
最後にエイトの額に一つだけキスを落として、彼らはふっと消えてしまった。
 まるで、何もなかったかのように。
 滑り落ちそうになった紙袋を持ち直す。
「………よく見るエアリエルとは違った姿に見えましたが」
「第一声がそれ!?」
それとは正反対に、エイトは紙袋を落としたようだった。拾わないと、と言うより先に、振り返ったその首の角度がすごいものだったから驚いてしまう。小言のことは聞いていたし、エイトだってこういう日が来ることは予想していたのではないだろうか。
「いや…だって、何を言えば…」
「いろいろ言われたじゃん、特に去り際」
「ああいうことはそれなりに覚悟しているので。まあ、確かに改めて言葉として向けられたら怖いですね」
「………軽く言ってくれるじゃん…」
はあ、とため息を吐きながら紙袋が拾われた。中身を確認して、特に傷付いていないことによし、と呟いて。そんな姿を見ていたら、さっき叫んで良かったな、と思った。今まで誰に対してか分からない言い訳を重ねようとしてきたのが、そんなことしなくても良いのだと、そう、思えた気がしたから。
「…軽い、つもりはないですよ」
 本当に、軽いつもりはなかった。彼らにとっては人間なんて、ただただ多くいるだけの種族で、きっと自分一人殺してしまうことはそう、難しいことでもない。心を傾けるまでもないことなのだろう、と思う。人間が息をするより簡単に、この生命は彼らのてのひらの上だ。それでも、彼らはエイトに免じて、退いてくれたのだ。任せて良いと思われた訳ではないと思う、呆れられた、というのがきっと近い。どうせ死んでしまうのだから、瞬きの間、厭わしい人間に好きにさせても良いか、と思ったのかもしれない。…彼らが、エイトのように自分の言葉に応えてくれるのは思い浮かばなかったから、きっと、問うても真実のところは分からないだろうけれど。
「でも、エイトさんに軽く見えたのなら、それだけボクの中で覚悟が決まってるってことなんでしょうね」
「―――〜〜〜、」
ぎゅ、と紙袋の紐が握られる。それを見ながら、もう一度手を握り直した。
 そのままにしていたら、離れてしまったかもしれない手。
 でも、今はちゃんと、繋いで、掴んでいるから。
「…馬鹿じゃないの」
「かもしれませんね」
「スリーくんは、馬鹿だよ」
「はい」
「すごく、馬鹿だ」
「馬鹿が隣にいるのは、嫌ですか?」
いつか、きっとエイトにしたらそんなに遠くない未来。この答えが変わってしまうときが来ても、今この瞬間のことがなかったことになる訳ではないと、そう思える。こんな思考は、楽観的だろうか。相手のことを考えていない利己的なものだと、罵られるだろうか。
「………嫌じゃないよ」
でも、もしそうだとしても。
 それをされたときに自分が気にすべきは、この世界にたった一人しかいない。
「エイトさん、」
「なあに」
「貴方に、言いたいことがあります」
「…うん」
「聞いてくれますか」
「うん、聞くよ」
この買い出しが終わったらね、と言うエイトに、はい、とだけ答える。
 今は、それで充分だと思った。
 繋がれたままの手が揺れている。
 誰にも許されなくとも、この胸の高鳴りだけは嘘じゃあないことを、誰でもないエイトが分かってくれていれば、それで良かった。



作業BGM「パメラ」flower(バルーン)



お前の夜は夢に帰す


 買い出しの荷物を預けて、それからホテルに連絡を入れる。すぐに入れるようだったが、こういうのはいつだって美味しい食事とセットだった。今の時間では夕食には早いが、軽く何か食べてからの方が良いだろうか。
「俺は、どっちでも良いけど」
問われたエイトはこちらを見ない。
「スリーくんは、それで良いの?」
「………」
「俺には、さっきの言い方、今すぐにでも聞いて欲しいように聞こえた」
「そ、それは………」
まるで、自分の願いを叶えてくれるかのような言い方に、どうやって答えて良いのか分からなくなる。
「俺は、お腹別に減ってないよ。でも、普通に軽いものなら入ると思う。この辺は美味しいお店も多いと思うし、ぶらぶらするのも良いかな、って思うよ」
ねえ、とエイトが続けるのは、ただ会話を促進させるだけのものだろうに。
「スリーくんは、どうしたい?」
 まるで、その先の言葉を、自分の出した答えを、聞きたいみたいに聞こえてしまうから。
「………エイトさん、」
「何」
「先に部屋で、………休んでも、良いですか」
「うん」
「食事は、そのあととかに…ホテルも融通が効くようですし」
「そうだね」
そうしよっか、とエイトが歩いていく。
 その、後ろ姿を見ながら。
 今日はエイトの足音がそんなに耳に届かないな、と思った。
 本当は今日は、じゃあなくて随分前からそうであったことを、どうやって言葉にしたら伝わるのか、必死で脳を回していた。

 案内された部屋を一通り見回って、ベッドに座って。
 その肩に寄り掛かるようにしても、特に何も言われない。エイトから、急かされることもない。スリーくん、良いホテル知ってるよね、と言われるそれには、貴方のために調べたのだ、と言って良いのか分からず、これでも努力しているんです、とだけ返す。
「………その、」
息を、吸う。
「聞いてください、とは言いましたが、答えが出ている訳じゃあないんです」
「だろうと思った」
顔を見ていないのに、エイトが笑ったのが分かる。空気の揺れだとか、そういうものをこの肌が捕まえているのだろうか。魔術の根源は知ることにある、それはすべての感覚を使ってでもその真実を見抜く、真髄を捉える、そういう行動へと落下していく。
「どうやって、考えても………」
そうやって、紐解くことが得意なのが魔術師、とも言えた。魔法というものをより分解して、神秘を解体するように。秩序にメスを入れるような行為を平気でする、そういうものだから、妖精の中には魔術師を厭うものだって少なくはない。
 まあ、自分はそれ以前の問題だった訳だけれど。
「…分から、なくて」
「俺は、分からなくても良いと思ってたんだけどね」
それじゃあ嫌なんだよね、とエイトが言うのが、理解ではないと分かっているのに。エイトは、こちらの台詞を繰り返しているだけだ、一度言われたことを忘れず、そういうもの≠ニして覚えているだけだった。事実を事実として、言葉に乗せる。其処に、誰かに寄り添うような価値観はない。彼らの厭うにおいを纏う自分相手であるのならば、尚のこと。これがまだ、シックスだとかが相手であれば、違ったかもしれないが。
「単にセックスが気持ちよかったのか、それとも………」
隣のエイトの手を取るのは簡単だった。エイトが動かない、というのもある。
 凭れかかって、手を取って。この一場面だけを切り取ったらきっと、人間たちはこぞって愛し合っている、と言うことだろう。行間を読みたがるタイプであれば、そうとは限らない、と言うかもしれないが。それでも多くの人間が、この間に愛なんてものがあることを疑わない。…そういう、世界だった。そうやって言い切るにはマジョリティに寄りすぎていると、そう言われるだろうが、今はどうせエイトの視点しか必要ないのだし。別に良いだろう、エイトにとって、人間の世界というものはそういうもの≠ノ見えているのだろうし。
「絶対に、手に入れられないものを、手に入れたと錯覚して、気持ちよくなってるのか」
だから、かもしれない。
 ちゃんと、自分で考えた言葉を聞いて欲しかった。
 此処に、エイトの仕草に、愛なんてものがなくとも、それをどうやって受け取って何を嬉しく思うのか、その愚かさを聞いて欲しいと思ったのかもしれなかった。
「………スリーくんにとっての魔法、ってこと?」
「…まあ、そんなところです」
遊ぶように絡めた指の先は、今日もきれいに黒く染まっていた。これがもともとなのか、それとも人間と同じように塗っているのか、それだって知らないのに。
「魔法は、ボクを拒絶するけれど、」
何をしても、なんてことは言わない。でも、エイトが自分の意志で、この手を振り払わないでいることをもう、知ってしまったから。
「貴方は、拒絶まではしないから」
知ってしまったら、それは、知る前には戻れない。
 世界が変わる、知る、というのはそういうことだった。
 何処までも続く世界の中で、この小さな知識を載せた小舟は、彼のもとへと辿りついて滞留する。
「………でも、」
魔法使いだったら、羽根を休めるとでも言えたのだろう、でも、残念ながらこの身はただの魔術師だった。人間と同程度にしか生きられない、脆弱な小舟。その滞留を他の魔術師が見たら何と言うか、考えなかった訳ではない。でも、そのデメリットを鑑みたとしても―――捨てられない、と思った。手を離したくない、と思った。誰かがこの滞留を責めるのであれば、それに対抗出来るくらいのものを、此処で見つけよう、そんなふうに、思った。
「それだけなら、エイトさんじゃあなくても良かった」
「………そうだね」
「貴方の一挙一動に目がくらむような、そんな心地にはならなかった」
「…え?」
見上げる。自分の方が背が低いのだから、同じように座っていたら見上げるのは当然のことだった。
「エイトさん」
 眼鏡の向こうの瞳が、驚いたようにこちらを見ている。
「うん」
「ボクは、多分貴方が思っているより、………貴方に見惚れるようなことを、している回数が、多い、ですよ」
「………それ、は、」
ぱちり、と瞬(しばたた)かれるそれに、エイトでも驚くことがあるんだな、と今更なことを思った。当然だろう、だって、エイトはこちらのことを何も知らないに等しいのだから。これから知っていくのかどうか、それだって分からない。知って欲しいと思って欲しい―――と、願うことすら過ぎたものだと、理解はしているのだ。
「それは、知らなかった…」
「ボク、結構口が重いみたいなので」
「それくらい分かってるよ」
なのに、エイトはそんな言葉を使うから。
 傷付いて良いはずなのに、どうしたってこの胸は、その不理解に踊るから。
「貴方にきっかけがあっただけで、これは愚かな虚栄心から始まっているのかもしれなくて、………だけど、」
滞留に、理由がないといけないと思った訳ではない。この生が短いと言うのであれば、この愛が過ぎたものだと言われるのであれば、自分の出来るすべてを賭けても、何かを残してみたいと、そんなふうに思ってしまっただけのこと。結局、どれも言い訳だ、やっぱり答えになんてならなかった。
 それでも、言葉は止まらない。
「愛、って言ったのも嘘じゃないんです」
「…分かってる」
「エイトさんの方がそういうのは得意ですもんね」
「………そーだよ」
困ったように、その眉が寄せられる。そんな顔をさせたい訳ではないのに、所詮こうなるしかないのかもしれなかった。
 自分の存在はエイトを困らせるだけのものでしかなくて、彼にとって、一つも良いことはないのかもしれなくて。魔力だって、別にセックスで吸わずともエイトならばある程度、取り込むことの出来る穴場は知っているだろうし、そもそも自分の魔力なんて、それこそ非常食になるかならないか、その程度なのだろうし。寧ろ、セックスなんてしている方がこちらに魔力を還元してしまうのだから、負担になっていてもおかしくなかった。
 それでも、困らせるだけ、でも。
 エイトがこの手を振り払わないでいることがこんなにも嬉しいことであるのだと、それは伝えたかった。
「スリーくんが全部正直に言うから、どうしたら良いのか分かんなくなる」
「少しくらい、嘘を吐いた方が良かったですか」
「それはそれで嫌」
「嫌なんですか」
「だって、俺たちはそういうものだから」
共感がこの先ずっと、されないものであっても。不理解が永劫埋まらない溝として立ちはだかるのだとしても。いつか―――エイトが、自分のことを忘れてしまうのだとしても。
「でも、スリーくんは、それを律儀に守ることもないのに」
「…守りたかったので」
「………なんで?」
「エイトさんに、嘘を吐きたくなかった」
エイトが今、自分を見てくれているように、自分も出来得る限りで、今を返したかった。
「ちゃんと、ボクの言葉を聞いて欲しかった」
「………ほら、」
 ゆるり、と動いた指がまるで催促しているように感じられた。そんなはずはないのだけれど、都合よく受け取ることにする。
「馬鹿正直にそういうことを言う…」
絡んだ指はあたたかい。撫でた其処から、紛れもない断絶が横たわっているのだとしても。もう片方の手を持ち上げる。頬を滑って、耳へ、髪へと伸していく。
「別に、」
さら、と触れた髪はやっぱり、触り心地が好かった。人間とは違うからかもしれない、単に、エイトだからそう思うのかもしれない。この答えもいつか、出るのだろうか。
「少しの間、瞬きの間」
 魔法を手に入れた、なんてもう、口にしたら嘘になってしまうだろうと。
 そんなことを思えるようになったみたいに。
「心を傾けられてみても良いんじゃないですか、という話ですよ」
「そのあとに俺を残して?」
「ええ」
もう、エイトが傷付かないだろう、とは言えない。いつか忘れる日が来るのだとしても、きっと自分がいなくなったら彼は悲しむのだろう。それが彼にしか分からない遣り方でも、もう何処にもいなくなった自分を悼んでくれる。
「愛してくれなくて良いです、そんなものは望みません。憐れみでも良いです、それでも充分すぎるほどです」
それが、分かってしまったから。
「ボクの時間に、貴方をください」
また、その眉が困ったようなかたちになって。
 俺がスリーくんの時間をもらっちゃうんだよ、と言われたから、そうとも言えるかもしれませんね、とだけ言って、それ以上はキスで封じた。



作業BGM「シンシア」necchi