首輪のない生活


 師匠のことは尊敬している。師匠がいなかったら俺は恐らく行き倒れのまま良からぬ輩に捕まっていただろうし、そのままそこそこ珍しい人間として売り捌かれていたかもしれないし、いや一応の護身やなんやかんやの心得はあったのだけれども、此処、香港ではちょっと強いだけの人間なんてたかが知れていて、だから師匠がいなかったら―――あの日空腹で倒れていた俺の顎を靴先で上げるような真似をする、それが似合ってしまうようななんだか至極面倒なエルフがいなかったら―――困ったことになっていたし、拾ってもらってからの一年で大層俺は強くなったことだし、師匠の教え方はまあ雑だが上手いし成長の実感がよくよくわくので、うん、尊敬している。それは嘘じゃあない。ただ、やはり一緒に暮らして師弟関係になる上では見えてしまうものがある訳で、その見えてしまうものが生活態度だけならまだ良かったものの、まあ風呂上がりに全裸で歩き回るわ森みたいな匂いをさせながら清涼剤みたいでいいだろう? みたいな顔をしたりする訳で、そういうところは本当にどうかと思うし俺だって一応年頃の娘だった訳で。全力で無視をしていたのだけれど。あと清涼剤にはならねえよ。
 父親のそれですら真面に見たことがなかった気がするのに、なんだか遠い記憶よりも妙にえぐいようなそれに見慣れてしまった俺はそのうちに全力にならなくなって、そこそこに盗み見て、まあ、抜いたりしていたのでなんとも言えない。繰り返すが俺だって一応年頃の娘だった訳である。エルフとは言え師匠とは言え、物語の中から飛び出して来たのか? とでも言ってしまえるような美しい人と一つ屋根の下で欲情しないなんてあり得ない。誰だろう、三日美人なんて馬鹿を言った奴は。この先3百年かけても見慣れねえよ。
 ということを脳内でまくし立てる俺は本当にこれまで恋人なんぞいたことがなく、だからと言って爛れた生活をしていた訳でもなく。それなりに―――まあそれなりに? 品行方正な生活を送っていたので、恋愛経験など殆どなかったし、まあそこにブチ込まれた師匠だ。天の助けだ。惚れるなって方が無理がある。同性の友人同士で唇をくっつけ合うだけのキスをして遊んでいた頃とは違うのだ、師匠の薬やら何やらもうこれドーピングだろ…と思うレベルのあれやそれやで胸も尻も師匠の好みに育て上げられて、まあ手を出されるんだろうな、なんて思っていたのに何もなく一年が経った。
 そう、一年が経った頃、俺は処女だった。もう一度繰り返すが処女だった、過去形だ。だってこのとんでもない師匠にぺろりと食べられてしまったのだから。この上なく大事にしていた膜でもない訳だがそれでも失われた時にはひんひん泣いて、しかしあの時師匠は楽しそうに笑っていたしついでに舌舐めずりもしていた気がする。やっぱりまずい奴に捕まったのでは? とは思うし倫理観や貞操観念はさておき、いや、一応あったしそれなりに大事なものだとは分かっているがそれでもこの仙人骨があったら大抵の不良なんてものは逃げていったし、日本はそれでも比較的に平和な国であったし、それなりに自分の身は自分で守れたというか、そもそも寄ってくる人間なんていなかった。モテて、なかった訳ではないのだと思う。でも、それは人間として、だ。性格はこのように悪いという自覚があるが、それでも師匠ほどじゃあないと自覚している。というか今後一切師匠と較べられたくない。一緒に住んでいると似てくるだとか、まあ師弟関係であるのだから多少のものはあれど、絶対に嫌だった。師匠に似てえげつなくなりましたね、なんて言われてみろ、首を吊る。
 と、そんなことを考えている俺の後ろでただいま、と声がして、ついでに知らない匂いがした。香水なんだろうから匂いじゃなく香りと言うべきなんだろうが俺にとっては匂いだった。臭い。はやく風呂に入れよアンタが清涼剤だって言ったんだろ、と思いながらおかえりなさい、と返した、その背後で。
「なあ、銀子」
じゅるり、と音がする。師匠が興奮しているのが音で分かる。まだ一枚だって脱いでいないのに性器を押し付けられている訳でも、性的な言葉をかけられた訳でもないのに、それがもう始まりの合図なんだと身体が憶えてしまっている。こういうのをパブロフの犬というんだろうな、と思うし師匠は相変わらず好き勝手しているし、元々そういうふうに思っていた訳では―――いや、格好良いとか、そういうことを、思っていなかった訳ではないし、冗談で言われた房中術だとか、そういうのにもそれなりに、いや冗談だとは分かっていたけれども、そういうことを思っていたから上手く返せなかったと言うか、いつものように笑って流せなかったと言うか、素直に認めるなら―――赤面なんてものをしてしまって、そういうならしょうがないな、とかなんとか言ってしまったのはまあこっちの咎であるけれども、ああ、もう、結局何を言ったって俺がこの人に思い切り躾けられてしまったのは事実なのだ。この先他の男になんて抱かれて満足するなんて出来ないと、そんなふうに思うほど。思ってしまうほど。師匠の女癖の悪さだとか、そういうのは未だ直っていなくてそもそも俺だってキープか何かと地続きなんだろうけれど、浮気―――と言ってしまうとマジ正妻ヅラって感じで死にたくなるのはちょっとだけ、ほんのちょっとだけあるのだがまあこういう関係が出来上がってしまった以上、もう浮気で良いだろう―――が治ることもないのだけれど。それはそれとして師匠は俺よりもずっと俺の身体のことを知っているし、膜はなくなったしでも血はそんなに出なかったし痛くもなかったしこれが手慣れた遊び人かよとムカついた部分もあったけど、やっぱり白目を剥けるほど気持ちよくなれるのだってすべて放り投げて馬鹿になれるのだって、この人でしか出来ないのだから。
「わしが今、何をしたいのか分かるかの?」
生唾を飲み込む音は自分のものだった。
「―――クソッ! 今日こそその精気俺が全部吸い取ってやるからな!!」
「くは! まだ百年速いわ雌犬。吼えてろ」
 とりあえずは形から―――と、師匠に馬乗りになってみたが、一瞬後には肋が折れるかと思うくらいの(一応加減はしたらしい)(セックスするのに骨折したままは流石に嫌だったので師匠にそういう趣味がなくて良かった、本当に良かった)(これが黄さんのところだったら目も当てられない気がするのでもうそこは考えないことにする)衝撃が与えられて、その日はそのままとんでもない体勢で釣られたのはまた別の話としたい。