群青の空が広がっている
研究室に残って書類整理をしていた時のことである。これちょっとよくないなあ、と思っていたらちょうど上司がやって来たので、よくないと思うんだけど、と話したまではいつもどおりだった、はずだ。なんとなく別のこと考えてるんだろうとは思ったが、それはいつものことだし。大して気にせず話を進めて、会話を終えて。書類に目を戻したらねえ、と呼ばれた。
「な―――」
に、というのは言葉にならなかった。
唇に何かが触れた。
いや、何か、なんて。問うまでもなく分かっている。今この部屋にいるのは自分と上司だけで、目の前には上司の顔があって。そんなに自分のことをにぶい方だとは思っていないし、こんなにあからさまな状態で何をとぼける必要があるのかも分からない。
「シックス?」
だから、首を傾げる。
「どうかした?」
すると上司ははあ、とため息を吐いてみせた。
「………きみさあ…」
「うん?」
「もっと、なんかない訳」
「えっ…うーん………」
なんか、と言われても。別に上司がしてきたことなのだし。他のやつならまだしも上司だった。自分の中でその上司が一体どんな位置づけなのか、と問われるとどう言ったら良いのか分からないけれど、まあ大抵何を指示されても受け入れるだろうな、と思う。だからこれも、特に思うことはない訳で。でもいつもと違う行動なのは分かったから、どうかしたのかと聞いてみることはした、くらいのことで。
「他のこと聞くべきだった?」
「俺は聞かれるんだと思った」
「それは…ごめん?」
「どっちかって言うと謝るの俺の方じゃないの」
これは書類に戻るべきじゃあないんだろうなあ、と思いつつ、あと少しで終わるなあ、と思ってしまう。それを察したのか。上司がそれ終わらして良いよ、と言ってくれた。こういう、自分の分かりやすいところを上司は嫌がらないでくれるのでとても助かっている。
書類をキリの良いところまで片付けてから、再度上司を見上げる。特に何を言うでもなく、何をするでもなく、ずっと其処にじっとしているのは本当に珍しいと思うのだけれど。
「で、どうかしたの」
「………分かんない」
伸びてきた手がするすると頬を滑っていくが、特に跳ね除けようとは思わなかった。やっぱり上司だからだと思う。
「きみのことが………すき、なのかもしれない」
「かもしれない?」
「うん」
それはまた、と瞬く。自分の反応など気にしていないのか、それとも予想していたのか、頬を撫でられるのは変わらなかった。あまり、こういうふうにされることがなかったから、どうしているのが正解なのか分からない。
「キスしたら分かるかと思ったんだけど…分かんなかった」
ふにり、と指先は唇に触れて、それから首が傾げられた。
「でも、出来たしなあ」
「キス?」
「知ってる? キス出来たら大抵のことは出来るらしいよ」
「あー…相性が一番出るって話? でもあれ、統計データが胡乱じゃん」
ふに、ふに、とその仕草が感触を楽しんでいるようには思えなかった。別になんでも分かると思っていた訳ではないが、この上司でも分からないことがあるのか、と思ってしまった。分からないことがあったからこそ、首輪なんてものをつけられるような事態になったのだろうに。これの開発には自分も関わっていたから、結局上司がつける羽目になってるのはどうなんだろうなあ、と思ってしまう。上司の義兄に関しては特に思うことはないが。
「もっかいしてみても良い?」
「どうぞ」
「…聞いといてなんだけど、普通断るもんじゃないの」
そうは言いながらも、触れるだけのキスが落とされる。別に、嫌悪感はない。またドーナツでも食べて来たのだろう、甘い香りがした。
「口開けて」
「あ」
「………なんで口開けるかなあ…」
「え、だめだった?」
「いやだめじゃないけど…」
数回。
確かめるように触れるだけのものが繰り返されて、それから舌が滑り込んでくる。目を閉じた方が良いんだろうか、と閉じられた目を見て思う。結構この上司はきれいな目をしていると思っているから、どうせなら見ていたかった気もするけれど。そういえば人の目の色なんて気にすることが出来るようになったのは、此処へ来てからだったなあ、と思う。それまでの自分はいろいろなことが下手だったから、人の顔の区別もあまりついていなかったのだし。
「ん、」
粘膜が擦れ合う感覚は久しぶりで、思わず上擦った声が出た。呼吸を整えようとしたら少し、身体が後ろに反ってしまって、それを留めるように後頭部に手が回される。唾液が零れそうになってなんとか飲み込むと、舌を吸ったような形になって。もっと、とでも言うようにつつかれる。自分からやったことはあんまりないから得意とは言えなかったけれど、これで良いのだろうか、とやってみせる。上手く出来たら頭に置かれた手が撫でるように動くから、多分、それなりに出来たのだと思う。
どれくらい、そうしていたのか分からないけれど。
満足したのか、唇が離された。つう、と糸が引いて、不思議だなあ、と思う。
上司の目がゆっくり開かれて。
「………、」
「シックス?」
「…思ってたより、」
じっと、考えるように視線が落とされる。
「いけそうになってきた」
「…えーと、何でもいいけどさ、」
「何でもいいの?」
「まあ、うん。シックスは、いけるようになりたいの」
「………分かんない」
再び指が伸びてきて、唇の端を拭っていく。
「でも、」
その指先についた唾液を、上司は笑って舐め取った。何処でこういうの覚えるんだろうなあ、と自分はぼんやり思う。なかなか研究室ばかりにいて、あまり外に出ないとこういう経験値がたまらないのだが、必要かと問われると多分、必要ではなくて。
「またしてみても良い?」
「シックスがしたいなら」
「………それさあ、」
「だめ?」
「………だめじゃない」
でも他のやつにはそういうの言っちゃだめだからね、と念押しされたけれど、最初からこの上司以外にそんな返しをする予定はなかった。
*
作業BGM「因果」BIN
平均台の上で両手を広げてみせて
そういう訳で(どういう訳で?)、どうしてか上司にキスをされるようになった。そのためかどうかは知らないけれど、以前より研究室に立ち寄ることが増えて、他の研究員のモチベーションも上がっているのでなかなか良いことなのだろうなあ、と思う。この上司はどうにも自分が部下たちに慕われていることに無自覚なようで、それを目の当たりにする度に副室長なんかはコーヒーカップを一つだめにしそうな顔をする。そういうことが減ってきたのは多分、良いことなんだろう、と自分は足りない頭で結論付けた。
あれだけ外で自由気ままにやっている上司であるのに、キスをするのにも結構いろいろなことを気にしてくれていた。最初こそ仕事の合間だったけれど、次からはちゃんと仕事が終わっているかだとか、休憩時間かだとか、そういうことを気にしてくれるようになった。もしかしたらそういうのを気にしなければいけないのは自分の方だったかもしれないが、まあ、こうして上司が気にしてくれるのなら良いだろう。どっちかが気にしたら良いことだ。でも、確かに仕事をサボってそんなことをしていたら副室長に怒られるだろうので、そこを気にしてもらえるのは助かった。自分はよく、そういうことを忘れるので余計に。
「―――」
糸が引く、というのは興奮の証だとか言うけれど、確かにそういう研究結果もあるけれど、単純に唾液が混ざり合う時間が長いからではないのかなあ、と思う。
仕事が一通り終わったあと、給湯室でお茶を淹れ終わるのを待って。
顔を出した上司は今大丈夫? と聞いてくる。これはいつものことだ。お湯を沸かしている時は多分危ないから、少し時間を置いてくれたのだと思う。自分は大丈夫、と答えて、それから手を伸ばされて。なんというか、普段の行動からは想像がつかないくらい丁寧なキスだと思う。それが自分に繰り返されていると思うと、やっぱり不思議だなあ、と思ってしまうのだけれど。もっと―――この上司にそうしてもらいたい人間、というのはたくさんいるんじゃあないだろうか。
「………」
「シックス、どしたの」
「…うん」
くるり、と身体を反転させられる。気が済んだからお茶を飲んで良い、ということなのだろうか。マグカップに触れてみたらちょうど良いぬるさになっていた。猫舌、とまではいかないがそんなに熱いのに強い訳でもないのでこれくらいだと助かる。
そんなふうに思いながら口をつけていると、肩を掴んだまま上司が呟く。
「勃った」
「へ?」
砂糖入れた方が良いな、と思って目の前の棚に伸ばした手が一瞬、止まる。一瞬だけだった。でも上司はそれを見逃さなかったらしく、はい、と代わりに角砂糖の瓶を取ってくれる。ありがとう、とと返すがまた手は肩に戻されて、兎に角自分でも振り向くな、というのは伝わってきた。
「だから………勃った」
「………今ので?」
「今のかどうか分かんないっていうかいや累積だろうけど勃ってる」
「ああ、うん? それもそうか…?」
三つで良いかな、と角砂糖を取り出してとぽとぽと入れる。仕事が仕事だからだろうか、糖分はいつだって足りていないような気がしている。でもあんまり入れすぎるとやっぱり健康によくないと怒られるので、適量を見極めなければいけないのだけれど。もう一個多くて良いよ、と上司が後ろから一つ追加していった。スプーンで混ぜて飲んでみると、確かに四つでちょうど良かった。すごいなあ、と思う。自分だけでは多分、三つで済ませていただろうから。
「きみ、」
ため息の滲んだ声は、最近どうにもよく聞く気がする。
「何で逃げないの」
「え?」
どうして逃げる、なんて言葉が出てきたのだろう。上司がやったことと言えば砂糖を足してくれたくらいで、逃げる要素なんて何処にもなかったと思うのだけれど。瓶だって戻してくれたし、なんというか、いたれりつくせりというのはこういうことを言うんじゃないだろうか、とすら思う。
「気持ち悪くないの」
「何が?」
「なんていうか…欲、とか。向けられてるのが」
「あー…」
全然違う話だった。
「他のやつならまだしも、シックスだしなあ」
うーん、と唸る。キスのこともそうだけれど、本当に、他のやつだったら自分だって身の振り方をしっかり考えるだろうが、この上司である。この上司相手にそういうことを考えなくてはいけないか、と問われると、正直そういう必要はないように思うのだ。
―――シックスがしたいなら、
別に、その先だって自分は、特に何も言わないのだろうけれど。それはそれとして、すきかもしれない、と言っていたのだし、同じ気持ちを返して欲しい、だとかだったらまた話は変わってくるだろうので口にはしていないが。と、考えていたのに頭の容量が圧迫されて、口にしていなかった言葉が転がりでた。
「抜く?」
「は?」
「えっ、いや、なんかそういうの、するのかなって」
「………きみさあ!」
語尾は強かったけれど、怒っている感じはしなかった。ちょっとだけどきどきとした胸を撫で下ろす。
「なんでそう…っ、いや、分かってるけどさあ!」
そのあとも暫くあーだのうーだのと続けられて、その間に自分はお茶を飲み終わった。マグカップを持ち上げると肩を掴む手の力が緩められる。移動して良いということだろう。
「もー…」
じゃぶじゃぶとマグカップを洗っていると、後ろから声がする。
「ばか」
「だめだった?」
「今はだめ」
難しい。水切りにマグカップを置いて、それから問う。
「ほんとに抜かなくて良いの」
「いーの」
タオルで手を拭くのを待ってか、上司がやっと真面な言葉を発した。
「でももっかいキスさせて」
「振り返って良いの」
「…うん。でもあんま下見ないで」
「ほんとに何もしなくて良いの」
「しなくて良い」
ほらこっち向いて、と身体がまたくるりと回される。
見ないで、と言う割には目を閉じて、とは言わないんだな、というのは思ったけれど、言葉にするより先に唇を合わせられた。
*
作業BGM「あわよくばきみの眷属になりたいな」yama(Peg)
白熱灯の在庫
もともと定時なんて概念はなかったけれど、残ることが多くなったなあ、と思う。別に家に帰ったからと言ってやることもないのだし、良いけれど。仕事で残ってるんじゃあないのはちょっと、研究室を本来の目的で使っていないような気がして、怒られやしないかとそういうことだけは気になった。なにせ、副室長は怒るととても怖いので。
自分がそんなことを考えているとは露ほどにも思っていないのだろう、上司はいつものようにキスをしてから、いつもより早めにそれを切り上げた。どうしたんだろう、と思って見上げると、ねえ、と声をかけられる。
「聞きたいんだけど」
「うん?」
「きみって童貞?」
「うーん…」
完全に思ってもいなかったことを問われたので、びっくりしてしまった。
「ええと………乗っかられたことはあるけど…。自分の意思で抱いたことあるかって聞かれたら、まあ、ない………って、え? マジで? あっマジだ。ない」
それはどうなんだ、という顔をされた気がするけれど、どうやら上司は次の質問に移ることにしたらしい。
「抱かれたことは?」
「ないよ」
自分も流石にこの質問は予想出来たので、さっきよりかはしっかり答えることが出来た。
「ていうか、童貞かどうかはそのまま聞くくせに、処女とは言わないんだ」
「なんかヤだった」
「ふうん?」
よく分からない。ただの言葉と言えばそうだろうに、この上司でも気にすることがあるんだな、と思ったくらいで。
「…あ。そういえば、聞いておかないとって思ったことがあるんだけど」
「なに?」
「シックスのことはおいといて、他のやつが自分にシックスみたいに思うことってあると思う?」
「抱きたいって思うかってこと?」
「あ、やっぱりそっちなんだ?」
「いや、そうじゃなくてね」
待って、と誤魔化されたがまあ別に今更なので問い詰めたりはしない。すきかもしれない、という話から始まっているから、てっきりそっちの方から片付いていくのかと思っていたが、どうやら上司の中ではもうその先が決まっているらしい。人間の感情とはままならないものなのかもしれない。まあ、自分としてはどうであっても何を答えるかなんてもうとっくの昔に決まっているのだけれど。
「………どうだろう」
この間はきっと、考えたことがなかった、というものだろうな、と予想をつける。自分も明確な答えが欲しくて聞いた訳ではないのでそれは良いのだが。
「それは人によると思うけど」
「うーん、そっか」
「セラ?」
「うん。副室長には全部言わないと」
「筒抜け…」
「シックスが言わないでって言うなら言わないけど」
「いや…良いよ」
必要だと思うし、と指が遊ぶように髪をくるくるといじる。
「うーん………」
「なに」
「そうやって言われると、もしかしたらきみをそう言う目で見てるやついるのかもって思って」
「やだ?」
「ヤだ」
「そういうもの?」
「分かんない…」
どうなんだろう、と首を傾げてみせた上司は、そのまま自分をじっと見つめてきた。
「きみは?」
「うん?」
「俺のことそうやって見てるやついたらどうする?」
「えっと、そこの棚の二段目の右から六十八本目に性欲阻害系の薬のレシピが集まってるんだけど」
「…そこまでする?」
「で、でも一時的なものだし」
そうだ、一時的なものだ。きっと同僚の中には切る、と言い出すやつもいそうなのでそれを考えると自分は結構緩い提案を出来た方だと思う。
「…ふふ、」
何が面白かったのか、上司が笑う。
「何」
「いや。きみでもそうやって思うんだなって思って」
ちょっと安心した、とまた引き寄せられる。
さっきのじゃ足りないから、と言うのを聞いて、まあそういうものか、と思う。再び重なった唇の味を覚えていたい、と言ったらこの上司はどんな顔をするんだろうなあ、とも思ったけれど、どうにも自分にはそういうことを言う資格がないような気がして、ただ黙ったままでいた。
*
作業BGM「食虫植物」理芽