偶像崇拝禁止令
最近、敬愛する上司が一人の部下とやけに距離が近い。どれくらい近いかと言うと気付けばその腰に腕を回しているくらいだった。身長の差はそこまでない二人だと思っていたけれど、そうしてくっつかれていると体格差のようなものがよく分かる。私は別に履歴書を見るような立場ではないけれど、いつだか上司と彼がなんさい?≠ニ言い合っている場面に出くわしたことがあったから、年齢は知っていた。まああれは、一種の遊びのようなものだと聞いていたが。でも、その年齢を思い出すと、やはり少し細いんだよなあ、と思う。彼の特技故に仕方ないことなのかもしれなかったけれど。
「シックス、一人で食べられる」
時折邪魔、と言う程度だった彼が、流石に、と苦言らしい苦言を呈したのは昼食の時間になってからだった。いや、此処にそんなものがあるかと問われると個々の裁量に任されている、としか言えないのだが。膝の上に乗せられそうになっていたのをやんわり断った彼が、珍しく上司に向かってため息を吐くさまはなかなか見られるものではないだろうなあ、と思う。というかもう、膝の上でも何でも乗せられていたら良かったのに、とすら思ってしまうのは仕方ないことだろう。正直この上司が何をしでかそうと、このまま手を出そうとあまり不思議ではなかったし(単純に人格の問題として)、今日一日くらいは大人しくされるがままになっていても良いだろうに。緩い喋り方とはうらはらに、彼は意外としっかりと仕事に向き合う。そういうところが副室長に次ぐ地位を育てたのだろう、と分かるが、多分彼は無自覚なのだろう。
「知ってる」
「ねえ、そんなにこないだのだめだった? でもあれしかなくなかった?」
「分かってる」
上司が黙らせるように、手に持っていたパンを一口大にちぎって彼の口へと押し込む。食べ物を無駄にするな、というのは副室長がよく言うことなので、例にもれず彼女に指導された彼もまた、それを吐き出すようなことはしない。解せぬ、と言わんばかりの表情でもぐもぐと口を動かす彼に、やっと静かになった、と研究室一同が胸をなでおろした。いや、ここまで彼は結構静かにしていた方だろうが。
普通、職場でこんなことをされていれば誰か一人くらいは何か言ってもおかしくはないだろうが―――今回のことに関しては原因は分かりきっているから、研究室の誰もものを言わないのだろう。あと副室長が何も言わない、というのもある。流石に目に余るようであれば、副室長が上司を止めに入るだろうから。副室長の思惑は分からないが、まあ、適度に反省しろ、とでも言いたいのだろう。私だってそう思うのだし。
彼はついこの間、潜入任務に出て、そしてうっかり失敗しかけたのだ。普通であれば証拠を残さぬように自害でも何でもするのが決まりなのだが、彼に関しては証拠を残さない、というのが結構難しい。どういう仕組みなのかは開いて見ていないので分からないが、彼には瞬間記憶の特技があって、更にはそれを忘れないとまできている。そんな脳の持ち主が失敗したからと言ってただ死ぬだけで許される訳がない。まあ、ありきたりに言えば脳を吹っ飛ばそうとして―――間一髪、上司に止められたのだ。あの時の顔は結構見ものでしたよ、と指示を出していた副室長が、それをどんな顔で言ったのかは恐ろしくて振り返って確認は出来なかったけれど。
「分かってるから、今日は大人しくこうされてて」
「ええ」
「セラが止めてないんだからきみに勝ち目ないんだってば。きみこそ分かってるでしょ」
「それはそうかもしんないけど」
「はい。パン」
「だから一人で食べられる…」
「美味しい?」
「………うん」
マフィアなんてものをやっている以上、失敗したらイコール死、くらいの覚悟は誰だって持っていると思う。それでも尚、死んでもらっては困る、という感情を持つのはおかしなことではないのだと思っていた。特に―――別に、死にたいと願っている訳でもないのだから余計に。
「きみってピーナッツバターすきだっけ?」
「普通だと思う」
「そっか」
「おすすめ?」
「うん」
「なら食べてみる」
「買ってきてあげるよ」
「…一人で食べられるからね」
「やだ」
「やだって…」
敬愛する上司が自覚しているかは分からないが、何も特別視していないような顔をして、けっこう彼だけには甘い。それは当然、彼の特技のこともあるのだろうけれど。
私にはそれが、素っ頓狂な上司を人間に繋ぎ止めるための楔であるように思えてしかたないのだ。
*
作業BGM「アルカホリック・ランデヴー(2020ver.)」くじら
誰も蝶にはなれない
この研究室には給湯室がついてはいるが、昼間誰かが使っているのを見たことがないなあ、と思い出した。いや、まったくもって使っていない訳ではないし、私だって今、仕事終わりの一杯をこうして飲もうかと思ってやって来たのだけれど。研究員なんてそんなものだと言われたらそうかもしれなかったけれど、誰も彼も集中しだしたら一直線であるので、結局私みたいに帰り際に、だとかの使用率が増えるのだろう、と思う。それでも混んだりしないのは帰る時間がばらばらだからだ。
と、そういうことを考えながら給湯室にやってきた私だったけれど。
「?」
珍しく、その先に影が見えた。先客なんて珍しい、と思ってそっと覗く。誰が残っていたっけ、というのは仕事終わりの疲れ切った頭ではすぐにははじき出せなかったけれど。
「―――」
一人は、上司だった。此処は研究室で、半数くらいが白衣を着ているものだが、わりと後ろ姿だけでも分かるものだ。
そして、もう一人。
一歩目では分からなかったが、上司の影になっている。というか、上司と壁の間に挟まれている、と言った方が正しいのか。ゆるゆるとした思考をしていた頭が飛び起きるには充分な光景だったと言えよう。影になっていて分かりにくいとは言え、二歩目を踏み出し終わるよりも先に理解する。
唇が重なっていた。
なんとか身を引き戻して足音を立てずに戻る。まあ、どうせあの上司だ、分かっているのだろうが。私だって残念ながらキスごときでわあわあ騒げるような年齢はとうに過ぎているし、あの上司だ、部下の方から何かしらの働きかけが出来る訳がない。そんなことが出来るとしたらあのにっくき上司の義兄くらいであって、例え部下が何をしでかそうと上司が気にするはずもない。
だから、あれは上司の意思なのだ。そして私だって同僚のことはそれなりに知っているので、彼が上司に何か求められて拒むということがないだろうことだって分かっている。分かっているというか、想像でしかないけれど、彼がその想像を裏切ってくることはないだろう。唯一嫌がるとしたら異動だろうが、それだって上司の口から言われたら従うのだろうということくらい分かっているのだ。
少し離れてから、追って来られていないのを確認して息を吐く。
というか、結構がっつりしてたな、と思った。一瞬しか見なかったけれど、私も彼ほどではないとは言え、記憶力は良い方だ。彼があの上司を拒むのは想像がつかないのに、上司の手は逃げるのを留めるかのように後頭部と顎を捕まえていて。もし彼が逃げる、というのであれば多分、それは本能的なもので、つまり、それくらい執拗なものを受けている、という方程式がどんどん成立していく。
「はあ、」
あの上司が。
どんな形であろうと、他の存在への執着を、ああやって出すようになるなんて!
少し前では考えられなかったことだろう、と思う。本当にいろんなことが変わったのだ、というのを実感した。それに巻き込まれたかもしれない彼については、まあ、でもそこまで悪いようにはならないだろう。此処を仕切っているのは実質副室長であって、確か書類上では副室長は彼の保護者であったはずだし。
―――でも、
ひと目を気にするような感性があの二人に備わっているとは思っていなかったけれど、あんなひと気のない隅で静かに触れ合う仕草は私が思っていたよりも上司が人間に寄ってきた証左のような気がした。そして、妙にそれに安心するのは、きっと、私もあのにっくき上司の義兄と同じで、上司に生きていて欲しいと願っているからなのだろう。
*
作業BGM「CULT」DUSTCELL
疑問符の首は折れた
息できない、と言われて渋々解放すると、けほ、とあまり聞かない咳をされた。流石に無理をさせたんだろうな、と思う。これでも抑えてくれた方なのだろう、というのは分かっている。彼が、そういうことをしてくれる程度には気の利く人間であるということも、知っている。
「…ごめん」
「いーよ」
だから、謝ったのに。別に気にしたこともない、というふうに返された。そう返されることだって知っていたけれど。好き勝手やっている立場で何を、と思われるかもしれないが、もう少し何か言ってくれても良いのに、と思う。普段は使いっぱしりにしたくらいでぶーぶー文句を言うのに、こういう時に限って何も言ってくれない、となると、不安にも思う訳で。
「苦しかった?」
「うん」
「…ごめん」
「もう聞いた」
「もうしない、とは言えない」
「………出来れば、苦しいのはやだ」
これが仕事だったら我慢でも何でも出来るけど、と言う彼は、酸っぱい飴にあたった時のような顔で。そんなに気にしていないのは、シックスが誰よりも分かるのに。
「あんましないようには、気をつけるよ」
「そーして」
「………時々はするかもしんないけど」
「…うーん………。まあ、時々なら…」
あまり、何かに対して嫌だ、だとかそういうことを言わない彼が、ただの会話であろうと言ってくれるのが嬉しかった。まあシックスなら、とこの関係を受け容れている彼に今更なことだろうし、シックスとしてはしたいものはしたいので了承を得られたのもそう嫌がられていないのも嬉しい、のではあるが。それとこれとは別の話なのだ。やっぱり、何にでも嫌悪感を示すことが出来ないのではないだろうか―――そんな心配じみた思考は、前々から持っていたので余計、に。
「でも毎回は困る」
毎回はしないよ、とそれだけは返せた。それで話が終わったと思ったのか、そういえば、と彼はシックスの肩越しに給湯室の入り口を見遣る。当然、其処にはもう誰もいないが。
「誰かいたよね?」
「ニコルズだった」
「あー…」
何か飲みたかったのかな、と呟く彼の髪を撫でながら問うてみる。
「気になる?」
「んー…」
勿論、それは誰かに見られたこと、についてだったのだけれど。
「コートニーなら怒らないと思うし、別に。でも副室長は怒るかも」
少しズレた答えが返ってきた。
「セラが? 何で?」
「職場だよって」
「ああ…」
実質此処を取りまとめている彼女が、公私混同は仕事だけにしてください、と言うのは容易に想像出来る。というか、殆ど彼女に育てられたようなものだろうに、彼がどうしてここまで緩く育ったのか、シックスにはよく分からない。
「あ、聞きたいことあったんだけど」
ニコルズと言えば、と思い出す。この首輪がついてから初めてこの研究室に顔を出した時のことを。誰よりも一番荒れていたのは彼女だったことにシックスは結構、驚いたものだ。セラによれば彼女はいつもああいう感じだったらしいのだけれど、シックスの前ではクールな研究員、というようすだったものだから。
「ニコルズってスリーにいちゃんのこと嫌いなの?」
「えっと、そう言ってた」
それがどうしたの、とばかりに首を傾げられる。これも首輪がついてからセラに聞いたことだったが、どうやらこの研究室にはスリーを快く思っていない人間が多くいるらしい。まあ、その辺りは人それぞれだろうからそこまで口は出さないが。上司を引っ張り回す人間として順調に嫌われていたらしいのだけれど(シックスからしたらスリーを引っ張り回していたのは自分のような気がしてならないのだが)(それくらいの自覚はある)、首輪の件でそれが一気に噴出したようだった。抑えるの大変だったんですからね、と良い笑顔をしたセラには頭が上がらない、と思う。ちなみに彼はスリーのことは別にどうとも思っていないらしく、少しだけほっとしたことは秘密だ。
そういうことがあったので、同僚であっても誰か特定の人物がずっとシックスの傍にいる、というのはあまり歓迎されないのかもしれない、と思っていたのだけれど。何をしているか把握したあと、すぐに踵を返していたものだから。
「死ぬまでに一回は殺したいって」
「………やらないように言っておくね…」
「コートニーは多分、聞けないって言うと思うけど」
「そんなに?」
「でも、それがどうかした? コートニーはずっとあんな感じだったけど」
「それを俺は知らなかったんだけどね…」
いや、と頬を掻く。自分で言うのは少し照れくさいような気がする。
「きみは良いんだ、って思って」
「うん?」
「きみと俺がキスしてても止めたりしないんだなって」
「あー…」
そこで繋がるの? というような顔をされたが、逆に何処なら繋がると思ったのだろう。
「自分は…ほら、首輪つけたりしないし」
いや、首輪は爆発の原因なだけだけど、と説明しようとする彼は、どうにも言葉が見つからないらしい。ニコルズの性格は知っていても、彼自身彼女を理解している訳でもないのかもしれない。まあ、彼であればそう、驚かないが。寧ろ、同僚の性質や性格、好悪を覚えているだけ以前より余裕が出来たんだな、とは思うけれど。
―――出会った頃の、
何から処理してい良いか分からない、というのを隠そうともしなかった表情を思い出す。薬を作ったのは折角便利なものを持っているのに、と思ったからであって、決して憐憫ではないと今だって言えるけれど。
「コートニーは…そういうのが、嫌い、って言ってたから」
「そっか」
「うん。他人に、勝手に決められるとか…そういうのも嫌いって、昔はよく怒られた」
「…そうなんだ」
聞けば聞くほど真人間みたいなことを言っているように思えるのだけれど、その結果が死ぬまでにスリーを一回は殺したい、に行き着くのであれば、やっぱりなるべくしてマフィアになったのだろうなあ、とも思う。
「………コートニーの、言うことも分かる、ように…なってきた、気がするんだよ。此処に来る前は…全部キングが決めてたし、自分もそれに何も思わなかったし。今は、そうは、思ってないけど、えっと…でも、キングが勝手に決めなきゃ、自分は此処にいなかっただろうなあ、っては思って………シックスに、会えなかったなあ、って。思って………」
途中で何を言いたいのか分からなくなったのか、何の話してたっけ? と問われる。それはこっちが聞きたい。
「あー………」
でも、思うことはあった。この言葉に嘘はないのに、この間、少しでも遅れていたら、と思う。こうやってキスをすることはおろか、抱き締めることも話すことだって出来なかった。
手を伸ばす。
彼は何も言わずに腕の中に収まっていてくれる。
「俺もセラに怒られたくないけど、ちょっと当分は無理」
「そうなの?」
「きみからセラに言っておいて」
「え、なんて?」
「んー…」
問われると、確かになんて言ってもらえば良いのだろう。でも、きっとセラは大体のことは察しているだろうから。
「そのままで良いんじゃない。俺がキスしたいって言ってしてることは知ってるんでしょ」
「うん」
「そういえばどんな反応してた?」
「無理させられたらすぐに言えって言われた」
「………信用ないなあ!!」
「シックスがこれ聞いてきて信用ないって言ったら、あると思ってたのかって返せって言われてる」
「お、お見通し…」
ぎゅう、と抱き締める身体はあたたかい。生きている温度だった。ミッション後の貧血を起こしている温度ばかり知っていたのが、こうやってキスをするようになって、少しずつ変わってきている。
「…でも、」
言われた言葉を反芻する。彼のことだ、伝えろ、と言われたことはそのまま言うだろうし、セラもそう、配慮なんてものをしてくれるような可愛げはない。
「そっか」
ならば、今、聞いた言葉がすべてなのだろう。
「セラは別に、そこまで言わないんだ」
「何が?」
「なんていうか…仕事とプライベートは分けろって言われるかと思ってた」
「それは…マフィアだし。無茶なとこはあるんじゃない?」
休みも真面にないブラック環境でもあるし…と言われると返す言葉もないが。
「ねえ、」
「なに」
「もうちょっとキスしてたい」
「………苦しくしない?」
「がんばる」
なら良いよ、と返す彼の言葉ごと飲み込んでしまいたかったけれど、さっきの今でやったら流石に信用が暴落するだろうので、なんとか我慢した。
*
作業BGM「SorrowChat」初音ミク(MIMI)